SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

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渡辺 玲子 : カルメン・ファンタジー

2015年06月08日 00時01分49秒 | 器楽・室内楽関連
これも本当によく聴いたSACD。



渡辺玲子さんというヴァイオリニストはこのディスクを入手するまで存じ上げなかったのですが、この作品、とりわけクララ・シューマンの「3つのロマンス(作品22)」とシマノフスキの名作「神話(作品30)」には完全に魅了されました。

ここでの「神話」は、高橋多佳子さんの「ショパン:バラ4」のように、私にとってこの楽曲演奏のリファレンスとなったと言って差し支えありません。

よく決定盤として語られるDGのダンチョフスカ/ツィメルマン盤に惹きつけられてはいたものの、録音のせいなのかどことなくなんかしらいいたい・・・と思っていたところに、デッカのイダ・ヘンデル/アシュケナージ盤を耳にしたのですが、(大御所の演奏とあってか、私自身以前ここで「地に足がついた演奏」と評しているようですが)正直言えば受け付けられず・・・
ようやく「これだ!」と思える演奏がこれだった、というわけです。

この演奏に出会った後、バイバ&ラウマのスクリデ姉妹盤、パイダッシ嬢/ピアニストの名前の読み方がわからない盤など、きわめて楽しめて聴けちゃうようになりました。
反面、諏訪内盤・神尾盤のチャイコン・ウィナー組の演奏には(ことこの曲に関しては)ちょっと私の期待するポイントと違うところに奏者の意識がフォーカスしたものかもしれないと思わされています。

I・ファウスト、イブラギモヴァ・・・といった旬のアーティストにも録音があるので、機会があったら聴きたいな・・・と書いてきて、ソリストが女性ばかりであることにちょっと驚いていたりして。(^^;)

ともあれ、「神話」という名曲にすっかりなじむことができたことがまずもっての収穫でした。



ところで、ヴァイオリニストを知らんかったのになぜにこのディスクを入手したのか・・・
それは、伴奏者に江口玲さんのクレジットがあったからであります。

いずれこの欄で書くかもしれませんが、江口玲という伴奏者の凄さを知ったのは、加藤知子さんのブラームスのヴァイオリン・ソナタ集でした。
実は、それ以前にも同じく加藤さんのエルガーの楽曲集で耳にはしていたのですが・・・

前橋汀子さんのフランク・ブラームス第三番のソナタや、加藤さんのシューマンのソナタ集を通じ、どれもハズレがない・・・
というわけで、「神話」を目当てに渡辺玲子さんのSACDを手に取ったのであります。
ただでさえ難しそうなピアノパートにヴァイオリニストと相談して音を足している・・・なんざぁ、出ている音にノックアウトされた聴衆のひとりとしては「カッコよすぎ」以外に言葉が見つかりません。

もちろん彼のソロの録音にも興味があり、ショパンとリストの曲集を聴きました。
特別の由来を持つピアノを使用する・・・といった興味もさることながら、彼自身、伴奏ではそれほど感じさせないのですが、ソロではかなり自己主張の強い解釈をしている・・・


先の「カッコよすぎ」にプラスして自分のセンスにかくも正直である潔さもウケるのか、江口氏の女性ヴァイオリニストとの共演盤の多さにはまこと驚かされますね。

チー=ユンに始まり先の錚々たる面々に加え、竹澤恭子、奥村愛、マイヤース、小林美恵、木嶋真優、南紫音・・・

まさにベテランから新進までオリエンタルな女性ヴァイオリニスト総ナメといった趣で、絶大な信頼を得ていらっしゃりご同慶の極みと言うほかありません。

と思って確認のためHPをあらためて見に行ったら・・・
今年の新譜として、ディスコグラフィーにはさらにまた川久保賜紀さんの名前が追加されてました。
ホント同じオトコとして嫉妬しちゃうぐらいにスゴイですね。



ひとつだけ、このディスクで気になっていることは・・・
どんな大きさのモニター・スピーカーで制作されたんだろうということ。

音質にも何の不満もありませんが、以前遣っていたブックシェルフ型の小型スピーカー(ヤマハ:NS1)で聴けた濃密なヴァイオリンとピアノの絡み(特に第2曲「ナルシス」のクライマックスのところなど)が不必要にさわやかになってしまった気がします。

原因としては、ごく小さなモニターで点音源に近いミックスがされたからじゃなかろうかなどと推測しています。
録音・再生いずれの機材やセッティングの綾で当然にこういったことは起こりうると分かっているとはいえ、ヘッドホン、小型スピーカーで感じられるエクスタシーが薄まっちゃったと思うとちょいと残念な気もする・・・
もとより、Electra1028Beにしたことで得られたメリットはさらにでかいわけですから、ぶつぶつ言っていても仕方ないのはわかっていますが(やっぱり言わずにいられない)。。。


そうはいってもこのディスク・・・
Electra1028Beを購入するべきか決めようと、ショップに試聴に行ったときにかけたもののうちのひとつ。

「アルトゥーザの泉」での最初のさざなみのようなピアノと、そこに高音で絡んでくるヴァイオリン冒頭にはゾクゾクさせられました。
そこを聴いただけで「買いたい」感はほぼマックスになりましたね。

じつはそれ以前に、ソナス・ファベールのクレモナⅡを候補としたときにも試聴したのですが、そのときはなぜかピンときませんでした。。
渡辺さんの使用楽器はクレモナの工房で制作されたもの・・・なのに不思議なものですよね。



ところで私は冒頭、SACDであることをことさらに強調して書きましたが、ネットショップでは、私が買った時期を境に、SACDバージョンは在庫切れになってSIM-CDになってしまっているようです。
個人的にSACDはとてもありがたい存在と崇めている私ですが、SIM-CDというフォーマットには「所詮CDなんでしょ!?」というエクスキューズを感じています。

SACDやHDCDは器だけじゃなく仕組みが違うから・・・
まぁ・・・
1960年台とかの伝説的演奏家による歴史的名盤の復刻で、以前のCDよりはずっと音がいいだけ(今の水準では物足りない)のSACDがいっぱい出てるのはもちろん、新録であってもあんまり音がいいと思えないSACDもあるし、演奏や録音のロケーションのよさと相俟ってCDとはいえ驚くべき音質と感じさせる盤いずれもがありますから、そこだけに拘泥してものごと考えるのは得策ではないのでありましょう。

ただ・・・
HYPERIONのような高品位なハイレゾ音源をネット配信のみにして、SACDの製造をしない(CDのみしかディストリビューターにおろさない)というレーベルのスタンスには失望しています。
パッケージメディアをこよなく愛する好楽家はどこの国にも決して少なくないはずですから。。。

アムランやハフ、レイトン&ポリフォニーのCDは、SACDにしてもらえれば音質にずいぶん差があるに相違ない・・・
そう思わずにはいられないだけに残念です。
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Oslo Kammerkor : Strid

2015年06月07日 18時08分00秒 | 声楽・宗教曲関連
これが2014年にもっとも私が繰り返し聴いたであろうSACDです。


それまでの私の嗜好からすると、まったく射程外のこのディスク・・・
オスロ室内合唱団にによる「戦い~ノルウェーの伝承曲」と題された2Lレーベルの作品であります。

2014年2月15日に名古屋国際会議場で行われた「オーディオフェスタ・イン・ナゴヤ」で、たしかK先生とおっしゃるオーディオ評論家のセンセイが、ウィーン・アコースティックス社のスピーカーでハイレゾのデモをなさっていたときにかかったのがきっかけで手に入れました。

ノーススターデザイン社のDACの説明だったと思うのですが、私は機材ではなく音源が気になって仕方がなかった・・・。


入手に当たってたよりになる情報は「e-onkyo music」のサイトからファイルを入手されたということだけでした。
なにしろセンセイのご説明では、デモ曲の途中にラフマニノフの合唱曲が織り込まれていたのに「クラシックらしくない」なんてコメントが挟まっていたもので・・・私的には混乱してしまったのです。

いや、もちろん、ハードや使いこなしについてのプレゼンはブースの担当者と示し合わせながらでしたから事実としてきわめて正確だったのでありましょう。
ただ、楽曲へのコメントについては「?」となってしまった、そういうことです。


帰ってからe-onkyoのサンプル音源を片っ端から聴き始めたのですが、当時は2Lのことなんて何も知らず、「BISあたりがクサいのでは?」とあたりを付けちゃったためにずいぶん遠回りをしてしまいました。
なにしろ2Lのサンプル音源は、同サイトのレーベル一覧の一番上にあるのに・・・
玄関にある「お宝」を、それと知らず、家じゅう探し回る探検家(空き巣とはいいたくない)になってしまったわけです。


それでも、なんとかこのディスクを発見し(この根気をほかのことに生かせればと心底思うのですが)、3月1日にはSACDをオンラインで注文するに至りました。
そして・・・
心底、眼を見開かせられた、いや、耳を聴き開かせられたというわけです。


まず、録音の素晴らしさ。
密閉型のブックシェルフで聴いた(その後ウォークマンで聴いても)一聴でそれと分かる空間の広さ、透明感、どれだけホメても褒めたりないと感じたものです。
のちのち2Lレーベルの何たるかを知るにつけ「なるべくしてなった音」と得心が行ったものですが、ウソっぽいほどにいい音で鳴る。

もうひとつ、奏楽の凄さ。
上記の録音に支えられ・・・というか、録音のよさに負けず劣らず、いつ聴いても飽きさせないうえに惹きこまれてしまう素晴らしい歌唱・合唱です。

もちろん伝承曲とクラシックの合唱曲をミックスアップするというアイディアそしてアレンジの妙味も秀逸なんでしょう。
ここらへんはこの種のディスクを他に持ってないのではっきり言えませんが。。。

いまに至るまで、聴くたびに何らかの感銘を与えてくれる、音盤としては異例なほどコスパ最高の買い物となりました。



いまにして思えば・・・
この「オーディオフェスタに行くべ」とふと思い立ち、このディスクを手に入れたことが、小型(ブックシェルフ型)スピーカーの低音の限界を悟らせ、Electra1028Beを手に入れる決定的な伏線となったようにも思います。


それまでにもチェロ・ソナタを近接録音したディスク(たとえばECMレーベルのペレーニとシフのベートーヴェン)を聴いたりすると、なんか低音域がごまかされてるような気がしないでもなかったのですが・・・
「思いっきり低い男声は、実はスピーカーから聴こえていないのではないか」ととうとう気づいてしまいました。

トールボーイ・スピーカーであるSonus Faber のコンチェルト・グランドピアノを使っていたときには、ちゃんと低い音も出てると思っていた・・・これもホントはドローンコーンによる幻だったかもしれない・・・ので、しぜん「やはりエンクロージャー(容積)のでっかいスピーカーが欲しい!」となっちゃったわけです。

その後さらに詳しく2Lレーベルのことを知り、ネット上の同好の志による各種情報などからも、同じようなコンセプトのレーベルの手になるSACDが手許に次第に増えてゆきます。

そして(仕事外における)根気のよさがまたしても発揮され、出物を待つ日々が過ぎてゆき、とうとう幸運の女神の前髪をガッと摑んだ結果、とにもかくにもElectra1028Beが今ここにある。。。


前回の投稿同様、スピーカーのことばかり書いていてディスクについてのコメントはほとんどないですが、私が今に至るまでに欠かせなかったディスク・・・
制作者にしてみればまったく与り知らないことでしょうが、そんなインパクトを買った人に与えうる傑作であるに違いありません。
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FABRIZIO CHIOBETTA : SHUBERT Piano Sonata D960 / Moments musicaux

2015年06月06日 23時59分09秒 | ピアノ関連
尾崎亜美さんのこしらえた「オリビアを聴きながら」という佳曲があります。



♪~ お気に入りの唄 ひとり聴いてみるの オリビアは寂しい心 慰めてくれるから



と始まるのはご承知かと思いますが、これがオリビア・ニュートン=ジョンのどの曲なのか・・・
私にとってずっと謎なのであります。

そよ風の誘惑、愛の告白、ジョリーン・・・ちょっと違う。
ザナドゥ、フィジカル、ムーヴ・オン・ミーなどに至っては何をかいわんや・・・でありましょう。

マジック、サドゥンリーなんてあたりは彼女の楽曲のうちでも私も大好きなものだし、それらしいといえなくもありませんが、やはり色恋沙汰の艶っぽさがやや色濃い。。。(シャレじゃありません)



本題に移りますが、私にとって「ひとりで寂しい心を癒すために聴くお気に入りの楽曲」としてもっともしっくりくるのはシューベルトの手になる一部の作品であります。

古今東西、数多の作曲家が夥しい数の曲を産み出しているのに簡単に断言していいのかと思われる向きもありましょうが、これが50年生きてきた経験に照らし確信をもって発言できる数少ない事実のひとつであることは疑いありません。

故アリシア・デ・ラローチャも、レコード芸術だかの対談で、最晩年には「自分の楽しみのためにシューベルトを弾く」と述べていたと記憶しますが、おおいに共感を覚えます。


裏を返せば、体調がすぐれないときに甘いものを食べるとホッとするように、シューベルトが身に沁みるときには心身病んでいるときにほかならず、幻想ソナタ、変ロ長調ソナタ、楽興の時、八重奏曲、弦楽四重奏曲の第15番、弦楽五重奏曲なんてところに無意識に手が伸びたりすると、今自分がかなりキツい環境にあるんだと自覚するものです。
さらに、これらにどっぷりハマってしまった事態を客観的に観察できちゃおうものなら、「こりゃかなり重症だ」と自戒することになります。

これがドビュッシーあたりであれば、まだ、束縛から逃れようと無意識にもがくだけの余力ありと思えるのですが・・・
シューベルトはいけません。





同曲違演のディスクでもっとも多く所有しているのは、たぶんこの変ロ長調ソナタ。
こう書いてくると、いかに私が長き道を重荷を負って歩き続けてきたか・・・と思わずにいられません。
しかし、ピアノ好きにとってはこの事実はそう異論をはさむ余地はないのではないでしょうか?


