SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

あづみ野コンサートホール開館12周年・ドビュッシー生誕150周年記念 高橋多佳子ピアノ・リサイタル

2012年11月20日 02時58分51秒 | 高橋多佳子さん
★あづみ野コンサートホール開館12周年・ドビュッシー生誕150周年記念 
   高橋多佳子ピアノ・リサイタル

《前半》
1.ドビュッシー :「ベルガマスク組曲」より、“月の光”
2.ドビュッシー :「子供の領分」 全曲
3.シューベルト :即興曲 第3番 変ト長調 作品90-3
4.シューベルト :即興曲 第4番 変イ長調 作品90-4

《後半》

5.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第3番 ハ長調 作品2-3
6.ショパン   :ノクターン 第8番 変ニ長調 作品27-2
7.ショパン   :スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39

《アンコール》
※ ドビュッシー :「前奏曲集第1巻」より、“亜麻色の髪の乙女”

                  (2012年11月18日 あづみ野コンサートホールにて)

行けてよかった。
あづみ野のみなさんに会えてよかった。
そして、多佳子さんの演奏を聴けてよかった・・・心からそう思える1日でした。

                  
ワイドビューしなのの車窓から木曽路の紅葉を楽しんだのち、少々余裕をもって穂高駅に到着。
穂高神社で七五三の黄色い歓声のなか、ひとり息子のために合格御守を求め天神社をお参りしました。

心だにまことの道に叶ひなば 祈らずとても神や守らん (道真公)

なぜに世間の親がこぞって【受験生を抱えたときにかぎって】天神社を訪れずにおれないかぐらいお見通しでありましょうに、菅公もお人が悪い・・・
いや、菅公のせいじゃないというなら、神社の縁起にそんな歌を紹介しないでほしいよね・・・
などと思いつつ、いつもの道をコンサートホールへ向かいます。

                  

生憎の少雨で壮観な常念岳は拝めず残念・・・
でも、犀川の中州ではシギが羽を休め、頭上ではトンビがクルリと輪を描いて、名も知らぬ鳥が誰のためでもなく美しい声でさえずっているようすを五感で感じながら深呼吸すると、自分自身が風景に溶け込み自然の一部だと実感できるから不思議です。

自分と自分と対峙するなにか・・・
普段は・・・パソコンに向かっているときなどは特に・・・そんな風にしか物事を感じ取れないでいるけれど、本当はそうではない。。。
「自分」という言葉があるから「自分」があると思ってしまうけれど、世の中にあるものすべてから名前を取っ払ってしまえば自分も相手もない世界、言い換えれば「すべてが自分の世界」が安曇野(だけじゃないけど)では体感できる気がするのです。

そしてそれは・・・
何かに時間を忘れて入れ込んでしまったり、ステキな音楽に聴き入ってしまったりしたときにも体感できること。
そんな時間過ごすことを期待して訪れ、そして満たされて帰ることができる・・・ありがたいことです。

ありがたいといえば・・・
ひとつのコンサートの裏側でどれだけの献身があるのかはそれなりに知っているつもりでおりますが、コンサートホール、調律、運営スタッフのみなさんに心から感謝申し上げます。
調律・録音・オーディオなどに関する興味深いお話などというレベルではない貴重なご垂示や、油揚げを裏返しにしたおいしいお稲荷さん、私が驚嘆するセンスのギャグにいたるまで、いろんなものを土産に持ち帰ることができ大満足でありました。

就中、はじめてあづみ野コンサートホールを訪れて6年・・・
ベーゼンドルファーのピアノがますます素晴らしい音に育っていることを実感しているのですが、その調律に関して伺ったお話では、今回はシューベルトにフォーカスし、作曲家・作品ごとの音域はもちろんピアニストのテクニックまで考慮して行われている・・・とのこと。
お話を伺えば「なるほど」と思えることばかりではありながら、その実現のためには、実は生半可じゃない技術と経験の裏打ちが必要であることは容易に想像がつき、それを当たり前に仕上げてしまうプロの仕事に感銘を受けました。
自分の仕事においても、かくありたいものです。

                  

さて、主役の高橋多佳子さんですが、今回も素晴らしい演奏を届けてくれました。
ロイヤルトランペットさん流に今回の名言をご紹介すれば【地で行くピアニスト】でありましょう。

まさに地でいくピアニスト全開!
得難い感銘を与える演奏とのギャップがこれまた信じがたいのですが、それはひとえに聴き手を惹きつけずにおかない演奏の魅力の証左に他なりません。


インティメートな会場だからこそ、いつもながらの客席の後ろからの登場。
『月の光』では、冒頭のピアニシモはピアノの響・会場の空気を確かめるかのようなやや様子見の感もありましたが、クレッシェンドにつれていつものの世界へすーっと誘われ、流麗なアルペジオに乗っての旋律線の表現には早くも我を忘れた陶酔がありました。

これはベーゼンドルファーの特徴的な芯のくっきりした音、スタインウエイやヤマハなどに感じる付帯音やもれなくついてくると言いたいほどの残響が少ない特徴によるところも大きい・・・かもしれません。

『子供の領分』が、先月岐阜県の関市で聴いたときとの聴きくらべになったため、いっそう確信的にそう思えるのです。
「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」の冒頭など明らかに多佳子さんは聴かせ方を変えているように思えたのですが、これもピアノの性格によるもの、それを生かそうとした技かもしれません。
音の芯がはっきり聞こえるということは、ピアニストの一音一音に対する思い入れがはっきり聞こえるということでもありますが、響や雰囲気でごまかせないということでもあると思います。
どのフレーズをとっても流されない丁寧なタッチにすごいなと舌を巻くと同時に、ピアノそれぞれの持ち味を生かして弾かないといけないからピアニストはタイヘンだと思ったり。。。

で、あくまでも自分の感想としては、関市のピアノと安曇野のベーゼンと比べると、関市の方が残響というか倍音のせいというか音が滲んでいるように響いていたように思われます。
それがいいとか悪いとかに直結しないのがまた不思議なところですが、ベーゼンの方がピアニストのストレートな表現が楽しめると思いつつも、「人形へのセレナーデ」とか「雪は踊っている」の冒頭、「ゴリウォーグのケークウォーク」のトリスタン旋律と合いの手などでは多少滲んで聴こえるほうがむしろ存在感・雰囲気が出たりすると思ったものです。

前半、私にとっての白眉はシューベルト『即興曲第3番』でした。
私がもっともピアノのCDを多く所有している作曲家はシューベルトであり、即興曲集はD960の変ロ長調ソナタと並んで40種類余の演奏を楽しんできました。

しかし・・・
この日の多佳子さんのようにこの曲を弾いた人を知りません。
癒しの音楽として心地よく聴かせてくれる演奏はいくつもありますし、それぞれに得も言われぬ感興を催させられることは事実です。
シューベルトにフォーカスしてチューニングされたというこのピアノから溢れ出したのは、野太い祈り、静謐でありながらこのうえなく荘厳なコラールとでもいうべき地に足がついた天上の音楽でした。
あっという間にあちら側に連れ込まれて五感で受け止め・・・
後から思い直してあの体験をなんと表現しようかと考えたところ「魂のデトックス」という言葉が閃きましたが、要するに懺悔せずにはおれないみたいな気持ちにさせられたのです。

いや、参りました・・・
こんな演奏を「悪魔の悦楽城」のMCに続けて繰り出してくるとは・・・。

『即興曲第4番』はもう何度も聴いていますが、これもまたアッという間に終わってしまったと思えるほど入れ込んで聴いてしまって・・・。

でも、とにかくこの第3番には衝撃を受けて前半を終えました。

                    

後半は多佳子さんをしていつも以上にナーヴァスにさせしめた新曲、ベートーヴェンの第3番のソナタから始まりました。

がんばりますから、とにかく聞いてくれという趣旨の解説がありましたが・・・
ミケランジェリやソコロフでも聴いていたこの曲から、「こんなベートーヴェンがあったか!?」という発見に満ちた興味深い弾きぶりで楽しく聴けました。

とりわけ第一楽章が目覚ましく、音の振幅ではかのハンマークラヴィーアもかくやと思わせるほどの曲だったかと思い至りました。
場面転換が巧みな多佳子さんのこと、ハイドンの疾風怒濤を思わせるようなところや、モーツァルトのチャーミングさを髣髴させるところなど、初期のベートーヴェンならではの初々しい側面をあえてコントラストを大きくとって演奏されていたのかな・・・と。

第二楽章もじっくりと、第三楽章も丁寧に、そして第四楽章は穏やかで自然に聴かせてくれて、この作品への想いがどんなものかを感じ取ることができました。

きっと思いっきり弾いてくれたんだと感じますが、これが寝てても弾けるほどに手の内に入って、件の大家のごとく自然と自分の歌としてあふれ出てくるまでになったとき、どんな高みの演奏が聴けるのか期待大です。

当方の予断をいつも超えてくれるアーティストには、予断のハードルを可能な限り上げて期待していないともったいないですからね。(^^;)


そして、しんがりのショパン2曲。
これを聴いてしまったがために、多佳子さんのベートーヴェンにはまだまだ高みがあると信じられる・・・それほどの演奏でした。

『ノクターン第8番』の出だしのアルペジオ、旋律が現れるまでにあたりの空気は一変して世界が変わります。
いつものことですが、それが高橋多佳子のショパン演奏では起こる・・・
全世界が「その世界」になっちゃうのです。

(トライエム時代の)CDの演奏からもいつとはなく感じられるものですが、生演奏のときにはその現れようが尋常ではない・・・「これが手の内に入るということか」と賛嘆させられる迫力があります。
それを「寝てても弾ける・・・」になったら、いったいどうなってしまうんだろうか、という感じです。

ちなみにオクタヴィアのCDではソリッドな音、CDならではの純度を高めたハイパーな音を志向されているように思えます。これは対象としての音楽を精緻に聴くには素晴らしいソースだと思います。
つまり、神懸かった技巧を針小棒大気味に再現して聴き手を驚嘆させることには効果的ですが、神懸かったアトモスフィアをスピーカーの前に現出させることには向かない音作り・・・と感じています。
現在の「優秀録音」のベクトルはこちら向きであることは否めないので、個人的にはいろいろ思うところはあれ、現代最高峰のトーンマイスターによる仕事であることを疑うものではありません。

話を戻して、『スケルツォ第3番』。
私は多佳子さんのこの曲の生演奏は2007年6月に池田町と八王子で続けて聴いています。

もちろん厳格にコントロールされてのことですが、八王子の演奏ではとどまるところを知らないかの如くの疾走感で聴衆の度肝を抜きました。
聴き終えたご婦人方が、あっけにとられたような顔で口々に「すごいすごい」と言っていたのを(自分の書いたブログ記事を見てですが)思い出したところです。

今回の演奏はずっと落ち着いたもの・・・でも、曲想はまさしく大家のそれとなっていました。
すこぶるつきの名演奏、恰幅もよく揺るぎない・・・それでいて高橋多佳子からでないと聴けないものがある。。。

いえ、ドヤ顔しようが謙遜しようが多佳子さんの場合関係ありません。
紡ぎだされる音のはたらきのめざましさは変わらない、彼女のショパンはそんな思いを抱かせます。


アンコールは『亜麻色の髪の乙女』。
カーテンコールで見せてくれる【地でいく】部分と、得も言われぬこの演奏・・・のギャップ。
気負いなく置く旋律の行きつく先の一音・・・がベーゼンの特性と相俟って、ハスキーに愁いを帯び、言葉にならないすべてを物語っている・・・
こんな瞬間を体験できるだけで、来てよかったなとつくづく思ったものです。


思えば、ショパン、ロシア物、リストにラヴェルにドビュッシーと多佳子さんの演奏を聴いてきましたが、シューマンを除いてはあまり独墺物を聴いてきていない・・・
でも実は、バッハを含めベートーヴェンにシューベルトと埋蔵金のごとくお宝が眠っているかもしれない、そんな思いを強くしました。

もちろんベートーヴェンへの期待が大きいことはいうまでもありませんが、多佳子流シューベルト演奏で、私のかなり確立しているかに見えるシューベルト観を打ちのめしてくれるに違いないと、またしても勝手な予断を楽しんでいます。

それは、今回の演奏中もっとも私が感銘を受けたのが『即興曲第3番』終盤の主旋律に添えられた微かだけれど、主旋律を際立たせるのに絶大な存在感を持つ音たちの献身であり、そのもっとも感動的な表現を聴いたから・・・です。
クラシック音楽の世界が豊饒であることに感謝するほかありません。


打ち上げの席で、ブラームスの作品118-2の話題が出ていましたが・・・これもたまりませんね、ぜひ聴きたい。
スクリャービンの幻想曲で旋律をあのように歌った多佳子さんですから、きっと萌えてしまうんじゃないかと・・・期待は膨らむばかりです。

                  

終演後も暗譜の効用について伺ったり、興味深い話を聞かせていただきました。
リヒテルなどがコンサートにおける暗譜の習慣に一石を投じていますが、確かにそれで失われてしまう恐れがある「よんどころない緊張感」は演奏における生命線のような気がします。
心配なら楽譜を見て弾けばいいと建設的な提案をしているつもりではありましたが、「安心が気の緩みにつながりかねない」と言われれば、たいへんでしょうが頑張っていい緊張感の下、最高の演奏を聴かせてくださいというほかないのかな・・・と。(^^;)

そんな中で、「忘却曲線」の話なんかしちゃったりしたんで、まずかったなと思ってたりしますが・・・。


そうそう、スゴイ記憶力の持ち主・・・
ダニエル・バレンボイムによるベートーヴェンの交響曲・ピアノ協奏曲・ピアノ・ソナタのCD19枚におよぶ全集の話題を多佳子さんがしてくれました。
ロリン・マゼールも人間業とは思えないすごさ・・・だと。

私は、「バレンボイムはあれだけ多忙なのに手帳を持たないことで知られている人」と応じたのですが・・・

記憶力の加齢による低下に懸念を抱いていた多佳子さん・・・
あなただって、B型トリオの再来年1月の予定、同級生トリオの予定もそうですが、場所も日付もバレンボイムばりにしっかり頭にはいってたじゃないですか!

