SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

溶けちゃいたいときに

2007年08月31日 00時02分41秒 | 器楽・室内楽関連
★フォーレ:チェロとピアノのためのソナタ(全2曲)、及びその他の小品
                  (演奏:オフェリー・ガイヤール(vc)、ブリュノ・フォンテーヌ(p))
1.エレジー 作品24
2.チェロとピアノのためのソナタ第1番 ニ短調 作品109
3.ロマンス イ長調 作品77
4.蝶々 作品109
5.チェロとピアノのためのソナタ第2番 ト短調 作品117
6.シシリエンヌ 作品78
7.夢のあとで (編曲:パブロ・カザルス)
                  (2004年録音)

かねてよりご紹介したいと思いながら、なかなかアップできなかったディスクのひとつがこれであります。
とはいえ正直言って、この魅力を私の文章能力で正しくお伝えすることは難しい・・・と感じております。また、言葉を尽くせば尽くすほど、この感覚世界からは遠ざかってしまうという気もします。
ですから、聴いていただいてから、私の伝えたいことを「こんなことかな?」と文章から読み取っていただくのが1番いいのですが、私のチャレンジというか、書かなきゃという重荷を下ろすという意味で掲載する記事だと予めお断りしておきます。(^^;)

本当にこの美しい音楽の泉に漬かってしまうと、どうしようもなく気持ちよくなってフォーレの“おひたし”になれること請け合いです。

さて、オフェリー・ガイヤールとブリュノ・フォンテーヌのコンビによるこのディスクはアンブロワジー・レーベルからリリースされています。
このレーベルの器楽曲は、まず録音が私好みなんですよねぇ~。
以前ご紹介したカッサールのシューベルトもそうでしたし、ガイヤール嬢のバッハの無伴奏ソナタも鮮やかなことこのうえないという録音でありました。(^^;)

当ディスクも例外でなく、チェロ・ピアノともに素晴らしい音色で録られていると同時に、アンサンブルにおいても申し分のないバランスを誇っています。
特筆大書すべき美質ですから敢えてここに書いておきますが、そうであればこそ現在のアンブロワジー・レーベルのディストリビューションがどうなっているのかが気になります。

このディスクを購入して以来、ディストリビューターが変わるということをあるところから聞いていたのですが、販売網の店頭どころかオンラインショップでも旧譜(まだ売れてないもの?)以外は見なくなってしまったように思えて・・・心配だなぁ~。


本論に移りましょう。
私の愛するフォーレの楽曲の特長としては、どこへ行くとも知れない旋律線、何でこんな風にカウンターのメロディーが出てくるのかという意外性を感じるにもかかわらず、統一されたムードをずっと維持しえてしているというパラドックスが挙げられるのではないでしょうか?

記譜された楽曲を演奏しているのだから当たり前なのですが、チェロの歌う歌にピアノがよくぞ寄り添っていけるものだと不思議に思わせられるほど・・・またそのピアノが正に“水そのもの”をイメージさせるほど瑞々しく、これに浸ったら最後、やはりとことんまで溶けてしまいそうな気がします。

そしてフォーレの音楽を聞くコツは、常にその“今”が美しいことに溺れることだと思うのです。
さっきまでどうだったとか、この先どうなるのかなどを考えないで、その時溢れている音響にひたすら身をまかせてしまえるか?
この1点にかかっているのでは・・・。

やはりうまくお伝えできていないなぁ・・・と思いつつ、“エレジー”の印象的なところをいくつか記しておきましょうか。。。
冒頭からチェリストが曲想に合わせてそのように演奏したいと目指したとおり「ふっくらしながら明晰」な音色で絶妙な弾き出しであります。
中間部に至り、ピアノが主旋律を引き継いだときのオトたるや、なんと形容してよいのでしょうか?

私はここでフォーレの泉に溶け込むべく、一挙にふやけてしまいますねぇ~。(^^;)
時として感じきってしまったときなどは俄かに目頭が熱くなってきて、その後メロディーをチェロが受け取って慈愛の音色で弾き進む頃までには、全身鳥肌立ちまくり状態になります。
中間部のピアノとチェロの激しい部分も鮮烈でありながら、品位ある表現に感服させられますし、それら静と動を経てこのCDに聴きいるモードが万端準備されるわけであります。

ソナタでは両作品とも中間楽章が恐ろしく恍惚とした陶酔感に満ちた作品であり、演奏であります。
このように弾かれ、聴かれるべき演奏であると感じられるのです。
もちろん(録音された)音の良さがこの効果に貢献するところは大であり、ふたりの奏者だけでなく制作チーム全体の成果だと思いますけれどね。(^^;)

“シシリエンヌ”“夢のあとに”も佳演です。
音色ひとつ取ってみても、フォーレの霊感の泉の成分そのものという感じであります。
ディスク丸ごとフォーレが体験できるという意味では、私にとってはホントにたまらない一枚であり、ここまで書いてなお説明できないのも仕方ないとやはり勝手に思い直してしまう一枚ですね。
すいませんが・・・。


それじゃあんまりだと思いますので最後に一言だけ触れますと、ライナーノーツにはガイヤール嬢自らが執筆した長文の「フォーレにおける「熱」について」という解題が掲載されています。

訳の関係なのでしょうか、難解な文章と言わざるを得ませんが、まさにこの文章を虚心に味わったときにこそ“感覚的に”フォーレでありフォーレの音楽の何たるかがうまく伝わってくるのではないかと感じていることをお伝えしましょう。

豊富な先人の言葉の引用とともに、フォーレの音楽がそうであるように“感覚的に”微妙なニュアンスを多彩に含んだ形容詞が適切に多用されることで、見事に彼女の言わんとするところが表現されているのではないでしょうか?

ガイヤール嬢による秀逸なフレーズを1点引用させてもらい、この記事を締めくくります。

ネクトゥー(人名)はそれでもなお、フォーレを革新性溢れる現代の作曲家として考察し続けようとはしていない。そうした考察こそが、フォーレならではの旋律に身をまかせ、彼髄一の繊細にして雄弁な和声の魅力に酔いしれる妨げになるなど、言うまでもないことだからだ。

アルゲリッチの秘蔵っ子

2007年08月30日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★リスト・リサイタル
                  (演奏;ポリーナ・レスチェンコ)
1.J.S.バッハ / リスト:前奏曲とフーガ イ短調 S.462
2.J.S.バッハ/ブゾーニ:シャコンヌ
3.グノー / リスト:ファウストのワルツ S.407
4.リスト:ピアノソナタ ロ短調 S.178
                  (2007年録音)

ジャケットでご覧のとおりの麗人、ポリーナ・レスチェンコ嬢のデビューCDであります。
いきなりSACDのハイブリッド盤で発売されるなど、期待の大きさが窺い知れますよね。
それもそのはず、彼女はあのマルタ・アルゲリッチの秘蔵っ子といわれています。そういわれると、どことなく容姿からもアルゲリッチを連想させるものがあると思いません!?(^^;)

そして、私がCDを一聴したうえでこの2人の関係を敢えて表現するならば“クラブ・アルゲリッチのちーママ”ってところでしょうか?
ただ“Wild&Toughさ”だけを採り上げれば、やはり“ちーママ”は“ママ”の敵ではありません。
アルゲリッチは聴き手に考えさせる余地を与えないうちに、聴き手のすべてをわしづかみにして持ち去ってしまうことができるピアニストです(・・・と断言^^)。
翻ってレフチェンコがそこまでスーパーかというと、どうしてもそうとまでは言えないでしょう。(^^;)

ですが、2人には非常に似通った“テイスト”・・・言葉を変えれば“雰囲気”を感じるところもあり、レフチェンコ嬢独自の流儀もちゃんとあると思えるのが興味深いところであります。

まず音を聴く以前に“ちーママ”は内ジャケットで、のゎんとこんなことまでできちゃうのです。(^^)/
                  

オヤジ狩りを怖れるオヤジ世代としては、ホンネでは「騙されてもいい」と思いつつも一応年配者の身だしなみとして、こういう写真を見ると「ノラネコにはダマされるまい!」と一度はいうことにしておいた方が身のためだということを知っています。


いくらアルゲリッチの肝いりだからといって、まずは自らの耳でしっかり内容を聴きホンモノかどうか見極めなくてはならぬ!!!


小沢昭一さんの“ナントカおとうさん”みたいになってきましたが・・・。(^^;)
ディスクの内容をご紹介したいと思います。
もちろん、CDのディスクですからステレオの陰からピアニストの“オミアシ”が見え隠れするなんてことはありませんよ。

いつも以上に厳密にあら捜ししてやるのぢゃ~!!

というわけで、レスチェンコ嬢が何者だとしてもディスクを世に問うている立場の女性なわけですから、騙されるも何もまずはCDの“オト”を論じないことには話になりません。

で、私は4回まわり続けて聴き入ってしまいました。
これは高橋多佳子さんのディスク以来のことであり、私としても異例のことであります・・・他のディスクが聴けなくなっちゃいますもんねぇ~。

その結果からお察しいただけると思いますが、率直に言ってレスチェンコはアルゲリッチが見込むだけの逸材であり、“天才”・・・少なくともその原石と言って差し支えないピアニストであると言い切っちゃいましょう。
彼女にはいろんな特徴がありますが、さまざまなパターンの音のカーテンを作り出し、それを駆使して聴き手を幻惑する能力を武器とするピアニストであると定義しておきましょうかね。(^^;)

以前アルゲリッチが天才と評したピアニストといえば、ポゴレリチがいますよね・・・。
これは興味深いところですが、ここでも似たフィーリングを感じる側面があります。
それは解釈面に顕著ですが、一言で言うと『確信犯であること』です。ただレスチェンコ嬢のほうがしたたかと言えるかもしれません・・・。
というのは、ポゴレリチに感じられる“あざとさ”がレスチェンコ嬢にはない・・・否、ないわけではないのですが柔軟性のあるしなやかな演奏ぶりにより、そのように思われにくくなるよう“隠蔽”しています。
しようとしている・・・のではなく、隠し切っているのです。

その解釈のイメージを実際にオトに変えることが出来るという技術面に関しては、いずれの演奏ぶりにもただただ感服する他ありませんが。。。


もう一人、私が個人的にこの演奏ぶりを聴いていて思い起こした人がいます。

“シャラポワ”です。(^^)/

涼しげにダイタンな演奏を展開しているように見えて、その実このディスクには強音を生み出すためにレスチェンコ嬢がピアノに全体重をかけるかのように踏み込んでいる“演奏ノイズ”も隠されることなく収録されています。それも何度となく・・・。
それはシャラポワがレシーブするときに、渾身の気合を込めているようなサウンドに聞かれます。
“演奏ノイズ”さえも味方にしてしまうなんて、まさに天才・・・なのかもしれません。(^^;)


これからは個々の演奏について記していきましょうか・・・。
まず、バッハの“前奏曲とフーガ”ですが、バッハであるにもかかわらず必要以上に神々しくありません。聴き手が圧倒されて恐れ入るしかないような雰囲気でなく、呼吸が苦しくならないところがよいですねぇ~。
フーガの終盤なんて生半可に弾かれたらこれほどつまらないものはないという曲調であるはずですが、ずっと引き込まれて聴いていられる・・・このことひとつとっても、とんでもない演奏の完成度であると気づかされるのです。
おそらくレスチェンコはこのディスクに快心の演奏を収めえたと手ごたえを感じていると思いますが、先の「演奏の完成度」とは、解釈の綿密さ、計算の確かさ、それを実現する技術の完全性、それを実現するだけの準備の抜かりなさまで含めてほぼ完璧な仕上がりなんじゃないでしょうか?