はじめて聴いたのはポリーニ。
その後、田部、トゥルーデリース・レオンハルト、ピリス(カスカヴィル盤)、コヴァセヴィチ、カッサール、ペドローニなどお気に入りのディスクが次々と現れ、録音技術の進化とも相まって、いろんな観点から疲れ果てた私を楽しませ、癒し、今に導いてくれました。
(正しく導いてくれたのか、歪んだ道に陥れてくれたのかは自分で判断できませんが。)

たまにリヒテル、アファナシエフ、ラジッチ、キーシンなんてところの演奏に出遭い、よくもわるくも(こう書いて私の意向に沿った演奏であったとは思われないでしょうが)いろんな表現の余地があることを知ることもありましたし、ジャケットと演奏は覚えていても奏者の名前が出てこない・・・なんてディスクもいくつもある。。。



そして今・・・
シューベルトの変ロ長調ソナタと楽興の時を収めたクラーヴェスのこのCDにとてもハマっています。
タイトルをアルファベットにしたのは、ピアニスト名の読み方がわからないから。

このディスクの宣伝には、ピアニストの師でもあるシューベルトの権威、バドゥラ・スコダの賛辞が述べられていました。
このお褒めの言葉は決して誇張ではありません。

バドゥラ・スコダの演奏は現代楽器・時代楽器を問わず何種も聴いていて、いくつかには深い感銘を受けました。
その彼が絶賛する・・・
最先端の録音技術で捉えた、まさに(旧くから連なる伝統を踏まえた)今の感覚のシューベルト。

きっと師スコダをして、このように弾きたいと思わせしめた演奏であることは想像に難くありません。


私の変ロ長調ソナタ、楽興の時の楽しみ方を踏まえたとき、Electra1028Beから最適の解として流れ出るのはChiobettaの奏楽・・・

直截の論評を加えずとも、これは(少なくとも今の私に)そう言い切らせるほどの感銘を与えたディスクです。
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叶夢

2015年06月06日 00時14分44秒 | オーディオ関連



久しぶりの投稿・・・
先回の投稿以来、これまでいろんな変化・トピックがありました。


このブログのテーマである音楽周りに関しては、以前はピアノを聴く比重が圧倒的だったのに、室内楽・声楽曲がそれに負けず劣らず増えました。

嗜好の変化の理由をつらつら考えるに・・・
録音フォーマットの進化により、弦楽器の織り成すハーモニーの妙味に目覚めちゃったことが大きいんじゃないかというのが自己分析の結果です。

ハイレゾ・・・という言葉もなにかと巷で騒がれるようになっていますね。
ただ、私はネットオーディオとかPCオーディオとかには手を出さず、未だにSACDなど高品位のパッケージメディアで「音楽」も「オトそのもの」も楽しんでいるのが現状。


振り返ってみれば、機材もちゃっかり夢を叶えつつあるな~と思います。
部屋の環境はお構いなしなので、決してすべて満たされたとはいわないけれど・・・
「求めよ、さらば与えられん」という命題は真だと十分信じるに足る変化を体現することができました。


アンプ・CDプレーヤーは、このブログで2007年に「スタイリッシュな」機材で欲しいと名前を挙げていたBow-TechnologiesのZZ-One、ZZ-Eightというコンビが揃いました。
HDCDを再生したなら、この右に出るプレーヤーはないと信じられます。

そしてEsotricのX-50wとマランツのDV-9500の2台はいずれも入院・修理を経ましたが健在で、それぞれの得意分野でゴキゲンな音楽を奏でてくれています。


そしてスピーカー・・・
2006年10月に「巡り会った」と邂逅と憧憬を記していたFocalのElectra1027Be・・・
その後継機であるElectra1028Be2が、10年近くの歳月を経て、ついに私の傍らにあって期待を上回る音色を響かせてくれる日が来ました。

最初に聴いたときからFocalの音のヌケのフィーリングは、私の感覚にとてもフィットしていると感じていました。
これまで使ってきた密閉型のスピーカーでも「突き抜けた音」とでもいうサウンドは経験していたつもりでしたが、この機種のそれはこれまで聴いたことがないほど「私好みに」違っていました。

バスレフ型やホーン型のスピーカーを試聴するたび違和感を覚え、自分が遣うことはないだろうと思っていましたが・・・生涯の伴侶となるだろう1台はそ結局バスレフ型、実に興味深いことです。
(同じFocalのバスレフでもChorusやAriaの音は、私の耳には合わない気がしたので、要はElectraのトールボーイが私に合っているということなのでしょう。)


というわけで・・・
これまでのブックシェルフ型スピーカーにはいっとき暇を出しますが、彼を鳴らしているときにはZZ-OneのEXPANDスイッチを入れっぱなしだったのに対し、トールボーイのFocalではまず入れることはありません。
やはり小型スピーカーの低音再生には限界があって、いわゆるサブソニックフィルターで高音・低音を補強しないと音全体に張りが失われてしまっていたのかもしれません。

Focalに代えて初めて、ZZ-Oneがカマボコ型の音質といわれる理由がわかりました。
ここまであまり感じることはなかったのですが、なるほどイコライザーがあると便利な場面があるかもしれない。。。

今後の課題はSACDとセッティングの追込み・・・でしょう。
ただしばらくはムリなので、機会をうかがうほかありません。
ZZ-EightもX-50wもすでにメーカーにピックアップレンズの在庫がないため、ここが故障したらおしまい・・・です。
そのとき困らないように、いろんなケースを想定して備えることにしています。



もちろん今でも、新譜・旧譜を問わず、相変わらず音楽鑑賞三昧の毎日・・・
これらの機材で聴き、こころに留まった1枚について再びここに記録していければいいなと思っています。
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さらば 多羅尾伴内・・・

2013年12月31日 23時28分18秒 | その他
大滝詠一さんの訃報に驚いた。

つい2・3日前に、会社から帰宅する電車の中で「さらばシベリア鉄道」が頭に浮かんで口ずさんだ・・・。
週末にギターでも「カナリア諸島にて」などと一緒に弾いてもみた・・・

さらばシベリア鉄道・・・
最後の転調が1度上だと思い込んでいて、こんなの弾けないとずっと思っていたが、2度上がほんとうで、なるほどこれなら弾けると30年越しに思ったところだった。

虫の知らせというのはよく言ったもので、今朝はすこぶる夢見が悪かったのだが、遠い近いを抜きにして、馴染みだった方が亡くなる際というのはえてしてこんなものだ。

太田裕美さんの「恋のハーフムーン」は、所謂歌謡曲と呼ばれる時代の音楽の中にあって、もっとも私のこころを「キュン」とさせる観点に置いて完成度の高いものだった。
歌手のコケティッシュな声もさることながら、編曲の妙によるところ大で、大滝さんというより、多羅尾伴内の仕事がより印象に残っている一例である。



平穏無事に過ごすことができ言うことのないゆく年ではあるが、身内にも不幸があり、あまり個人的には良い年だったと言えなかったと思う。

大滝さんの音楽に思いを馳せながらゆく年を見送り、新年は心機一転、よい年にしたいと願わずにはおられない。

心からご冥福をお祈りしたい。
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アラフィフの感慨(ウォーレン・ウィービーをはじめとする我が国で知られざるアーティスト讃)

2013年06月29日 21時44分09秒 | ROCK・POPS
★Airplay for rhe Planet
                  (演奏:ジェイ・グレイドン)
1. Walk The Wire
2. She Just Can't Make Up Her Mind
3. History
4. After The Love Has Gone
5. Holdin' On To Love
6. One Way Or Another
7. Roxann
8. Show Me The Magic
9. You're Not Alone
10. When You Look In My Eyes
11. I Do
                  (2002年作品)

スマホに替えた。
画面を開くのにパスワードだのがかかり、電話もメールもカメラも性能はめちゃくちゃ上がったが5倍ぐらい時間がかかるようになった。
インターネットを使えるのはやはり便利(傘が要るかがすぐわかる)だが、カメラのピクセル数もウソみたいに大きいので簡単に写メなどできやしない・・・

「若いもんは流石にキカイには強い」ともてはやされた時代はどこへやら・・・
最新の技術を手に入れて、なにゆえ嘆き節しか出ないのか?

いや、ガラ携でぜんぜん問題ないのに、スマホでないとできないこと、それもごくまれにしかしないことのために替えざるを得なかったのだから、望んで進化したのではない・・・
他に選択肢がなかったので、簡便さ、利便性を捨てざるを得なかったのであるから泣くのは当然かもしれぬ。

どうせ使うなら便利に楽しく使いたいものだ・・・といいながら、見通しが暗いことはきっと少なからぬ方にご理解いただけるのではないか?

とはいえ・・・
同じ時期に使い始めた娘は、文句を言わずに・・・どころか嬉々として指捌きも鮮やかであるから、ぶーたれている私に非があることに気づかない私ではさすがにない。
口惜しい時代である。

しかし・・・
今でも職場など年長者がいる場所では相変わらず重宝されている・・・のも事実なのだ。
彼らのように、ハナから現代のテクノロジーは使えるやつにやらせればいいと割り切ってしまえば、私も悩まなくていい。
戦うべきところではないところで戦って、心をすり減らしているさまをわかっていながら対処できずにいるのは・・・・・・

やめよう。
こういう思考スパイラルは非常に精神衛生上よろしくない。


思えば、最近自分の中でブームとなっているこのジェイ・グレイドンの作品・・・
いわゆる「商業ロック」が昇華した大傑作だと今ではなんの迷うもなく信じられるのだが、当時はこれを傑作と思っても、そうと認めてしまう自分を許せない自分がいた。

ノーテンキすぎるのだ。

悩みも愁いもない・・・

よく比肩されるデヴィッド・フォスターは、独自のサウンドをプロデュースできる点でもちろんグレートであることを前々からわかっていたし、彼と組んだエアプレイは確かにエポック・メイキングな作品を残した。
でも、この計算されつくしたカッコつけのソロギターワークが印象的なギタリスト・プロデューサー・ソングライターその人の良さは・・・しばしば気になってはいたものの、非常に長い間わからないでいた。

それが、とうとう今に至ってそのよさを見出したのだ。(^^;)

フォスターの(グレイドンに比する相対的な)偉大さは、かかわったアーティストがすでに名を馳せている、あるいは見出した才能がプロモートもディストリビュートもある程度約束されていたせいか、人口に膾炙するケースがグレイドンより多かったに過ぎないことに起因するだけなのかもしれない。
フォスターその人のソロアルバムもクォリティは高いのは認めるが、もしかしたら凝縮度合・濃密さで言えばグレイドンのこのアルバムには及ばないのかもしれない・・・とさえ思えるほど、今頃になって気に入ってしまった。


以前はどこかで聴いた曲想が寄せ集められている気がした。
確かにグレイドンの中ではそれぞれの曲は慣れ親しんだ曲想のリイシュー・焼き直しだったかもしれないが、よくよく考えてみれば、彼はあらゆる局面で共作とはいえほとんどの作品のオリジネーターであったのだ。

このアルバム・・・TOTOにいたジョセフ・ウィリアムズやChicagoにも在籍したビル・チャンプリンが参加して素晴らしいパフォーマンスを披露しているのだが、それにもましてビル・カントス、ウォーレン・ウィービーといった我が国ではあまり知られることのないヴォーカリストが得難い味わいを出している。