ですから暗譜もぜんぜん大丈夫ですよ・・・きっと。(^^;)

“さろん・こんさーと・せき” 音楽との対話シリーズ No,84 高橋多佳子 ピアノ・リサイタル

2012年10月11日 03時30分07秒 | 高橋多佳子さん
★“さろん・こんさーと・せき” 音楽との対話シリーズ No,84 高橋多佳子 ピアノ・リサイタル

《前半》
1.ドビュッシー :前奏曲集 第1集より 「亜麻色の髪の乙女」
2.ドビュッシー :子供の領分
3.シューベルト :即興曲 第4番 変イ長調 作品90-4

《後半》
4.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13 《悲愴》
5.ショパン   :バラード 第4番 ヘ短調 作品52
6.ショパン   :ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53 《英雄》

《アンコール》
※ ショパン   :練習曲 変イ長調 作品24-1 《エオリアンハープ》
※ ショパン   :夜想曲 第2番 変ホ長調 作品9-2

                  (2012年10月10日 関市文化会館小ホールにて)

行きの高速で気温10℃という表示を見て半そで開襟シャツを後悔しましたが、(すばらしい響きの音響板加工が施されているけど、ステージが高くて体育館みたいな)演奏会場でピアニストの衣装を見たときに文句はいうまい・・・と。
もちろん快適、本当に行けてよかったと思えるリサイタルでした。

ご本人のブログでご活躍ぶりは承知していたとはいえ、音を聴いてすっかり納得。
ますます安定感を増した演奏とときどきドキッとするトークにすっかり魅了されて・・・ステージの余韻に浸るあまり、帰りの道を間違えてしまったほど。。。

そもそもこのコンサート、高橋多佳子さん本人のブログでのアナウンス以外にネットのどこを探しても情報らしい情報はなし・・・
で、連絡先に電話させてもらったもののなかなか要領を得ず、とにかく『当日券がある』という言葉を信じて「伺います」という状態で家を出ました。

なんてプロモーションなんだと思ってましたが、開演時にはほぼ満席。
このシリーズ・・・全く知らなかったのですが・・・84回目ともなると、耳の肥えたお客さんが関市にはいっぱいおられるので宣伝はいらないんですね。
そして、手作り感いっぱいのプログラムをはじめ休憩時のホワイエ(?)の珈琲サービスなど、首都圏のコンサートホールでは望めない独特のこなれた運営がステキでした。

                  

演奏は生誕150周年のドビュッシーから・・・

「亜麻色の髪の乙女」でしっとりと始まり、なにぶんサロン・コンサートなのでトーク全開。
同じフランスの作曲家ラヴェルの「ボレロ」の話からお約束の展開でつかみはオッケー・・・
トークがイケイケの多佳子さんは絶好調の証拠と思って聴いたらその通り、「子供の領分」は初めて聴くレパートリーでしたが、6曲それぞれの1音目からの背景づくりが出色で必然的にキーとなるフレーズがよく映える・・・
最後の音をキメるところも第1曲は杭を打ち込むように、第2曲は脱力・・・という感じで、まったく惑いなくわかりやすい。

印象深かったのは、第1曲の音色のペダルを使った混ぜ合わせ方の新鮮さ、第4曲の雪がちらつく描写でミケランジェリに勝るとも劣らない雰囲気を感じたこと、第6曲のワーグナー旋律とケークウォークの合いの手をはっきり対象的に弾かれたこと・・・
いずれも多佳子さんらしくて、聴いていて楽しかったです。


ここからは幼いころから一生懸命勉強した懐かしいレパートリー・・・

変イ長調好きの多佳子さんが選んだシューベルトの即興曲はやはり第4番。
私はハ短調の第1番が好きで多佳子さんの演奏でも感銘を受けたものですが、もっとも多く聴いているこの曲はやはりすっかり手の内に入っている様子で何度聞いても味わい深いものでありました。

装飾音のきらめきとそれに負けずせめぎあうテナー声部の旋律・・・
もちろん素晴らしい演奏はいくつもあるでしょうが、少なくともこの点は実演での多佳子さんからしか聴けない白眉と感じる大切な瞬間でした。


                  


後半・・・
にこやかに壇上に現れるなり、何の思いれもなくピアノを弾きはじめ・・・おぉ、アルゲリッチみたいだ!
それが何の曲かはネタバレになるかもしれないから書きませんが、後半トークもつかみはオッケー!!

神の受難のハ短調・・・
「悲愴」はあづみのでも聴いたレパートリー、以前の演奏よりも(ピアノの音色の性格が違うせいもありましょうが)一層オーソドックスで安定しているように聞き取れました。

曲がベートーヴェンなだけに衒いなく普通に弾いたらそれぞれの演奏家の個性が自然に浮き上がり、真に魅力あるピアニストなら聴き手を飽きさせることなく聴かせられるはずと、個人的には考えています。
自分を主張する(本人は楽譜に忠実に弾いているといっていることが多いけれど)タイプの演奏をされるピアニストには、しばしば却ってベートーヴェンの良さを損なってしまう危惧がありますが、そこは多佳子さん、浮足立ったような箇所はみじんもなく確信をもって演奏してくれました。

ベートーヴェンでは、高橋多佳子の演奏であることを証明しようとしなくていい・・・
そう思うのですが、第一楽章のグラーヴェの和音を長く保持するところで、調性を決定する音をわざとそれとわかるように途中で消すという未だかつて聞いたことがない工夫をしておられたと思います。
最初はえっと思ったのですが、繰り返しでも、中間部でも同じ処理をされていたので、なにか考えがおありなんでしょう。。。
楽譜がどうとか全然わからないので是非を論じるのは埒外ですが、今でもすごく印象に残っています。

第二楽章、こちらはこの楽章でこれほど癒された演奏はかつてないと感じるほどにしっくりきました。
お好きな変イ長調だからでしょうか・・・
テンポをいじらないのに雄弁で懐が深い。。。
ここでも前打音の扱いに多佳子さんの主張が感じられましたが・・・
こちらにはコロッとやられてしまいましたから(少なくとも私には)効果抜群だったのではないでしょうか。

終楽章・・・
終演後に多佳子さんが言いたかったことはわかったつもりですが、私にはベートーヴェンの良さをもっとも感じられた楽章かもしれません。
第一楽章はピアニスト高橋多佳子の主張を、第二楽章は多佳子さんのよさを感じてましたから、ベートーヴェンの良さが聴けてうれしかったです。


今後ベートーヴェンをもっと弾きたいという多佳子さん・・・
8年後が生誕250周年ですからツィクルスのスタートにはちょうどいい頃合でしょうか?

ソナタ全曲聴ければもちろんいいですけど如いて挙げるなら、第3番、第4番、第6番、第15番、第23番、第24番、第26番以降全部・・・とりわけ第29番、そして弾いてくれていながら聴くことができていない第31番・・・期待が高まります。
すでに聴いたことはありますがテンペスト、ワルトシュタインももちろん大歓迎だなぁ~。

宣言通りベートーヴェンを引っ提げて、また関でリサイタルをしてください。


しんがりはショパン。

私のためにバラ4を入れてくれてありがとうといいたくなるプログラムですが、解釈の基本はCDとも新宿の講習会ともまったく変わらず、本当に練り上げられ完成されたバージョンだということがわかります。
第二主題回帰前のパッセージの疾走感がやはり生演奏という迫力であること、そして第二主題回帰の「希望の光が見える」箇所への入り方がちょっと聴きCD演奏よりは控えめになったけれど実際には感動を昂める効果が高まっている・・・と感じとれます。

何度聞いても感動させられてしまう、ピアニスト自身が「曲が素晴らしすぎて」と感じてチャレンジし続けてくれているからこその魔法なのでしょう。

英雄ポロネーズもしかり・・・
すべての曲をとおして全体を通して演奏の構成がはっきりすっきりしていて、場面切替が自然でわかりやすいことが安心して聴ける秘訣だと感じます。
細かい工夫もほんとうにいろいろなさっていると聴いていてわかる気がするのですが、ディテールにこだわるあまり全体感が脆弱にならないことは、ドキっとさせる美音を武器とする点で共通しながら、かの歴史に名を成す大ピアニストよりもしかしたら高橋多佳子が優っている点かもしれません。

プログラムの最後も変イ長調なら・・・最初に惹いてくれたエオリアン・ハープも変イ長調。。。
これまたこまかなアルペジオの音色のブレンドが、いつにも増して表情豊かで感激。
りかりんさんとのデビューコンサートのソロで聴いたときは、単音の旋律の音色にビンビンきた覚えがありますが、それとは別種の全体としての潤いある演奏が堪能できました。
アンコールのリラックスした雰囲気・・・いや、お人柄がでた演奏だったんでしょう。

ラスト、もう一曲と断って演奏されたのは作品9-2のノクターン。
なにか特別の仕掛けがあるわけではないのに、曲の世界に惹きこまれ、あっという間に終わってしまう・・・
惜しいようだけれど、充足した気持ちでいっぱいになれる、今回もそんな素敵なコンサートでした。

「悲愴」のところでハ短調と対照した変ホ長調を紹介しておられたので、最後はこの調性で締めくくりたかったのかな?
オシャレなアイディアだと思いました。


多佳子さんと、調律師さん、そして関市でこのリサイタルを企画してくれた方に感謝です。

夢の共演! 高橋多佳子とヤングピアニスト (2012年)

2012年01月30日 01時38分53秒 | 高橋多佳子さん
★夢の競演!高橋多佳子とヤングピアニスト

 ※高橋多佳子さんの演奏曲目※

1.月の光/ドビュッシー

2.亜麻色の髪の乙女/ドビュッシー
3.泉のほとりで/リスト
4.ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」ハ長調作品53/ベートーヴェン

                  (2012年1月29日 プラザイースト ホールにて)

今回も聴きに行けてよかった、心からそう思える素晴らしいコンサートでした。
なにより「聴き手を元気にする」、ピアニストが子供たちに語ったその気持ちが言葉のとおりに感じられる得難い機会であったことがうれしいです。
ピアニストのみなさんにはもちろんですが、企画に携わられた方にも感謝したいと思います。


そもそも、この企画は、オーディションで選ばれた小学生から大学生までの11人のヤングピアニストと高橋多佳子さんが連弾するというものです。
私のお目当てはもちろん多佳子さんの演奏・・・ではありますが、まずは、主役は子供たちなのであります。

とはいえ、単なるピアノ発表会とはわけが違う・・・
もちろん身内じゃない人が聴いていてとても楽しい思いにさせてくれる、レベルの高いコンテンツがつまっておりました。


私など・・・
天下のショパンコンクール入賞者が、連弾のセコンドとはいえスターウォーズのテーマや木村カエラさんのButterflyを人前で弾く、それだけでも聴きものだと思うのですが・・・。
セコンドだからこそ、多佳子さんの魅力であるリズムの乗りやテナー声部の音色も堪能できて楽しめるわけですし。


多佳子さんは、プリモの子供たちに合わせて音量も弾きようも工夫しておられるのでしょう・・・
プリモが引き立つようにするのはもちろん、たとえ走り気味になったりミスしちゃったりしたときにも、絶妙によりそってすぐに落ち着きを取り戻させてあげるリードがさすがです。

そんな場合、子供たちとはいえ、上手に弾けたとみんなに褒められても間違っちゃったところは自分でもちろん気づいています。
悔しそうにしている素直さ、純粋さには、きっとこの子たちはまだまだ上達するんだろうなとほほえましく思います。
そんな新鮮な思いとともに、今の我が身を振り返れば、子供たちにひたむきに何かに打ち込むことの大切さをあらためて教えられたようで、反省することしきりです。



さてさて・・・
さすがオーディションを通った才能だけあって、連弾のヤングピアニストたちはみんな上手。最近は音楽を専門に勉強している人たちも受けに来ているというだけあって、レベルが高くなっているというのもうなずけます。

就中、ドヴォルザークのスラブ舞曲を弾いた小学4年生の女の子、特に私の印象に残っています。
しなやかなフレージングやリズムの感じ方は天性のものか、あのチャーミングな弾き振りはまねしようとしてなかなかできるものではありません。
お医者さんになりたいそうですが、ぜひとも音楽も続けてもらいたいものです。


高校生以上の4人には、休憩をはさんで1曲ずつソロを弾く機会がありました。
これだけの人前で演奏することは、この上ない経験となることでありましょう。
それぞれのピアニストに生の音楽を聴く楽しさを味わわせてくれたことに感謝の気持ちを伝えたいです。
そしてみなさんがさらに飛躍されるよう、こころから応援したいと思います。



さて、プラザイーストのピアノは凛とした音色のベーゼンドルファー。
多佳子さんのソロ演奏は、都合4曲とはいえ、それぞれに内容の濃いもので感動の濃さではいつもと同じ、いやそれ以上でした。

コンサート冒頭に弾かれた今年が生誕150周年であるドビュッシーの「月の光」。
いつだったかアンコールで聴いた覚えがありますが、あのときのウルウルの情感たっぷりのそれとは一線を画した奏楽。
雰囲気で聴かせるという感はなく、一音一音をゆるがせにしない、そうでありながら響きの合間からうるおいのようなものが感じられてステキでした。
格調は高いけど、親しみやすい・・・多佳子さんの最近のリサイタルの感想に必ず書いていますが、大家の域に達した境地に思えます。



そして、コンサート最後のミニ・リサイタル。

ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」
単音で弾かれるメロディー、その音色と歌い方ひとつで響きというよりホール全体の空気を支配してしまう手際には驚きを禁じえませんでした。
プロってすごいと思った瞬間ですが、ピアニストとはピアノを手なずけるだけでは足らず、聴き手の心を揺さぶるようアプローチしなければならないということを、身をもってヤングピアニスト達に示された瞬間だったと思います。

ここでこの音に鳴ってほしいという呼吸が、私の感覚とぴったりなのはいつものこと・・・
いえ、私に限らずその場にいる聴衆すべてと一致しているようにも思えます。
しっかり弾き込まれた音楽のうちからじんわりと立ち上ってくる芳香のような味わいは、ピアニストが巧まずして作り出しているのに相違ないわけですから。。。

映像第1集・第2集、版画、レントより遅く、喜びの島・・・いつの日か多佳子さんから聴きたいドビュッシーがどんどん浮かびます。


リストの「泉のほとりで」。
爽やかな小品ですが、一篇の詩集を味わったような量感があったように感じました。
音色の粒立ちのよさ、それも一音一音の比重がちがう・・・
一音一音でさえそうなのですから、それが絶妙に織りなされた音楽そのものの密度たるや相当なものだということは、私が聴いてもわかります。
なるほど、「これがリストか・・・」とうなるほかありません。


そして、白眉のベートーヴェン「ワルトシュタイン」ソナタ、ソロ演奏で誰に遠慮する必要もないからでしょうが、持ち味のリズムや音色が適切なのはもちろん、曲に必要なバスの音も迫力満点。
終始、安定感抜群の演奏で、第三楽章の半ばでは感動のあまり思わず涙があふれてしまいました。
多佳子さんの演奏を聴いたときには珍しいことではないかもしれません。
何がそうさせるのか・・・不思議ですが、ホールの雰囲気の中で多佳子さんの紡ぎだす音に身をゆだねるとそうなって、元気をもらえるのです。

音楽とは、単に聴き手を感動させればよいというだけのものではないとは思いますが、どんな演奏であっても弾き手も聴き手も元気になれるのであれば◎なんじゃないかな?
そんなことも強く感じました。

オクターブ・グリッサンドのパートをどう弾くか?
アラウはここをオクターブ・グリッサンドで弾けないピアノではワルトシュタインを演奏しないと言っていたし、ポリーニの来日公演では会場からのリクエストでオクターブ・グリッサンドのところだけを弾いてほしいとリクエストが出て答えている映像を見たことがあります。
CDで音楽を楽しむことがほとんどの聴き手にとって、ライナーノーツやピアニストのインタビューにあった「弾き手のこだわり」は、安易に捉われやすい罠ですね。

これだけ心に響く音楽であれば、演奏家やある種の専門家でない限り弾き方にこだわる必要もない気がしました。
かといって、演奏家が勝手に楽譜に足したり引いたりを安易にしたりしていいとも思いませんが・・・。


元気にしたいというピアニストが、元気になりたいと思う聴き手を感動とともに元気にしてくれたのであれば、これ以上何も求めるべくはありません。
ただただ、聴きに行くことができてよかった、素晴らしい演奏をありがとうと思うばかりです。


これほどの演奏の後に、アンコールはいらない。
そう思ったほどの感動の演奏だったわけですが、終演後に多佳子さんに聞いたら「まだまだ」とまだ目指すべき高みがあるという。

(リアルのだめといわれるらしいお話とかはともかく・・・)
ことピアノ演奏芸術面に関してはいよいよ大家の風格が誰の目にも明らかな多佳子さんをして、こんな言葉が出てくるのですから・・・
これからその山を登ろうとしているヤングピアニストたちは大変です。


そして、いつの頃かは知らないけれど、かつてヤングピアニストだったころ「ベートーヴェン弾きになりたい」とおっしゃっていたらしい多佳子さん!

熱情、ハンマークラヴィーア、作品109~111など、遠からず聴けることを期待しています。
「ベートーヴェンの旅路」も考えられるべき企画だと思いますよ!