続く“シャコンヌ”“ファウストのワルツ”も非常に華のある演奏で、楽しく聴きとおすことができます。
速いパッセージでの爪弾きとか、ごく短く切り取られたメロディー内の音にアルゲリッチの面影がありますね。
クライマックスへ登りつめていく過程、ペダルを開放気味に輝きや潤いにあふれた音を連ねていくところ・・・この音色コントロールは見事の一言につきます。


メインのプログラムである“ロ短調ソナタ”、これは今までに断じて聴いたことがない演奏です。
しなやかで自然な佇まいでありながら、レスチェンコはアゴーギグ、デュナーミク、タッチはもちろんペダルワークなどすべてを駆使して聴き手の時空を捻ってもみせてくれるのです。
その企みは聴いていて“ヤプール”の異次元に連れ込まれたかと思うほど、拍節の中で自由自在に伸縮させられるフレージングによって試されています。

この他、この曲に頻出する大音量の不協和音にはホントにこんな音が混ぜられていたのかと思わずにはいられない音の強調、オクターブ下の低音を加えたんじゃないかと思われる響き・・・など発見が尽きません。

大音量と弱音部分を対比しながらの速いパッセージを繰り出した時など、レスチェンコの幻惑技は無比の切れ味を発揮しています。
曲を通してネコの目のように変化する場面転換の鮮やかさときたら・・・背景と前景の入れ替えなんて造作もないこと、背景に前の音を残すのか溶け込ませるのか綿密に計算されているのでしょうが当たり前のようにスムーズに表現されているのです。

繰り返しのフレーズで表情を変えることは常套手段ですが、レスチェンコの場合「同じことは二度としない」というほどに違います。
そうそう、テヌートのかけ方の加減にしてもおそろしく精妙なグラデーションが感じられるんですよね。

多くの特長を書き連ねてきましたが敢えて難点を指摘すると、それぞれのとんでもない技巧や工夫が余りにも鮮やかにいっぱい決められてしまっているために、ひとつひとつの技の重みが軽くなってしまっていること・・・ぐらいでしょうか?

このリサイタルの更にニクイところはこの“ロ短調ソナタ”で終わっていること。
最弱音による和音が虚空に消えていくさまは、大曲4曲とはいえ奏楽自体は目まぐるしいプログラムの喧騒のすべてが浄化されていくかのようです。
この点からも、まさにレスチェンコに相応しいリサイタルだったな・・・と思えます。


さあ、ここまで書いてきましたけど、オヤジの私はやはり“ノラネコ”によって何か騙されているんでしょうか?(^^;)

最後に、裏ジャケットのフォトを・・・。


アンニュイにうつむいた表情・・・もう騙されても本望ぢゃぁぁぁぁ~。(^^)v

放射する音

2007年08月29日 00時00分07秒 | ピアノ関連
★ドビュッシー:前奏曲集第2巻
                  (演奏:アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ)
1.ドビュッシー:前奏曲集 第2巻
                  (1988年録音)

温故知新シリーズがつづきます。(^^;)

これまでの記事では、レコ芸「名曲鑑定団」でドビュッシーの“前奏曲集第2巻”を特集した際、鑑定団員の鼎談中特に評価が高かったクラウディオ・アラウのディスクを特集しました。
今回は、そのときに同じく極めて高い評価がなされていたミケランジェリ盤を聴いてみようという趣向であります。

アラウ盤には「責任感の所産」というような表現をし、実は「鑑定団」でも同様のことを指摘されていたのですが、ミケランジェリ盤も確かに突出していると感じました。

この頃のドイツ・グラモフォン(以下DG)ってイエロー・レーベルと呼ばれメジャーの中でも冠たる存在でしたモンね。
ケンプ亡き後、長老ピアニストと言える存在でDGを支えた人は誰かというと・・・って、いないんですが、強いてあげればごくごく稀に録音したミケランジェリではないでしょうか?

1988年録音とありますが、89年にはカラヤンを、その後すぐにバーンスタインを失って・・・という過渡期であったようにも思います。

要するにこの頃までは私がクラシックのファンになった当初感じていた通り、メジャーレーベルが飛びぬけたカリスマを多く擁していたのではないでしょうか?
それが時代がカリスマを失ったのか、カリスマとは作られるものであるはずのものが生産されなかったのかわかりませんが、今や録音を発表するDGのピアニストといえばグリモー、ランランという感じになってしまった・・・。

DGの看板といえば、ツィメルマンは90年代初頭よりソロ・レコーディングはしていないし、アルゲリッチは室内楽しかDGに録音しないし、ポリーニも寡作だし・・・レコ芸でのツィメルマンのインタビュー発言によると、この3名はレコーディング技術の進歩のし過ぎで音楽性が却って阻害されるために録音が憚られているという有様だし。。。

ナントカしろよ! DG!!
と、いいたくなる気もしますが・・・おぉフォントの大きさを変えて遊べるんですねぇ~。(^^;)

そういや、ピリスはどうしちゃったんでしょう・・・。
もちろんユンディ君もいますが、ピアノ界を背負って立つ録音をせよといわれると可哀想。。。
もちろん30年後に聴いたら「ご立派!」という演奏になるかもしれませんけどね・・・ピアニストの成長次第では、ですが。

ポゴレリチもケゼラーゼ女史が亡くなってから、頭を丸めて出直しているみたいだし・・・もちろん一旦DGからは離れているんじゃないでしょうか?

要するに、粋のいい若手はいっぱい候補がいるとして録音していた最後の巨匠とは・・・フィリップスにブレンデルがいますけど・・・DGではミケランジェリということになってしまうんじゃないでしょうかねぇ?

もともと彼の公式録音自体が希少だし、このディスクも記録としての価値は計り知れないものがありそうですね。


演奏はレコ芸では「青磁」のようと評されていましたね。
よく目にするたとえですが私にはよくわかりません。(^^;)

いつもながらミケランジェリの音の弾力というか、千変万化するさまは凄いものがあるとは私も思います。
でも変化の仕方が鮮やかで繊細ですが、変化する方向は結構同じ方向なんですよね・・・。
ヘンな表現ですけど、多分ミケランジェリにはピアノから出すべからざる音、ミケランジェリの美的良心に適わない音があって、死んでもその音は出すマジ・・・とピアノに向かって格闘しているような気がするんです。
そうすると、ヘンな音の出てしまう奏法はできないために変化の幅を広げるのではなく、精度を高め変化のピッチを細かく設定することでニュアンスを表さなければならなくなる・・・ので、私の感想のようになってしまうのではないかと、毎度勝手に想像しているわけであります。

ここでこのバックステージの取扱注意事項を再確認しておきますけど・・・
この記事では私の気づいている限りで、論理的に矛盾しないと思っているからそういっているだけですからね。(^^;)
そもそも扱っていることが感覚的きわまりないことですから、あまり真に受けないように!!
この文章を参照いただけることはありがたいですが、ぜひ自分で聴いてみて判断してくださいね。(^^)/

注意が終わったところで、私なりのこのディスクへの感想を述べますと・・・。

やはりミケランジェリの芸術を語るときにキーになるべきは“音そのもの”だと思いました。
アラウがタッチ、ペダルその他雰囲気作りまで含めて全体で何かが立ち現われるように腐心しているように、ミケランジェリはそれを“音そのもの”を練り上げて語らせるように演奏設計し、然る後にしかるべき方法で楽曲としてつむぎ合わせていくように考えているように思われてなりません。

ですから、ミケランジェリの“音そのもの”から発せられる何かがまぶしいほどにあるんです。
それを輝きに喩えると、とても“仄かな”という形容では足りません。
確かにそういった意味では表面を滑らかに磨き上げられた“青磁”のような光の反射を想像させなくもないですけれども、とにかくその発光度合いは強いんです。

タイトル『放射する音』はこのイメージを表現しています。
音が集まって曲となって何かを放射しているんじゃないんです。“音そのもの”が放射している・・・ちょうど満月が本当は太陽の光を反射しているんだけれども、それ自体が怜悧な光を発しているように感じられるように、ミケランジェリは音で物を言う、そういった演奏家であると再認識しました。

それを定量的なものとして物理的に捉えると“音価”に繋がり、どうしても有機的な演奏というよりはいわゆる現代音楽的に聴こえる局面も多いのかもしれません。
いささか「渇いている」という印象を持つ場面もあります。
もちろん“ヴィーノの門”だってスペイン風もへったくれもありません。
“月の光がふりそそぐテラス”も美しい音や響きが聞こえますが、降り注いだ月光でテラスが照らされている(日本語にするとうっとおしいフレーズだなぁ)のではなくて、やはりテラスは照らされているんですが先ほどの喩えのように、「月の光を受けて反射している」というよりテラスそのものが発光しているような音による演奏に聴こえます。
これはこれで、とんでもなくミステリアスで素敵ですけれど・・・。

“交替する3度”“花火”も期待通り、明晰に弾き切られて音響の饗宴を楽しむことができました。
真面目に聴き入ると、ちょっと疲れますけどね・・・。(^^;)


★ドビュッシー:前奏曲集第1巻
                  (演奏:アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ)

1.ドビュッシー:前奏曲集 第1巻
                  (1977年録音)

さて、ミケランジェリの先のディスクの10年前に録音された第1巻です。
これをミケランジェリの代表盤と呼ぶ声も多いやに聞いていますが、私には異論があります。

結論だけいえば、ミケランジェリのドビュッシー録音の集大成は、私の感覚で一般論的に述べれば先の“前奏曲集第2巻”の境地だろうと思うのです。
そして私にとって最も相性がいいのは、というより私が魅せられるのは“映像”のディスクなのです。

なぜならばこれは青柳いづみこさんなども指摘されていることですが、“パックの踊り”“ミンストレル”なども芸ができないというか硬いというか、石にされたとまでは言いませんが、青磁にされた(!)ような自由度の無さが気になるのです。

もともと石でできていて、海から上がって光の照り返しを受けている“沈める寺”などは石の磨かれた感覚や照り返された光の様子が、昔、世界史だか美術で習ったエンファシスだのアルカイックだのを思わせてミケランジェリならではの大名演になっているとは思いますけどね。(^^;)

そんなわけで、ミケランジェリだからこんな言いかたしちゃいましたが、気に入ったディスクであることには変わりないですよぉ~。
間違えないでくださいね。
何といっても、ミケランジェリは私にとって最初のピアニストのアイドルなんですから。(^^)/

“前奏曲集 第2巻”の方が第1巻よりも、遥かに現代音楽的な要素・・・音楽の抽象化が進んだ楽曲であることも、ミケランジェリの音響を重視する資質に合っているのかもしれません。
妙に曲のタイトルに合わせて曲を窮屈に限定してしまうのは良くないのかもしれませんね。
虚心に聴いたなら、タイトルに関わらず聴いたなら素晴らしい演奏だと再認識できるかもしれませんけど・・・タイトルはドビュッシーその人が書いたものですから、ちったあ意識しないといかんでしょう。(^^;)