フォスター人脈の知名度と華やかさに惑わされていたが、彼らとて実力は勝るとも劣らないことは聴けばわかる。
それどころか、実はフォスターとも親交がある人物もあり、故ウォーレン・ウィービーあたりは懐刀的な活躍をしていた・・・ことを後から知った。

これも本作品の値打ちを見直すひとつのきっかけであったことは確か。
このアルバムでの彼の声のパフォーマンスは、実は主役のギターソロより特筆されるべきだと思う。

ウォーレン・ウィービーはタイヘンな苦労人でしかも早世した。
ネアカでノーテンキで、一曲ごとのリズム・曲想は多彩だがどこか軽くて(故ジェフ・ポーカロあたりが生ドラムでたたいていたらどんなにリズムセクションが精気あふれるものになるかと思うと今もっていささか残念ではある。山下達郎さんにも似た周到さが却って精気を殺ぐのである)などという特徴は、当時のTOTOなどゴージャス仕様のアメリカンロックに対してあまねく抱いていたもっとも嫌悪していた要素である。
しかし、その裏には壮絶な人生を歩んだアーティストの献身的なパフォーマンスがあったと知れば、50歳を前にした自身の感性に訴えかけないはずはない。

こんなドラマを聴かないと虚心に耳を傾けられない・・・わけではないが、演奏者と聴き手の人生、すべてをひっくるめての作品鑑賞であるならば、この作品にとっても私にとっても、今の心境に至ったことはとってもラッキーだったといえよう。


故ウォーレン・ウィービーのほかに、先に触れたビル・カントスも本国では一家言あるアーティストのようである。
彼の最新作も耳にしたが、実はややテイストを異にするオリジナリティあふれる味わいを醸し出す注目すべき逸材だと感じた。
私の好みとはいささか違う・・・けれど。

当盤以外では、以前投稿したデヴィッド・ベノワとも親交あるデヴィッド・パックやマーック・ウィンクラー。
いずれも我が国ではあまり知られていないと思うが、彼らの最新作も同じように聴いて心が動かされた。
さらには、著名なベン・シドラン・J・D・サウザーなどもブランクはあれども健在で、自らの信じる音楽を奏でているのが心強い。
私より年長者が真に自分の好きな音楽を時流にかかわりなくクリエイトしているところに接するたびに、頭が下がる思いだ。
(期待の年長アーティストが鬼籍に入ったというニュースもしばしば聞かれるようになったことは大いにショックだ。)

もとより気に入る、気に入らないはあるのだが、少なくとも上に紹介したアーティストの作品に駄作はおろか、手抜きはない。
裏を返せば、品質のつたなさを感じさせる作品を世に問うているベテランもいるが・・・相手にしなければよいだけのこと。


さて、この作品・・・いろんな曲調があって他のアーティストの作品のパロディー的に思われるフシがあるとは先に書いた通り。
アース・ウインド&ファイアーで大ヒットした④はおくとして、ざっと思い当たるだけでもスティーリー・ダン(グレイドンはAja所収のPegで一世一代のソロを弾いているくらいだから、本質的な曲調は違っても影響をかんじるのはあたりまえか?)、TOTO、アル・ジャロウ、ボズ・スキャッグス、デヴィッド・ラズリー、クリストファー・クロス、REOスピードワゴン、スタイル・カウンシル、エトセトラエトセトラ・・・
この人たちの具体的な曲のある部分に似たところがあるのは事実で、彼らに書いた曲のデモかと思わせるところがやっぱり感じられるので、私が最初に聴いたときの感想とてあながち不当ではないと今もって思う。


なにはともあれ、ジェイ・グレイドンのいろんな意味での集大成であるこの作品は、あのころと今、構成するアーティストのそれぞれの旬を楽しませてくれる格好の好盤。
聴いている自分の来し方も思わずにいられない・・・風流の極みかもしれない。
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エフゲニー・ザラフィアンツ ピアノリサイタル

2013年05月08日 01時39分16秒 | ピアノ関連
★愛知県立芸術大学音楽学部 器楽専攻 ピアノコース特別講座 2013
  Evgeny Zarafiants Piano Recital

Program

Ludwig van Beethoven (1770-1827):
Sonate op.2-1 f-moll (1795) Allegro / Adagio / Menuetto:Allegretto / Prestissimo

Sonate op.10-3 D-dur (1796-98) Presto / Largo e mesto / Menuetto:allegro / Rondo:Allegro


Frederic Chopin (1810-1849):
8 Masurki: en la mineur op.17-4 / Si majeur op.56-1 / si♭ mineur op.24-4 /
sol mineur op.67-2 / Fa majeur op.68-3 / do# mineur op.63-3 /
Do majeur op.24-2 / do mineur op.56-3


Alexandre Scriabine (1872-1915):
Fantaisie en si mineur op.28 (1900)


*encore
Frederic Chopin (1810-1849):
Masurki:       en si mineur op.33-4               

                  (2013年5月6日(月祝) *特別開講日 18:30開演 愛知県立芸術大学奏楽堂にて)

エフゲニー・ザラフィアンツのピアノ・リサイタルを心から堪能してきました。
愛知県立芸術大学の講義の一環らしいのですが、一般の希望者にも広く門戸を開いてくださったうえ、なんと『タダ(ミもフタもない言い方ですが)』で上記充実のプログラムを聴けちゃいました。
ラッキーまるもうけと、関係者各位に感謝するほかありません。
当日は比較的大きな会場ではあるものの、空席も目立ち、もったいないと思うとともに、その内容の素晴らしさに「こういうピアニストこそもっと聴かれるべきなのに」と残念な思いもありました。いずれ余計なお世話でありましょうが・・・。


この公演が、ピアニストのアウトリーチ活動拡大版的なご厚意によるものか、録音会場候補のテストだったのか、勝負リサイタルの実戦ゲネプロだったのか、招聘元・支援者・大学側の熱烈なアプローチにほだされたものなのか・・・
リサイタルに行くまではさまざまな理由を挙げてみて、なるほどどれもありそうなことだなどと思いを巡らしていました。

まぁ、潔い音だけによる言い訳無用の圧倒的なパフォーマンスの洗礼を浴びた今はよけいなお世話はどこへやら、ただただ頭を垂れて充足感の余韻をかみしめるほかありません。


個人的には、リサイタルにおいては演奏者は音だけで勝負すべきだと今でも思います。
楽曲や演奏家の想いを手掛かりに、そのときどきの演奏を安心して聴きたい、あるいはよりわかりやすく聴きたいというオーディエンスのニーズがあることは理解できます。
また、それを聴き手の甘えだとも思っていません。

でも、言葉というものはその性質上「物事を規定・限定」してしまいます。
このように分別に強烈に働きかけ、相手を理性的に仕切る効果があるという点において決定的にオトと違うのです。
コンサート会場で鳴り響く音の価値を測る物差し、感動のものさしは分別ではありえない・・・私はそう思うのです。

作曲家や作品を知識として知りたいのであれば、事前にプログラムを読めばわかります。演奏の合間などに耳で聞く必要はありません。
ただ、音楽家が自ら演奏にあたって「そこがポイント」と考えているとの情報は自らの口で表現しないと伝わらない・・・とは言えるかもしれません。

とはいえ、私の考えでは、演奏者がうっかりそれを口にしてしまったが最後、聴き手の中でその楽曲が「そこ」と「そこ以外」のところに分かれてしまい注意のありかたが異なってしまう・・・
ひどい場合には、「そこ」はピアニストが語った通りの感想しか持ってはいけないと思いながら聴く(よく言えばピアニストを信じて頼っちゃう、悪く言えば目(耳)をくらまされちゃう)こともあるかもしれないし、「そこ以外」のところは、実は虚心に聴いていたとしたらとても魅力的に思えたかもしれないのに聞き流すことにつながってしまうかもしれないのではないでしょうか。
してみると、MCは親切かもしれないし、おせっかいかもしれないし、聴き手の芸術鑑賞にとって罪作りかもしれない・・・これらはいずれも真なりと言えると思うのです。

これが私のすべてをぶつけた演奏だ・・・
演奏家のそんな気概から放たれた音の塊を体全体を耳にして受け止めて、聴き手が感じ取ったものの総体が、コンサートでの収穫とするならば、MCは体全体を耳にすることの妨げにこそなれ、あまり助けにはならないのではないというのが私の意見。
それがお客の入りにかかわらず、一切手抜きなしという態度が体感されたザラフィアンツの演奏を聴いてますます強く感じられるようになった・・・そんな気がします。


さて、ザラフィアンツの既発CDは、1990年代のナクソスのスクリャービンのほか、ALMのものにいたってはデビュー盤以降2~3枚の例外を除いてほとんどすべてを聴きました。
就中、2枚目にリリースされたショパンのバラード全曲およびこの日も演奏されたスクリャービンの幻想曲を収めた1枚は、レコ芸で紹介され何気なく手に入れたものではありましたがたいへんな邂逅であり、はじめて耳にして以来「超」がつくお気に入り盤となりました。

ただ、その他のディスクについては、それほど感動しなかったと正直に言わねばなりません。
プログラムの工夫(バッハとラフマニノフの混在やハイドンとメンデルスゾーンという取り合わせなど)に意表を突かれたり、ディスクごとにとてつもなくストイックになにものかを徹底しつくした痕跡を認めはしながらも、それがなんだかピンと来ないため、「だからどうした・・・」と思うほかなかったのです。


しかし、実際の演奏を目の当たりにした今、ザラフィアンツというピアニストが真の芸術家であることを疑いません。
「心より出た音楽を聴き手の心に伝えうるベートーヴェンの息子」であり、自らのベートーヴェン演奏、ショパン演奏の流派を打ち立てたホロヴィッツ・アラウ・ミケランジェリなどの巨匠と並び称されるべき存在と、心底思っています。


なぜに「現物」と、「商品化されたCDのオト」から抱く印象にこれほどのギャップが発生するのか?
またも余計なお世話でいらぬ考えを巡らせてみますと・・・

ひとつには、弾き手のスタンスの問題がありましょう。
このピアニスト、とにかく肌理が細かいのです。
いかなる妥協も許さない態度で解釈され演奏されている・・・この徹底しつくされた表現が必然的に、先にも述べた他とはまったくちがう独自の流派であれば奇矯にも聴こえる瞬間があるのは仕方ないこと。
同じ空気を吸いながら、実際の演奏を聴くかぎりは全くもって異形と感じなくとも、「他との聴き比べ」という客観性をそこに求めると聴き手によっては達者な演奏と思いつつも「聴きなれない」表現が随所にみられる奏楽となっているのは事実でありましょう。

また、ひとつには再生芸術の限界という問題があると思います。
演奏会場では、絶妙な音色のグラデーション、倍音の霧、その他演奏と一体となってしまえるような蠱惑的な表現で、時がたつのも忘れてしまうような響が実際現出されているのにもかかわらず、それを高品位であるとはいえCDやSACDのパッケージに押し込む限界があるということ。
そして、それを自宅の機材で再生するときに、大切な何かが毀損されて伝わらないということがある・・・。
実際、ザラフィアンツのベートーヴェンのソナタのCDを自宅で聴いた際に、演奏会場で味わった醍醐味はやはり想像力をたくましくしても再生音からは補いきれなかった感が強くしました。
しかし・・・本物の演奏を聴いたことで、これまでピアニストがこうしたい(実際の演奏ではこのように鳴っていたんだろうな)と思い描いたことにずいぶん思いをいたせるようになりました。
ピアニストは録音マイクの前でも同じ態度で演奏していたものが、商品となって手許に来ると、弾き手にとって肝心なものはよしんば収められていても聴き取りにくくなっている、優先順位が下がってしまっているように思われることが2つめの理由です。

3つ目の理由はプロモーションの在り方・・・ではないでしょうか?
新譜発売時のプロモーションあるいは書評など直接演奏とかかわりのないメディアが、他との差別化を図らんがために演奏の真価とは別に、いくばくかの誇張やある種のイロモノ的な表現をためらわないがために、聴き手の目(耳)が曇って変な先入観を持ってしまってはいないのか?
ビジネスとしては、少なからずそれが奏功している面も否定できないかもしれません。でも、実演は生真面目で全うきわまりありません。
間違っても奇矯な演奏であったり、バランス感覚を失した演奏ではない・・・と思います。