《ショパン with フレンズ》 “2つのロ短調” リストとともに

2011年09月12日 01時58分54秒 | 高橋多佳子さん
★《ショパン with フレンズ》~奇跡の年 コンサートシリーズ
   デビュー20周年記念&ショパン生誕200年記念シリーズ 最終回
    高橋 多佳子 ピアノリサイタル    

第3回 2つのロ短調 リストとともに
 《前半》
1.F.ショパン :ノクターン 第9番 ロ長調 作品32-1
2.F.ショパン :ノクターン 第10番 変イ長調 作品32-2
3.F.ショパン :ソナタ 第3番 ロ短調 作品58

 《後半》
4.F.リスト  :「愛の夢」ノクターン 第3番 変イ長調
5.F.リスト  :ソナタ ロ短調

《アンコール》
1. F.ショパン :「別れの曲」エチュード ホ長調 作品10-3
                  (2011年9月11日 浜離宮朝日ホールにて)

高橋多佳子さんのこの《ショパン with フレンズ》4回シリーズに皆勤できたことはまことに喜ばしいことでありました。

こうして記事に残しているおかげもあり、日々の煩わしさに流されていても読み返せば「ああ、そういえば」と思い起こすことができます。
印象的だったシーンをあのときどのように感じたか・・・
そのころの自分を省みるとき、自分自身が置かれていた立場を客観的な目で振り返ることができる、そんな効果もあるように思うのです。

コンサートには、演奏者である多佳子さんにもいろんな思いがあるでしょう。
でも、その場を共有した人の数だけその場の体験はあるわけで、私とっては音楽だけではなく自分自身のアルバムのひとコマとして、シリーズのピースが欠けることなく揃ったことはそれだけでうれしく思えることでした。

今日もまごうかたなき多佳子さんならではの演奏に触れることができ、随所に高橋多佳子でなければ聴けないゾクゾクするフレーズに出会い、いつものように快哉を(もちろん心の中で)叫びました。
シリーズを(聴くのを)完走した・・・
なんともお気楽な達成感も手伝って、充足感のうちにこうして記事をしたためています。



さて・・・
前回はプログラムが一見地味だったこと、震災直後の特殊な環境であったこともあって、特別な思いで出かけた覚えがあります。
ただ、実際には何かを期したような多佳子さんの充実した演奏に会場がこのうえない一体感に包まれた素晴らしいコンサートでした。

そして・・・
シリーズの大団円となる今回・・・
ご本人が「メインディッシュ」と形容したショパンとリスト、それぞれのロ短調ソナタを前後半に並べて聴けるぜいたくなプログラムです。
「こりゃたいへんだ」と聴くほうの私ですらその重みを感じて浜離宮のホールに向かったくらいですから、弾く多佳子さんのプレッシャーたるやいかばかりかと気にかけておりました。

いや・・・
私が心配することなんかじゃありませんが、安曇野などで何度かお話を伺ううちに本番前のアーティストがいかにナーヴァスになるかを窺わせるようなお話があったもので。。。

でも杞憂でした。
神経質になっている素振りなど微塵も感じさせることなく、今となっては勝手に心配した私があほらしいという感じ・・・
きっとご本人は「違う、もうドキドキだった」といわれるでしょうが。。。



前回の演奏会で・・・
特にショパン演奏について多佳子さんの演奏が一足飛びに円熟したのではないか、そんな確信を得ていました。

多佳子さんのブログで、以前は「脱力」を中心に技術的な克服すべき課題をご自身に言い聞かせるかのような書き込みが目立ったものですが、最近はそのようなことはほとんどなくなってもおられたし・・・
きっと何かを掴んだに相違ないとにらんでいた私。。。

そして、今日聴いて・・・
やはりショパン演奏に関してはゆるぎない「悟り」を開かれたことを再認識しました。

それは・・・
「弾き込まれた作品を十二分に準備したであろう練習時・あるいはこれまでの演奏会のときと同じように演ればよいのだ」そんな自信・開き直りがあるからなのか、あるいは最近の充実した活動が忙しすぎて開演前にいちいち心配しているヒマさえなくなったのか、あるいはどちらも違うのか・・・?
それはわかりませんが、事実だけを誤解を恐れずにいえば「大家」の趣すら漂わせる最初からの奏楽振り。

初めて多佳子さんの演奏に触れた新潟県三条市でのコンサートのときの印象を思い起こすと、やはり成長されたというより別次元の「悟り」を開かれたといったほうがピンと来るぐらい違う気がします。

何が違うって・・・
出てくる音が成熟したというか、風格が増したというか・・・
以前よりはるかにフレーズをいつくしんで弾いておられた、少なくとも私にはそう聴こえたのであります。

とてもチャーミングだけど二枚目半になるおしゃべりはそのまま・・・でしたけど。(^^;)



さて・・・
プログラム中で感じたことを書き落としておきます。

先ほど無用な気負いなく演奏に臨まれたような書き方をしましたが、黒に近い紫のドレスをシックに決めて登場されたときには、衣服に無頓着な私でも「これは勝負服だな」と感じ、多佳子さんのこの演奏会にかけるなみなみならぬ気概のほどは感じたものです。
りかりんさん(宮谷理香さん)と話したときにも、1着のドレスで通されたことについて、よほど演奏に集中されていたのではないかという思いを強くしましたし・・・。

そして弾きだされたノクターン第9番・・・
ピアノのオーバーホールの話も聞いていたのでどうかと思ったのですが、まずは高橋多佳子独特の音色で奏でられ始めてホッとしました・・・


とても大きな呼吸、深い呼吸・・・
ピアニストとの呼吸の振幅がここちよく合っていくのを感じました。


曲調のせいか、座った席の残響のせいか・・・
いつもどこかのきっかけで高橋多佳子ワールドみたいな世界にワープするのですが、麗しい音色に心奪われながらもややソフトフォーカスだなと感じつつ曲も終わりに近づき、コーダではいちだんと印象深く最後の響きが伸ばされる、延ばされる・・・

軽いブレスののち、ノクターン10番の冒頭の和音が絶妙に分散されて響いて・・・
ここから高橋多佳子ワールドが“パァ~ッと”開けました。。。

多佳子さんの魔法の音色に魅了され、呼吸というかフィーリングがゾーンにはまり・・・
こうなるといろんな手業やペダルの操作といった足技、思い切った解釈云々などなどがすべて魔法にかわります。
振り返ると、第1曲はぜいたくなアイドリングだったかのように思える・・・。

別のピアニストがやると奇を衒った解釈とかあざとさと感じるようなことさえも、ワールドに誘われたのちに多佳子さんの手にかかると、ひらめきに満ちた解釈とか神々しさになっちゃうから不思議です。
こう書くと、ピアニストがまるで催眠術師か幻術つかいみたいですが。。。


ソナタ第3番は多佳子さんのコメントでは学生時代、コンクール、プロの最初のレコーディングを通して節目ごとにそばに寄り添っていた曲だそうです。
そんな曲だけあって演奏終了後、会場各所からブラヴォーが飛び交うすばらしい演奏、「聴けて良かった」まさに絶品の解釈でした。


第一楽章はあれだけめくるめく楽想があったはずなのにあっという間にゴールしてしまったようにすら感じるのは、とんでもなく充実していたからにほかなりません。
第二楽章は軽妙でありながら存在感も両立していて・・・これは録音では再現できない世界だと思って息をのんで聴くほかありませんでした。
第三楽章は、(私がボーッとしていたのか)第二楽章からいつのまにか続けて演奏されたように感じてあれっと思ったものですが、始まってしまえば、これまた私のフィーリングとぴったり。充足の極みの音の運び・・・とりわけ最後に旋律が回帰する前のつなぎの単音の雄弁なことといったら、今日の白眉の一瞬だったかもしれません。
そして第四楽章、このようなノリで弾けるのは世界でこの人しかいません。
全編にわたって「これを聴きに来た」というべき高橋多佳子のショパンを、まさに満喫できました。


そういえばショパンとリストの演奏のむずかしさの違いを運転に譬えて・・・
ショパンは細く曲がりくねった道を走り抜けていく最高のドライビングセンスが必要な難しさ、それに対してリストは、見通しは良い道だが大変な坂道を圧倒的な馬力のエンジンで進まなければならない難しさだと説明されていました。
説明者は、分かったか分からなかったか不安げでありましたが、こと私に関しては「言わんとされたことは伝わった」とは感じています・・・もしかしたら、盛大な勘違いかもしれませんが。

そして、多佳子さんはショパンの道に関しては、どんな隘路も目をつぶっていても(とまではいいませんが)走り抜けることができるのだろうとも感じたものです。



後半のリスト・・・
「愛の夢」はどこまでもさりげなく、でも、あくまでも自然に弾いておられるのが私にはかぎりないいつくしみの音楽に聴こえて、通俗名曲などといわれるこの曲の垢がぬぐわれた演奏でした。
以前にはこれほどのいつくしみというか、ここまでフレーズを(意識するまでもなく)大切にされているようには感じられなかったのですが・・・
まぁ・・・
かくのごとく弾くべき人が弾けばベラボーに感動できるからこそ、時の淘汰を経てなお通俗名曲として君臨できるという言い方もできるかもしれません。(^^:)

ようするに多佳子さんの手の内に入った曲で、多佳子さん流に弾いてくれれば、きっと私にはぴったり合う曲のひとつだったな・・・ということを嬉しく確認できたということです。



そしてもう一つのメインディッシュ、ロ短調ソナタ。。。

ピアニストにとってこれを演奏会にかけるということは「清水の舞台から飛び降りるような」挑戦であるという多佳子さんの発言がありました。
演奏を聴いて、嘘じゃないどころか、それこそドン・キホーテみたいとでもいうべき、たとえようもなくとんでもないチャレンジなんだろうなと推測しました。


そういえば・・・
当初からディスクとして公表する目的でこの楽曲をライブ録音しているピアニストは、ベレゾフスキーぐらいしか思い当りません。(調べればあるんだろうけど)
自分で弾けるわけでもないのに、ことこの曲に関して、後世に遺す記録にあえて一発録りでチャレンジするのは無謀だとあらためて思いました。

でも、そんなプレッシャーにも屈することなく、見事に弾きあげて楽屋へ引き上げるときの多佳子さんには達成感と安堵感があったことと思います。
本当におつかれさま・・・といいたいです。^^



さて・・・
演奏前に「(自称)3分間でわかるロ短調ソナタ講座」があって、これまた講師は聴衆がわかったかどうかに疑問を持っておられたようですが、主題の提示をされたことで本当に聞いた経験の少ない方への助けになったと思います。

リストほど同じ主題を繰り返し「これでもか」と押し付け続ける作曲家はいない・・・
ベートーヴェンもQUEENでさえも、そこまでくどくやらないと思われますから、主題の紹介はとってもヘルプフル、ナイスなアイデアだったのではないでしょうか?

私にとってのロ短調ソナタは野島稔さんのディスクではじめて出会ってちんぷんかんぷん、「なんじゃこりゃ!?」という感想を抱いて以来、なぜか躍起になって聴いて大好きになったという曲・・・
今では30種以上のディスクを所有し優に数百回は聴いてますし、このブログにいっとき持っているディスクの感想を片っ端から書き散らかしたこともあるいわば聴きなれた曲であります。


そのうえで感じたこと(希望)は・・・
「高橋多佳子はこの曲を“セッションで”録音するべきだ(お願いだから録音してほしい)」ということでありました。

本日のそれは瞠目すべき立派な演奏だったとは思いますが、正直、多佳子さんなら(弾き込むうちにたとえライブでも)もっともっと全体の構成を踏まえつつ各パートの性格分けを精緻にできるはず・・・。
つまりは、随所に高橋多佳子流の素敵なところ、工夫といったものを見出すことができて「おお!そうきたか!」と感激したものの、きっとこれからさらに全編丸ごと高橋多佳子節に昇華される余地を残す楽しみな楽曲であることがわかった、そしてそれを実現できるのはセッション録音しかないと思っている・・・ということです。



ところで、リストのロ短調ソナタ・・・
私には多佳子さんのいわれる「英雄の生涯」というイメージより、「メフィストの悔悟・浄化・逡巡・昇華」といったイメージが強い曲です。
作曲者に「メフィスト・ワルツ」とか「ダンテを読んで」とかの曲があるから、勝手に私がそう思い込んでいるだけかもしれませんが。。。

で・・・
私が好きなロ短調ソナタの演奏は、ツィメルマン(これは別格)、ポリーニ、ブレンデルといったメジャーの大家に、先の野島稔さん、ハフ、セルメット、そして多佳子さんと同じショパン・コンクールで入賞したサジュマンといった面々によるもの。
アラウ、アルゲリッチ、ボレット・・・
なんて方の演奏も確かにおもしろいけど、好みからするとちょっとずれるかも。。。

このような先入観に汚された耳で聴いていても、多佳子さんの今日の奏楽には目(耳?)からウロコの解釈が、そしてそれが見事に実現されている箇所がそこかしこにあって、最後まで耳が離せませんでした。

たとえば、多佳子さんのいう「英雄の主題」が最初に雄々しく現れる前後などは、ほかの誰からも聴いたことのない表現だったように思います。
右手が和音でリズムを連ねる中、左手でドラキュラの心臓に2度杭を打ち込むような箇所がありますが、あの疾走感と低音の冴え・凄みはツィメルマンとポリーニを足したぐらいのインパクトを感じましたし、その後の英雄の主題には文字通り鳥肌が立ちました。

もちろん、これまで聴いたことがない表現のうちには、新鮮というより多少なりとも「おやっ!?」と感じる箇所もありましたが・・・

だからこそ・・・
全体感としても細部の表現にしても納得がいく解釈に至ったと思ったら、ぜひともセッション録音でとことんまで多佳子さんの魂を込めた音に変換して届けてほしいのです。



今回のコンサート・シリーズは、私にとって、とてもエポック・メイキングな企画でした。
そして、最終回、私は(リストのロ短調ソナタという新レパートリーへのチャレンジがあったにせよ)「これまでの高橋多佳子の(円熟と)集大成」を聴いた気でいます。

多少抹香くさい表現と思いながら、先に「悟り」なんて言葉をつかったのも、多分これまでの練習・本番を通じてピアノを弾くという修行のなかで何かを掴まれたんだなと(傍目に)感じたからであります。

ここで手に入れておられる「悟り」は、多分それだけで、地方のコンサートや地域文化活動で多くの人に感動と喜びをもたらすでしょう。
ただ、そのステージにとどまらずソロはもちろんデュオ・グレイスやB型トリオなどの活動ともあわせて、いろんな試みに精力的に取り組んでいかれるうちに、機が熟し、新境地に至った多佳子さんに会えることがまた楽しみです。


レコーディングに関しても、(先にも述べたとおり)リストのロ短調ソナタはしっかり熟成させてCDとして残してほしいです。
カップリングは、たいせつに寝かせておられるであろう「夜のガスパール」で・・・ってくどいですかね。。。(^^;)


コンサートは「別れの曲」が旋律線をたいせつに、ほんとうに大切に弾かれてしっとりと(何度かのカーテンコールののち)幕を閉じました。



終焉後はいつもお目にかかるみなさんとお話したり、サイン会で写真を撮らせていただいたり・・・
りかりんさんにディスクにまとめてサインをもらったり。。。(^^;)
それらを含めて「行ってよかった」と思いながら、いつものように満足感いっぱいで帰途に就いたのでした。



帰宅して・・・
多佳子さんの演奏によるもうひとつのロ短調を聴きました。

スクリャービンの幻想曲。。。

ここでの若々しく生気あふれる演奏に、聴くたびに新鮮な喜びに包まれます。
やはり、CDとして手許にあるとその演奏を深く知れるわけで・・・ライブとは違う音楽を突き詰める醍醐味を感じるんですよね。



P.S.
デュオ・グレイスのCDの感想はまた聴きこんでから。(^^;)
入念な準備を経て万全に奏された楽曲を、とにかく明晰な録音が捉えているということは強く実感できました。
聴くほどにいろいろ気付くことがあって味わい深くなるんだろうな・・・と思っています。

《ショパン with フレンズ》 ポーランドを愛したショパン

2011年03月28日 01時30分40秒 | 高橋多佳子さん
★《ショパン with フレンズ》~奇跡の年 コンサートシリーズ
   デビュー20周年記念&ショパン生誕200年記念シリーズⅢ
    高橋 多佳子 ピアノリサイタル    

第3回 ポーランドを愛したショパン
 《前半》
1.F.ショパン :ポロネーズ 第9番 変ロ長調 作品71-2(遺作)
2.F.ショパン :4つのマズルカ 作品17
3.F.ショパン :4つのマズルカ 作品30
4.F.ショパン :ポロネーズ 第5番 嬰ヘ短調 作品44