とにかく“前奏曲集 第2巻”をミケランジェリが体の不調を乗り越えて録音してくれたことに、本当に感謝したい気持ちになりましたね。

ところで、“前奏曲集 第1巻”を録音して久しいポリーニが、第2巻を録音してくれるのはいつの日になるんでしょうね。
そのときは“映像”“版画”もお願いしたいもんですね。
「ベルガマスク組曲も!」とはいいませんから・・・。(^^;)




※出張のため先日付投稿いたします。

責任感の所産 (その2)

2007年08月28日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ドビュッシー:プレリュード第1巻、映像第1集、版画
                  (演奏:クラウディオ・アラウ)
1.プレリュード第1巻
2.映像第1集
3.版画
                  (1979年、1980年録音)

前回記事でアラウのドビュッシーはメジャー・レーベルの意地を見せ付ける「責任感の所産」であると書きました。
先の第2集同様、第1集もまさにそのことを強く感じさせる出来映えになっていました。

もちろんアラウにメジャー、フィリップスの威信をかけてなんて思いは一筋とてあろうハズもなく、あくまでも自分自身の芸術に忠実に演奏しているだけなんでしょうけどね。(^^;)

この盤でもすべての音がきっちり聴こえるのに模糊とすべきところは“印象派”らしく処理されているんですよね。
とはいえ、決して“もわぁ~ん”となるところはない・・・そこも絶妙なんです。
すべての音の要素が有機的に絡み合った先に、インスピレーションのように立ち表れた情景が『竜宮城』のように絵にもかけない美しさで、感覚を痺れさせてくれますよ。

殊にこのディスクは竜宮城ならぬ“沈める寺”の大伽藍が現われるんですから、一層興味深々ですよね。(^^)/


さて個々の曲を簡単に見渡すと、第1曲の“デルフィの舞姫たち”の舞はいささか無骨です。(^^;)
拍をしっかり意識して踊ってるというか、そもそも音もテンポも荘重だしなんかクラナッハかなんかの絵に出てくるおばさんが踊っているような気もしないでもない。
でも風格あるなぁ~。

“音と香りは夕暮れの大気に漂う”“アナカプリの丘”のようなピアノの音の短い響きを活用した、きわめて感覚的な曲においてアラウがこんなに新鮮な心もちを抱かせてくれるというのは、実は意外でありました。
第2集の“ヒースの茂る荒地”で顕著だったデ・ジャヴのやわらかな陽に草木の茎が照らし出されているような感覚は、このような曲調において最高度に発揮されているような気がします。
ここでも感覚世界へトリップさせてもらいました。

“雪の上の足跡”は逆にあまりピンと来なかったかなぁ~。
“西風の見たもの”はアラウのすさまじいまでの演奏能力、ヴィルトゥオジティを堪能致しました。
ホントに凄いピアニストだったんだ・・・。
自分で名乗っておいて、ここまで感心しているのもなんだかなぁ~という感は否めませんが、事実そうだったんで仕方ありません。(^^;)
“亜麻色の髪の乙女”は想像通り深い音色ですなぁ~。
こんな深みのある曲であるとは思っていませんでしたが、やはりアラウのこの曲調の捉え方、表現の仕方には、聴き手の想像力を煽る独特のスパイスが混じるように思えます。

そして“沈める寺”。
荘厳な寺が現われて消える・・・期待通り素晴らしいものでしたが、アラウならではということでは、先ほどからいっているようにフラット系の曲での優しい包容力の中にこそ独特のものを発見しやすいと思いました。
“沈める寺”は主部は荘重なハ長調だから・・・誰が弾いてもある程度神々しさはでるんですよね。


このディスクで特筆すべきのひとつは“映像第1集”“版画”も収められていることでしょうか。

“水に映る影”の円やかさ、なめらかさには豊かな音色、巧みなペダルワークと合わせて思わず息を呑む美しさがあります。
これも池の水深や陽に照らされた温度感まで表現しえているように思われるのは、アラウのこの演奏だけではないでしょうか。
ドビュッシーが表しているのはあくまでも抽象的な想念ですけど、アラウは抽象的なままでさらに具体的なイメージを加えたうえで音に抽象化しなおしているかのうようにも思われます。
楽譜をしっかり読み込んで解釈しきったら、そのように弾いたらいいんだという結論が導き出せるんでしょうかね・・・。

そして“ラモーをたたえて”の出だし、密やかと言ってもいいほどの表現力の豊かさと、前曲との対比にまた感嘆させられるのです。
いったい、アラウという人はどれほどのイマジネーションの泉をもっていたんでしょうか?
演奏家の中に表現したいもののイメージが浮かばなかったら、聴き手に伝わるわけはないんでしょうけど、聞き手にそれとはっきり判るようなイメージがどうやったら音の中に込められるのか・・・。
相当な博学の人だったに違いありませんし、それがそのとおり音となってピアノから紡ぎだせるというのは信じがたい技術だと思います。

“運動”の文字通り運動性能も文句なく、アラウ流の音楽を愛好する方であればこのディスクに取って代われるCDはないんだろうなと痛感させられました。

“版画”でも同様の感想をいだいたわけですが、総括すると、この2枚はドビュッシーの演奏の成果として非常に高く聳え立つというばかりでなく、折りに触れて聞き返す価値のある(演奏から何を受け取るかを考えるための)スタンダードとなるべき演奏だと思いました。

もしかしたらこの“アラウ・ブランド”とでもいうものは、我々より上の世代の人はずっと前から感じ取っていて、グールドのそれのようには強烈にみなさん主張しないものの、自分の心のうちでは常に大切にしているのでは・・・そんな気もしましたね。

というわけで“アラウ再発見”という言葉で締めくくることにしましょう。(^^)v




※出張のため先日付投稿いたします。

責任感の所産 (その1)

2007年08月27日 00時00分01秒 | ピアノ関連
★ドビュッシー:プレリュード第2巻、映像第2集
                  (演奏:クラウディオ・アラウ)
1.プレリュード第2巻
2.映像第2集
                  (1979年録音)

温故知新シリーズも連続してきましたが、これを取り上げたのは他でもないレコ芸最新号の『名盤鑑定団』で、遠山慶子さんのドビュッシーの前奏曲集第2巻が取り上げられていたところに、鑑定団お三方全員の高い評価が集まっていたため・・・であります。

もとよりアラウのドビュッシーは他とは一線を画すユニークなもので、印象深かったという“印象”は残っていたのですが、何がどう印象深かったかのかが思い出せずにおりました。

でも、インジック、オコーナーと聴いてきて当時の印象と今聴いた印象がぜんぜん違うんですよね。
で、危惧されるのはクラシック音楽を聴き始めた当時(1990年前後)は、無意識のうちにメジャー・レーベルが頂点で、いわゆるマイナー・レーベルといわれるところはその下位に属すると思い込んでいたことです。
だからアルゲリッチ、アシュケナージやポリーニ、その前ではケンプとかが頂点で凄い人であり、みんながそれを目指すように鍛錬しているかのように思ってしまったんですよね。
マイナー・レーベルは中には自分に合う個性の人もいるでしょうから、隠れたお気に入りを作ってください・・・的な存在だと勝手に思ってまして・・・。(^^;)

やっぱりキチンと聴いた記録はつけておかないといけないな・・・と痛感している次第です。


四の五の言わずに「このディスクはどうだったんだ?」という結論なんですが、一言でいえば「言葉を失いました」ですね。
アラウがいかに偉大なピアニストであったかを再確認した思いです。
私には彼のベートーヴェンの演奏よりも重大な成果ではないかと思えました。
いや、さすがメジャーの貫禄というか、このディスクには「新進には出しえないとんでもないものが詰まっている」と聴きほれてしまったわけであります。(^^)/

冒頭“霧”とも“靄”とも訳されることのある楽曲では、フレーズだけ聴くとなにか無骨で引っかかるようなところがある。
その音はしっかりしたタッチで楽器からもたらされているんだけど、モヤットしていないんだけど、まぎれもなく“もやけてる”んですよね。不思議なことに・・・。
“帆”もそう。。。
“ヴィーノの門”などもスペイン趣味とか、そういったものからはむしろ遠い・・・アラウはチリ出身なんですけどね。

私がもっとも感銘を受けたのは“ヒースの茂る荒地”です。
輝きのある単音もさることながら、鳴っている音とはまったくちがうところに柔らかな日差しに照らされた広い草地のイメージがたち現れるんです。
デ・ジャヴみたいな感じで・・・まるで、国籍などを問わず人間としてのDNAの記憶に組み込まれているのではないかと思えるような思念がテレパシーのように伝わってくる、そんな感じです。
全ピアノ曲を横断して、このような感じになるケースというのは極めて珍しいように思います。

先の鑑定団は“月の光がふりそそぐテラス”にハイライトがあると言っていましたが、やわらかな光の描写というかイメージを想起させる点では断然“ヒースの茂る荒地”のほうが私には美しく、それはもう「絵にも書けない美しさ」のように迫って来てくれました。

“カノープ”なども決してそれ自体が存在を誇示しているようなところはありません。
ドビュッシーが曲の最後に控えめにタイトルを記したように、アラウの演奏からはどんな曲であるかという明晰な主張は出てきません。
先にも述べたようにしっかりした音を出しながらも、音楽が鳴っているところとは別のところにイメージ・想念がたち現れるのです。

この現象は確固とした口調で説明することはできないですが、多分、ペダル操作の妙によるものであるとは思うんですけどね。(^^;)

そして最後のハイライト“交替する三度”と“花火”。
ここでも演奏と別次元のところにイメージを作り出してくれます。
本当にそれは3Dのように覗き込みにいってしまうとむしろ見えないもの・・・だからホログラムのように透明に見えているというものでもなく、ハッとした瞬間その場に“ある”ものなんですが、その感覚に気づいたらこの演奏の虜になってしまうと思います。
この曲において、このほかの演奏には決して感じられないことですから。(^^;)

“交替する三度”では安定した織物のつんだ目のようなアラベスクな美しさ、“花火”では逆に横綱相撲というか「俺が1番」だといわんばかりの風格と、完全な技巧によるスケール大きな奏楽が楽しめます。
そして、その後、伴奏に乗って絶美な音色で旋律を爪弾いて終わります。
その音色たるや、とろけちゃうほかないと思われるほど・・・。


総括すると、アラウの奏楽の要諦はキチンとタッチは深くなされたうえで、音ひとつひとつからではなくペダルの妙によって有機的に形を作られた音楽全体から、アラウの思念・想念が立ち表れるように心がけられているように思われます。
ドビュッシーという作曲家を宇宙から来た作曲家であると印象を述べているアラウは、結局音そのものよりもその全体から浮かび上がってくるものを、その光の移ろうさまのような美を見出そうとしているのではないでしょうか?