ここからは、記録のためにそれぞれの演奏について感じたことを簡単にメモします。

ベートーヴェン・・・
ハイドンの影響下にあったことを思わせる曲ですが、濃密かつ麗しい浪漫的な演奏でした。
もとよりザラフィアンツには、このうえない美音に飾られた周到なハイドン演奏があったことを思えば、ベートーヴェンともなればこのような表現となることは十分想定されたのですが、ディスクに収められた情報、それを我が家の再生装置で再現した情報とはモノが違う完成度の高さに感じ入りました。

どこもかしこもとことん音と休符が塗り込められているのに、まったく息苦しくない。
瞬発力も余裕も十分、キメ細かさの徹底の為せる業です。


シューマンのフモレスケに代わって置かれたショパンのマズルカ8曲・・・
マズルカを並べることによって、シューマンの連作と似た雰囲気が感じられました。
リズムの共通点という以外には、曲想もさまざま、曲内でも三部形式でメロディーや雰囲気が変わるので、聴き手にとっては面白い効果だなという感じがしました。

無論ミケランジェリのDGのディスクのプログラムをヒントにしているのでしょうが、共通する曲も少なくなく、その違いに思いを致すことも楽しい営みでした。

演奏も出色。
何に対してかわかりませんが、ここでの音たちは泣いていました。それも体をうち震わせて泣いている・・・
そんな情景の中に不意に惹きこまれてしまうほどの力をもった演奏、マズルカは疑いなく叙事詩でした。
よくショパンはマズルカ(やポロネーズ)においてポーランドの舞踊音楽の芸術性を飛躍的に高めた、などと評されていますが、極限まで芸術的にするとこうなるのかな・・・とまで思わせられました。


スクリャービンの幻想曲・・・
思えばこの曲に感激したのがザラフィアンツとの出会い。
ディスクでは繰り返し聞くことを考慮して、中庸の演奏となっていたのでしょう。
それでも私を魅了するのに十分だったのですが、ここでは録音上のリミッターも何の制限もなく全開のスクリャービンを聴くことができました。
鳥肌立ちまくり・・・
いわゆる三昧に入った演奏であり、私自身も曲と同化してすごい勢いで時空間を超えていた・・・こうやって書くと大げさかもしれませんが、そのような感覚だったとしておきます。
少なくとも、掃除機に吸いこまれたごみが長い管をすごい勢いでなすすべなく引き回された感じ・・・と書くよりは、詩的でしょうからね。

比較するものがない・・・
それに同化していると、それすら感じられないという一体感。芸術体験の醍醐味はここにこそあるのだと、強く感じさせる体験でした。


アンコールのショパンのマズルカ・・・
これもミケランジェリが録音した曲ですが、時代の流れとともにオリンピックの記録は進化すると感じさせるところがありました。
ミケランジェリのDGのディスクは私にとって神のような存在なので、その上に立つ演奏はありえないと思うのです。
しかし、一部の観点からすれば、明らかにザラフィアンツの方が徹底している。。。


帰宅して以降・・・
いくつものザラフィアンツのCDをもう一度聴いています。
理解が進んだような気がします。

ラフマニノフの一部の楽曲やリストの最新CDなど、今もってピンとこない気がするものもありますが、あの日、聴衆に向かって体感させてくれた人柄を含めた音からすれば、私が気付かないだけでもっと深い思いが塗り込められているに相違ない。。。
そう思って、何度も繰り返し聞いてみたいと思います。
善意の人の声には、わかるまで耳を傾ける必要がある・・・んじゃないかな?


最後にあらためて、かくも素晴らしい企画を家族で楽しませてもらったお礼を、愛知県立芸術大学および関係各位およびザラフィアンツ氏に申し上げます。
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相乗効果の妙

2013年04月26日 00時00分31秒 | JAZZ・FUSION
★THE BENOIT / FREEMAN PROJECT
                  (演奏:THE Benoit / Freeman PROJECT)
1.Reunion
2.When She Believed In Me
3.Mediterranean Nights
4.Swept Away
5.The End Of Our Season
6.After The Love Has Gone
7.Smartypants
8.It’s The Thought That Counts
9.Mirage
10.That’s All I Could Say
                  (1994年作品)

クルセイダーズに“ヴォーカル・アルバム”というコンピレーション・ベストとでもいうべき企画盤がある。
大好きな曲とそれなりの曲(はっきりいえば嫌いな曲)があったり、その大好きな曲がエディットされていたり・・・と、注文を付けたいところも多々あるのだが、聴き手コンシャスな好企画だと思う。

そんなことはプロデュース側も百も承知だろうが、いくら大切なファンとはいえオーディエンスにいいとこどりされるばかりではガッキの演奏を聴いてほしいアーティストの腹の虫が収まらなかったり、100%の商品を出してしまうと、知的財産たるもの、なかなか重ね売りが難しい性格があるため商売あがったりになるケースがほとんどだろうから、そうそう出すわけにはいかない事情もよくわかる。


もしかしたら、「今のご時世、MP3などデータファイルで切り売りしてるんだから、ホントにやりたきゃ自分でやれ」と開き直られているのかもしれない。

上等じゃねぇか・・・
と、勝手にインネンをつけてケンカを受けて立ったわけではないが、手始めにデヴィッド・ベノワの作品群から自分の好きなヴォーカル曲ばかりを選りだして、自分だけのプレイリストを作ってみた。。。


便利な世の中になったもので、ネットをちょっと紐解けば、ベノワの熱狂的ファンであろう先達のご丁寧な解説文がいくつもヒットする。
私とて、このスペースにずいぶんと勝手なことを書き散らして人様に情報提供できているケースもあろうから、それらをありがたく拝借して、どのアルバムのどの曲がどんなヴォーカル曲なのか、おおよその見当をつけるぐらいのことは許されてよかろう。
そして、you-tubeやGroovesharkにアクセスすれば、驚くべき簡便さでプレイリストに迎えるべき楽曲をセレクトすることができるのである。

家人に話したらやたらとメンドいことしてるとの感想を述べられたが、やってる本人は決してそうは思っちゃいない。
仮に一般の人が面倒と感じるならば、「多少のやる気とCD1枚あまりの出資で気軽に楽しめる極上の『ヴォーカル曲集』ができる」と書いておけば間違いないか?

いずれにせよ、ゲストの歌声もさることながら、自らの奏楽をこそ楽しんでほしいと願っているだろう楽器演奏者には申し訳ないが、「あなた絡みの演奏を愛好してるんだから許してね」ってノリである。


さて、デヴィッド・ベノワというピアニストは、同じデヴィッドでも直截でシンフォニックなフォスターに比して、はるかにノーブルでジャジーであるゆえに私の好みである。

それは、自身がプロデュースしていない場合の他のアーティストの作品への客演(ピアノ(キーボード)奏者として)が、きっとベノワのほうが多いだろうことからも、かなりの確率で普遍的な認識なのではないかと思われる。

フォスターにせよ、最初はスタジオ・ミュージャンだったわけだが、あまりにもプロデューサーとしての手腕が卓越していたため、ある時期以降「演奏だけ」というのはどうだろう・・・多少はあるのだろうか?

翻って、ベノワに関しては、ケニー・ランキンやデヴィッド・パック、デヴィッド・ラズリー(それにしてもデヴィッドだらけだな・・・)など、すでに持っていた私のお気に入り旧作CDのピアニストが実は・・・というケースを多々発見するに至った。
むべなるかな・・・である。


と、書いてきたものの、彼のインスト曲も決して悪くはない。
いや、スムーズジャズなどと言われている分野では、他に例のないまごうかたなきブランドを確立しているし、品質も高い作品が多いのではなかろうか。

バックボーンとなっている音楽もコテコテのジャズからイージーリスニング風のサウンド、歌伴まで引出しがいっぱい、多彩であるのにちがいないのだが、こちらにこらえ性がないのか、なぜか1枚通して聴くのは、歌がないとしんどい・・・のが正直なところ。

“ヒーローズ”というほとんど知っている有名曲ばかりをカバーしたアルバムにせよ、奏者の楽曲へのなみなみならぬ愛着を感じながらも、何曲か聞くとツラくなってしまった。


そこへいくと、今回のお題“ベノワ・フリーマン・プロジェクト”のCDは、ケニー・ロギンスとフィル・ペリーのヴォーカルがことのほか素晴らしかったのでMP3ではなくCD品質で聴きたいと願って求めたものだが、実際にはプリンシパルに組んだラス・フリーマンとのコラボレーションが素晴らしいので、飽きることなくめでたく最後まで聴き通せた画期的な作品となった。

自己の流儀を持ったアーティストは、ともすればそれが自縄自縛につながってしまうかもしれない。
それを打破する一つの打ち手が、他の得難い個性・才能との共演なのかもしれないし、きっとそれは実効性も高いだろうことは想像するのに難くない。
その化学反応が吉と出れば、「相乗効果の妙」でかくも聴き手の耳を惹きつけずにはおかない作品となるだろうし、このコラボプロジェクトは典型的な好例・・・なのだろう。


それはさておき、かくして私がこしらえたヴォーカル・アルバムは、有為のアーティストたちの「相乗効果の妙」をあらゆるケースで堪能できるステキな万華鏡的玉手箱となった。
それもそのはず、先に例示したアーティストのほか、ダイアン・リーヴス、ジェニファー・ウォーンズ、ベス・ローレンス、アル・ジャロウ、マイケル・フランクス、Take6などなど・・・
これだけメンツが揃っていて悪かろうはずがない。

プレイリストの曲順は、自身のアルバムに客演ヴォーカルを迎えたものにせよ、ヴォーカリストのアルバムに客演したものにせよ、何も考えることなく年代順に並べただけである。
プロデューサーとしては中途半端な仕事とのそしりをうけるかもしれないが、再生時にシャッフルしちゃうので一緒・・・これで常に新鮮な気持ちで聴くことができるので出来栄えにはすこぶる満足している。


実は、この作業にハマってしまい、続けてFourplay、KennyG、デヴィッド・サンボーンのヴォーカル曲だけを選抜したプレイリストも作ってしまった。

Fourplayは当たり!
これも客演ヴォーカリストのトラックだけを年代順に並べただけだが、ずっと聴いていても飽きることがない。

これとて、エル・デバージ、チャカ・カーン、フィル・コリンズ、マイケル・マクドナルド、アニタ・ベイカー・・・とくれば、一篇の映画のサウンドトラック以上にすごい顔ぶれである。
松田聖子さんだけは、デビュー以降、独身時代の大ヒット曲のほうが好きだけど。


KennyGはびみょ~。
デュエット・アルバムなるヴォーカリストや他のアーティストとコラボする企画盤もあるのだが、どこということはないのだが、なんかいまいち吹っ切れていない。
結果としてそこからは1曲も採らなかった。
とはいえ、キャリア初期のシナトラやスモーキーとのコラボは見事だし、トニ・ブラクストン、マイケル・ボルトン、シャンテ・ムーアなどとの共演はさすがというほかない。
一番気に入ったのは、ベベウ・ジルベルトとのイパネマの娘・・・かな。


サンボーンは意外にも曲に当たり外れが多かった。
私には、他人のアルバムでひと吹きしたときのサンボーンのほうが、圧倒的に魅力的だったから。。。
(あくまでも歌伴の曲しかためしていないので、インストを聴いたらもしかしたらぶっ飛んでいたかもしれない。)

忘れられないのは、ケニー・ロギンスのハート・トゥ・ハート・・・
当時、世の中にこんなファンキーでかっこいい曲があるのかと思い、サンボーンのソロの奔放さに感激していたものだが、そんなサンボーンを他に期待すると他ではあまり出会えないような気がしてしまった。
ブレンダ・ラッセルのル・レストランや、マイケル・フランクスのアントニオの歌にしてもすばらしいんだけどな。。。
どうして、自分のアルバムでは違ってしまうんだろう。。。

それでもカサンドラ・ウィルソンとのデイ・ドリーミングや、リズ・ライトとのドント・レット・ミー・ビー・ロンリー・トゥナイトは自分のサンボーンのイメージとは違うけど、とてもいい曲だと思うので収穫はあった。

破天荒で天衣無縫な苦労を知らぬミュージシャンだと思っていたけれど、結構、眉間にしわが刻まれるような人生を過ごしてきたんだな・・・
と妙にしんみりした感覚に襲われたものである。


コンピレーションのプレイリストを作ってみて思うのは、やっぱり、これをCDレベルの音質で聴きたいということ

ハイレゾとかでダウンロードできるようにならないかな・・・
などと、いつもなら携帯もIT機械もない国へ行きたいと願っているおじさんがにわかにテクノロジーに恃む気を起こしている。

我ながら勝手なものだ。。。(^^;)


さて、この調子だとお気に入りコンピを作る熱は冷めそうにない。(冷める時はあっという間に冷めることを経験上知ってるんだけど・・・)

してみると、次回投稿の書き出しは・・・
>フランク・シナトラに“デュエッツ”というコンピレーション盤がある。トニー・ベネットもしかり・・・
てな、感じになるやもしれぬ。
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サヴダージの教祖 もしくは 音楽版ウォーリーを探せ!