 《後半》
5.F.ショパン :ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53『英雄』
6.F.ショパン :3つのマズルカ 作品59
7.F.ショパン :ポロネーズ 第7番 変イ長調 作品61『幻想ポロネーズ』

《アンコール》
1. F..ショパン :夜想曲 第2番 変ホ長調 作品9-2
                  (2011年3月27日 浜離宮朝日ホールにて)

モナリザのようなポーズをとってくれた多佳子さん、このコンサートを開催してくれて本当にありがとうございました。

さまざまな事情が重なっている中、開催の当否についていろんな考えが頭をよぎったことと思います。
「インフラの問題上は開催に支障はないけれどどうするべきか?」というシチュエーションで決断された答とすれば、あれだけの聴衆の期待に素晴らしい演奏で応えられたわけですから大正解だったと、私は思います。

物理的にムリでなく準備も十分されたうえで演奏に臨むことができるなら、アーティストとしてはそれを楽しみにしている聴衆を元気付けるために最良のパフォーマンスを臆せずされるべきではないでしょうか?
演奏を聴いて元気をもらった私たちが、またそれぞれの持ち場で気持ちよくできることをしていけば・・・
きっと(大袈裟でなく)日本全体がいい循環になると思います。


それに・・・
お目にかかったときにも申しあげましたが、(仕事の都合というハードルもありましたが)このコンサートは自分の誕生日祝いだと思って楽しみにしてきましたから、まずは「聴けた!」ということで感激でした。


私信めいた書き出しとなってしまいましたが、年度末のうえにいろいろあって公私共に忙殺されている中、私にとっては、このコンサートが聴けたこと、演奏が期待していたとおり心に響くものだったこと、プログラム・進行がとてもよかったことなど、総合的に最高のパフォーマンスだったのではないかと思えて、とてもいい形で気持ちのうえで一区切りをつけることができました。

多佳子さん自身も・・・いつものように反省点はいっぱいあると言われるのでしょうが・・・思い切り演奏され、ほぼノーミスで演奏を終えられた(フィギュアスケートじゃないですが)ことに手応えを感じ、それなりには納得しておられる出来栄えだったのではないかとお察ししますが・・・

ともあれ・・・
私という聴き手に関しては、とても癒され大満足だったということだけ伝われば結構です。



さて・・・
前半は、まず(正直言って聴き慣れない)遺作のポロネーズから始まりました。
18歳のショパンの作品ということですが、サロンで持てはやされるであろう曲調で多佳子さんの音色、絶妙なニュアンスのタッチによってウルワシイ曲に聴こえました。
興味深い曲には違いないですし、多佳子さんも感激しているくらいだからいい曲なんだろうけれど、聴きなれてないからか『フィールドの様式で作曲された字あまりのモーツァルト』っていう感じに思えちゃいました。
多佳子さんぐらい曲への愛情を持っていない人が弾いたら、ちょっと私には違うんじゃないかなと思えるタイプの曲かもしれません。

ここでMCが入り、ポロネーズとマズルカについて解説がありました。
曲目については冒頭の曲をいかに気に入っているかという説明はありましたが、この後弾かれる曲の内容についてはありませんでした。
私はこれは大ヒットだったと思います。
聴き手の無用な予断を許さない・・・ことも、演奏家のパフォーマンスを味わう場合には大切だと思うからです。
集っている人の大半はきっと、ここから後の曲目についてはよく知っていたと思います。
よしんば知らずとも、プログラムに下田先生の解説がしっかりあったわけですから、少なくとも今日に関してはベストのMCだったと思います。

続く8曲のマズルカですが、このところ多佳子さんの音楽の重心が低くなり大家の風情を漂わせるようになってきたのではないかと感じさせる演奏でした。
思うに、かねて多佳子さんが達成を目指していた「脱力」がいよいよ完成の域に入って、以前よりずっとリラックスした音楽の雰囲気作りを可能にしているのではないか?

聴き手である私もリラックスできちゃったため思わず寝ちゃいそうでしたが、曲が短かったのでなんとか持ちこたえられました。

ともあれ・・・
安定した伴奏に乗って、右手が思うままにニュアンスを紡ぎ出すことによって音楽に立体感が生まれているのではないか・・・
なんて、わかったように書いて実は的外れだったらみっともないですが、けっこう一筋縄ではいかないリズムと旋律線を自然に聴かせてしまうことは、実はとても凄いことだと思います。

われわれがカラオケに行って、ミスチルやバンプの歌を歌ったときに、オリジナルの桜井氏や藤原氏が見事にメロディーに乗せている歌詞がしょっちゅう字あまりになったり、リズムとケンカすることを思っても、あのマズルカの1曲の中で“楽譜どおりに”表現されている内容の多彩さと据わりのよさは驚異的であります。

1曲だけコメントすると、作品17-4の多くの演奏が私にはジャズっぽく聴こえて仕方ないのですが・・・
多佳子さんの演奏だと真正なクラシックの曲に思えたことが印象的でした。

ポロネーズ第5番・・・
大好きな曲ですが、CDではこれはと思える演奏になかなかお目にかかれない曲です。
多佳子さんの“ショパンの旅路”を聴くまでは、アシュケナージの演奏がいいのかなと思っていましたが、どことなくちょっと違うというイメージがどうしても拭い去れませんでした。

リストが絶賛したというこの曲、たしかにリストが褒めたくなりそうな曲ですが、多佳子さんの実演に触れてはじめてこういう曲だったのかと得心が行きました。
終始ニュアンスに満ち溢れ、途中ユニゾンで駆け上がっていくフレーズでも最初と2回目では微妙に雰囲気が違っていたり、妖しい芳香を撒き散らすようなところもあって、まさにメフィスト・ポロネーズという表現がぴったりの曲・・・
最後の低音部に消えていくリズム・音色にゾクゾクしながら・・・
脱力の成果なのでしょうか、何故鍵盤を叩かないのにあんな音量が飛び出すのかと思われる最後の和音で前半は大団円。

この演奏を聴いて、今日の多佳子さんは調子がいいと確信しました。
このところお忙しいようなので練習がオーバーワークではないかとか、諸般の事情から気苦労や気負いとかがないかとか、ファンであれば心配したくなるところですが杞憂でした。

まぁ仕事というものは忙しい人に集中する、それはその人の仕事が任せるに足るものだからという理由によるものであります。
忙しい人は、余計なことを考えている間もなく目の前の仕事に対していいパフォーマンスをするということでありましょう。
私もかくありたいと思いますが、なかなかそうもいかないようで・・・。(^^;)
だから、こうしていい音楽を聴いてリフレッシュを・・・というわけであります。



後半ですが、嬉しいことに前半を大きく凌駕する印象を残してくれました。
これはきっと私が聴いた多佳子さんのベストパフォーマンス、少なくともその有力候補になりうる鮮やかな演奏だったといえるものでしょう。

英雄ポロネーズは何度か実演でも聴いています。
その都度、ディスクで聴くよりもはるかにファンタスティックに弾かれるのを素敵だと感じていましたが、今日は(遠い席で響がかなり入って聴こえたこともあり)華麗さ、派手さはすこし抑え目であるように聴こえました。
音楽の重心が低いというのはここでも強く感じたところ、一部の旋律のタッチが粘り強い音になったのではとも感じました。
この音は・・・
デュオ・グレイスのコンサートでりかりんさんのソロ演奏で感じたときのものではないかと思い当たったのですが、気のせいかもしれません。
レコーディングまでされるほど一緒に仕事をされていて、呼吸を合わせている間に相手のワザを自分のものにしてしまう・・・北斗神拳奥義「水影心」みたいなことが達人になるとできるんだろうかとも思いましたが・・・
いや、むしろ影響がないというほうがおかしいのかもしれません。
結論が、あるかもしれないしないかもしれない・・・ということに変わりがないのは、申し訳ないことです。

作品59のマズルカも同様に、多佳子さんの実演のすばらしさをこれでもか堪能できました。
アルゲリッチの演奏で初めて聴いて、特に作品59-2はマズルカ中の最高傑作だと思い込んできました。
なぜ、ミケランジェリはDGに録音した10曲のマズルカに採らなかったのかすっと残念な気もしていましたが、彼はそれほど好きじゃなかったのかも知れず、言っても仕方のないことです。

3曲をつなぐ間の取り方・・・
アタッカではないですが、まさにここしかないというポイントで3曲を有機的に結んで、ひとつのまとまった曲のように聞かせる演出もステキ。

1曲目イ短調のモノローグのようなニュアンス豊かな出だしにふっと絡んでくる左手の魅力的なこと、その後も徹底的に研ぎ澄まされた音が立体的に聴こえて耳は釘付け・・・
2曲目変イ長調の音色も絶美、とりわけ中間部の左手で奏される旋律の美しさは多佳子さんの特徴とはいえ、わかっていながら心に沁みてきます。
そしてこの曲が静かに幕を下ろしたとたんに、激しく3曲目嬰へ短調が始まり・・・
これも常套手段だとわかっていながら、あまりの場面転換の鮮やかさに引きつけられるばかり。
また、なぜあの手の動きでピアノがあそこまで鳴るのかと驚かされることもあわせて、ブラヴォーな演奏でした。

そして、プログラム最後の幻想ポロネーズ・・・
この演奏を聴いたことはきっとずっと忘れないと思います。
多佳子さんの実演は初めてでしたが、この曲がこんなにコンパクトに聞こえたことはかつてありません。
ディスクではアルゲリッチの切実さがあふれた演奏に最も共感してきましたが、今日の多佳子さんの演奏はその切実さにおいても曲想のスケールにおいても遥かに凌駕するものだったと言い切ってしまいたいほど素晴らしいものでした。

多佳子さんの演奏からは何度もこのように思わせられているものですが、ヴィトゲンシュタインの「人は語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉を言いたくなるほど筆舌に尽くしがたい・・・
竜宮城が絵にも描けないぐらい美しいのと同じ感動でプログラムを終えました。
(文字がいっぱいあるのに何も説明していないことが気になるレポートだなあ。)

幻想ポロネーズの最後を大きな呼吸、底光りするような音色で収斂してきた後、高らかに最後の和音が鳴らされると、一瞬息を飲むような間があって会場からは“当然に”割れんばかりの拍手が沸き起こりました。


正直、この演奏の後にアンコールなんて必要なのだろうか、そうでなくとも弾けるのだろうかと思っていましたが、1曲だけと断って多佳子さんはノクターンの作品9-2を弾いてくれました。

多佳子さんのアンコールは本番の緊張が少しほぐれた開放感があるのが特徴で、それも楽しみなのですが、今日は旋律線をひどく大切にした演奏振りでした。

そうか・・・これは祈りなんだな

と勝手に合点してコーダ以降の澄み切った音の残した余韻を噛みしめて素晴らしいコンサートは幕を閉じました。



さて・・・
祈りに関連してではないですが、コンサートでは多佳子さんがステージから東日本大震災被災地への募金を呼びかけをされました。
そして、なんと、ホワイエでは笑顔のりかりんさんが募金箱を抱えておられました。

これは考えようによっては凄いこと・・・
野球に喩えたら、楽天の岩隈投手が募金を呼びかけてマー君が箱を持っているのと同じぐらいのインパクトではありませんか?
いずれにせよデュオ・グレイスのお気持ちは、多くの人にきっと届いていたと思います。

また・・・
折からの節電モードで地下鉄の自販機が動いていなかったので飲み物に不自由した人がいたでしょうし、ホールへ向かう道すがら、あるいはホワイエも灯が間引きされていました。
確かに違和感はありましたが、ことコンサートにおいてはいい演奏が聴けさえすれば全然問題ないんですね。
逆に、いかに私たちが必要以上に灯がついている状態に馴らされてしまっているかということを痛感しました。
この灯が100%点くことが復興ではない・・・そう思います。
不要な電気を使わない、私はこれを励行する先に復興があると感じています。
でも、計画停電ははやくナントカして欲しい。(^^;)


最後に特筆すべきは、多佳子さんのスピーチがすばらしかった。
本当はもっと曲目紹介や、楽しいお話をされたかったのかもしれませんが、開催の趣旨・経緯とショパンをいかに愛しているかは十二分に伝わりました。
コンチェルトを例にとったマズルカとポロネーズのお話も興味深かったし、私には今日ぐらいの分量のコメントがちょうどいいですね。
多佳子さんにしてみれば、節約モードだったかもしれませんが。

さて・・・
私も、お父様といろいろ話させていただいたことなどネタもありますが、明日の朝、計画停電があるかも知れず、私もいつもよりは分量節約モードでレポートを終えることにします。


自分では節約モードだと思っているものの、それでも結構長いですね。^^
本当に必要最小限でレポートするなら「最高に感動した、特に後半は筆舌に尽くしがたかった」これだけでオシマイなんですけどね。

次代を拓く才能の萌芽の発掘

2010年10月17日 23時58分57秒 | 高橋多佳子さん
★シューマン:クライスレリアーナ、謝肉祭、トロイメライ
                  (演奏:高橋 多佳子)
1.クライスレリアーナ 作品16
2.謝肉祭 作品9
3.トロイメライ 作品15-7
                  (2010年録音)

ショパンの命日の今日・・・
開催中のショパン国際コンクールにおいて日本人のコンテスタントが残念ながら姿を消したという報を高橋多佳子さんのブログで知りました。
このところかならずといっていいほどファイナリストは輩出していた我が国ですから、第三次の予選を前に全員が通過できなかったという事実は・・・参加者のみなさんの想像を絶する努力に敬意は表しつつも・・・やはり残念に思います。


私の場合・・・今回もそうですが・・・コンクール途中の情報は追っても、その場の演奏を直接聴くことまではしていません。

すべてが終った後に、ディスクになって出てきたウィナーの、あるいは印象的な入賞者たちのフレッシュな商品を楽しむのが常、それだけでも膨大な情報量であるので、そこまではちょっと追いきれません。

そのディスクさえ、審査員による公明正大な振るいにかかっているとはいえ、私の流儀、審美眼に照らしてみればなお玉石混交と感じることが普通です。


ブーニンのワルツを聴いたときはこれはまさしく天才だと思いましたし、ヨッフェのワルツにはこれをキライなひとはいないだろうという普遍的な魅力を感じましたし、フリッターのノクターンにはノーブルで静謐な魅力を感じましたし・・・
ことほど左様に、このコンクールの入賞者の顔ぶれを眺めてみるとには『泣く子も黙る』というより、『泣く子もはしゃぐ』『泣く子も血沸き肉踊る』『泣く子も笑う(微笑む)』ような演奏をする人が多いように思います。

ぐうの音もでないほどに黙らせちゃうのではなく、少なくとも泣き止ませ落ち着かせるような資質が、正統的な表現方法の中で成就されていることが求められている・・・私にはそう感じられます。

とはいえ・・
「なんでそこをそんなふうに弾くの、あんたそんなに上手なのに!?」という鼻っ柱の強い演奏家がいるのも確かであり、それも楽しみの一つといえばそういえなくもないので、そういうことにいたしましょう。

その演奏家の正義であり審美眼に誠実な演奏が成し遂げられているのなら、そしてそれを受止める器量のある識者なりオーディエンスがいるのであれば、とても尊いことに相違ありません。



さて・・・
問題は邦人入賞者が久方ぶりに途絶えてしまったことでしたが、これはどうしたことでしょう?
今回のコンテスタントの準備が以前に比べて不十分であったとは(聴いたわけじゃないけど)思えません。

ずばり・・・
いろんな意味でショパン国際コンクールが求めている資質を満たした奏者が減り、我が国の風俗・慣習の中からは培いにくくなっているのではないか・・・これが私の思っているところです。


ショパコンと言えば「ポーランドの・・・」と冠が付くのが常であるとはいえ、私にはウィナーの顔ぶれはむしろポーランドを意識しないわけではないとはいえ、むしろ自己の偽らざる資質を開陳しようと努力している人が殆どであるように思います。
高松宮様の世界文化賞を受賞したポリーニ、泣く子も音楽の世界に取りこまれるアルゲリッチ以下オールソン、ツィメルマン、ダン・タイ・ソン、ブーニン、ユンディ・リ、ブレハッチと、ポーランドの至宝はいるにせよ、これこそポーランドなんていう演奏をする人はいない・・・代わりに、これこそこの演奏家の真骨頂という奏楽で私たちの耳を楽しませてくれるアーティストばかりであります。


要するに・・・
ショパンコンクールとは、そのような「次代を拓く才能の萌芽」を見つける役割を伝統的に担っているコンクールなのではないでしょうか?