ここまで書いてあらためてドビュッシーが『印象派』であり、アラウが忠実にそれを実行しようと愚直にトライしているのではないかという思いが浮かびました。

驚嘆すべき努力を基本に忠実に実行している、それは、本来作曲家が望んだ姿を見出さんがために行われることであって、果たしてそれはこのディスクに明瞭に刻まれジャケットの点描の絵にも似たドビュッシー音楽の真髄を弾き表したものとなっているのです。

まさしく“アラウの良心と責任感の所産”であり、こう考えてくると「名盤鑑定団」のお三方の仰っていたことが「こういうことだったのか」と合点がいきますね。

このディスクのアラウには、ホント参りました。(^^)/

昼想曲

2007年08月26日 11時47分59秒 | ピアノ関連
★フィールド:ノクターン集
                  (演奏:ジョン・オコーナー)
1.ノクターン第1番:変ホ長調
2.ノクターン第2番:ハ短調
3.ノクターン第4番:イ長調
4.ノクターン第5番:変ロ長調
5.ノクターン第6番:ヘ長調
6.ノクターン第8番:イ長調
7.ノクターン第9番:変ホ長調
8.ノクターン第10番:ホ短調
9.ノクターン第11番:変ホ長調
10.ノクターン第12番:ト長調
11.ノクターン第13番:二短調
12.ノクターン第14番:ハ長調
13.ノクターン第15番:ハ長調
14.ノクターン第16番:ヘ長調
15.ノクターン第18番:「真昼」ホ長調 (番号表示はペータース版による)
                  (1989年録音)

前記事でインジックなんていう(個人的に)懐かしい盤を掘り起こしたついでに見つけて、久しぶりに聴いたのがこの盤であります。
そういえば聞かないわけではないですが、最近とんとテラーク・レーベルの名盤にめぐり合っていないような気がしますな。

当時は最先端の録音技術を備え、録音面からはもちろん有名無名を問わず気鋭のアーティストによる演奏面からも注目されていましたが、どうしちゃったんでしょうねぇ~。
ラフマニノフのピアノ・ロールをベーゼンのインペリアルで低音を補強して録音した盤など、けっこう(思い込みかもしれないが)エキサイティングに聴いちゃったものですが・・・。(^^;)

あとピーター・シックリー教授のP.D.Q.バッハなんかも大笑いさせてもらったんですけどねぇ。
共演していたジョン・キムラ・パーカーの“ショパンの葬送ソナタ盤”をずっと聴きたいと願ってるんですが、どうしてもディスクが見つからない・・・なんてこともあります。
こうなると、ディスクは見つけて迷ったら“即買い”しないといけないと思うんですが、金も時間もねぇ・・・時間はあるときゃあるんですけどね。


さて、本題です。
ジョン・オコーナーはアイルランドのピアニストで、私がクラシックを聴き始めてまもなく一時よく名前を見かけましたが、いまやわが国ではあの人は今となってしまっているようにも思えます。
音楽関係の方の中では、まだまだ有名かもしれませんけど。

さて、彼はどちらかというと冷静な演奏と豊かな詩情と音色を誇り、古典派末期からロマン派初頭の曲を得意としているそうですが、彼のベートーヴェンのピアノ・ソナタ録音を何枚かもっていますが、まさにそのとおりであります。
ハンブルグ・スタインウェイの最もオイシイ音色を導き出すことができ、何も特別なことをしていないのに聴き手を豊かにしてくれる演奏をこともなげに成し遂げてしまうのです。
考えてみれば、演奏に“特別なことをしない”こと自体難しいし、さらに“こともなげに”情感豊かに聞かせることも恐ろしく難しいこと・・・何かの評論で「このような演奏こそもっと聴かれるべきだ」と書いてあるのを見ましたが、正にそのとおりだと思わされました。

ここでは同郷の作曲家、フィールドのノクターン集を録音しています。
私の記憶が正しければ、オコーナーは商店街だかで演奏することを要請されて何を弾こうか思案して、かっちりしたレパートリーで弾いたら見向きもされなくて悩み、フィールドを弾いたら「あの曲はなんだ」「お前は誰だ」と反響があったためにレコーディングした・・・っていうことになってるんだったと思うのですが。。。

この話はまったく正当だと思うのです。
だって、この曲集は全然夜想曲(ノクターン)だと思えない。
ライナーにもこの曲の命名についてショパンのそれとの兼ね合いから一文がありましたが、これを例えばこれも夜の音楽である「小夜曲(セレナード)」としてもあんまりヘンじゃない。
でもノクターンっていうのはどうもねぇ~。(^^;)
私なんか、猛暑日の昼下がりに聴いちゃったモンでモーレツにお昼寝したくなってしまいました。
めちゃめちゃ“α波”を出すというか、揺らぎ効果があるというか癒される音楽ですよ。

そして今やショパンの先駆としてきちんとした認識があると思われるフィールドですが、彼の手になる作品・・・ことにノクターンの復権を大きく助長したのはこのディスクだと思うのです。
私の手許にも全集がポブウォッカのものがもう1集ありますし、選集やリサイタル盤に何曲かなんていうのは何枚もありますしね。
知る人ぞ知る・・・ですが、オコーナーの最良の意味で豊かで優しい演奏があったからこそ、後続の録音がなされたと感じているのは私だけではないと思います。

ただ私は先に述べたとおり、ショパンのノクターンの先駆・・・これも全く正しいでしょうね。作品9-1と作品9-2なんてのは内容の深さは別にして体裁はフィールドと何ら変わらないですから・・・であるということが強調されるのにはあまり居心地のよさを感じませんね。
それよりも、むしろメンデルスゾーンの無言歌のいくつかの先駆という側面の方がより多く感じられる気がします。

なんにせよフィールドのノクターンを聴こうと思えば、私はこれがファースト・チョイスであると思います。
夜想曲というよりも、すてきな白日夢を約束してくれるべき曲になってますけどね。(^^;)

作品と演奏家との相性に関しては、作曲家とピアニストが同郷であるところに大きな意義があるのではないか?
そんな風にも思えます。

余談ですが、曲名を見ていただくとお分かりのようにノクターン第18番には「真昼」という副題がついています。
出版社が付けたようですが200年近く前にも、やはり同意見の人がいたようですね。
その後、楽譜の出版に際し校訂を依頼されたリストが「夜想曲」と「真昼」の矛盾に困って、「白夜」のことだとした・・・という逸話には笑えました。


★フィールド:ソナタ集&ノクターン集
                  (演奏:ジョン・オコーナー)

1.ピアノ・ソナタ第1番 変ホ長調 作品1-1
2.ピアノ・ソナタ第2番 イ長調 作品1-2
3.ピアノ・ソナタ第3番 ハ短調 作品1-3
4.ピアノ・ソナタ第4番 ロ長調
5.ノクターン第3番 変イ長調
6.ノクターン第7番 ハ長調
7.ノクターン第17番 ホ長調
                  (1991年録音)

さて、フィールドさんはショパンが尊敬していたってほどですから、当時は大家だったんでしょう。
演奏スタイルがフィールドに似ているといわれて、あのショパンが舞い上がってたらしいですしね。

そして、先のディスクで3曲のノクターンを漏らしたので埋め合わせだったのか、このディスクのほかに協奏曲まで録音しているオコーナーのこと、作品1のソナタを録音する企画が先にあって、フィルアップに漏れの3曲を押し込んだのかは定かではありませんが・・・とにかく続編として録音されたに間違いないこの1枚。
ソナタといえばたしかにソナタである、それも間違いなくフィールドのソナタだとわかるソナタであるところが素晴らしいですね。

最良の解釈者を得たこのソナタは、現代の豊かな響きのポテンシャルを備えたスタインウェイという楽器によっても、その全貌と課題を明らかにされてしまっています。

全貌とは、驚くほど単純な気分を表した楽章ですが、決して聴き手を緊張させること無く伝えることができる作品であるということです。
課題は、この演奏にあっては奏者の人柄もあってでしょうが同時代のベートーヴェンや後のロマン派の諸作曲家のそれのように“がーっ”と迫ってくるものではないためもあり、ひとつ聴いてすべてがわかってしまうような予定調和であるけれども、いかに聴き手を引き込んで飽きさせず持続させうるか・・・そこが生命線であることです。

作曲家は走句を魅惑的なものに工夫すること、楽章間での曲想の対比を明確にすることで貢献するから、あとは「演奏家よ、うまくやれ」という感じでしょうか?

フィールドに限らず・・・モーツァルト・ベートーヴェン・ショパンもそうでしたが・・・このころの演奏家は即興演奏の大家でしたから「合点だ」という感じだったんでしょうね。あの時代は・・・。

それをオコーナーは深い洞察と経験と共感でクリアし、高い完成度でディスクに収めていると思います。
それだからこそ、たとえパッセージ途中の音色のグラデーションなどが移ろっていても、曲に込められた情感は、実は極めて単純なものであるということに気づかされることになっちゃうんですけどね。(^^;)

フィールドはやはり小品の作曲家としての方が、私には似つかわしいように思われました。


いずれにしてもこの2枚のディスク・・・。
真夏に聞くと涼しげに鳴り、真冬に聞くときっと暖かに鳴る音楽だと思います。
おやすみのお供には最適だと思いますよ・・・って、就寝時に聴くんだったらやはり夜想曲でいいのかな!?(^^;)

もしかして凄くね!?

2007年08月25日 23時34分06秒 | ピアノ関連
★ショパン:ピアノ作品集
                  (演奏:ユージン・インジック)
1.バラード第1番 ト短調 作品23
2.バラード第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード第3番 変イ長調 作品47
4.バラード第4番 ヘ短調 作品52
5.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
6.子守唄 変二長調 作品57
7.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (1990年録音)

なんとも懐かしい盤をご紹介することになったものです。(^^)/
クラーヴェス・レーベル創生期の一枚ですもんね・・・。

このディスクを聴くきっかけはインジックの新譜情報を目にしたため。
ショパンのスケルツォと即興曲集がカリオペ・レーベルから発表されたという情報が発端であります。

つまり、そのディスクをお買い上げになるかどうか迷って、以前持ってたはず(これぐらいの認識だった・・・)のこのバラード集がよければ買うことにしようと思ったわけです。

まさにお試しで聴いてみた結果が“タイトル”の文言でありまして・・・2回まわり聴いたうえで購入することに致しました。
(^^;)


この盤に関して言えば、選曲はもう王道というか文句の付けようがないですよね。
分量的にもレパートリーの質的にも、お買い得感全開って感じで!(^^)/

インジックは1970年のショパン・コンクールで第4位(このときの優勝はギャリック・オールソン、第2位は内田光子さんです)という経歴の持ち主。
そういう意味ではショパンのオーソリティでいらっしゃる・・・。(^^;)

輸入元のアナウンスによると「ショパンをポーランド人のように、ドビュッシーをフランス人のように、プロコフィエフをロシア人のように」弾くことができると評されたことのある実力者・・・って、私にはどういうことかよくわかりませんけどぉ~!
とにかく、これも意味するところは「何らかの意味で凄い」ってことなんでしょうね。

さて、当初このディスクと聴いたときの記憶では「途方も無くジミ」だと感じた覚えがあるのですが、一転何が凄いと思えたかというと「楽曲の存在のあり方」です。
存在の“仕方”ではなく“あり方”・・・いつもながら、どうでもいいことなんですけどね。(^^;)

インジックは風評のように“何国人のように”というわけではなく、華美から最も遠い演奏をしているのではないかと思ったわけです。
もう少し詳しく言うと、普通は「楽曲をこのように解釈して弾いたら映えるだろうな」とか、謙虚な人でも「ショパンの意に添うだろうな」とか、何かを付け加える思想で演奏を練り上げていくんじゃないかと思うのですが、インジックはここで別の手順を踏んでいるのではないかと思えるのです。

多分ですが・・・とんでもなくこの人はピアノが弾けるんじゃないかなぁ~。
ショパコン入賞とかそんな意味じゃなく、音楽的にもあらゆる演奏法に通じているに違いないと思わずにはいられないんです。
そんな彼が、楽曲を前にするとまずしっかりその曲のキモを自分なりに消化して、まずはありとあらゆるものを詰め込んで解釈、あるいは演奏してみるのではないでしょうか?
それは多分“円空仏”のようにすべてを包含しながらも、無骨な状態であろうと思います。

ここからのプロセスがインジック独特だと思うのですが、普通どう弾こうか考えるところを、既にあるプリンシパルの演奏にはその要素が“含まれている”わけですからピアニストは「何を除いたらショパンの意に近くなるのか、華美や饒舌から一線を画すことができるのか」・・・つまり、何をしてはいけないかを模索するのではなかろうか・・・そんな風に思えるのです。
だから「足らないものは何もない・・・けれど余分なものも何もない」という演奏ができあがっているのではないでしょうか?