2013年02月25日 01時40分35秒 | J-POP
★Shiplaunching
                  (演奏:富田ラボ)
1.Shiplaunching
2.プラシーボ・セシボン
3.Like A Queen
4.アタタカイ雨
5.Launching On A Fine Day
6.ずっと読みかけの夏
7.恋は傘の中で愛に
8.しあわせのBlue
9.Is The Rest Silence?
10.Prayer On The Air
                  (2005年作品)

いつだったかはよく覚えていないがYou-tubeをサーフィンして思いつくまま曲を検索していたら、リコメンドされた曲の中に『冨田ラボ』なる見慣れない言葉を発見し「おや!?」と思って画面を遷移した・・・のが運の尽き。
そのときどの曲を聴いたのかはこれまたよく覚えていないが、全般的な特徴として雄弁なベースラインと流麗なストリングスが魅力的なユニットだと感じ入って、次々とおすすめ欄に表示される「富田ラボ」の曲を辿り、何曲かをお気に入りに登録して繰り返し聴いているうちにどうしてもCDで欲しくなってしまって・・・
今ここにこのディスクがある。
そもそも大半をyou-tubeで聴けるのにこんな経緯で買っていたらキリがない、とわかっていながら、いいものはいいから仕方ないで済ませてしまう自分はどうかしている。


多分、冨田恵一さんというどことなく教祖チックな男性が主宰するユニット(ヴォーカルと管楽器・弦楽器演奏を除く伴奏のリズムセクションに関して、パーソネルを見る限り基本は『楽団ひとり』のようだけど)を好む人には、顕著な共通のツボがあると思う。

それには2段階あって、まず万人に言えることとして「サヴタージの気分に対する感受性が高いこと」があげられるのではあるまいか。
ノスタルジーとはちょっと違う・・・
このサヴダージとしか言いようのない感傷的な気分を引き出すツボを、一貫して押してくる曲群。
これだけで教祖(の作品)に帰依たい・・・と“ころっ”といってしまう人さえ少なくないだろう。


しかし、2つめのツボは人を選ぶがさらに強力である。
私などはすでに中毒(それもかなり重症)の診断を下されてもおかしくあるまい。
それは、ひとことでいえば「知的好奇心を刺激される」ということ・・・
ある程度のポピュラー音楽のバックグラウンドを持っている人には共感いただけるのではないかと思うのだが、本来はそんなことを気にせず音楽を楽しみさえすればいいのに、教義に施されたあらゆるシカケが気になるのである。

教祖はさすがに修行を積んでしかるのちに悟りへの道を提示しているのだろう。
繰り出される音からはっきりと「修行のあと」が私には聴き取れる・・・知らず知らずそんな気にさせられちゃっている自分がいる。

サヴダージを引っ張り出す手練手管のひとつなのかもしれないが、曲全般に借景となる原曲を措定してアレンジしているだろうと思われるのである。
そのうえに、思わずニヤッとしてしまうような音楽版ウォーリーがそこここに顔を出す・・・見つけてしまった時の快感は何ものにも代えられず、「ウォーリーはいるはずだ!」と信じて曲に向かうようになってしまったら、あまり姿を露わにしないこの教祖に魂を握られてしまうことになる。

どんなに・・・いくつウォーリーを見つけたとしても、ジャズからソウルフルな音楽まで徹底して血肉と化した教祖はさらに多くのウォーリーを忍ばせているに違いない・・・
こう思わずにはいられないことは自縄自縛だとわかっていても、それが教祖の計算かもしれないとわかっていても逃れられない・・・これこそ中毒ではあるまいか?


さて、これらの楽曲はもちろんオリジナルで、中心は歌もの。
バックの演奏(先にも書いたが、ベースラインと独特なストリングスのアレンジが、さまざまなウォーリー的借り物のおかずがあっても作品が独自のものであると主張している)には、きっとプリンシパルな制作ルールがあるのだろう。

そこに最適なヴォーカリストを招き彼・彼女をフロントマンとして教義を説かせる、逆スティーリー・ダン型がもっぱらのスタイル。
これがまた、実にバラエティに富んでもいるし、実力者ぞろいで聴きごたえがあるのも表向きの大サービス。
その実、「冨田ラボ」名義のアルバムであるだけに、背景のしらばっくれた伴奏にこそ、あまたある生半可の音楽経験に裏付けされた知識を持つと自認する聴き手(これが教祖にとってのきっと真のカスタマー)たちを中毒症状にさせしめる媚薬を忍ばせているにちがいない。


たとえば、これらの楽曲について中毒症状の好人が語るとさしずめこうなるだろう。

■プラシーボ・セシボン
スティーリー・ダンの「ヘイ・ナインティーン」を第一主題、「グラマー・プロフェッション」を第二主題、「タイム・アウト・オブ・マインド」を第三主題にして、がちゃがちゃぽんに展開したらできたんだろう。
ギターは音色もフレーズもラリー・カールトンしているし、大貫妙子さんに至ってはガウチョのレコーディングに参加していたに違いない。
もしかしたらサンプリングしてコラージュしたのかも。

■アタタカイ雨
これって大滝詠一さんの新曲でしょ!?
え、田中拡邦さん!?
彼、自分の曲じゃこんな声じゃないよ・・・きっとミキシングのときイシキしてやってるよね。
これ聴いたら、ジャンクフジヤマさんみたいにヤマタツ路線でやりたくなる人、きっと出てくるよね。。。(関係ないか・・・)


こんな調子で私には、「Like A Queen」には「Miami Viceのテーマ」が、「ずっと読みかけの夏」にはイヴァン・リンスの「ラヴ・ダンス」が、「恋は傘の中で愛に」にはブロンディの「ハート・オヴ・グラス」が、「しあわせのBlue」にはボズ・スキャッグスの「ミス・サン」のエコーが聴こえて、終始ニヤニヤしっぱなしなのである。
傍目にはヤク中にしか見えないのかもしれないだろうが、本人はフレーズの端々に神経を行きわたらせてラリー・カールトンやステイーヴ・ガッドが隠れていないか耳を皿のようにして探している至福のときを過ごしているのである。


そんな聴き方をしているから・・・
木を見て森を見ず、借景の曲調しか頭に入っていないつまんない聴き方になっているのかもしれないという人がいるかもしれない。
言うなら言うに任せるが・・・と開き直ってしまえるところが、中毒患者たる所以でもあるのであしからず。


ちなみに、冨田ラボ一連の楽曲の中で、私がもっともサヴタージを感じるのは、畠山美由紀さんのアルバム「Wild & Gentle」に収められている「罌粟」である。
このアルバムには3曲の冨田ラボ製品があるのだが、いずれも高品質なことは折り紙つきだが、いまだにウォーリーが発見できない。
『ない(かもしれない)ものをあると思って探す』こと・・・
「乳がんを自分のチェックで見つけられる人」の資質として真っ先に挙げられることだが、私にはその素質はある・・・
そして富田ラボ中毒にどんどん浸潤されていくのであろう。

幸せなことかもしれない。



《閑話休題》
何かシカケがあるに違いないという思いは、楽曲のみならずいろんなところへ猜疑の眼を向けるに至っている。
例のイタリア豪華客船の事故・・・は、発生の何年も前なので関係ないだろうが、それとの関連さえ疑いかねない勢いなのである。

たとえば詞・・・
パーソネルを確認するうえで、プラシーボ・セシボンのヴォーカルのおふたり、高橋幸宏さんと大貫妙子さんが、それぞれ別の1曲ずつの作詞を担当しているではないか?
ヴォーカリストが豪華な布陣であることはみんな気が付いているだろうが、作詞家陣もとびきりであることは特筆されてよい。

たとえばジャケット・・・
11名の楽団員を従えているが、ここにある楽器はすべて曲中でつかわれているか?
楽団員のモデルのクレジットも確かに11名ある、が、女性の名と思しきものがないのだが・・・?
裏ジャケで、小型バスの車窓に見えるのはコントラバスとチェロの男女のみだが、それに隠されたテーマはないか?
このミニバスに楽器は積めないのではないか?


しかし・・・
いつからかくも病的になってしまったのだろう?
クラシック音楽を聴く、それも名手の解釈を聴き比べるようになって、同じ曲でも曲調の差、ディテールの彫琢の差・・・
そんなことに気付くことで、ひとつひとつ悟ったようなすっきりした気分を味わってきたなれの果てだとしたら・・・

まぁ、それこそどうでもいい話ではある。
楽しく麗しいわが人生を重ねていくうえで、大勢に影響はあるまい・・・
とは言えないかもしれないな。(^^;)
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2012年、私のレコード大賞

2013年02月08日 00時50分27秒 | ピアノ関連
★ブラームス 後期ピアノ作品集
                  (演奏:田部 京子)
1.6つのピアノ小品 作品118
2.3つの間奏曲   作品117
3.4つのピアノ小品 作品119
4.主題と変奏    作品 18
                  (2011年録音)

信じられないことですが、2013年もはや1ヶ月を過ぎ旧正月を迎えようとしています。
この際、年末に手に入れたものまで含めてじっくり味わって、昨年「入手した」ディスクを総括しようという気にようやくなりました。
あくまで、私が手に入れたのが昨年のもの・・・が対象なのであしからず。。。

というわけで、2012年に私が個人的にもっとも感銘を受けたディスクはこれ・・・
田部京子さんのブラームス作品集であります。

毎年のことですが、昨年もクラシックはもとより、ロック、ジャズ、ドメスティック(J-POPっていうのかな?)と、さまざまな分野のディスクを数十枚入手しました。
実は、ノミネート5点とかいわれると実はとっても困ってしまいます。
10点どころか25点ぐらいすぐに指を折ることができてしまう・・・んです。

でも一枚だけ、大賞だけということなら至極簡単で、このディスクを選ぶことにはいささかも逡巡することはありませんでした。

選考が難儀するあまり・・・
ロック部門はこれ、ジャズ部門はこれで・・・なんていう部門賞を作る必要もなかったし・・・
どこかのコンクールみたいに一位なしの二位3枚なんてこともなかったし・・・
圧倒的に私にフィットして「2012年の1枚」として、聴いた数、感動した数、あらゆる指標で突出していたもので、私の中では満場一致で大賞贈呈って感じです。
・・・満場一致といってももちろん私は一人しかいませんし、大賞と仰々しく持ち上げたところで副賞で何が出るわけでもないんですけどね。


さて・・・
ブラームス後期作品集といえば、私が最初に聴いたのは稀代のリリシストと謳われるルプーのそれでありました。
実は、なんだかよくわからなかった。。。

それでも、他の例にもれず「名曲であるならば制覇せずにはおかない」というかつて持ち合わせていた熱意はこの曲集でも発揮され・・・
夥しい種類のディスクを折に触れ耳にする中で、グールドの「無垢」、アファナシエフの「メランコリックな明瞭さ」、ポゴレリチの「妖艶な焦燥」、レオンスカヤの「きっとこれが正統」とでも評すべき演奏たちが、私の記憶に深くこの曲集の魅力を伝えてくれた・・・
という整理になっています。

同じ曲なんだけど、これらにはそれぞれ違ったアプローチを感じます。
良くも悪くも偏っている。
アファナシエフは極端なゆっくりなテンポで、ブラームスの音同士のかかわりあいをこれでもかというぐらい丁寧に彫琢していました。
(結果としてなにかしらぬくもりを感じさせる得難い味わいがあって、永らく私のファーストチョイスになっていました。)
グールドは昇華された無垢とはいっても個性的、堂々と聴き手を幻惑しにかかるポゴレリチは言うに及びません。
正統と書いたレオンスカヤでさえ、正統さを感じさせるという偏りを私は感じてしまうのです。

しかるに、ここでの田部京子さんの演奏はどうか?
ひとことでいえば「無」あるいは「空」とでも言えましょうか・・・。

はじめて聴いてたちどころに惹きつけられて以来、これを聴いてる間中、私自身のすべてでこの曲が響いているとでもいうような感覚に襲われ続けています。
世界すべてが同じように響いちゃうんだから偏りようはありません。
すべてを肯っちゃってるんだから、テクニックだとか解釈だとかを気にする余地も必要もない・・・。