そしてそのウィナーは、次代に合った演奏をする人ではなく、次代を自らの音楽性で切り開いてトレンドとなる人・・・

そうなると弾けるだけじゃダメということで、先の民族性の風俗・慣習のなかから必要なエッセンスを学び、足らない部分はどこかで補わなければならない・・・
そして、自分の芸術を普遍的でありながら突き抜けたものに昇華させる、少なくともそれを予感させるまでに準備しえた人がなるのだと思います。


少なからぬ例外もありますが、私にとって曲の解釈それ自体は、日本人ピアニストの感覚がもっともしっくりきます。これは私と同じ風俗・慣習の中にあり、日本語を話すように演奏してくれるからであるのかもしれません。

しかし、音楽を聴いてハッとしたり、思わず心ときめかせてしまう非日常的な感覚にいざなってくれるアーティストには、なぜか外国の演奏家が多いのは不思議です。

自分にない要素を、風俗・慣習あるいはそれ以外の要素を自分のものとして身につけてらっしゃるからでしょうかね。(^^;)

つまり、ノーベル賞の科学者じゃないけれど、我が国の風俗・慣習だけではなく、積極的に自分の資質を開花させるにふさわしい舞台へ打って出て、自らの慣習を習慣づけによってより色合い豊かなものに肉付け・深化させることが必要なのではないか・・・ということです。

傍で言うのは簡単ですけど、するほうはタイヘン・・・ですけどね。

何も外国に行けというのではなく、自分の中に眠っている未知の普遍的な資質を見つけて開花させる努力をしないといけないということなんですが、勝つためになすべきことはそんなことではないかと思ってしまうのです。

次代のニーズを読んでそれに見合ったものを身につける・・・
これでは本末転倒で、自分の流儀を次代のメインストリームにする、それを可能ならしめるぐらいの気概と実力をもってコンクールに臨まなければ・・・。

きっと今回の国籍に関わらずどのコンテスタントもそう思って臨んで必ずしもうまくはいかなかった人もいたのでしょうから、いわゆる武運に左右されるところもあるんでしょうけどね。


その解釈に共感できるといいながらも、突き抜けた恍惚体験みたいなものを感じさせてくれるアーティストが我が国に少ないといいましたが、もちろんいないわけではありません。

これだけ名のあるアーティストが、コンクール歴を持っているいないに関わらず露出している中にあっては、新人とて新味を維持することは難しい、いや、新人であるからこそ難しいのではないかと思います。

いわゆる神童の演奏は、やはり神童どまりの演奏であることが殆どで、見事飛び切りのアーティストに成長を遂げることを得た元神童のアラウにせよキーシンにせよ、この脱皮こそがもっともタイヘンだったと述懐しているとおりですから、タイヘンなお墨付きを得た・ウィナーやファイナリストとて安閑としていることはできますまい。


何がいいたいかといえば・・・
既に功成り名遂げたアーティストがたゆまぬ研鑽を続け、自らのウリである資質はそのままに、新しいレパートリーを開拓したり、再録音すればさらなる納得の深化の境地を見せている現実を目の前にして、それでもなお新進のアーティストが自分の演奏を世に問わねばならない必然性を主張できるかということであります。

そして・・・
評価するのは自分ではなく、往々にしてオーディエンスであることを受け容れることができるのか?

それでいてよくいわれる、昔のすし屋の親方のごとく「オレの鮨が食えねぇっていうのか!?」という演奏ではないだろうというところも難しいかもしれません。

自分の王国でしか通用しないような流儀・・・

ポゴレリチなんかはそれに近かった(支持も多かったようだけれど)のかもしれませんが、コンクールに勝つためには普遍性を備えていること、あるいは普遍性を気にさせないほどにユニークなことが必要で、普遍性と対決したところにユニークさを求めると、それが誠心誠意を込めた芸術であったとしても商品としては成り立ってもウィナーという権威は手に入れられないのではないぁ・・・
とまぁ、そんな気がするのです。


次代を拓く才能の萌芽を培うためには時間も必要でしょう。
ぜひ次回はヒーローに登場してもらって、日本人のウィナーが誕生することを期待したいと思います。



今日はいっぱいショパンを聴きました。

このバックステージで紹介したものはさすがに“ヘビーローテーション”でして、メジューエワのスケルツォ、りかりんさんのSONATA、レオンスカヤのスケルツォほか、ケフェレックの作品集、ザラフィアンツのバラード集、アモワイヤルのノクターン集・・・は手近においてあることもあって、この順番で私の耳を楽しませてくれました。

これらの境涯にあるひとが、全身全霊を込めて目の前のレパートリーに対峙し取り組んでいるわけですから、新人さんたちにいかに才能と時間と自由があるとはいえ、厳しいなと思わずにはいられません。

私とて、そんなに間口を広げることは物理的にムリですから、これらの気になるアーティストを追いかけるだけで実際のところ需要はいっぱいいっぱいですからね。。。

特に新星が現れなくても、きっと不満に思うことはありません・・・。


そして・・・
最後に高橋多佳子さんのバラード&スケルツォ集を聴いて寝る・・・と。(^^;)



いまさらではありますが・・・
冒頭に多佳子さんのシューマンのディスクを置いたのは、何度か聴き込んでの感想を未だここに書いていないからにほかなりません。

一言で言って、とってもすっきり耳馴染みのよいシューマンで、特にクライスレリアーナをこれほどすんなり気持ちよく聴けたことはこれまでにありませんでした。

潤いも華やかさも感じられるのに、シューマン特有の灰汁というか暑苦しさとは無縁の本質的なエッセンスだけを掬い取った好演だと思います。

シューマンのそういうところがお好きなかたにはもしかしたら・・・という気もしないでもないですが、想像するにシューマンのほだされたようなところがお好きな方には、多佳子さんの演奏には独特のパッションにインスパイアされて、それにご自身のシューマン体験を重ね合わせて楽しまれるのではないかと思うのです。


謝肉祭はさすがにクライスレリアーナより派手ですが、それでも乱痴気騒ぎとも、ミケランジェリのような超微視的な演奏とも一線を画した演奏、それでいてクールとか客観的な演奏に陥っていないのでシンプルに聴きやすかったと記しておきましょう。

ストレートにさわやかな印象を与えてくれる名演、私にとってはリヒテルの色とりどりの小品、ポリーニの交響的練習曲やアラベスクと同じぐらい素晴らしいと思った演奏でありました。

トロイメライで余韻を残して締めくくるのも、多佳子さんらしくてナイスアイディアです。


しかし・・・
幻想曲ハ長調、これはアラウとボレットの演奏をもっともしっくりくる演奏と思っているのですが、思っているだけでなんかこう決定盤という気がしないでいるのが実情であります。

エドナ・スターン嬢の演奏には「おぉ!」と思わされましたが、現代ピアノの演奏によるものとなると、もしかしたら決定盤とはまだめぐり合っていないのかもしれません。

多佳子さんには続編も期待したいものですね。 ←期待ばっかり膨らんでいきますが。。。(^^;)


幻想曲の実演では、そういえば揚原祥子さんのリサイタルがすばらしかったことを思い出しました。
そのとき一緒に聴いた幻想小曲集作品73もすばらしかったのですが、なかなかこの曲をディスクにしている人がいないのでもう一回聴きたいなという思いがあります。

でも・・・
ダヴィッド同盟舞曲集は・・・何枚もディスクを持っていますが・・・どなたが弾いても好きになれそうな気がしません。

ショパコンの日本人コンテスタントがいなくなってしまったこととあわせて残念です。

《ショパン with フレンズ》 “ピアノと文学”~シューマンとともに

2010年09月12日 02時57分00秒 | 高橋多佳子さん
★《ショパン with フレンズ》~奇跡の年 コンサートシリーズ
デビュー20周年記念&ショパン生誕200年記念  高橋 多佳子 ピアノリサイタル    

第2回 “ピアノと文学”~シューマンとともに
《前半》
1.R.シューマン :アラベスク ハ長調 作品18
2.R.シューマン :クライスレリアーナ 作品16

《後半》
3.F.ショパン :バラード 第1番 ト短調 作品23
4.F.ショパン  :バラード 第2番 ヘ長調 作品38
5.F.ショパン  :バラード 第3番 変イ長調 作品47
6.F.ショパン  :バラード 第4番 ヘ短調 作品52

《アンコール》
1.R.シューマン :謝肉祭 作品9 ~ 第12曲 ショパン 
2.F..ショパン  :ピアノ協奏曲 第2番 ~ 第2楽章 (高橋多佳子編:ピアノ独奏版)
                  (2010年9月11日 浜離宮朝日ホールにて)

今日、はじめて開演前にコンサートのレポートを期待しているというお言葉をいただきました。
もともと書く予定でしたが、もしお声がかかったのが「オーダー」だとしたらこれほど光栄なことはありません。
もともと楽しむために会場に来ているわけですが、否応なく気合を入れて、聴くことになりました。

コンサート会場では、お名前を存じているかどうかは別にして、私以上にピアニスト高橋多佳子を気にかけておられる人がいっぱいいらしゃることを感じます。
終演後のサイン会で、いくら一人ひとりに丁寧に応対されているとはいえ、1時間余も列が絶えないアーティストはそんなに多くはいない・・・私はそう思います。

多佳子さんのことが気になる人、多佳子さんを気遣う人たちならではのいろんなお話が伺える(けっこう私も喋るけど)ので、待ってる間も気にはなりません。

わけても・・・
ひとりのリサイタルのときはいざしらず、最近さまざまな共演者を迎えてコンサートやメディアに出る機会のレパートリーが必ずしも多佳子さんに合っているものばかりではないのでないか?
特に何度かあったラジオ収録の時のプログラムは全国にアピールする機会でもあり、相手を立てる楽曲ばかりでなく、もっとご自身の良さが発揮できる選曲があるのではないか・・・
このような問題意識をお持ちの方まであり、思わず唸らされてしまうばかりです。

全国放送と言われても、これまでのものは聴いていないし、ご本人から10月9日オンエアと告知されたNHK-FMのデュオ・グレイスにせよ、何を弾かれたかはそういえばわからない。。。
しからば・・・
と思って入場時にもらったチラシでアンサンブルのものはないか、と見たらありました・・・
E.ジラールさん、神谷未穂さんと一緒にサン=サーンスのハバネラ、ドビュッシーのチェロ・ソナタ、ラヴェルのピアノ・トリオ・・・
なるほど・・・

全部聴いてみたい曲ばっかりじゃないか!?
・・・と書いてしまうと「裏切り者」と言われてしまいますな。。。

そうじゃなくって、これらが多佳子さんにあっているか・・・を論点としないといけないでしたっけ!?

それじゃ、聞いてみないとわからないというのが答・・・になってしまいます。(^^;)


でも・・・
ブラームスの1番のトリオは名演だったと思いますが、そのほか聴いていないレパートリーではメントリとかショスタコのトリオとか・・・
本当に幅広く手がけておられるし、他の楽器のソリストの意向を汲んでなおケンカしないでアンサンブルしようと思うと、どうしてもガマンしなきゃならない瞬間も出てくるのかもしれないと、気にかけておられる方の言い分に納得もできます。

私も会社の先輩とバンドを組んでいたときに、自分のやりたい曲はどんどん言えといわれ、どんどん言ったのに採用されたのは後にも先にも1曲だけだった時にはフラストレーションがたまりました。

そこを気にかけておられる大ファンがおられる。。。

自分の実力を発揮できる、いやアンサンブルが気持ちイイ以上に自分が弾いていてきもちのいい聴き映えのする曲も選んで欲しい。

アーティストにとって、選曲にまでこんな思いを抱くファンがいるとしたら最高に幸せなことなんじゃないでしょうか・・・
そして、そういった選曲になるコンサートによって、みんなが更にハッピーになれるのかもしれません。

私はといえば・・・
ご自身に合った曲・弾きたい曲だけを提供して欲しいという気持ちと、あらゆるレパートリーを聴いて見たいという気持ちがないまぜになった気持ちですね。
かなりズルイ立ち位置のようにも見えますが。。。

          

サイン会の話に戻して・・・
こちとら聴いてただけですからへっちゃらですが、ピアニスト(多佳子さん)にしてみれば本番だけでも2時間以上両手を駆使してなお大量のサイン・・・
すごいことだと思います。

この写真は、長蛇の列の最後尾に並びいちばん疲れた手でいただいたサインです。
ありがたみも、いや増します。(^^;)

                  

さて・・・
ショパンと彼の同世代のピアノ音楽に大きな影響を与えた大作曲家、メンデルスゾーン・シューマン・リストの3名にスポットを当てたコンサートシリーズ“ショパン with フレンズ”。

第2回は“ピアノと文学”と題してシューマンの著名曲と、器楽曲にショパンが初めて詩型の名を当てはめたバラードを併置した、今回は前回よりもすっきりとしたうえ魅力的なプログラムです。
この選曲は意欲的で腕に覚えがないと出来ないとは思いますが、前回のように知的好奇心を動員せずとも、ショパンとシューマンのエピソードを知ってさえいれば、「何でこの曲?」をという理由はすぐに理解されるものといえるでしょう。


それは、多佳子さんがコンサート中に解説してくれたことでもありますが・・・
1.シューマンとショパンの接点は、文筆家としてのシューマンの「諸君、脱帽したまえ!天才だ!」から始まる。
2.クライスレリアーナはクララに想い焦がれて作ったくせに、ショパンに献呈されている。
3.返礼にショパンはバラード第2番をシューマンに献呈している。
4.ショパンがシューマンを訪ねた際に、シューマンがバラード第1番が好きだと話し、ショパンはシューマンに未完のバラード第2番などを弾いた(らしい)。

これぐらい当人同士の間でイワク因縁・結びつきのある楽曲であれば、それぞれに最高傑作の呼び声も高いわけですからまさに王道のプログラム。
相当、勇気が要るでしょうが、やりがいもあるという多佳子さんらしいプログラムであるともいえましょう。

ご本人の口からはもちろん出ませんでしたが、新しいディスクの看板曲でもありますしね。(^^;)
選ばんわけにはいかんでしょう・・・。^^

          

さて、肝心の演奏についてですが・・・
多佳子さんは、凄く気合が入っていました。これは終演後にお話したときにご本人も認めておられるところです。

やはり・・・
自ら企画してクラシックの演奏家としての真価を問い、問われる機会だと、このリサイタルは期すものが・・・当然に・・・あるだろうことは想像に難くありません。

充実した気力に恃んで、プログラムの楽曲では終始“仁王立ち”というか“横綱相撲”とでもいうべき、いつも以上に安定した至芸を堪能させていただくことができました。
もちろん、横綱相撲とて相手のまわしを取り損なうことだってあったと、ご本人はいつものように反省するところはいっぱいあると思われるのでしょうが、私に限っては、コンクールの審査に行っているわけじゃないので、サッカー・ワールドカップのように白熱したガチンコの演奏を耳に出来ただけで大満足でした。

まぁ・・・
ご本人にも「贔屓耳」と言われてしまうぐらい、「高橋多佳子が正しい」と信じて聴いている私がリサイタルに満足するのは当然であります。
たとえそうであるにしても・・・
基本的に贔屓耳の人たちがリサイタルに来るんでしょうから、いつもどおりの精一杯のパフォーマンスを提供していただければたいていのひとは満足するんじゃないかと思いますが。。。

聴き手がするはずのリサイタルの評価って、演奏家本人のそれとはゼッタイ違うので、自分のサイドで聴き手の判断を惑わすような言動をしちゃうことはないのに・・・
多佳子さんにはこのことをしばしば感じるのですが、それがピアニスト以前のニンゲン高橋多佳子さんのステキなところだということもできましょうから、私がぐちゃぐちゃ言うことではありますまい。
(と、さんざん言ってから断るのはヘンか・・・?^^)