バラード第1番など中盤以降、正義と敵役の追いかけっこのようなパッセージが続いて、そこは通常息をもつかせぬ緊迫感を伴って急かされるように演奏されることも多いですが、インジックの解釈ではそんなことは不要とばかりにモッタリ構えています。
バラード第2番のバスの音が豊かに情景を炙り出しているのにはとても豊かな詩情をを感じます。
バラード第4番も、私が最も重要視している最後の変奏後のわずかなカデンツァ以降の進め方が慎ましく、かといって華が無いわけではないという絶妙なさじ加減であり、テンポ設定も含めてエレガントで素敵です。

概して慎ましいと感じさせる演奏でありながら、舟歌の冒頭の和音には存在感や思い切りが感じられて驚くと同時にそれだけで確立される場の雰囲気に乗せられて、インジックと一緒に悠然と舟で談笑するという気分です。
子守唄、幻想曲ともに、「こうでなくてはならない」という演奏のうえに慎ましさとエレガンスを少しだけ残したという感じの仕上がりでありました・・・。

この質感、この旨味を感じ取れずにジミだと切り捨てていたなんて、以前の私はなんて薄っぺらな聴き方しかできていなかったんでしょうね。
まぁ成長してこのよさが判るようになったと、自画自賛するのも気が引けるんですけど、そういうことなんでしょう。(^^;)

考えてみれば、インジックがショパンの演奏を世に問うたのはすごく久しぶりのように思います。
マズルカやピアノ協奏曲も未聴ですが録音しているようですから、気になるところですねぇ。
スケルツォを聴いたら、また考えなくっちゃいけないかもですね。

1960年のショパコン覇者のポリーニも、ショパンの大半の作品を非常に長い時間をかけてディスクに残していますけれど、ここにも同じ仕事をしっかり成し遂げるべくゆっくりと、しかし堅実な足取り(ピアニストだから手取り?)でジミチに活動している名ピアニストがいます。

しっかりとその成果を見つめて、恩恵を享受したいと思わずにはいられませんね。(^^;)

最近のレコ芸に思う

2007年08月24日 23時28分38秒 | その他
昨日、推敲しないままにこの記事の骨子をアップしてしまい、読み直してみてあまりに感覚的にすぎるので、切り取ってアップしなおすことにしました。
ご覧いただいた方には、きっと何のことだか判らなかったでしょうね。酔っ払ってたんじゃないかって・・・。(^^;)

このところディスクの感想を記すようになってからは、最初、あんな感じで思ったことを思ったままに書き繫げておいて、あとで読んでおかしくないように(意味が通るように?)並べなおしています。

かっこよく言えば、作曲家の作曲のプロセスもこんな感じなんじゃないかなぁ~。霊感の赴くままにスケッチをして、それを後で完成した製品に練り上げるという・・・。
巧拙の別はあっても、物を作り出していることにはかわりないし・・・。
産みの苦しみって感じる時がありますね。(^^;)

一緒にするなという声が聞こえそうなのでここでやめますが・・・。


さてさて、前の記事では「レコ芸のメインの記事にかつて程の魅力を感じなくなっています」・・・というところから切り取ったんですが・・・。

レコード芸術はかれこれ10年以上購読してきており、この雑誌を「新譜情報」や「視聴記」がメインの雑誌だと考えれば今もって唯一無二の情報源だと思っているのです。
だとすれば、別にメイン記事に魅力があろうがそれは二の次であると言い切ってしまってもいいんですが・・・。
やはり私には、興味を持てる参考情報がたくさん欲しい・・・という気持ちが強くあるもので・・・。

レコ芸でいいのは、「今月のアーティスト」と銘打って有名どころにインタビューする連載と、新進や(まだ)無名のアーティストへのインタビューを通じてその主張が言葉で綴られている企画があることですね。
ここでは「アーティストはすべからく音のみによって情報を伝えるべきであり、ディスクを世に出した以上音を聴いて後は勝手に・・・」というパターンではなく、必ずアーティスト本人が相手に伝わるように言葉に翻訳して要諦を述べているわけです。

よしんば話の内容がぶっきらぼうでも、そのアーティストがどのような返答の仕方をしているかによってすら、その演奏を聴く際のイマジネーションが掻き立てられます。
初めて耳にするアーティストだと、それが「予断」になってしまって本来聴こえるはずの耳が曇ってしまうかもしれませんが・・・まぁそれもご縁。
事前の情報が多ければ多いほど、音を聴いたときの楽しみがいや増すのはあたりまえですよね。(^^)/

このバックステージに書くようになって、慣れてくるとやはり10年以上読んできたレコ芸・・・のどこだったかは覚えていないが・・・に書いてあったことが不意に思い出されたり、そのときモヤットしていた意味がわかったような気がしたり、かくして文章表現の技として利用させていただいていたり(簡単に言えばパクリ)もしていますね。
自分にとってはもう何年も自分の中に寝かしておいた表現なんですけどね。(^^;)

このブログを初めて10ケ月になりましたが、昨今あたらめて随分アウトプットしたもんだと感じています。これだけアウトプットするとまたいろんな情報をインプットしてみたくなりました。

最初の話題に戻ると、そのインプットのネタが本編記事に少ないんですよね。
むしろ・・・CD月評などにも評論家の個性があふれる表現や、感じ方のクセが表れていますが、そこに出ている国内盤はほとんど採り上げないもので(^^;)・・・アーティストとのインタビューのやりとりのなかにこそ、私が音楽を聴いて感じるのと似たハッとさせられるような表現とか、いままで見向きもしていなかった曲の一側面とかに目を向けさせてくれて参考になるものがある・・・そう思うようになりました。


たとえばレコ芸の今月号で言うと、小林五月さんがシューマンを「言葉足らずなところが素敵だし難しい」というように表現しておられたり、なぜ魅力があるのかについて本当に“魅力的に”ユーモアを交えて答えていらっしゃいましたが、仰ってる意味はよくわかるんですよね。
説得力のある演奏をしてらっしゃるかたは、例外なく「言葉でも」その音楽のことをどう思っているかよくわかるように提示してくださるんですよね。

シューマンのそこが好きという人と、嫌いという人がいるんですけどね。

私は典型的な後者で、じれったくってしょうがない。
子供の情景などならともかく、ピアノ曲の大曲で言えば「幻想曲ハ長調」を除いては余り聴きたいと思えない。

最高傑作「クライスレリアーナ」とは言われることですし、その第2曲に曲の重心がおかれているなどという論評もみますけど・・・私には最も何がいいたいのかわからない類の音楽ですねぇ・・・残念ながら。

小林さんは、“謝肉祭”の録音でホールもピアノにも拘ってらっしゃることがわかり、これは一度ちゃんと聴かないといけないかもしれないと思わされましたね。(^^;)


他には、メジューエワの“シューベルトの変ロ長調ソナタ”の楽曲把握などが気にかかりました。
述べられているのは聴いたことのあるような事実だけかもしれませんが、大曲のどの部分に着目し、それをどのように捉えているか・・・彼女も“ミステリアス”、“転調”、“彼岸”という言葉を口にしていますが・・・これがわかるだけでも、本当に私にはうれしいことのように思われます。
「自分でも触れたくないことを音化した」ようなところも感じ取っているようで、この表現など非常に興味深いものがありました。

さらに輸入盤の情報ではパウゼが“ドビュッシーの前奏曲集”をリリースしたとか・・・私に言わせれば、前出た練習曲集はいまいち納得いかない感じだったけど、評者は進歩を遂げて、深化したといってるし気になるなぁ~。
先般のガラコンで聴いた、久元祐子さんのモーツァルトのディスクも発売されたようだし。。。


気になるディスク情報がいっぱいあることはあるんですよねぇ~。
レコード芸術ですから、ある評論家がある楽曲のさまざな演奏についてどう思っているかという記事はたまに特集されるんですが・・・。
それよりもある楽曲に対して名演奏を残しているアーティストがどのように思っていたか・・・を特集するような記事がほしいですね。

ある楽曲のディスクを評論家の良心(これは外側からじゃ見えないですよね)に照らして聞き比べるのではなく、あるディスク(これは誰が聴いても同じものですよね)をそれぞれ評論家がどのように聴いているか聴き比べる(「名盤鑑定団」はこれに沿った企画ですけどね)なら、より公明正大な文章になるものと思ったりします。

なお、名盤鑑定団についてはあらためて書きたいと思いますが、もっと紙幅を費やして徹底的に有識者によってどこが魅力であるかの比較検討をしてもらえればいいと思っています。

ある意味、私のバックステージではそういう体系的な参照物がないからこそ自分なりに表現して、勝手気ままに書いていけたらいいと思っています。(^^;)

男の仕事はかくあるべし

2007年08月23日 23時03分25秒 | 器楽・室内楽関連
★J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとバルティータ
                  (演奏:クリスティアン・テツラフ)
《DISC1》
1.ソナタ 第1番 ト短調 BWV1001
2.パルティータ 第1番 ロ短調 BWV1002
3.ソナタ 第2番 イ短調 BWV1003
《DISC2》
4.パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
5.ソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005
6.パルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006
                  (2005年録音)

2005年のインストゥルメンタリスト・オブ・ザ・イヤーであるテツラフの、2度目のバッハの無伴奏のディスクです。
とはいえ、前のは未聴ですから初めて聴くわけですけど・・・。

こんな賞を受賞するぐらい乗っていた歳の録音だけあって、悪かろうはずがないという先入観をもって聴き始めましたが・・・結論をいえば素晴らしい演奏といって何ら差し支えないですな。
ブラヴォ~です。


この演奏を聴いての印象は、非常に男らしいさっぱりした奏楽だ・・・というもの。
それも、マークXだかの宣伝で出ている俳優さん・・・あんなハードボイルドなホワイトカラーをイメージさせるものであります。

特にソナタ第2番の終曲などは、これぞ鮮やかな手並みの仕事人という演奏。
とはいえ、決して技巧に走るわけでも優等生的でもない、骨も食い応えもあるものです。
以前特集した加藤知子さんなどの“うるおい”からは一線を画し、それぞれに独特の緊張感を漂わせてはいるもののその質はぜんぜん違うものであります。