もちろんピアニストの解釈と技量と、録音の質が幸せな邂逅をはたしての所産であることに間違いはありませんが、ただただ虚心坦懐にこのディスクの再生音と向かい合うだけでどれほど豊かな体験ができるものか・・・感服するほかありません。
すべてが突き抜けていて、好きとか嫌いとか、先のいくつかのディスクも魅力的とはいえもはや同列に論じられないほどの存在感です。
「これらの曲集のリファレンスは?」と問われれば、躊躇なくこのディスクを挙げるでしょう。

あるいは将来・・・
あれほど不動のリファレンスであったアファナシエフのディスクが、今や「聴き手に執拗に自分の感情を受け入れるよう強要するメランコリック症候群的に奇矯な演奏」に聴こえてしまうような事態が起こっていることから、田部さんのディスクが自分の感覚から遠く感じられる日が来るのかもしれません。
でも、時は流れても不易なものがある・・・自分の全存在をかけてそう信じられるだけのインパクトを(ピアニストはそこまで意識しているはずもありませんが)与えてくれたディスクとして、きっと永く記憶し聴き継いでいくことになることでしょう。

私自身が偏執的に愛している作品117や118-2など、この節度ある演奏ぶりからいかに無限の透明感・深みを感じ得ているか?
大絶賛です。


田部京子さんは、この前にメンデルスゾーンの曲集を出されていました。
デビュー直後にも無言歌集の選集を出されていて、いずれも私の愛聴盤・・・メンデルスゾーンでもファーストチョイスです。
特に新盤は選曲からみてもスケール大きく、昨今の充実ぶりがうかがわれる出来栄え。
デビュー間もないころのシューベルトの変ロ長調ソナタもよかったし、「アンコール」「ロマンス」と題された小品集もいくつもの曲で目からうろこが落ちたり、心が洗われるような思いを味わえました。

でも、驚くほどしっくりこない演奏となることがないわけではない。。。

思うに、田部さんは直感的に曲のオイシイところを嗅ぎ分け表現することに長けていて、私がその正解を導き出せていた場合には身も心も100%同化できてしまうんだろうな・・・と。
だから、メンデルスゾーンやブラームスの(演奏時間にかかわらず)比較的簡素で、一曲ごとに性格を描き分けやすい完結型の作品には共感できるんだと思うのです。

逆に1曲の中にいろんな要素がアラカルトで散りばめられ、複雑に絡み合っているような曲・・・リストのロ短調ソナタなど・・・の田部さんの演奏は、ときとして食い足りなく感じることがあったりします。
原因は、先に書いた通り、「正解」というかストライクゾーンが違うから・・・なんでしょうかね。
きっと、その曲の本質的なところは針の孔ほどの1点であって、その穴を突き抜けえた場合にはじめて「全面展開」、私の中いっぱいに演奏が鳴り響くのでありましょう。

田部さんがそんな体験をさせてくれる数少ないピアニスト・・・という確信を強く持った1枚でありました。


ちなみに、「主題と変奏」はブレンデルの演奏で聴いたことがあるだけでした。

そのブレンデル・・・
ブラームスの演奏はと言えば、協奏曲こそアバドとの録音がありますよね。
第2番(第一楽章以外)に魅力を感じない(一楽章より劣る)とするブレンデルの発言には反するようですが、第2番の演奏ではとりわけ第一楽章クライマックスのトリルにぶっ飛びました。
他では決して聴けない粒立ちが印象的で・・・私のこの曲の最初のリファレンスになったことを覚えています。

しかし・・・
独奏曲の録音はというとこれがまたほとんどない。
彼は独墺系にレパートリーを絞って、他は弾かないと言っていたわけですが・・・
だとすれば、早いうちに録音が出てきて良い作曲家だと思うのですが、結局のところ、なぜ手がけなかったのかな~?
フランソワのようにブラームスその人を嫌ってたはずはないと思うんですけどね。


ムリして「2012年の受賞作候補」を列挙すれば、大賞候補は田部さんできまりとして・・・
にわかに開眼して凝ってしまった弦楽四重奏団の一連のディスクからのリストアップが主となりますが、近くその歴史にピリオドが打たれる東京クヮルテットのシューベルト、ブラームスそれぞれの五重奏曲をあつめたディスクは、例年なら大賞を選ぶための最終選考までのこされたことでありましょう。
アウリン・クヮルテットのフォーレの弦楽五重奏曲他のディスク、ペーターゼン・クヮルテットのベートーヴェン弦楽四重奏曲のうちの教曲には驚かされ傾聴させられたなぁ~。
ピアノでは、ポール・ルイスを聴き、そのシューベルトのピアノソナタ他の作品集・・・現代最高のシューベルト弾き、の誉めそやされかたが決して誇張でないことを感じました。

ジャズ・ロックの世界では、マイケルフランクスの1990年代の作品集「ドラゴンフライサマー」「ベアフット・オン・ザ・ビーチ」「アバンダンド・ガーデン」を大人買いしたのですがやっぱりいい。
ベン・シドラン主催のゴー・ジャズ・レーベルに在籍していたことで知ったリッキー・ピーターソンが出している4枚のCD。
これらもすべて入手して聴きまくったものでありました。

でも、大賞は文句なしに田部京子さん・・・なんです。
コレクションの拡充が図られた、まことにいい1年でした。
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バンセン番組嫌い

2013年01月30日 21時58分26秒 | 声楽・宗教曲関連
★ラス・ウエルガスの写本
                  (演奏:パウル・ファン・ネーヴェル指揮 ウエルガス・アンサンブル)
《13世紀スペインの音楽》
1.輝かしき血統より生まれし
2.誰しも皆、十字架にかからむ
3.おお、マリア、海の星
4.臨終の血より
5.あまねく知られたるベリアル
6.サンクトゥス
7.アニュス・デイ
8.ベネディカムスドミノ
9.南風は穏やかに吹く
10.いざ、信徒らの御母よ
11.誰がわが頭に
12.けがれなきカトリック教徒よ
13.哀れなる人よ
                  (1992年録音)

このディスクが録音されてからすでに20年余・・・
当時、圧倒的な支持をうけて、レコード芸術の古楽部門賞を受賞した盤であります。

私が勝手に感性が近しいのではないかと思い込んでいる月評子でいらっしゃる濱田滋郎先生が、「力こぶを入れて推したい」というような表現で絶賛されていたことをはっきり覚えています。
で、入手してはみたものの、そのよさが感じられるようになるまではずいぶんと時間がかかってしまいました。
今だって、どれだけの良さを汲み取れているのかわかったもんじゃありませんが、少なくとも時間をかけてわが身に馴染ませたことで・・・味わって聴こうかと思えるぐらいにはなっているんじゃないかなと思います。

質朴でありながら確固とした存在感のある音の重なり、ハモってるんだかどうかわからないけど不思議な感覚に誘われる旋律線、不自然なまでに音を揺らして所期の効果を狙ったり・・・と、まさに温故知新というべき響。
なにぶん同時期の音楽のディスクはたぶん何も持っていないので、違う演奏を聴いてもシューベルトやショパンの楽曲を聴き比べるようにはいくはずもないのですが、たぶん声部のハネ具合とかいろんなところで似たような効果を聴いているので、アファナシエフとピリスほどの極端な解釈の相違はないんじゃないかなと想像したりしています。

私が、「それなりに何枚かのディスクを持ってる」といえるクラシックの作曲家といえば、ジョスカン・デ・プレとかパレストリーナ以降になると思います。
彼らをもってしても、この曲集に収められた作品との年代差は、われわれがショパンやリストの曲を偲ぶのと同じぐらいの時代の差があるわけですから、えらく古い曲ということに異論はありますまい。
これより古いのものはといえば、CD棚のどこを探してもグレゴリオ聖歌ぐらいだもんなぁ~・・・。

とはいうものの、これが世に出て1/5世紀になるんだから、こんな調子で行ったら700年前とかいっても実はそんな昔といえないのかもしれませんね。


いきなりこんな曲集を持ち出して、何が言いたいかといえば・・・

NHKの「ヒストリア」のBGMである梶浦由紀さんの楽曲のテイストが、私には、この曲集のそれとそっくりのように思えてならない・・・

ということなんです。


もとより、ここで歌われている内容も背景も全く異にすると思いますし、もしかしたら「Kalafina」なる、女性のヴォーカルユニットの編成に共通項があって、結果として織りなす旋律の綾は必然的に似てしまう・・・だけかもしれませんが、とにかく最初に「ヒストリア」で聴いたときから、「あれ、この雰囲気どこかで聴いたことがある」と思って気になっていました。
そしたら、これだったんです。。。

その当否は別として、ヒストリアの音楽は単なるBGMを超えて親しみを感じるものになっています。
梶浦さんのその他の曲は、ガンダムなどのアニメにもゲームにも興味がない私にとっては未知のものですが、やはりこういった風情を湛えたものなんでしょうか?
そこは非常に気になります。。。


さて・・・
当の「ヒストリア」ですが、テレビをニュースと「ダーウィンが来た」ぐらいしか見ない私が珍しくつとめて視聴している番組であります。
松平アナの「そのとき歴史が動いた」を見ていた惰性・・・かもしれませんが、進行の女性の着物の模様がうにょうにょ動くのを楽しみに見ていたりする・・・関心の高い番組。

しかし・・・
昨年度は、大河ドラマのいわゆる「バンセン」のための番組になってしまった感があって、本編のレベルの高さはきっと変わっていないのに、私の受け止め方としては、また大河の助太刀をしてる・・・と、ネガティブなものになっていました。

NHKは宣伝がない・・・というのはウソで、きっとあらゆる番組を使って大河ドラマの応援をしてるんだというのは、誰の眼にもけっこうロコツに見えてしまっていたんじゃないでしょうか?

ネット上でも、大河ドラマの視聴率の話題でもちきりでしたが、私にいわせりゃナンセンス。
週刊時代劇・・・
と大河を喝破したのは武田鉄矢さんだったと記憶していますが、国民的番組だからとありがたがることなく興味のあるかたが見ればいいにすぎません。
ましてや放送と同時間に視聴しなければならないなんてことはないんだから、「視聴率」なるものの定義にしたがってそのときに見た人の割合で値打ちを判断するなんてことはばかげている・・・と当事者じゃない私は思ってしまうわけです。

うちだって夏場、中日戦のナイターを放送していたらその時間はそちらを私がテレビを占拠して、大河好きの家人は、録画したものを後程じっくり楽しむ・・・んですが、こんなのは日本中どこでもありうる光景ではないでしょうか?
移動中にワンセグで見てる人もいるだろうし、きっと、大河ドラマを視聴している人口に昔も今もそれほど差はないんじゃないかな・・・というのが私の想像です。

「以前の大河の方が優れていたから、その時間に茶の間で見てくれる御仁が多かったのだ」と言われたならば、たしかにそうかもしれません。
・・・けど、私には、なんかこうしっくりこないねって感じです。

たとえ力こぶを込めた番組が芳しくない評価であったとしても・・・
自分の局の「特定の番組」を支援する目的をうすうすでも感じさせるような番組編成を組む方が、心証を害するデメリットは大きいような気がするんですけどね。

ま、いずれにせよ余計なお世話なんですけどね。


個人的には、Kalafinaは露骨な大河応援の論功行賞・・・などとのそしりを受けても、昨年の紅白に選んでよかったユニットと思っています。
・・・などと、とつぜん前言と相容れないことを書いたりして。(^^;)
要するに、「ヒストリア」の梶浦さんの音楽を、私はとても気に入っているということであります。


ところで、最近、朝の番組も「同じ理由」が不愉快で「今日の占いカウントダウン」を除いてはNHKを見ている私。
自局のドラマなどの夜の番組を、他番組を活用して宣伝しないでほしいものです。
もっとも、私を除く視聴者に需要があるからそうされているのでありましょうが・・・私はダメです。

視聴率競争・・・視聴者の目線に全く立っていない、放送側の理屈しか私には見えてきません。
もっと違った尺度を見出さないと、私のようにニュースとナイターと自然科学の番組しかみない人・・・それも録画で・・・が増えちゃうかもしれませんよ。
それだけでも結構テレビの前にくぎ付けになるんだから・・・。

というわけで、今から「ヒストリア」を観に行きます。
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主語は誰?