                  


今回のプログラムには、今後の自分のシューマンの聴き手としての資質を開拓するために得るべきものがあるかもしれないとの期待を抱いて会場に赴きました。
結論として、やっぱりシューマンは誰が弾いてもシューマンだと思うところが強いのですが、それでも少しながら端緒を摑んだ気がしたことは大いなる収穫・・・でした。


シューマンという作曲家・・・
アルゲリッチの子供の情景・クライスレリアーナを皮切りに、数多のディスクを耳にしました。
印象に残っているのはアラウ・ボレット・リヒテル・ブレンデル・アチューカロ・アシュケナージ・ポリーニ・ペライア・シフ・ルプーなどなど・・・
我が国のピアニストでも内田光子さん、伊藤恵さん、小山実稚恵さん、そして今日お会いした宮谷理香さんなど(女性ばっかり!?)・・・
実は、シューベルト・ラヴェル・ショパンに次いでドビュッシーやベートーヴェンと同じぐらいの枚数のディスクを持っています。

でも・・・
圧倒的に聴く機会が少ないなぁ~。

シューマンのピアノ曲に関しては、クララとの結婚前夜の作品を中心としてほとんどの曲のフシをそらで覚えています。
要するにこの曲の展開で次はどうなるかが、ほぼ頭にこびりついている程度には曲に触れているのです。
そして・・・
幻想曲ハ長調と小品の連作の一部にはまことに麗しいものがあって、ピアノ音楽の恩人にして大作曲家であるという世評を是認することにはまったくやぶさかではありません。

まどろっこしい書き方をしておりますし、以前にも何度も書いたことですが・・・
でも・・・
つまるところ私と肌合いが合わない・・・
そう思い込まずにはいられずにいる作曲家なのであります。


シューマンを熱烈に好きだといわれるアーティストや音楽通にはことかかないし、その気持ちもわかるような気がするのですが・・・
私には、どうしても彼の作品の中にえげつなさ、くどさ、暑苦しさが感じられてしまうのです。
また・・・
私に言わせれば彼の楽想はたとえばスクリャービンやメシアンよりも意味不明だし・・・
あれほどシューマンの音楽をあちこちで弾きまくって世に広めたクララは、どこが気に入っていたのか?
それにもまして、シューマンの熱意以外のどこに惚れて結婚したのか聞いてみたいとさえ思わずにはいられない・・・そんな音楽家であります。

もちろん・・・
そんなことはない、素晴らしい作曲家だと仰るかたは大勢いらして当然だと思ってもおりますが、ただ、私のようにシューマンを捉えている音楽好きも少なからずいらっしゃるのではないでしょうか?

かつては、リスト(ロ短調ソナタ・巡礼の年)やドビュッシー(前奏曲集)にせよ一部の楽曲を除き意味不明だったものを、いろんな演奏家のいろんな演奏解釈や比喩の言葉によって稀代の名曲だと信じられるようになった例など、枚挙にいとまがありません。

しかるに・・・
こんどは多佳子さんの演奏や説明からシューマンとおつきあいする“よすが”を見出せないか!?
なにか、ビビッとくるものが感じられないかという期待を持っておりました。


とはいえ・・・
思い起こせばラフマニノフのディスクが出たとき、あるいはラヴェルの演奏会での説明に、多佳子さんは楽譜から読取ったものを絵画的に頭の中で処理をして、そのイメージで演奏すると仰っていました。

ラフマニノフのソナタ2番の冒頭では、高い山から滑り落ちた風がロシアの湖の上をはるかに渡っていくイメージが浮かんだものです。

これに対してシューマンの音楽は、感覚的に音響を積み重ねているだけに見え私には意味性が伝わってこない・・・
気分の悪いドビュッシーみたいな曲想も持ち合わせている楽譜を読んでどんな絵を描くのか?
もしもそれが描けなかったら何を頼りに演奏されるのか・・・ここは気になるところです。

                  

結論を言えば、少しだけとはいいながら先々けっこう大きかったといえるかもしれないヒントが聞けました。
それは・・・
「透明な瞬間」がある・・・という表現、無垢にはじけた(突き抜けた?)瞬間という意味で捉えると思い当たる曲、そしてそれを感じさせる演奏があります。

リヒテルによる色とりどりの小品の冒頭の曲・・・あの出だしは忘れられません。
子供の情景の第1曲「見知らぬ国から」にせよ、小さい頃夕暮れにピアノの音をポロンと鳴らしてその響きに心を委ねて感傷的にナミダしたなどと言われる彼の感性が、普遍的なものとして楽譜に留められていると感じられる瞬間をもっている・・・
もちろん弾き手の解釈にもよりましょうが、確かに「透明な瞬間」はあると膝を叩く思いがしたものです。

そして・・・
クライスレリアーナの第2曲などに、その瞬間を見出すことが出来た時は、やはりこの感覚的な感傷を風流に味わうのがシューマンへ登頂するとっかかりなんだと感じました。
オイセビウス的な面で、とても魅力的だと感じたのはまずそこです。
多佳子さんが幻想曲ハ長調の第3楽章を夢見がちに演奏したらどうなるのか・・・振り返ると今後ぜひ聴けたらいいなと思う楽しみができました。

対して、フロレスタン的な面では、バスの力強い音に支えられて向かうところ敵なしで前進する音楽にそれを感じました。
テノール領域だけでなく、バスの音色・リズムともに多佳子さんにしかブレンドできないノリとでもいうものが、非常にスパイシーに曲の中にあしらわれていた・・・そう思います。

ただ・・・
やはりシューマンはシューマン。
局所的に絶美であったり、透明に抜けたりして思わず耳をそばだてることはあっても、フロレスタンとオイセビウスを対比しているとわかっていながら、どうしてもとっちらかった印象が残っているのは否めません。
そういう曲だから・・・
というのが、今のところそう思う唯一の理由です。

どのように全曲とおして、一貫した愛着を持って聴けるようになるのか?
いや、一生かけてもそれはできないのか・
それが・・・
これからのシューマンとのお付き合いのポイントになるのかもしれません。

実は・・・
コンサートの余韻を消さないよう、今日先行発売されていたシューマンの新譜はまだ聴いていません。
これからは、このディスクがシューマンの地獄・煉獄・天国を案内してくれるウェルギリウスになってくれる・・・
そうだといいなと思っています。
少なくとも、シューマンの熱にほだされただけのかたの演奏では、きっと私が満足することはなくなったでしょうからね。(^^;)


後先になりますが・・・
アラベスクは、以前聴いたときには例えばアラウの「むん」といった感じの演奏を連想させる重厚なテンポ・解釈を採っておられたように思いましたが、コクはそのままにずっとテンポも軽快になっていたように思います。
ピアノとの相性かな・・・今日の方がはるかに普遍的で聴きやすく素敵に思えました。

以上、シューマンの音楽同様、まったくとりとめのないシューマン演奏評でした。

                  

さて・・・後半のショパン、バラード全曲。
高橋多佳子のショパンが期待にそわないわけはありませんが、かつて聴いたどの演奏会よりも、安定して磐石の演奏に聴こえました。

ことに第1番はその雄渾さ、理性的な気高さにおいて感動のあまり涙が浮かびました。
ショパンは決して病的でナヨナヨした存在ではないのは当然ですが、いい意味での最高の風格をまとった演奏。

第2番も、スタインウェイの調子のせいかくぐもったところはあまり感じず、そうでありながら牧歌的な部分と激情的な部分の対比は鮮やかで、コーダもインテンポで弾ききってしまわれ、今日の状態の良さを十分に味わわせていただきました。

第3番は、音色、舞踏的なリズムが印象的。
踊りの音楽を意識させるところは、以前よりもずっと響を節約してステップを踏んでいるかのように新鮮に聴くことができました。

そして・・・バラ4。
今回の演奏全般いいえることですが、単音のメロディーを奏でる時の神経の遣いようが尋常ではない・・・
すなわち、メロディーを生き生きさせるために全神経を集中し、また、バスの音を絶妙な音色・リズムで繰り出すことによって、曲が自ずから風格をもって流れていくように感じられました。

また、シューマンの演奏を経たことで、フロレスタンとオイセビウスがショパン弾き高橋多佳子に宿ったような隈取りの深い演奏となっていたように思います。

ピアノ音楽中でもっとも美しい瞬間・・・
多佳子さんがそう仰る第2主題の回帰部分、ここの美しいことは誰もが知っていることでしょう。
しかし・・・
今日は、あえて言えば、鄙びた感じでけっして麗しくはないと思っていた第2主題の提示の部分でもかつてない内面からの輝きを聴き取りました。
これは、クライスレリアーナの第2曲の音のパレットの塗り重ねの中から現れた響に似ていた気がしました。

いろんな曲の演奏を通して、楽曲はどんどん演奏者色に染め抜かれていく・・・
それはとても楽しいことだし、ステキなことなのだと、素人としては思っています。



そしてアンコール・・・
いつも開放感から珠玉の演奏を聴かせてもらえる時間。
謝肉祭からのショパンは、やはりオイセビウスのもっとも刹那的な美しさが自然に表現されていて素敵でした。

一転・・・
ショパンの第2番のコンチェルトの第2楽章、ご自身で編曲されたものは初めて伺いましたが・・・
やはり、演奏家は自分が好きで演奏したいと願っている曲を弾く時が一番だと思わされました。
アンコールにしては異例の「ちょっと入魂」という気分の演奏で、感情のグラデーションがキラキラと万華鏡のように・・・うっとりさせられました。



このシリーズの次回、第3回も、ポロネーズ5・6・7番がある。。。
ポロネーズ第5番は、リストが褒めちぎった曲だから最終回かと思っていましたが、この3曲もショパンを語るときに欠くべからざる曲たちですから聴きに行かずば・・・
気がすまないだろうな。(^^;)

須川展也+デュオ・グレイス

2010年05月09日 04時18分50秒 | 高橋多佳子さん
★須川展也+デュオ・グレイス

《前半》
1.カッチーニ(arr.石毛里佳)/アヴェ・マリア
2.シュトックハウゼン/友情に
3.ラフマニノフ/ヴォカリーズ
4.ラフマニノフ/組曲 第2番 Op.17より「ワルツ」、「タランテッラ」

《後半》
5.ドビュッシー(arr.前田恵実)/喜びの島
6.ドビュッシー(arr.貝沼拓実)/牧神の午後への前奏曲
7.ルトスワフスキ/パガニーニの主題による変奏曲
8.ミヨー/スカラムーシュ Op.165b

《アンコール》
9.須川展也さんによる即興(?)
10.サン=サーンス/動物の謝肉祭より「騾馬」、「白鳥」、「終曲」
                  (2010年5月8日 ヤマハホールにて)

今年の2月に新装なった銀座のヤマハホール。

               

『須川展也+デュオ・グレイス』によるサクソフォーンと2台のピアノによるコンサートを楽しんできました。

“デュオ・グレイス”は、毎度ここで紹介している高橋多佳子さんと宮谷理香さんのユニット名ですから、コンサートの新分野を開拓したわけでもなんでもなく、相も変わらずご贔屓さんを追っかけたに過ぎません。(^^;)

個人的にはサクソフォーンのソロ(伴奏つきも含み)による演奏会ははじめてでして、冒険したつもりであります。
こんなご縁でもなければ多分知らずに過ごしてしまったでしょうが、とっても楽しいコンサートであったうえに目を見張るような演奏に接して、たいへん大きな収穫を得ることができたと感じています。

               

先にも記したとおりプログラムがバラエティに富み、照明やらパフォーマンスにも工夫の凝らされた楽しいコンサートでした。(^^)/

今回はなによりサクソフォーンの表情の多彩さ、パフォーマンスの幅広さなど、数々の新しい発見も数々ありました。
お目当ての多佳子さん、そして理香りんさんを加えたデュオ・グレイスが素晴らしかったことは当然として、サックス用のアレンジを手がけた若手の音楽家の手腕に瞠目させられたことも特筆すべき収穫でした。

実は・・・
当初は、サックスってブレスやキィ操作による演奏ノイズが大きいという先入観を持っていました。
ピアノだってペダルを踏んだり必然的にノイズがあるんだし、グールドやポリーニ(キース・ジャレットもそうでしたね)のように盛大に鼻歌を歌いながら演奏する大家もいらっしゃるわけで、そんな瑣末なことは気にせずともよいではないかという声もありましょう。しかしながら、気にするなと言われて気にならないほど自分の気持ちをコントロールできるなら、こんなに苦労はしとらんわいと開き直るほかありません。
ギターの世界ではエドゥアルド・フェルナンデスが演奏にかかるノイズを殆ど出さないで奏楽できるテクニックをもっている・・な~んて言われていましたが、サックスは息を継がないと演奏できないですもんね、ってな感じで。。。(^^;)

結果・・・
最初のカッチーニのアベ・マリアは大変に感動的な編曲であり演奏だったと思いながらも、ブレスの音が気になってしまって・・・
ちょっとアレンジャーさんは損してしまったかな・・・と。


そして・・・
シュトックハウゼンのサックス独奏曲“友情に”。

この曲の前に須川さんのコメントで、シュトックハウゼンのサイン入り楽譜を持っていることに気づいたときの衝撃の話と、高音・中音・低音のやりとりと大団円をイメージするようにアドバイスをもらったこと、そしてなにより「“見れば”わかる」と言われたことでとても興味深く聴くことができました。
(それを聞いていなかったら、全然違った印象になったと思います。)

しかしまぁ・・・
ホントに多彩な音色、表情、ニュアンスが出せる楽器ですね、サックスって。。。
ジャズの“ブロウ”みたいなイメージが強かったのですが、確かにその魅力もあるけれどむしろ演奏の機微に応じたセンスのいい音の選択にその真骨頂があるように思われました。
要するに・・・
お人柄そのものが音に反映するということで、須川さんはその演奏される仕草、もっといえば立ち姿ひとつとっても私を惹きつけて止むことがありませんでした。

演奏中のパフォーマンスももちろん興味深く、落語で熊さん・八っあんが話すとき右を向いたり左を向いたりすることで高音・中音・低音の誰の発言であるかを理解できたし、そのように角度を変えることで音色が変わりそれぞれの人格の個性も変わる・・・
裏返せば、音色に変化をもたせるために体の向き、吹く向きをかえるという工夫がなされているということになるのでしょうか?
視覚的なイメージで新鮮な印象を与える、これはロックバンドなどでは常套手段ですが、それでサウンドまで・・・不確定であるにせよ・・・個性をもたらす工夫となっているのは、なかなか昔ながらの演奏スタイルが頭から離れない人には難しいだろうなと感じました。

もう一度この曲を演奏する・・・
と言われれば確かに違う曲でお願いしますと言いたくなるとはいえ、サックスの魅力を多く気づかせてくれたという意味では貢献大の楽曲でした。
須川さんのシュトックハウゼンへの想い、それを感じられたことがそれらの発見を導いてくれたんでしょうね。(^^;)


さて・・・
次のラフマニノフのヴォカリーズ、色んな楽器に編曲されて愛好されているわけですが、ロシア音楽が得意な多佳子さんを伴奏にして、須川さんは決して重くならないけれど万感の想いをこめた音色で奏でてくれました。
私にはすっきりした佳演だと感じられたものですが、1つ飛ばして隣のご婦人が感極まって目頭を押さえておられるほどに感動されていました。
音楽の持つ力は本当に凄いものがあります。


デュオ・グレイスによるラフマニノフの組曲第2番はできれば全曲聴きたかった。^^
あの華やかなイントロ部分からきっと最高にノリのよいリズムが刻まれるだろうと信じられるから・・・
それほどまでに、デュオ・グレイスの演奏は回数を重ねることで練れてきていました。

これまで聴いてきたことから想像するに、デュオ・グレイスの場合、モーツァルトやラフマニノフの2台ピアノの曲においては、その各種リズムへのノリというかグルーヴに乗って輝かしく華やかな旋律や装飾が煌いてこそ、おふたりの演奏が他の追従を許さない境地に高まるはず・・・そんなカギとなるポイントだと思うからこそ、第1曲・第3曲も弾いて欲しかった。。。

ほんとうにすんなり聴けてしまった、というのがアンサンブルの向上を意味することは間違いがないし、おふたりの努力が結実している証なんでしょう。
でもそれだけではなく、ソリストとして抜群の個性を聴かせるおふたりが揃ってこその揺ぎ無い個性、魅力というものを見出したいと感じている聴き手としては、どこにもない世界へわしづかみにして連れて行ってもらいたい、そんな期待でいっぱいです。(^^;)

            

休憩を挟んでの後半・・・
実は、今回は後半の演奏のほうにより大きな感銘を受けました。^^

まずはドビュッシー。
理香りんさん伴奏で、“喜びの島”“牧神の午後への前奏曲”が奏されましたが、まず特筆したいのが先にも述べたアレンジの妙。。。
聴き慣れた曲のせいか、“喜びの島”は特にピアノだけで弾かれた時との違いが顕著に感じられ、サックスも旋律を担うばかりでなくあらゆる役回りを与えられるアレンジとなっており、その効果はサックスを吹き上げられるたびに沸き立つような思いが心の中に催され、何度も鳥肌が立つのを感じました。


“牧神の午後への前奏曲”もどうしたらこんなに懐かしさをイメージさせる音色が出せるのかと思われるほどの須川さんの心に沁み入る音色、ピアノはそれをさりげなく引き立たせるアレンジで素敵でした。

理香りんさんと須川さんは既にこれらを一緒に演奏会にかけていたようですから、複雑な構成にもかかわらず演奏が感動的だったのもよくわかります。

くわえて原曲とはまた違った魅力を引き出した若いアレンジャーのみなさんが、今回の演奏会が盛会となった陰の立役者達であることに異論はないでしょう。


ふたたびデュオ・グレイスによるルトスワフスキの“パガニーニの主題による変奏曲”。
ゲンダイオンガクと紹介がありましたが、これは非常にわかりやすい曲、そしてデュオ・グレイスに相性のいい曲だと思います。

華やかで弾き映えがする!