もちろん曲の随所に工夫のあとが見えてとれるのですが、相当弾き込んであるに違いなくそのような工夫も曲の中にキチンと納まっています。
工夫したことを隠すことはないのですが、その工夫によりこの聴き応えがえられているんだという感覚が確かにあるんです。
よく、そんなことしなきゃいいのに・・・と思われる解釈・工夫があるケースが散見される場合があるのに、これだけ工夫のあとを残しながらそう思わせないのは、やはり何かの仕事への思い入れ、気概を感じるものがあるからなのでしょうか。。。

技術的にまったく破綻がないのはもちろん、かといって余裕かましてるわけでなく、精一杯弾いているというのもまた好感を誘います。
先ほどの工夫の内訳には、意識的に見栄を切って表現していると感じられるところもあります。

実は、このディスクは先月号のレコ芸の海外盤試聴記で紹介されていたものを手に入れたのですが、確かにDISCからはそのコメントどおりの心証を得られました。
やはり、プロの文章は違うものです。
あらためて感服しました・・・。

それを読んで聴いて納得してこれを書いているので、その文章のまねになってしまわないように書こうと思うと、この盤ばかりはちょっとムリがある感じですね。
とにかく弄言しても仕方ないので「男の仕事はかくあるべし」と思ったとおりを感想としてあげるにとどめておきます。

説明しようとすればするほど、月並みな言葉の羅列になってしまいそうですからね・・・。(^^;)

八王子いちょうホール Duo Graceコンサート (その3) 

2007年08月22日 18時53分52秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 宮谷理香 Duo Grace コンサート 《第2部》
                  (演奏:デュオ・グレース)
《第2部》
 (2台ピアノ)
9.アレンスキー:2台ピアノのための組曲 第1番 作品15
10.ラフマニノフ:2台ピアノのための組曲 第2番 作品17

《アンコール》
※チャイコフスキー:花のワルツ ~「くるみ割り人形」より
                  (2007年8月19日 八王子いちょうホール)

さて、第2部はアレンスキーの2台ピアノのための組曲第1番。
この曲を共演したことが、おふたりがデュオを組むきっかけだったんだそうです。

この組曲は前回のコンサートでも聴いているはずなのですが、これもまったく曲の印象が変わってしまいました。
まずは第1曲“ロマンス”ですが、曲のイメージのコメントは前回同様“ロシアの冬”というもので「雪がはらはら男女の親密な語らい・・・」といった濃密なこってり系の曲だという印象があったんです。
が、今回聴いた後はすっきりさわやかなとても聴きやすい系の曲じゃんか!・・・という感じにイメチェンです。(^^;)

旋律がまたチャイコフスキーの“四季”の“5月:白夜”に「よく聴くと、ん~、どこか似ているぞ」状態であることにも気づきました。
前回どうして気づかなかったんだろう・・・と思うぐらい似ている・・・。
そして更に、その旋律がまったく同じ形で何度も回帰するんです。
ロンド形式の曲なんだろうか?
私の感覚に照らすと、ショパンの“バラード”やリストの“愛の夢”みたいにちょっとずつでも変奏して味わいを違えたら・・・と作曲者に注文をつけたくなってしまいました。

これも演奏が練れて余裕が出てきたからこそ感じられるようになったこと・・・に相違ありません。

第2曲は“ワルツ”。
軽妙洒脱でピアニスティックかつ演奏至難な曲。
聴いている分にはおもしろい曲ですが、確かにこの曲をふたりで息を合わせて弾くのは難しいかもしれませんね。

私の体験に照らすと、エレキギター曲を演奏するときに拍の取り方がフィーリング任せになると、拍の表に入るか裏に入るか、合うか合わないかは目をつぶって運任せ・・・という状態になることがありますが・・・「よくそうならないな」と思いました。
まぁプロだから・・・当たり前か。。。(^^;)

最後の“ポロネーズ”。
理香りんさんは自身が担当するリズム・セクションが「重たい」と仰いますが、確かにパワーは増していながらも、ずっと見通しがきいていたように思います。
ここでも強弱・表現の幅を大きく取ることができるようになったことが絶大な効果をもたらしています。
この調子で迫力はそのままに、さらに小股の切れ上がったリズムに練り上げることができるといいななどと期待したりしてみてもいいでしょうか・・・。(^^;)

そして理香りんさんから「このポロネーズのトリオ部分がとてもアレンスキーらしい」というコメントがあり、注意して聴いてみました。
なるほど、音の遣いかたには妙に洗練されたものを感じ興味深いものがありました。
でも私の感想は・・・アレンスキーの「器用貧乏さ」が感じられた・・・というものでありました。

たしかにハイセンスだし、どの点をとってもすこぶるつきの一級品だと感じられるのですが、控えめというか猫の目のようだというか気まぐれ・・・執着がない・・・んですよねぇ~。

それを美徳と思えばいいんですが、優柔不断というか中途半端と聴いてしまうと、せっかく万能の作曲家であるかもしれませんがその長所がスポイルされちゃうんじゃないかなぁ~。。。
アレンスキーがメジャーになりきれないのは、結局その押しの弱さに起因するんじゃないでしょうか?

ひとつの曲にいろいろ詰め込むんじゃなくって、さっきも言ったようにリストの“愛の夢”やクイーンの曲のように同じ旋律でも「あ~なの、こ~なの、そぉ~なのぉ~」って感じで“ぐゎぁーつ”と押したならと素材のセンスは抜群なんだからウケルと思うんだけどなぁ~。

その控えめなところがセンスだと言われれば返す言葉はありませんが・・・。(^^;)

                  

本割の最後を飾るのは、メインと目されるラフマニノフの組曲第2番。
この曲も、音量・表現の幅が広くなったことでいちだんと食い応えのある演奏に変貌していたのが嬉しかったですね。

多佳子さんはピアノの森のコンサートで第2ピアノを弾いていたと思いますが、プリモ・セコンド両方を経験されたことで、また清水さんとの共演を経たことできっと得られたものが大きかったのでは?
もしそうだとすれば、それらは既に多佳子さん、否、デュオ・グレースのものとして消化され、とても自然に演奏の中に生かされていると思いました。

この曲でも、アレンスキー同様曲目解説がおふたりによってなされました。
これが、またビギナーにとっても、ある程度知識をもっている人にとっても示唆に富んだ話であり興味深く聞かせていただきました。

たとえば、最初の曲の大きな手を生かした和音での曲の始まりはわかっていることとして、作曲年代が第2番のコンチェルトと同時期であり、その曲を髣髴させる箇所があるというもの・・・。
一瞬エッと思いましたが、おふたりの演奏で聴いたら冒頭の和音の回帰する前の部分などまさにその雰囲気が横溢しており納得しました。

実は帰宅の後、アルゲリッチ&ラビノヴィチでその部分を聴いたんですが余りそのような香りはしませんでしたねぇ~。
だから、今回聞かなければずっとそれに気づかなかったんだろうな・・・と思った次第。

解釈の違い以前に、デュオ・グレースとアルゲリッチ&ラビノヴィチとでは曲の捉え方がまったく違うようにも思われてなりませんでした。
ラビノヴィチはロシア人なんですが、我々日本人が思うロシア音楽的な濃密さはデュオ・グレースの演奏のほうにより多く感じましたね。

アルゲリッチ&ラビノヴィチは、もっと響きをスリムに整理してスポーティというかスタイリッシュに弾き上げたという感じ・・・もちろん、どちらがいいという訳ではなくいずれも説得力のある演奏であります。
個人的には、アルゲリッチが自分の持てる破壊力をラビノヴィチと合奏するためにセーブしているように思えるんですが、エコノム等と演奏しているときにはどんどんアチェレランドしてってしまう彼女に、ラビノヴィチが見事に猫の首に鈴を付けた演奏というふうに評すことができるのかもしれません。
アルゲリッチの霊感の濃やかな閃きといったよさをスポイルすることなく、驀進する猛々しさだけを封印した名指揮者ラビノヴィチということにしておきましょうか。(^^;)

同じことは終曲の“タランテラ”にも言えて、デュオ・グレースによる説明では「毒蜘蛛に噛まれたら、一晩中でも踊り続ける」というのがタランテラという曲目の由来であるということでありました。
実際の演奏を聴いたらば、これはホントによくわかりましたね。
タランテラ・・・をこの意味で解釈するのであれば、まさにデュオ・グレースのようにワイルドかつ華やかに弾かれるべきであって、アルゲリッチ組はここでも整理されすぎている感があります。
ただ、そのように解釈して弾かねばならないかというとそんな決まりはないわけでして、ここでもどっちがいいという話にはならないとは思いますけどね。(^^;)


さて、アンコールは“花のワルツ”です。
ずいぶん以前の多佳子さんのブログで、冒頭のハープを弾く技を編み出したような記事があって、アンコールがこの曲であることがわかったときにはとても興味をそそられました。

そして、結果はといえば予想・想像を遥かに上回る魔法のようなタッチ・・・それはハープを模倣しているのでしょうがハープ以上の効果をピアノのタッチとペダルの効果から生み出しえている、正に魔法でありました。
これがあるから「高橋多佳子の演奏会には行かなきゃいけない」というそんな音色。

両手の肘から前が絶妙な孤を描き、指先がしなやかに鍵盤の上を掃いて上を向くと・・・「あーら不思議な音がする。」・・・という感じでした。
座席からは、鍵盤を掃き終わって上を向いた手指の形しか見えてないので何が起こっているかはわからないんですが、壮絶に凄い技だと思いましたけどねぇ~。

多佳子さんはピアノのどの秘孔をどのように突いたら、どんな音が出るのかつかんでるんでしょうね。
恐るべし・・・。(^^;)

おふたりともアフターアワーズの曲であるにもかかわらず、心底精力的に楽しく弾きあげてくれました。
多佳子さんのコンサートでは、アンコールにおいても開放感に満ち溢れたとても素直で心に響く演奏が期待されるのですが、今回も例外ではなくプログラム中の曲とはまた別のリラックスした楽しみを提供してくれるものでした。

聴いている私の頬がパッと明るくなるような感じで、最後まで盛り上がり全ての聴衆が快く喝采を贈って大団円を迎えたのでありました。


終演後、前回記事に掲載したプログラムへのサインをいただき、おふたりの写真を撮らせていただきました。
冒頭の写真が、そのお宝写真です。(^^)/
快く応じていただき、本当にありがとうございました。

次回公演がいまから楽しみです。(^^)v

八王子いちょうホール Duo Graceコンサート (その2)

2007年08月21日 17時58分48秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 宮谷理香 Duo Grace コンサート 《第1部》
                  (演奏:デュオ・グレース)
《第1部》
 (2台ピアノ)
1.モーツァルト:2台のピアノのためのソナタ 二長調 K448
 (宮谷さんソロ)
2.ショパン:マズルカ 作品59-1
3.ショパン:マズルカ 作品59-3
4.ショパン:「黒鍵」のエチュード 作品10-5
 (高橋さんソロ)
5.ショパン:ノクターン 変ロ長調 作品9-1
6.ショパン:即興曲 第1番 変イ長調 作品29
 (連弾)
7.ブラームス:ハンガリー舞曲 第5番 嬰へ短調
8.ブラームス:ハンガリー舞曲 第6番 変二長調
                  (2007年8月19日 八王子いちょうホール)


前回記事から報告しているデュオ・グレースのコンサートについてです。
例によって、個々の曲の感想を記しておきましょう。

今回もスタートはモーツァルトの“2台ピアノのためのソナタ”でしたが、前回のコンサートでは開演に間に合わず、会場内をロビーのテレビで映していたものを途中から観戦した曲目であります。