2013年01月28日 21時42分47秒 | JAZZ・FUSION
★CLUB NOCTURNE
                  (演奏:YELLOW JACKETS)
1.Spirit of the West
2.Stick_to_it_ive_ness
3.Up From New Orieans
4.The Evening News
5.Even the Pain
6.Love and Paris Rain
7.The Village Church
8.Twilight for Nancy
9.Automat
10.All is Quiet
11.Livin’ inside Myself
                  (1998年作品)

ブレンダ・ラッセルの“Love and Paris Rain”の初出は、このアルバムらしい。
いずれにしても、この曲はラッセル・フェレンテ他がこしらえたものに共感した彼女が、じつに彼女らしい詞を乗せて、彼女ならではの歌声で聴かせてくれる名作に違いない。

そんなこんなで、このアルバムにも触手を伸ばしてしまったのだが・・・
録音のきっかけは、YELLOW JCKETSのピアニスト、ラッセル・フェレンテがファンレターに返事を書いていたら、奥さんから男性からばかりだと指摘され、女性ファン開拓を期して制作された作品なんだとか。。。
そうCDのライナーノーツに記されていた。

正直、このグループはこのCDとその前の“BLUE HATS”というアルバムしか聴いたことがないのでサンプル数は少ないと言わざるを得ないが、硬骨漢ばかりが好むサウンドメイキングであるとはそれほど思わない。
でも、その2作からだけでも、押しも押されぬ地位を築いたグループゆえの他に代えがたいテイストをもっていることが確かに感じられる。
さらに驚くべきは、その感覚がすでに普遍性を獲得していると思われることである。

なぜだろう・・・?
彼らの醸し出す音楽が一級品であることは疑いはないのだが・・・なぜにこうまで違和感なく聴けてしまうのか?
もしかしたら知らず知らずテレビや街中のどこかで彼らのオトをきかされていて、サブリミナル効果で刷り込まれ慣らされてしまっているとか・・・
潜在意識が無意識のうちにステマ攻撃にあってるようなものかもしれない。


さて・・・
このアルバムを入手しようと思った動機は、実はもう一つある。
それは、日本盤のボーナストラックに収められたジノ・ヴァネリの“Livin’ inside Myself”のカバーの存在。
いや・・・
これがあったからこそ今このディスクが私の手許にあるのであって、ブレンダ・ラッセルの佳曲が入っていることの方が従だったかもしれない。


ジノ・ヴァネリは、NHKで放送していたかの「むしまるQ」において、代表曲“アパルーサ”のパロディ曲、その名も「ナメク☆ジノバネリ」という曲にのせて、ナメクジの根性を称える題材として採られたほどの大物歌手である。
なんじゃそりゃと思う向きもおありになろうが、むしまるQのパロディ曲のネタ歌になることの意義は重大で、私にとっては世界を舞台にした音楽界での第一人者の証であることを意味する。
わかりやすくたとえるなら、殿堂入り・・・
もっと具体的言えば、日経で「私の履歴書」が書けるぐらいの実績を残した斯界の重鎮・・・といったところになるだろうか。

そして、この曲はジノ・ヴァネリの1981年のアルバム“Nightwalker”所収の大ヒット曲。
もちろん私はオン・タイムで聴きアルバム自体も所有しているのだが、いつ聴いてもジノ・ヴァネリというアーティストのとてつもない暑苦しさに(うまく心がフィットした場合には)陶然としてしまう名作・・・である。

なにしろこのアルバム全体が8曲しか入ってないくせに、やたらアツクルシイというか濃縮5倍って感じのこゆ~い内容だった。
その前の“Brother to Brother”の“アパルーサ”にせよタイトル曲にせよ、米国産プログレとハードロックとジャズロックが圧力釜で蒸されて混然となったようなサウンド、そのうえさらにハードロック色のソースを重ねてかけたみたいなもんだったといえば、どれだけ強烈な印象を残すオトか伝わっただろうか?

ジノ・ヴァネリは今も健在でジャズに傾倒した音楽を志向しているが、今もって唯一無二のヴォーカリストでありサウンドクリエーターとしても折り紙つきの第一級アーティストある。
しかし・・・
私は彼がある意味もったいない存在に思われてならない。

ある意味と書いたが、我が国で言えば、松山千春的にもったいないと感じられるのである。
つまり・・・
絶対的な歌唱力以上にあまりにも強烈な存在感がいつも圧倒的に迫ってきてしまうのが、気になって仕方ないのである。
ジノ・ヴァネリの、千春の、そこが好きなんだ・・・とおっしゃる方の気持ちはよくわかるのだが、時としてというか、長時間続けて聴くとたいてい私の受忍限度を超えてしまうのである。

クラシック界に置き換えるなら、そう、まさにシューマンのもったいなさ・・・
彼の音楽に身を任せて陶酔し続けられるか、最初はいいと思ってもどこかでくどく思えてきてゲンナリしちゃうかの違いで、ジノ・ヴァネリ耐性があるかどうかがわかるような気もする。

年を取って淡泊になるからついていけなくなるんだ、という方もあるかもしれないしそのとおりなのだろうが、ジノ本人もいつまでも若くはない・・・
それでも出てくるサウンドは頑なにワン・アンド・オンリーを貫き、取り巻きが多少変わってもやはり耐えがたくアツイのだ。

要するに・・・
彼は屈指のヴォーカリストではあるのだが、ブレンダ・ラッセル同様、他流試合をして相乗効果を狙ったときにハマると、とてつもない魅力を放つタイプなんじゃないだろうかな?

そして、その昇華された実例がここ、イエロージャケッツとのコラボにある・・・。

楽曲はジノのものだが、組曲風のアレンジや引き締まったバックのサウンドはイエロージャケッツのもの・・・そのすべてがつくづくすばらしいヴァージョンだと惚れ惚れする。。。

結果として・・・
このアルバムにおける「ノクターン」というコンセプトに壮大さや理屈っぽさがそぐわないとしてハズされ、日本盤のボーナストラックのみの収録に甘んじているのだろうが、まことに惜しいことである。

日本人としては慶賀すべきことだが・・・
フェランテが奥さんに示唆された、欧米のアツイ婦女子の気を引くためには、ぜひ入れるべきだったと思うのは私だけではあるまい。

大物ジノを迎えて、件のアルバム本編に収めない・・・
ってところこそが、実はイエロージャケッツが硬骨漢に好かれるゆえんで、フェランテその人がもっとも硬骨漢なんだということが裏付けられたともいえようか。。。
ともあれ、聴けて幸せ・・・である。


さて、この“Livin’ inside Myself”という曲は、歌詞をつらつら眺めるに「彼女にフラれて、自分を失い、殻に閉じこもっちゃった男」という内容を、このうえなく情熱的に歌っちゃったもの。


かねて私は・・・She is living inside myself・・・だと理解していた。
彼女の思い出とともに生きよう、彼女は自分の中で永久に生きている・・・というふうに。。。
私がこの歌に仮託したシチュエーションも、先のブレンダ・ラッセルに関する投稿のとおり、「いつまでも他人の思い出とともにある」、「心の中で思い起こしうるかぎり誰も死んだりしない」・・・というものだったわけなのだ。


でも・・・
本当の主語は「I」で、いじいじした軟弱なヤローの歌だったとは。。。

そんなこんなで、勝手にひどく失望したことを覚えている。
ジノ・ヴァネリのせいではもちろんないけれど、かえすがえすも残念!!


日本語は主語をしょっちゅう省略するけど、英語は基本的にそうではない・・・と昔習った気がするが、やはり主語を省略しちゃうと間違いは起こるものである。
これは何も詩に限ったことではなく、日常生活全般に当てはまるだろう・・・。
仕事にあってもコミュニケーション上の間違いが起こらないよう教訓として、心に留めておくとしよう。
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おらが街のFM放送局 i-wave76.5

2013年01月26日 23時30分03秒 | トピックス
おととい、自宅のほど近くにFM放送局が開局しました。

愛知県一宮市・・・
私の故郷の街についにFM曲が開局したかと思うと感慨も一入・・・という気持ちはさらさらありませんが、興味深いことではあります。

冒頭の写真の通り、開局したばかりのFM曲には、自販機の飲み物の値段表よりやや大きい看板が掲げられています。
ビルには「ALTA」の文字があり、大東京の都庁付近を思い出し・・・あれくらいの情報発信力をもってくれるまでに育ってくれよと願うばかりです。

先に、ほど近く・・・
と書きましたが、放送局のロケーションは走ったら電波より先に我が家に着く・・・ことはあり得ないでしょうが、直線距離で走れるばかりか、サッカー部なので全力ダッシュで走ることができる私の息子たちならば、電波に10秒と遅れずに我が家に着くことができるほど近いもんで、少し前から「ふーん、こんなものができるんだ」とは気づいて写真まで撮ってた次第であります。


触れ込みによると・・・

>尾張一宮発!!
>みんなのコミュニティFM。

>身近な情報をいち早くお届け、
>災害時にも頼れるラジオを目指します。

とあり、故郷に戻ったじもぴーの私であること、(今の子供たちと違い)ラジオにとっても馴染みのある世代の私であること、さらには自分の職業柄もあって「身近な情報」とか「災害時に頼れる」とかのコピーを見るにつけ、応援したくなる気持ちはいや増すばかりです。


こうなると、昔、コンポでFMチューナーを持ってたのを手放しちゃったのが残念ですが、時は流れて、いまやウォークマンで十分に感度良好!


本日、9時58分ごろに開局したことを思い出してスィッチを入れたら、サザンのYA・YAが・・・ちゃんと流れてきました。

うん、なかなかいい音じゃん!

と思っていたら、最後のコーラスでフェイドアウトしてあれれ・・・!?


そしたら、10時の時報でした。


い・ち・の・み・や・・・i-wave76.5

FMラジオのDJが、音楽的に局の名前を告げるにあたって、i-waveはともかく、「いちのみや」という街の名はいかにも語呂が悪い。

と苦笑するまもなく、10時代の冒頭は立て続けに私世代は歓喜する曲がつづく・・・

Jガイルズ・バンドの堕ちた天使
ホール・アンド・オーツのキッス・オン・マイ・リスト
オリヴィア・ニュートン=ジョンのフィジカル
マイケル・ジャクソンのビート・イット・・・

これでもかと、あの時代の音楽が鳴ってい~じゃんと思って聴いていたら、突然、村下孝蔵の「初恋」!?

そのあとまた洋楽に戻って、知らない時代のディスコチックな音楽に遷って・・・ボビー・マクファーリンのドント・ウォーリー・ビー・ハッピーが唐突に出てきた。。。

また、キレキレのダンサブルな曲になったと思ったら、寺尾聰の「ルビーの指輪」!?
並べて聴いたら・・・
ルビーの指輪の録音って、曇りガラスの向こうの風呂場で録ったような音に聴こえて笑っちゃいました。
ヴォーカルはそうでもないんだけど、バックの音がボケボケなような気がして・・・
でも、ヴォーカルとは釣り合いが取れていたので、他の曲とならべることは想定せず、その曲内での最適なレヴェルを考えたんでしょうね。

あれ・・・
これも、途中でフェイドアウト・・・!?
と思ったら、ここでも11時の時報でした。

ドメスティック音楽は時報調整用なのかな・・・と思ったのですが、その後はあまりそのようなことはなかったようではあります。


一日、断続的に聴いての感想は、番組表を開示してほしいということと、もっとニュースというか人声がほしいということでしょうか。

情報番組にはあたらなかったな。。。
イケてるDJなんかいらない・・・そんなのこの街にはよかれわるかれあわないんだから・・・んで、所期の目的にそった人材を早く採用・育成して(音楽の垂れ流しではなく)地元密着の頼れる情報源になってほしいと思います。

時間帯によっては、ちょっと自分には合わない曲が多いかなという気もしましたが、なんといっても地元の新しい試みははじまったばかり。

つとめて聴いて、応援したい気持ちに変わりはありません。
頑張れ!