こんな曲をどんどん発掘していって、ソロのときのようなはっちゃけた演奏をしてもらえたらいいなと思いますね。(^^;)


そして最後のミヨーの“スカラムーシュ”は、四の五の言わずに楽しんで聴けるよう演奏してくださいました。

そう・・・
このメンバーの最大の強みは自らが楽しんで演奏できるからこそのポジティブでイケイケなところ・・・かもしれません。
そのうえで須川さんの素晴らしいお人柄が滲み出た、それも最高級の演奏・パフォーマンスで盛りあげてくれたから文句のない大団円!

ステージ上での須川さんのマナーというか立居振舞のひとつひとつが、演奏家としては当たり前なのかもしれませんが、すごく紳士で見ていて気持ちがいいものでした。
そんな姿を見ていることも手伝って、須川さんの演奏に素直に入っていけるのかもしれません。
もとよりデュオ・グレイスの(華美ではないけれど)華やかな安定した伴奏に支えられてのパフォーマンスであることに違いありません。
最高にハッピーな気持ちにしてもらって、プログラムは終了いたしました。

               

万来の拍手のカーテンコールの後・・・
ひとり須川さんがピアノの前に座り、ピアノの単音からの導入で即興演奏を開始・・・^^
フリーランスなアドリブだと思うのですが、サックスの音色によるパントマイムといった風情のソロ・プレイがひとしきり・・・
そして『ド・ド・ド・♭ミ』音からなる運命の動機を印象付けられたかと思うと、やにわに楽屋に走り去ってしまって・・・
その瞬間・・・
ピアノにスタンバッていたデュオ・グレイスのおふたりが、“動物の謝肉祭”から“騾馬”をこれまた鮮やかに弾きだされて「おおっ!?」て感じで目も耳も釘付け、ここはソリストふたりを擁したこのユニットの独壇場でした。

そして多佳子さんが“白鳥”のイントロを弾き出されたときに、この曲集が本来2台ピアノもバックに想定されていたことを思い出しステキな選曲だと嬉しくなったものです。
“白鳥”のカンティレーナは、情感豊かに演奏されればどの楽器でも素晴らしい。
特にこの曲には思い入れがあるので、涙が出そうなほど感動しました。

ピアノから出た音は減衰するほかないですが、弦楽器や管楽器の場合は漸増・漸減させることができる。。。
木管楽器たるサックスはとりわけ、息を吹き込むことで音を調節しているわけで“生き”ているものの“息”によって生きた音楽になり、演奏次第で“粋”にもなると実感できたことが今日のコンサートでの発見だといってよいかもしれません。

オーラスの“終曲”では、再びピアノの鮮やかなパッセージと須川さんの底抜けに楽しいイメージを思わせるサックスの音色が堪能できました。
中途で、先の運命の動機が「実はここに繋がってたんだよ」と、遊び心満点の演出で飛び出して謎解きされるなど、大いに盛り上がって2度目の大団円。
期待をはるかに超えて楽しいコンサートとなったように思います。

            

こうして須川さんの表情豊かなサックスと、結成以来いよいよ練れてきたデュオ・グレイスのコンビの演奏に満足しておりましたが、階段付近で多佳子さんのご両親にお目にかかりその後にしたがって楽屋を訪ねて写真を撮らせていただくこともできました。
残念ながら光の量が足らず、携帯付属機能で編集して明るさを調整したため、不自然な色合いになってしまっておりますがご容赦ください。

その後なんとご両親と夕食をご一緒して、お話をお伺いすることができました。
詳細は書きませんが、とても興味深いお宝情報話を多く伺えました。
ご両親の兄妹を見守る目線がとても印象的で、私も父親として自分の子供達にあのようにありたいと思わされることしきりでした。
むしろ親としてのあり方のほうに学ぶことが多かったのかもしれません。
貴重なお話をありがとうございました。(ごちそうさまでした!)


いや、それにしても収穫の多い大満足の一日でありました。^^

ピアノの詩人ショパン ~その39年のあゆみ~(2)

2010年04月16日 02時00分10秒 | 高橋多佳子さん
★あづみ野コンサートホール会館10周年・ショパン生誕200年記念
 高橋多佳子 ピアノ・リサイタル 

“ピアノの詩人ショパン ~その39年のあゆみ~”
《前半》
1.ノクターン 第2番 変ホ長調 作品9-2
2.バラード 第1番 ト短調 作品23
3.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
4.バラード 第3番 変イ長調 作品47
5.バラード 第4番 ヘ短調 作品52

《後半》
6.ノクターン 第1番 変ロ短調 作品9-1
7.ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 作品58

《アンコール》
8.練習曲 変イ長調 「エオリアン・ハープ」 作品25-1
          (2010年4月12日 あづみ野コンサートホールにて)

あづみ野コンサートホール開館10周年、ショパン生誕200年を記念した高橋多佳子さんの演奏会2日目・・・
さすがに体は疲れがたまっていたせいか、おなかの調子がいまひとつ。(-"-;)

               

15時からの開演だったので、午前中はホテルを出てから有名な大王わさび農場まで歩いていってきました。
どこまでも澄みとおった湧き水と、細かな白い花をいっぱいにつけたわさびの緑、およそ7分咲きの桜の花などなど美しいもの尽くしでここでも命のお洗濯。
もっともいい時期に来たものだとほくそ笑んだりもしましたが・・・訪問のいちばんの目的は実はそこじゃない。。。

わさびって・・・
虫下しの効果もあると聞いたのでおなかの調子を整えようと思った、これが正解です。(^^)v

               

わさびカレー、わさび心太(ところてん)、わさびソフトクリームを食堂でいただいたほか、わさび野沢菜やわさびおかか、わさびきくらげなど試食もしましたが・・・
わさびソフトクリームがいちばん美味しかったかな。。。

わさび心太が鉄みたいになっていた胃をリフレッシュさせてくれましたから、わさび農場に行った本来の目的も一様に達成されたといえましょう。
とにかく快適にコンサートを聴けるコンディションをつくることができてなによりでした。

わさび農場をあとにして、犀川の堤防ルートでホールに向かいました。
早春賦の碑のあたりで、桜並木を愛でていたら、リュックを背負って散策中の男性に声をかけられました。

               
  
何かと思って指差されるほうを見やったら、そこに蛇がいる。。。^^
2・3言葉を交わしていたら、実は多佳子さんのコンサートのためにあづみ野を訪れ、同じホテルに泊まり、朝からわさび農園を散策して・・・なんとなんと千葉県の幕張から来られたというKさんでした。

なにゆえにこんなことを書いているかというと、Kさんには珈琲をご馳走になったのでお礼を言うためです。
ありがとうございました。m(_ _)m

               

新たな出逢い・・・
とはいえ、高橋多佳子のピアノの魅力に打ちのめされたという共通点があるだけに、だれともすぐに話は弾んでしまいます。

どうも、多佳子さんの演奏にほだされちゃった聴き手は、見ず知らずの他人にさえ(ヘビの話をきっかけにしてでも)このピアニストのことを語りたくなってしまうようで・・・
思わず苦笑です。

そういえば打ち上げのときにいろいろ話を伺っていたら、千葉に所縁がある人が私以外に、Kさんを含め少なくとも4名はいらしたことがわかって・・・
あづみ野コンサートホールや多佳子さんの周りには、同志とでもいうべき絆があふれていることを実感しました。

               

ところで・・・
このホールの楽器はベーゼンドルファーの豪華なグランドピアノです。
ピアノ自体は若い楽器なので、訪れるたびにどんどん成熟していくのがよくわかります。
館長さんは素人が弾いてもよく鳴るようになったんだと胸を張られましたが、本当にそのとおり・・・この楽器には、まだまだ秘めたる伸びしろがいっぱいあると思います。

ですが・・・
ピアニストにとってはタフな楽器かもしれないな~・・・
多佳子さんのように弾きこなせるなら、絶美の音色でさまざまな表現の可能性も芽生えるかもしれませんが、扱い手に力量がない場合には犬夜叉の鉄砕牙のように手に負えないシロモノになってしまうように感じられてならないのです。

多佳子さんに尋ねたら、やはりというか、この楽器を弾くときの固有のツボをおさえてらっしゃいました。
演奏だけでなく、楽器の最高の魅力が引き出されるのにはちゃんとわけがあるんですね。(^^;)

               
  
この日は1日目と違って、たいへん重たいプログラム。
玄人好み・・・
と表現されていましたが、本格的なリサイタルプログラムであり、ショパン弾きと呼ばれるピアニストであれば王道・勝負のプログラムですよね。

前日の演奏会終了後にみんなで話をしていたとき、突如「明日のプログラム、怖いよぉ~」と両手で頭を抱えて身もだえ(?)された・・・
その後、23時半まで翌日の楽曲の練習をされていた・・・
それでもなお前半のバラード演奏を終えた休憩中に、緊張のあまり指先の震えが止まらなかった・・・
などという事実は、このプログラムがどれほどのプレッシャーをピアニストに与えるかを推し量らせてくれます。

この日のトークは・・・
前後半ともにノクターンとその後の曲の間にまとめて・・・というスタイルで進行しました。

まずは著名な変ホ長調の夜想曲第2番・・・
前回、浜離宮ホールでもこの曲でスタートしたのですが、そのときよりはずっとアットホームでこなれた滑り出しでした。

リサイタルの最初から演奏至難の曲は弾けない・・・
自分の場合「易しい曲からはじめて(そのうえステージ上でトークをすることで)リラックスする」のだと多佳子さんは語っておられましたが、それでもなお手遊び(てすさび)を手遊びに終わらせるような奏楽の瞬間が微塵もないところにまた惹かれてしまうのです。

つづくバラード4曲・・・
の前のお約束の楽曲解説などのトークでは、納得の曲の説明がいくつもありました。

第1番のイントロの偽終止がインスパイアされたとされている詩の内容に合致しているとか、第2番の冒頭のリズムは中世のバラード“グリーンスリーブス”のそれと同じとか、実演を交えて解説してくださったので目からウロコが落ちました。

なにより嬉しかったのは、第4番のクライマックスに向かうところで第2主題の再現部があり、私が高橋多佳子をCDで知って虜にされたまさにその部分をピアニスト本人が「この部分がこの世にあるすべてのピアノ曲の中でもっとも美しい箇所だと感じる」と発言されたこと。

そう・・・まったくそのとおりだよな!(^^)v
この言葉が聞けただけでも安曇野に赴いた甲斐があったと思えます。
そして、この箇所を多佳子さんほど華やかに、よくぞここまでといいたくなるほどにファンタスティックに弾ける人はいない・・・

先日のスタインウェイの演奏でも、今回のベーゼンドルファーでの演奏でも、彼女はこの部分を秘めやかに弾き始め、にわかにクレッシェンドすると心のスイッチが入ったかのように思いのたけを込めてたいせつに弾く・・・
その刹那・・・
感動が別次元に高まり、鳥肌どころか落涙さえも禁じ得ないという図になるのです。
この症状が私だけではないのも凄いところ・・・感動のルツボとはまさにこのような状態を言うのでしょうか?
傍から見ていたら宗教的というか、ピアノの音に心を操られているように映っていたかもしれません。

なにはともあれ・・・
もともと私を虜にしてやまなかったこの第4番への期待は否応なく大きかったにもかかわらず、多佳子さんの演奏の最良の部分が尻上がりにほとばしり出てくる空前絶後の名演で応えてくれていうことありません。
聴き終えたときには放心状態で、ほとんど腰が抜けていました。

               

しかし・・・
ショパン力作のバラード4曲を並べてリサイタルで弾くことの是非は、一度考えたほうがいいかもしれません。
ソナタのように1曲通して聴かれることを想定して作曲されている場合とは、すこし事情が違いますから。。。
そりゃ・・・
弾くほうも大変でしょうが、聴くほうもタイヘンなんだといいたいのです。


第1番・・・
全体の構成を非常に堅固に解釈されているから、細かいニュアンスをそこここで加えても曲全体の流れがさえぎられることがない・・・

この曲に最高の演奏を遺しているミケランジェリにせよ、演奏会によっては微視的に陥りすぎて曲の勢いが阻害されているケースもありますが、多佳子さんにはそれが一切ない。。。

誰もが演奏する曲だけに名演はいくつもあるけれど、私にとっては多佳子さんの演奏は別格です。
“ショパンの旅路”を何度も聴いて刷り込まれちゃってるわけだから、ご本人にも申しあげましたが、いわば私の「母なる音」であり演奏ですからね。

また、多佳子さんと私の共通のお気に入りのピアニストであるクリスティアン・ツィメルマンの演奏は、ナルシスティックで自己陶酔した気位の高さが最高にイケてると思うときと鼻に付くときがあるのですが、この日の多佳子さんはナルシスティックに陥り過ぎない高潔さを絶妙に弾き表していて、おもわず胸を打たれたものです。

そういえばツィメルマンは1975年のショパン国際コンクールの覇者であり、その後、別人のような進境を示していまやカリスマ的な魅力を湛えたピアニストに成長しているのを多佳子さんはよく引き合いに出されます。
たしかにそのとおり・・・
ツィメルマンはピアノ界のイチローのごとく、最高の実力者でありちょっと違った感性を持っていて誰にも真似できないピアニズムを誇るまでに成長していますが、我等が高橋多佳子も同じかそれ以上の成長を遂げているといっても、いささかも言い過ぎではない・・・と思うのです。
持ち味が違うから多佳子さんはそう感じないかもしれませんが、私がコンサートに行くようになってからだけでもどんどん成熟されているのを実感します。


な~んてことを思っているうちに第2番に行っちゃってたりするもんだから、よく知った曲なのに我に返ったときには不覚にも所在不明になってしまっていたり・・・

ピアニストがこのように暗譜が飛んでしまうことが怖いといっているところ、聞いているほうも途中ぼーっとしてるとこんなふうに幻惑されちゃうこともあります。


第3番は終始楽しい葛藤とでもいうべき攻めの演奏が続きました。
これほどまでに圧して、圧して畳み掛ける曲だったんだ・・・と新たに発見したといえばいいのですが、後に4番を控え・・・
全部を真剣に聞いたら神経が磨り減っちゃいます。
こんな曲をこんな風に並べられると聴くほうだって「もぉ~大変」です!