前回は「あれ、おとなしい」というのが感想・・・記録にそう書いてある。。。(^^;)

終演後の多佳子さんもそう思ってらっしゃったフシがありましたが、この点今回は俄然良かったですね。(^^)/
テンポは速からず、遅からずで適切だったし・・・。


生で聴いたということを差し引いても、弱音から強音までのダイナミクスの幅が飛躍的に大きくなったことと、表現の思い切りがよくなった・・・裏を返せば2人で演奏しているときにお互いの持ち味を思いっきり表現しても、音楽的に転覆しなくなった(しないことが判った?)ことにより、推進力、生気といったものが格段に前面に出てきておふたりが楽しんでいるさまが音としても聴き手に伝わってくるようになっていたと思います。

掛け合いのときの音色の表情付け、それぞれの奏者が2つの音を合いの手で入れるだけのところでも「思わせぶり」のニュアンスがびみょ~に違う・・・こういったところを発見する度にニヤリとしてしまいますよね。(^^;)
おふたりもここはキメの聴かせどころだと心得て、最高にコケティッシュな彩りを添えてくれました。

今回はっきり感じたんですが、この曲は1stピアノが思いっきり華やかに魅せる役で、2ndピアノは何か先生ぶった役回りであるように思います。
初演の経緯に鑑みれば、モーツァルトもそういうシチュエーションを前提として作曲しているようですが、多佳子さん理香りんさんにあってはどっちが主導権を取るということでもなく、絶妙の力関係で演奏を展開されていたと思いますね。

ただおふたりであるならば、まだまだ練り上げられるようにも思います。
何度聴いても爽快になれる曲なので、長く弾き続けていって欲しい曲であります。


続いては、おふたりのショパンのソロ。
売り物の「ショパンがちんこ対決」とのコメントがありましたが・・・なにも対決しなくとも。(^^;)
まずは、里香りんさんのソロですが、前回はもっちりしたタッチによる堅実な演奏ぶりが印象に残っていたのですが、今回は選曲のせいもあるんでしょうか・・・多少印象が変わりました。

マズルカにおける思い切った表現には、もちろんニュアンスの差はありますが幾分「高橋多佳子化」したのではないかと思わせるものがありました。
旋律の単音を念を込めたように持続する集中力には、聞いてるほうも思わず息を呑むところがあり理香りんさんの真骨頂を見たような気がしましたね。
作品59-2も弾いてほしかったなぁ~。
あの3曲がセットだと思うし、実は2がいちばん好きだったりするモンで・・・。(^^;)

多佳子さんのソロは、ノクターン第1番。
このところ何度か聴いている曲ですが、この曲の内包する微熱・火照りという要素が最も感じられた演奏となりました。
先に残念だといった音色のくぐもりが、ここではいい方に作用したのかもしれません。

考えすぎかもしれませんが、多佳子さんの演奏に清水和音さんとの共演の跡が感じられるような気がしてなりませんでした。
以前このバックステージでも特集した清水さんの男気あふれるノクターン集・・・多佳子さんの演奏が男化したのではもちろんありませんが、あの焦燥感というか、そこまで行かないけど火照り感に通じるものがあるように思ったのであります。
多佳子さんが清水さんの演奏に共感を寄せているという情報を持っているから、そのように思い込んでしまったのかもしれませんけど・・・雰囲気的にやはり・・・心なしかそう感じます。

“即興曲第1番”はいつものようにかわいくて、愛おしくてしょうがないという弾きぶりでした。
とくに曲の終わりの和音の素振りについては、とっても名残惜しそうな感じが印象的。多佳子さんにとってお気に入りの曲なんだろうなということが伺い知れます。
そしてこの曲はノクターンとは逆に、もっと後方の座席でハッキリした音で聴きたかったと最も強く思った曲・・・であります。


前半最後はブラームスのハンガリー舞曲の連弾。前回聞いたときにはここはドビュッシーの“小組曲”でしたね。
しかし“ハンガリー舞曲第5番”って、激しく久しぶりに聴いた超有名曲でした。
5番のプリモが多佳子さん、6番では理香りんさんとここでも分業制でいろんな意味で楽しめます。
この曲でも旋律のダイナミクスの振幅を非常に大きく取っていることが、デュオの技術の深化を感じさせました。そのほかにもいろんな意味でデュオ・グレースの可能性、このふたりによる表現の可能性を探るうえではとても興味深く有意義な選曲であったと思います。


ここで15分間の休憩です。

第2部へ続く!(^^)/

八王子いちょうホール Duo Graceコンサート (その1)

2007年08月20日 17時57分44秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 宮谷理香 Duo Grace コンサート
                  (演奏:デュオ・グレース)
《第1部》
 (2台ピアノ)
1.モーツァルト:2台のピアノのためのソナタ 二長調 K448
 (宮谷さんソロ)
2.ショパン:マズルカ 作品59-1
3.ショパン:マズルカ 作品59-3
4.ショパン:「黒鍵」のエチュード 作品10-5
 (高橋さんソロ)
5.ショパン:ノクターン 変ロ長調 作品9-1
6.ショパン:即興曲 第1番 変イ長調 作品29
 (連弾)
7.ブラームス:ハンガリー舞曲 第5番 嬰へ短調
8.ブラームス:ハンガリー舞曲 第6番 変二長調

        ・・・休憩・・・

《第2部》
 (2台ピアノ)
9.アレンスキー:2台ピアノのための組曲 第1番 作品15
10.ラフマニノフ:2台ピアノのための組曲 第2番 作品17

《アンコール》
※チャイコフスキー:花のワルツ ~「くるみ割り人形」より
                  (2007年8月19日 八王子いちょうホール)

デュオ・グレースのコンサートを聴くのはデビュー公演以来であります。
高橋多佳子さん、宮谷理香さんによるこのユニットは、結成以来何度かの共演を経た今日、期待通りに全般的に長足の進歩を遂げておられることが確認できて嬉しく思いました。

デビュー・コンサートでは2人で合わせて弾くことの楽しみ、合奏したらこんなに楽しかったという音楽する喜び・発見が全身からあふれ出ていて、なによりもその新鮮味が好ましかったように思います。
聴く側の当方も、弾かれているお2人の美質の違いを見出して楽しませていただいた・・・そんな公演だったように記憶しています。

なんといっても、このバックステージに記録が録ってある訳でそのときの感覚をちゃんと思い出すことが出来るんですよねぇ~。。。
あらためて日記ってすごいなぁ~と思ったりして・・・。(^^;)


とはいいながら、こう毎日ディスクのことを書いていると何を書いたか・・・書いたことを忘れちゃったディスクもあるんですけどね。


そして今回公演では、おふたりの美質をもちろん尊重してるんでしょうけど、合わせるところはキチンと合わせて・・・というだけにとどまらず、2人で表現したら音楽の幅がどれほどまでに広がるのかを追いかける観点からも楽しむことが出来た、と感じています。

そんなことは、デュオ・ユニットであれば常にクリアし続けていくべき課題であり、当たり前だといわれるかもしれませんが、まずは順調な成長を遂げていらっしゃる姿をちゃんと確認できたことだけでも、応援しているものとしては嬉しく思うのであります。


おふたりには関係ない話ですが、いちょうホールは確かに音響面でも素晴らしいホールだと実感したものの、当日の座席がF列(前から6列目)であり、このホールの造りからすれば「もう少し後だったら良かったな・・・」というのが悔いといえば悔いですね。
多佳子さんの“瞬殺美音”のようなスタインウエイのスコーンと抜ける音を芯に持つピアノの直接音をもう少しはっきり聞けるようにするためには・・・2ndピアノは響板を外しますからあまり席が前過ぎると1stピアノより更にくぐもった音に聴こえてしまうように思います。
ピアノの音色は録音されたものをいつも楽しんでいる耳には、殆どがキチンと芯が聴こえるロケーションで収録されているものを聴いているために、余計にそう思えてしまうのかもしれません。
ただ、コンサート会場にはゼッタイに録音では拾いきれない音というのが確かにあって、その成分の多くは個々のピアニストが楽器から直接探り出す直接音に含まれているものだと思うのです。

私が、紀尾井ホールに何度か訪れたうちでそれを聴き取るベストの座席位置は2階席の1番前であると判ったように、いちょうホールではどこらへんがいいか確かめないといけないなと感じました。
今の感じだと「12~15列目ぐらいがいいんじゃないかなぁ~」と想像していますけどね。

当日の開演前のステージ・・・お客さんがほとんどいないのは会場直後だからですよぉ・・・。(^^;)
                  


ところで楽曲説明を含めたおふたりのMCも楽しく、こなれてきましたね。
アレンスキーやラフマニノフの解釈の一端を説明いただいたことは本当に興味深いものがありました。
一流の演奏家が楽曲をどのように捉えているか、曲のイメージをどう解釈して演奏に臨んでいるかという内容であれば、おふたりで楽しく“感覚的な会話”が続いてもとても嬉しく聴いていられるものです。

かねてより多佳子さんは、演奏家がコンサートに来て下さったお客様に一言も口をきかないような進行に疑問を呈されていました。
気さくな話しかけや、今回のようなトークを織り交ぜながら進行する方式を模索されて来ているのを私は知っています。
私にはその気持ちはよくわかるし、志にも心から共感しています。

ただ、今回の進行に関してもデビュー時のようなことはないものの、うるさ型の男性の聴き手にとっては、2台ピアノをソロに切り替える幕間の自己紹介のしかたにはもう少し工夫の余地があると思わされるものがありました。
ドレスの話題も楽曲紹介も、おふたりの会話は言いたいことがハッキリしていて楽しく素敵です。
でも最初の自己紹介の挨拶中などで話の目的か伝わりにくい会話・投げかけをされると、日頃家庭で家人から行き着く先のない話を聞かされてしぶしぶ相槌を打っている男性にとっては疲れちゃうものがあるのです。
最初の幕間・・・ここのMCだけは、もそっと超一流ピアニストらしい振る舞いをしていただけるとさらにカッコいいかな・・・と。

演奏内容に関係のない、余計なお世話ですいませんけどね・・・。(^^;)


さて愚痴だ注文だという話は今回限りにして、いかに楽しませていただいたかを次回以降ご報告することに致しましょう。(^^)/

やはり、グールドの影が・・・

2007年08月19日 23時59分53秒 | ピアノ関連
★J.S.バッハ:ゴルトベルグ変奏曲
                  (演奏:アンドリュー・ランゲル)
1.ゴルトベルグ変奏曲 BWV988
2.トッカータ 嬰ヘ短調 BWV910
3.3声のリチェルカーレ
4.6声のリチェルカーレ
                  (1993年録音)

やはりランゲルのゴルトベルク変奏曲については、一言しておかねばならないと思いました。

シューベルトのD.960の変ロ長調ソナタの演奏で出会い、このピアニストの出世作がこのゴルドベルクであるということを知り製造元のレーベルまで追い求めて入手したディスクですから・・・。(^^;)

結論をまず先に言えば、ゴルドベルク変奏曲に関してはどうしてもグールドを抜きにこの演奏を語れないという感想を持ちました。
そして、想定外の感激として“3声のリチェルカーレ”の美しさには正に息を呑むものがありました。
感覚的にではありますが、「これを越える美しさはそうはない」とはっきり思ったものです。
この曲1曲で、このディスクを入手した甲斐はあった・・・執念は報われたと思っています。(^^;)


さて内容に関してなのですが、まずは、かねてから気になっていた演奏姿ですがこのジャケットに細工がしてないという前提とすれば、やはり相当に椅子の位置は低いと言えるのではないでしょうか?