※月曜日(1月28日)の朝の出社途上、ウォークマンで聞いてみたのですが、週替わりで小学校連区ごとの特集を組んでいるようでした。
 なかなかやるな・・・って、企画だと思ったものです。
 試行錯誤を重ねて、市民に受け入れられる存在になってほしいものです。
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思い出のために もしくは 墓(トンボー)によせて

2013年01月24日 01時20分38秒 | JAZZ・FUSION
★PARIS RAIN
                  (演奏:ブレンダ・ラッセル)
1.IDEAL WORLD
2.SHE’S IN LOVE
3.CATCH ON
4.WALKIN’ IN NEW YORK
5.LOVE AND PARIS RAIN
6.EXPECT A MIRACLE
7.PLEASE FELIPE
8.YOU CAN’T HIDE YOUR HEART FROM ME
9.MOVE THE MOON
10.SOMETHING ABOUT YOUR LOVE
11.BABY EYES
                  (2000年作品)

ある悲しい出来事があって・・・
その時間には、自分がたまたまこのCD収められている曲をyou-tubeで聴いていたと後から知った。
いうなれば、このCDはその出来事の「思い出のために」入手したものである。

残念なことを「記念」とは言いづらいし「形見」というのもヘンなので、「思い出のために」とちょっと気取って言ってみたわけだが・・・
チャイコフスキーのあの室内楽曲を多分にイメージしてのことだし、サブで選んだトンボーという言い回しはラヴェルのタイトルに倣ったもの。

これまでブレンダ・ラッセルを特に好きだったわけでもないし、今、自分の手許にこのディスクがあるのはまさに偶然・・・
でも、悲しみが癒えるにしたがって、このディスクの良さがじわじわ感じられるようになってきたのは驚くべきこと。
なんともいえない不思議な感覚になる・・・。

そういうものの、以前からブレンダ・ラッセルについてはそれなりに知ってはいた。
一般的に代表曲と目される「ピアノ・イン・ザ・ダーク」はナンバーワン・ヒットになったほどの曲だし、マイケル・フランクスの名作「SKIN DIVE」で「WHEN I GIVE MY LOVE TO YOU」をデュエットしていたのを覚えてもいる・・・

前者は正直ピンとこないが、後者は何度耳にしているかわからないほど聴いている・・・
もっとも、マイケル・フランクスが主でステキなデュエット相手として聴いていたにすぎないのだが。。。

あるいは、アーティスト、ブレンダ・ラッセルの最大の功績はオリータ・アダムスの歌唱でCMにもなっていたと記憶する「GET HERE」をこしらえたこと・・・かもしれない。
彼女が非常に多彩な楽曲を作ることができることは、この作品でも十二分に証明されている。
歌手としても非常にチャーミングなのだが、なんかこうクワッと迫ってくるものがなかったりするせいか、件の「GET HERE」にしても「たかが歌」って感じに留まってしまっていた気がしてならない。

それが、オリータ・アダムスみたいな存在感あるディーヴァって感じの人がが歌唱すると、おんなじ曲でも魂を揺さぶられる感じがして「されど歌」になっちゃうもんだから不思議。
要するに、ベートーヴェン的にいうと「心より出でて心に届く」作品をものにすることができるのだが、表現者としては、よりインパクトのある触媒的な人物に共演・助演してもらうことで活かされるタイプ・・・というのが私の個人的なブレンダ・ラッセル観といっていいのだろう。
でも、そんな素晴らしい楽曲をこれまでいくつも残してきたことだけでもたいしたこと・・・であるのは言うまでもない。

そんな彼女の楽曲を何十年と折に触れ耳にしてはいるのだが、先のエピソードもあり、とりわけ私の心に馴染んだ経緯をもつのがこのディスク。
そんなに気にいったんだとすれば・・・
いろんなアーティストでそうしているように、このディスクから受けた感銘を再体験したいという衝動の赴くままほかのブレンダ・ラッセルのCDを漁ろうと思いそうなものだが、まったくそんなつもりはない。
それは・・・
他でそうした期待が叶えられた経験がほとんどないことをようやく学習して懲りたから・・・
ではなく、本当にこのCDだけで充足できているからである。

ほんとうに偶然に、アーティスト本人のあずかり知らない個人的体験と分かちがたく結びついたことが出会いのきっかけなのだが、全編、まったく心地よく聴ける・・・
この人には、こんな満足できるCDがあるのに他の作品を求めるのはナンセンスというものだろう。
このフィーリングそのものが奇跡的なのに、それを超えるのを求めるなんて容易じゃないに相違あるまい。。。

SMOOTH JAZZ・・・
以前は生理的に受け付けないような気がして天邪鬼的反応をしていたのだが、昨今、それに身をゆだねるのも心地よいと思えるようになった。
日和ったんだろうか・・・
いや、諸行無常・・・生きているかぎり、ものごとや人の感じ方は流転していくんだろうな。

いつもの記事と違って、今回、楽曲個々の感想などについてはひとことも触れていないのだが、私のこの個人的な感覚を文章にすることは困難だし、仮にそれができたとしてもあまり意味があるとは思えない・・・
むしろ、それぞれの人に、私と同じような経験に根差したお気に入りの盤があるんだろうなといういうことに思いを馳せてとりとめない駄文を投稿する次第。

あえて情報としての感想を述べるとするならオーディオ面。
このCDがHDCDだとZZ-EIGHTにセットして初めて気が付いたのだが、高音質に恥じない鮮度の高い音が聴かれたことはうれしい驚きだった。
X-50wで再生したときより明らかに相性がいいい・・・そりゃフォーマットが違うから・・・ことが、クリアに実感できた。
HDCDがこんなに実力があるなら、他にもいいのがないかと、こちらは大いに気になるところである。

それと、真に実力のあるアーティストが聴いたことのないレーベルから1枚だけ作品を発表した場合・・・
これは非常な力作、名作であることが多いと感じる。
もとより、そのようなこだわりや良心のかたまりのようなレコード会社が長続きするとは到底思えないので、短命に終わることが常だろうという想像もできてしまうのは残念。
ジェニファー・ウォーンズのフェイマス・ブルー・レインコートを出したサイプレス・レーベルなどがその代表例なんだろうが、ブレンダ・ラッセルのこのCDをカタログに残したヒドゥン・ビーチなるレーベルははたして現在も存続しているのだろうか?
気になるところである。


そうそう・・・
文字通り新婚旅行の「記念」として、パリのマドレーヌ寺院で購入したCD・・・
いい思い出のはずなのに、これが見事に記憶の彼方に葬り去られている。

「連れ合い」とは新婚旅行以来20年近くそれなりにやってこられたと理解しているので、記念品のひとつやふたつ忘れ去っていたとしても祝着至極のはずなのだが・・・
なんかちょっと残念なような気がしないでもない。
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ショパンの権化!?

2013年01月18日 00時45分36秒 | ピアノ関連
★ショパン:バラード全曲
                  (演奏:ジャン=マルク・ルイサダ)
1.バラード第1番 ト短調 作品23
2.バラード第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード第3番 変イ長調 作品47
4.バラード第4番 ヘ短調 作品52
5.アンダンテ・スピーアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
6.夜想曲第13番 ハ短調 作品48-1
7.夜想曲第2番 変ホ長調 作品9-2
                  (2010年録音)

ルイサダは曲者、鉄砲玉みたいな存在だなとずっと思ってきた。
ずっと・・・というのは、彼がDGのショパンのワルツ集を出したときから、というわけだからそうとう「ずっと」であるに違いない。
彼のコンチェルトはあまり聴いていないが、ソロ録音はたぶんシューマンを除いてほとんど耳にしているから、相当な経験値を積んでの私の「曲者」認識なのである。

それが、アマゾンにおけるこのディスクの商品説明に反応してしまった。
曰く、
「フランスのロマン派ピアニスト、ショパンの権化」

前段はいい、チュニジア出身だろうがショパンの活躍したあのフランス在住であることに相違ないのだから。
しかし、後段の『ショパンの権化』、これはいかがしたものか!?

このバラード演奏でのルイサダの演奏も、一癖も二癖もある気がしてならない。
今回も楽曲のエピソードを語るに際して、グチュグチュ・モゴモゴやっている・・・
それは私がフランス語に対するイメージとしてもっているそれのような、きわめて明快かつ丁寧で完成度の高いグチュグチュ・モゴモゴなのである。
ショパンの活躍したフランスの言葉の語り口に似ていると思えてしまうところが、これまた口惜しい・・・。
だからといって『ショパンの権化』であるとは、断じて認めがたいところである。


ともあれ・・・
最後まで耳をそばだてさせられて通して傾聴してしまったのだから、素直に「興味深く最後まで聴いた」とポジティブな評価をして終わらせてしまえばいいのだが、ルイサダ演奏と思った途端に「いやいや、相手は曲者、そんな感想を持つのはおかしい。ましてや『ショパンの権化』なんてありえない」と強く否定せずにはおれないところにジレンマを感じているのは、まさしく不毛というほかはない。

最後まで聴いたとはいえ、この演奏をたとえばウォークマンにいれていつでも手許で聴けるように持ち歩くか・・・と言われれば、そうではないとすっきりいえる。
ただ、この演奏が気にならないかと言われれば、余人をもって替えがたい演奏として、ひとかど以上の存在価値は疑いなく認められるところ。
ときとして、どんなだったか・・・手に取ってしまうかもしれない懐の深い演奏ではある。
そして、少し前のマズルカの演奏とあわせてこのバラードの演奏に、彼の旬を感じることも事実ではある。
ただ・・・
このディスクの取り扱いは、蓮如聖人が『歎異抄』を取り扱ったのと同じようにすべきと直感的に思っちゃうのだからしかたない。


逆に・・・
『ショパンの権化』が誰だったら気が済むのかを考えてみた。

若き日のアシュケナージによる、健康優良児的なショパン演奏がそうかといえば決してそうではあるまい。
じゃぁポーランドの雄、ルービンシュタインがそうなのか、はたまたフランスのコルトーがそうなのか・・・否。

ツィメルマンのバラードや、ポリーニのスケルツォ、アルゲリッチのポロネーズなどなど、一般に至高の演奏とみなされることが多いものが、『ショパンの権化』かといえばこれもまた違うし・・・

ショパン・コンクールで選抜された名盤をものしている、カツァリスやペライア、メルタネンにアモワイヤルなどなどが相応しいに違いない・・・かといえば、当たらずとも遠からずという気はしても、そうじゃなきゃならんというまで確信が持てるものではない。

ハタと思い当たったユージン・インジックならどうか?

煎じ詰めれば、(ルイサダ以外)誰でもいいのかもしれないのである。


さらに・・・
この演奏をブラインドで聴いて、『ショパンの権化』がふさわしいかどうかどう判断するかを想像してみた。
結果は、ルイサダもどきが現れたと警戒して『ショパンの権化』と思えないのではないかというものだったのだが・・・どうしても、この独特のグチュグチュ・モゴモゴが気になって仕方ない。

そもそも・・・
なぜルイサダを「曲者」と思うようになったのだろう?
最初に聴いた、ショパンのワルツはホント独特だった。

そののち、グラナドスのゴィエスカスを聴いたが、これはラローチャのにハマっているときに聴いてしまい相手が悪かった。
スペインの楽曲とは思えなかったと記憶している、これがフランスとチュニジアに挟まれた地中海が舞台とイマジネーションを膨らませることができていれば、イベリア風ではない華やかさもピタッときたかもしれなかった。

プーランクの珍しい曲を録音したかと思えば、そののちの録音オーダーがサティだと怒ってDGを飛び出してしまったのではなかったか?
フランスの一風変わったおっさんなんだから、もっともなオーダーだし、なによりチッコリーニやケフェレック女史のようにサティで一家言をなした大家に対して失礼ではないか、という思いもあった。
また、ポリーニやツィメルマンがDGと腕相撲をして、録音レパートリーを勝ち取っているというのならわかる気もするが、ルイサダとはずいぶん一本気な鉄砲玉だなとやや冷やかな目で見た覚えがある。

で・・・
RCAから出てきたCDが・・・ビゼー。
サティじゃダメで、ビゼーとフォーレなのねってところで、けっこうズッコケて・・・そんなこんなで現在に至っているのだ。

この調子で新譜が出るたびになんやかんや言いながら聴いちゃって、その多くが記憶にこびりついているのだが、なにぶん承服しがたいものとして受け付けられてきた結果、現在のルイサダ観が築き上げられてきている。


現在に伝わる、ショパン最後の演奏会における評などを参考にする限り、デュナーミクなどルイサダのそれと相容れないわけではない気もする。
現にバラード第4番の第2主題回帰以降のアゴーギグなど、たいへん魅力的に感じられる瞬間もあったことは正直に言っておかねばならないかもしれない。
でも、終結部のカオスまでグチュグチュ・ゴモゴモしてて、ここはあんまりピンと来ないのも事実。
そこがまた『ショパンの権化』らしくはないかと言われれば、反論する材料を持っていない。

プログラムは、最後、しらばっくれて大衆名曲の夜想曲第2番で幕を閉じる。

こうして最後まで耳をそばだたせてCDを聴きとおしておいて、普段は読まないライナーノーツまで目を通しておいて、さらにこれだけの駄文を書き連ねておいて、「興味深く最後まで聴きました」と書かないことには素直でないような気がして気が引けることこのうえない。

しかし・・・
やはり私は、ルイサダを『ショパンの権化』と見做すことには抵抗を禁じ得ないものである。
論旨を見れば「ルイサダ氏は常時注目のアーティストで、私との商業上の取引もきわめて活発である」としか読めないため、結論が一致を見ていない気もするが、オトを前にしたときの心は澄ませているつもりでも常時そうはいかないのが人間の性だからいたしかたあるまい。


そして・・・
これからもルイサダの演奏を、怖いもの見たさに、きっと聴き続けることだろう。
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