アワダジン・プラットというピアニストの言ですが、演奏に際してグールドの影響で椅子を低く(相対的にピアノの鍵盤の位置を高く)したところ手首の遣いかたの関係で思ったとおりの音色が出せるようになったと述べています。
当たらずとも遠からずのことが、このランゲルにも当てはまるような気がします。

そして、ここでもベートーヴェンの作品109~作品111のディスクについての記事でも指摘したように、ランゲルは解釈に関して「音色を至上と考えている」ように思われます。

リヒテルが、グールドの音色が多彩であることを愛でているとおり、グールドは恐ろしく陶酔した演奏を繰り広げている中でも、要するに我を忘れていても美しい音色を出すことを止めなかった・・・たとえその意識があったにせよ、無意識のうちで成就されていたにせよ、低い椅子に腰掛けた体勢ならではの奏法によって煌くような音色を手に入れていたと考えたとき、ランゲル等のとっている手法は物理的にも彼の主義主張を裏打ちするものではないか・・・と考えられるのです。

そして、そのような体勢での演奏から繰り広げられる音色の饗宴は、善しにつけ悪しきにつけ音色を主人公とする解釈を求めるようになる・・・。
ベートーヴェンで私が気になったのは正にこの点であり、感覚的に一瞬の快感を求めるのでなければ・・・ベートーヴェンに楽聖としてのありがたみを感じようとするのであれば、あまりランゲルの演奏に期待することはできないと感じたとおりのことが、このバッハにも感じられるのです。

ここにあるのは、多彩な音色を「陶酔のうちに」ではなく極めて明晰かつクレバーに並べて見せたゴルドベルク変奏曲であります。

そういえば似たようなクレバー路線の解釈を展開した盤としてアンジェラ・ヒューイットがこの後、斯界を席巻したディスクをこしらえていましたよね。
指の独立性とか楽曲把握の立体性の点はヒューイットのほうが顕著だし、その基準でいえば秀逸ですけれど、音色を意識しそれを際立たせるような解釈をしたという点から鑑みれば、ランゲルの演奏のほうが徹底していると思います。

この点を評価される方には、極めて聞いていて気持ちのいいディスクだと思いますし、そうであるならばこのゴルドベルク盤がこのピアニストの代表盤だと主張されることもむべなるかなと思えます。


私は必ずしもペライアが言っているように、この変奏曲の構造や変奏の性格に照らして「キリストの生涯と復活」を主体的に感じ取るべきだという説を採らないですけど、ランゲルほどキリスト教というか精神性から離れていてもいいとは思いません。

やはり神の国を表すような変奏があることも事実だし、最後の変奏のクォドリベットはやはり人間界の象徴のようにひとつ鄙びた田舎のイメージがあってよいと思っています。

こう考えてくると、時折恍惚として人を痺れさせる音を聞かせてくれるとはいえこのランゲル盤は、感覚的に素晴らしいところを数多く備えつつも、私にはいまいちピンとこない盤・・・ということになってしまいます。
最初、気づかなかったその曲の解釈世界が、突然見えるようになるということもかつてありましたから、この演奏についてもある日突然何かが閃いて大好きになるかもしれません。

ただ本日ただいまの現在では、毎度言っているように私にレセプターがない関係上、その演奏家の弾いているものの本質がなんだかわからずにいる・・・自分にとってはそんな位置づけにせざるをえないディスクであります。


繰り返し申し上げますが、このディスクを素晴らしいと仰るかたが何をもって素晴らしいと考えておられるだろうかは、ある程度理解しているつもりです。
ただ、ゴルドベルク変奏曲でその要素が何にもまして重要か・・・そう思ったときに、自分の考えでは「いささかちがうのではないか?」と思ってしまう演奏であることは正直にお伝えしておかなければならないと思った次第です。





※明日から出張です。
  いつもは先日付で投稿していますが、書き溜めた記事がないため、後刻出張の日付分は遡及して投稿することにしたいと思います。

揺れる想い~負けないで

2007年08月18日 23時17分50秒 | J-POP
★Golden Best   15th Anniversary
                  (演奏:ZARD)
《DISC1》
1.Good-bye My Loneliness
2.眠れない夜を抱いて
3.IN MY ARMS TONIGHT
4.負けないで
5.君がいない
6.揺れる想い
7.もう少しあと少し・・・
8.きっと忘れない
9.この愛に泳ぎ疲れても
10.Oh my love
11.こんなにそばに居るのに
12.あなたを感じていたい
13.愛が見えない
14.サヨナラは今もこの胸に居ます

《DISC2》
1.マイ フレンド
2.心を開いて
3.Today is another day
4.Don’t you see!
5.永遠
6.My Baby Grand ~ ぬくもりが恋しくて
7.運命のルーレット廻して
8.Get U’re Dream
9.もっと近くで君の横顔見ていたい
10.今日はゆっくり話そう
11.星のかがやきよ
12.夏を待つセイル(帆)のように
13.ハートに火をつけて


これはカミさん所有のディスクです。
私の音楽の嗜好からすると、個人的にはあまりお世話になったディスクであり楽曲ではありません。
今どき採り上げるのも、少しく時宜を逸しているかもしれません。

ただ、今回夏休みに家族と一緒に過ごした時間にカーステレオで聴いてみて、如何に多くの楽曲を耳にしたことがあるかに改めて驚き、いまさらながら大変なグループだったんだと感じ入ったためにここにご紹介した次第です。


あまりなじみが無いとはい言ったものの、“Good-bye My Loneliness”に取引先の少し年下の兄ちゃんが狂喜していたこと、私自身思い入れがある“揺れる想い”、そして国民的に人口に膾炙している“負けないで”など、自分(カミさんはじめ私の家族)にも少なからぬ「歌は世につれ、世は歌につれ」の体験を思い起こさせてくれるグループだったことを考えれば、こういうバックステージの発言の機会を持つものとしてオマージュを捧げることは、おかしいことではないでしょうしね。(^^;)
きっとこれから先もこのグループの歌を聴くたびに、何かしら想うところがあるだろうと感じられるディスクであります。
                  

ただ、もはや私にこれ以上いろいろ言うべきことはありません。

ヴォーカリスト坂井泉水さんの訃報に接して、ただただご冥福をお祈りするばかりです。

合掌

忘れがたい109

2007年08月17日 00時13分09秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:後期ピアノソナタ集 Vol.2
                  (演奏:アンドリュー・ランゲル)
1.ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 作品109
2.ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
3.ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 作品111
                  (1991年録音)

“109”の記事と言っても渋谷とかにあるデパートじゃないですよ・・・とは、ノッケからサブイですね。(>_<)

先日シューベルトのD960を記事にしたランゲルの、ずいぶん以前の録音であります。
良い悪いは別にして、ランゲルの演奏のあり方に非常な興味を覚えた私は、彼のCDを漁ったのですが通常の販売ルートではなかなか入手できずにいました。

でも、彼の演奏のうちどうしてもバッハの“ゴルドベルグ変奏曲”だけでも聴いてみたいと思って、とうとう米国の発売元であるドリアン・レコードのホームページにアクセスして直接注文するという方法で入手したんです。(^^;)

というわけで本当なら“ゴルドベルク変奏曲”の記事になるはずだったのですが、一緒に購入したこちらのディスクを先にご紹介することにしました。
このほかにも、実はバッハの“パルティータ集”のディスクも買っちゃったんですけどね・・・。

さて、そもそも“ゴルドベルク”を発注するに至った経緯は以前の記事で触れたとおりランゲルの演奏に“グールドのエコー”を聴いたからに他なりません。
そして、これらのディスクのジャケットで演奏風景を写した写真を見る限り、はっきりと断言できませんが気づいたことがあります。

演奏中の椅子が低い!

これすらもグールドの影響を受けているのではないか・・・そう思わずにいられませんでした。


さて、この演奏について一言申し上げます。
まず、他人にベートーヴェンの後期ソナタのディスクを紹介してくれと言われた場合、私はたぶん推しません。(^^;)

きわめて独特な雰囲気を持った演奏で、個人的にはキライではありません。
でも、ベートーヴェンが聴いたらどう思うでしょうか? そんな演奏なのです。

と言ってもわかんないでしょうからさらに詳しく書きますが、ランゲルはやはりここでも音色に拘っています。

楽曲を解釈する時に何を最優先すべきであるのか・・・楽譜を“譜読み”して作曲家の意図を感じ取り、それを音として再構築するのが演奏家の仕事であるとしたならば、彼には通常のピアニストとは違った思考回路、あるいは物の見方のフィルターを悪い意味で持っているといわざるをえないと感じさせる局面があります。

私に言わせれば、その元凶が音色第一主義とも言うべき彼のスタンスなのです。

普遍的なピアニストが考えるだろう解釈の順番は、楽譜から作曲家あるいは楽曲の意図するものを汲み取ることに始まり、それを音化したときのイメージを固め、それをフィジカルに実現するべく練習をして練り上げていく・・・いわゆる“さらう”という行為・・・のではなかろうかと思量するのであります。

ところが、このランゲルにあっては、きっと楽譜を“譜読み”する際に、その演奏が最も映える“音色”は何かを吟味し、前後の脈絡などを検討してその音色を生かすためには楽曲をどのようなものとして捉えなければならないかを、逆の手順で規定していくという手順が採られているに相違ないと思わされるものがあるのです。

その結果これらの演奏がどのような佇まいになったかというと、まずテンポが遅い。
思索的であるのはアファナシエフと同様なのですが、アファナシエフが明晰な音色で楽曲を解釈しながら鈍重でただならぬ気配を演出するのに対して、ランゲルは旋律線こそ注意深く印象的な音色で隈どりするものの、バスや内声部については極めてフレキシブルに対応しています。

そして例えば、「このアルペジオのバラしたフレーズを如何に精妙に響かせるか?」という課題を達成するために曲の構成を逆算しているとか、彼にとってのポイントとなる部分を強調するためのお膳立てを曲中に確信犯的かつ積極的に展開して行っているのです。

もちろん、そのような行きかたが悪いわけではなく、ランゲルはその方針によって独自性を勝ち得ているわけだし、試みとしては成功していると言えるのでしょう。

ただ私には、忘れがたい印象を残しこそすれ“本流”を感じさせるものではない・・・という理由で、紹介してほしいと依頼された場合の上位では推薦しないと申し上げているまでであります。

5種も10種も聴いていると仰る方が、「これは?」という印象に残るディスクがあれば何を挙げるかと問われれば、「そ~だねぇ~(^^;)」と言いながら口にするかもしれない・・・そんな位置づけのディスクです・・・と言っておきましょうかネ!
(^^)/


深い精神性や音楽性を求めるのではなく、マジシャンの鮮やかな“一瞬の”手並みを感覚的に味わいたいということならば、それらしい詩的な雰囲気をきちんと漂わせることにも抜かりはないこの演奏こそが安心して推せるものだということになりましょう。

嗚呼、演奏有各種亦不楽也。
いろんな演奏があり、いろんな楽しみ方があるものです。(^^;)