               

後半も、作品9のノクターンから始まりました。
最近の常連曲になっているのであいかわらずの高値安定という気持ちで聴きましたが、このプログラムにあってはその後の大曲“ロ短調ソナタ”にブリッジする大事な曲。

多佳子さんは・・・
きっとこのノクターンの演奏に、手ごたえを感じられたのだと思います。
後にこの曲の解釈上のことを少し聞いたのですが、私が疑問を持った点に関しては「繰り返しの箇所なのでわざとそのように弾いて前と違いを際立たせた」のだと説明され、思い通りに弾かれたのだと得心がいったものです。


果たして・・・
ピアニストの心配は杞憂に終わり、結論から言えばロ短調ソナタはとても感慨深い演奏でした。

第一楽章、長大な中にいろんなエピソードが入っていて地すべり的に転調して要素がとっちらからないように弾くことが求められるところ・・・
決然と弾くところもさることながら、細かい内声部の粒立ちをはぎれよくしてとても生き生きした音楽を作っているところがさすがです。
内声部のパッセージはまさに安曇野の水が湧き出すごとくみずみずしかったために、常に新鮮な気持ちで聴くことができました。

第二楽章、ここは逆に速いパッセージを鍵盤の表面を触れただけのような軽いタッチでメリハリをつけたのでしょうか?
ベーゼンドルファーというピアノを考慮されたのかな?
ここはご本人に聞き忘れちゃいました。(^^;)

第三楽章、この楽章も極めて高い集中力を要求される長大なスローテンポのノクターンですよね。
ここでも多佳子さんは、よくぞここまでという巨大な世界を一時も弛緩させずに描き出してみせてくれて・・・
息つく間もなく10分あまりの金縛り状態が続きました。。。

第四楽章 多佳子さんの説明によると、3度現れるロンド主題が巡ってくる度に左手の伴奏が①三連符 ②四連符 ③六連符と音数が増えていき、当然音楽も自然に盛り上がって聴こえる作曲上の技法がさえている・・・
反面、ピアにストは同じ泊のなかに伴奏を入れるのがどんどん大変になっていく楽章だと笑わせてくれていましたが、そうわかってしまって聴くと本当にタイヘンだと感じるので不思議です。

迫力の大団円に惜しみない拍手を・・・会場にいる全員が・・・していました。(^^;)
前半終了時もそうでしたが、多佳子さんはここでもやりきったんだという感動に包まれた様子を隠そうとしませんでした。

あづみ野の聴衆はとても温かくてリラックスできるから、なのでしょうか?
よそ行きの様子はこれっぽっちもありませんでしたね。


アンコールは特に手の内に入っている曲から・・・ということで、エオリアン・ハープ。
大曲を弾き終えた安堵感・開放感が感じられる味わい深い演奏でした。
魂のわななきがそれとして伝わってくる演奏なんて、このうえなく素敵だと思いませんか?(^^;)

               

何があるかわからないのがライヴの魅力・・・
でありますが、多佳子さんのような心あるピアニストはそこでも完璧を目指します。
そうなると自分にはねかえってくるプレッシャーも非常に大きくなると思いますが、見事に自分のそんな気持ちに打ち勝って素晴らしい演奏を聞かせてくれた多佳子さんには本当に頭が下がります。
とても勇気付けられた週末となりました。
    
              

あづみ野に行く楽しみは、多佳子さんを囲んでまとまった話ができること。。。
とりわけ今回は多くを取材できてしまったので、夢身心地の帰路以降あれこれ思い起こしてみるにつけ、何を書こうか何は書くまいかを真剣に思い悩んでしまいます。
もっとも・・・この悩みはプライスレスな楽しみにほかなりませんが・・・。(^^;)

例えば・・・
・ショパンの旅路シリーズの選曲は、誰がどのようなときにしたか?
・多佳子さんのラフマニノフのコンチェルトの楽譜にはどんなことが書き込んであるか?
なんて、私にとってはお宝情報なんですよね・・・答えは書きませんが。^^

               

そうそう・・・
私がかねてあまり波長が合わないと言い続けている作曲家、もう一人の生誕200周年の雄であるシューマン・・・。
いよいよ彼の音楽に目を開かされるときがくるかもしれない予感が・・・。(^^;)

ピアノの詩人ショパン ~その39年のあゆみ~(1)

2010年04月15日 06時52分28秒 | 高橋多佳子さん
★あづみ野コンサートホール会館10周年・ショパン生誕200年記念
 高橋多佳子 ピアノ・リサイタル 

“ピアノの詩人ショパン ~その39年のあゆみ~”
《前半》
1.ポロネーズ 第13番 変イ長調 遺作
2.マズルカ 作品68-3(遺作) ヘ長調
3.練習曲 ホ長調「別れの曲」 作品10-3
4.練習曲 ハ短調「革命」 作品10-12
5.ワルツ 変ホ長調 作品18「華麗なる大円舞曲」
6.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31

《後半》
7.24の前奏曲 変二長調「雨だれ」 作品28-15
8.ポロネーズ 変イ長調「英雄」
9.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
10.マズルカ 作品68-4(遺作) ヘ短調

《アンコール》
11.幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66
                  (2010年4月10日 あずみ野コンサートホールにて)

“あづみ野コンサートホール”の開館10周年を心よりお祝い申しあげます。
また、定期的に高橋多佳子さんのコンサートを開催してくださり誠にありがとうございます。

春に秋にと訪れてはこの場に集まるみなさんといっしょに、単にコンサートに訪れただけではない感動を分かち合うことができる・・・私にとってかけがえのない空間です。
これからも、銘器ベーゼンドルファーの音色が深く成熟を重ねていくとともにますますのご発展を遂げられ、音楽を通した素晴らしいふれあいの場であり続けていただくことを祈念いたします。

いやはや・・・
なんとも堅苦しい出だしだなぁ~。。。(^^;)

        

信州に向かう特急あずさ、トンネルの合間に一瞬射し込んだ陽の光でまどろみから覚めると・・・
甲斐大和駅付近の桜並木に目が釘付けになったものです。

ずっしりどっさり花を抱えたソメイヨシノも見事なら、遠く近くに点在する鮮やかな緋色の桃畑などとりわけ幻想的で見事の一語。
山間(やまあい)の村の風景はその言葉通りに“桃源郷”のイメージを否応なく喚起してくれました。

ややあって・・・
視界には赤石岳が現れ、頂以下氷雪に閉ざされた峻厳そのものの景観は、春ののどかさとはまったく別の世界をかもし出し・・・
眼下には枯れ草の間隙を突き破り、水仙が勢いよく黄色い顔をこちらに向けている・・・
冬と春とのせめぎあいがなんともエキサイティングな車中花見を楽しみました。

自然のなかを通過するときはいつも、自分が詩人になるのを感じます。
ただ、こんなことばかり書いていたらコンサートのことが書けなくなるのでこれくらいにしておきますが・・・

いや・・・
最も印象的だったのは、決然と何ものにも染まらない艶消しの白い花をいっぱい咲かせた林檎の樹であったことだけは書いておかなくちゃいけません。(^^;)
やはり・・・
「まだ上げ初めし前髪の乙女」は、すべからくこの花を咲かせる樹の下に見えなければなりますまい。

        

さて・・・
あづみ野コンサートホールで開催された高橋多佳子さんのコンサートに行ってきました。

会社のSNSへ先に日記として紹介したので、更新が遅くなってしまいました。
投稿も2度目なら、普通、推敲されて洗練された文章になってもおかしくありませんが、我ながらあいかわらず長大だなーと呆れることしきり。。。
ホールのホスピタリティ、多佳子さんの演奏への感動の大きさの反映と受け止めていただければ幸いです。

  
初日のコンサート・・・
プログラムのコンセプトはショパンの生涯を多佳子さんのトークで追いながら、作曲された時期の代表曲を演奏するというもの。
最初にプログラムを見たとき、正直、この曲数で時間が持つのかなと思いました。
ですが・・・
そこはそれ・・・いつものこととはいいながら、ステージでの多佳子さんのあの声、いかんとも形容しがたい年齢不詳トークの巧みな手練にはまること2時間半、もちろん演奏も新鮮な円熟味が醸し出された素晴らしい内容で、非常に得るものが多いコンサートとなりました。

いわゆる通俗名曲集であるにせよ、ここでも「やはりこれは・・・!?」という数多くの気づきをもたらしてくれる・・・
これが、高橋多佳子が弾き手の演奏会のかけがえのなさなんですよね。(^^;)

冒頭写真のとおり、桜をイメージしたというドレス・・・これは言われなきゃ気づきませんでした・・・もよくお似合いで・・・^^

それでは・・・
当日のプログラムを追っていきましょう。
自然にショパンの生涯を辿ることができるという、画期的なストーリーです。(^^;)


まず前半・・・
11歳のときに「だいすきなジヴニー先生へ」と献辞を添えてピアノの老先生に捧げたというポロネーズからスタート。
楽曲の『完成度』などといってしまえばさすがにしれてますが、たしかにメロディーのそこかしこに“しょぱん”という“なまえ”が刻印されている曲ですね。

最初の一音でホールのピアノの音色がとても深化したことに気づかされ、多佳子さんはたっぷりした呼吸で慈しむように弾き進めていく・・・
エピソードどおりの愛らしい曲、深い共感が感じられて素敵でした。


次のマズルカはショパンらしい和声の萌芽が見られる作品。
多佳子さんのHPに文章を寄せておられるロイヤルトランペットさんが“鯉のぼりマズルカ”と呼ばれた曲です・・・。
蒲柳の質だったショパンが療養のために田舎の温泉に行った先で聞き覚えたリズムによる舞曲形式、のちにこれを芸術の極みにまで高めるのですがその最初期の作品・・・。
ぐっとショパンらしさが増した楽曲、演奏のし甲斐もアーティスティックな面でのトライができるようになったという感じですね。


20歳のとき・・・
初恋の人コンスタンツィア・グラドコフスカを、そして革命前夜の故郷ポーランドを去ってウィーンへ赴く・・・
これがショパンの祖国との今生の別れになってしまったそうですが、そのころ作曲された途方もなく美しいメロディーのエチュード「別れの曲」。
多佳子さんのCDを聴き親しんでいる私には、楽曲進行の呼吸がこうあってほしいというそのとおりに展開していくのですが、今そこで音楽が生まれているという新鮮さが感じられてとても嬉しい演奏でした。
水戸黄門のあらすじがお約束でも、感激するところは感激できるのと同じでしっかり感動しました。


ウィーンを離れパリに向かう途中でワルシャワ陥落の報に接し、神を呪いながらピアノに激情をぶちまけた「革命」のエチュード。
振り返れば、私にとってはこれが前半の白眉でしたね・・・。
というのは・・・
この演奏には本当に驚いてしまったから。

左手が鍵盤上で縦横無尽に運動を繰り広げ、右手のオクターブの旋律が叩きつけられるというこの曲・・・
左手のためのエチュード(練習曲)であることにまったく異論ありませんが、実はメロディーはずっと右手で弾かれるわけで・・・。
これをいかに魅力的に弾くのかという点、左手が単に機械的になってしまわない点などに技術的にも芸術上の要求からも意が用いられるか・・・
この点、多佳子さんの演奏はあれだけ細かい左手に微妙なニュアンスを施して、よく練られているのだろうけど、思いつくままにこまかい表情を作り上げていく・・・
その手際に恐れ入るとともに、鳥肌が立つほど感動しました。
まさに、私にとってこの曲の演奏史上最高の名演だったといえるでしょう。(^^;)


生計がたたず苦労していたショパンに、ポーランド貴族のラジヴィーヴ伯爵が口利きしてくれてパリの社交界にデビュー・・・
曲の楽譜とピアノ教師収入が生業の源となったショパン。

そんな彼にとって楽譜が飛ぶように売れる大ヒット曲となり、生活の安定をもたらしたのが“華麗なる大円舞曲”。
多くの人が知っている曲で、この曲がチャーミングであることは論を待ちませんが、真にチャーミングな「演奏」とはありそうでなかなかないものです。


ここ2年ぐらいの多佳子さんの演奏には、明らかに風格が増してきています。
表現の幅も広がって「やりたい放題」とさえいってもよいのでは・・・?
それでも不安定にならないし、ましてや解釈上の破綻などは絶対にない。。。
これは当たり前のようでいて、実は非常な練習量のなせるワザでしょう。
眼前では、実は大変なことが起こっていたのです!^^

また、先にも記しましたが・・・
本人肉声の解説があって「じゃあ・・・」っておもむろに弾き始めた音が、あっという間に世界的にアカデミックな音色を湛えているというのが信じられません・・・。
それにお話しぶりと演奏のギャップ・・・
多佳子さんの頭の中にはどのような切替スイッチがあるのか見てみたいものです。


前半最後の曲は、スケルツォ第2番。
婚約までしたものの相手の父親の反対で破談になってしまったマリア・ヴォジンスカと恋していたころの曲だということで・・・

この曲も演奏至難なんだと思います。
ホールのピアノは生音にサスティーンがあまり感じられないタイプのベーゼンドルファーですから、演奏者としては生音の確保など余計に大変だったと思うのですが、多佳子さんの生演奏で聴いたうちではもっとも素敵な奏楽でした。

中間部の美しいメロディーは、信州の山の風景に似合います。
道中の電車車中で思わずハナウタで歌っていたぐらいですから、こういう曲をプログラムに入れてもらえるとうれしいですよね。^^

        

後半1曲目は、ジョルジュ・サンドとの愛の逃避行をしたマジョルカ島にて作曲された24の前奏曲から第15曲の通称「雨だれ」です。

ここでは発見がありました。
ショパンは結核を発症していたために、他の人にうつさないよう修道院での生活を余儀なくされていました。
多佳子さんの解説のなかに中間部のおどろおどろしいところで、修道院の鐘が鳴るというものがあり、これを縁にはじめてこの曲の謎解きが出来たような気になったものです。(^^)v

あまりの病に臥していたショパンは、屋根あるいは窓を打つ雨音を通してきっとあの世と交信していた・・・
この曲にかねて感じていた世界感を言葉にできなかったのですが、それはものすごく怖い世界、あっちの世界を感じる・・・ということだったようです。
晩年の作品にはそこかしこに感じるイメージですが、このあたりの作品からこのような要素を曲中にグッと閉じ込めるようになっていったんですね。

具体的例を挙げれば、中間部冒頭の和音には長調と短調を決める音がわざと省かれていること・・・
調性がカムフラージュされるだけでなく、聴き手に何らかの不安定な気持ちを惹起させるのに十分な効果を挙げています。
この曲は自分でも弾いたことがありますが、楽譜を見ていても気づかなかったことを演奏を聴かせることで気づかせてしまうというのは大変なこと。
多佳子さんの解説を聞き実演を聴いて、こうしてパラドキシカルな印象を与える本質を突き止めることができたために、正しい作品分析ができたのです。(^^)v
(それが正しいかどうかは別にして。^^)


マジョルカ島から命からがら引上げてきて、寄る辺ない道中を過ごしたショパン。
パリの南200キロの田舎“ノアン”にあるサンドの別荘で療養し、体力が回復するとともに作品も傑作が続々と生まれるようになりました。
ショパンにあった気候のノアン・・・
ショパンは毎年夏に赴いて、作曲に専念する絶頂期が訪れるのですがそのころを代表する曲として弾かれたのが“英雄ポロネーズ”。

きびきびしてとにかく雄渾、暴れるピアノの響を猛獣使いのように制御するさまが圧巻でした。
多佳子さんは中間部の左手オクターブをペダルで伸ばさないタイプの演奏をされました。
私にはすっごく新鮮に聴こえました。^^


そして・・・
サンドの家庭内の問題に巻き込まれ、サンドと破局へ向かおうとしていたそんななかで生まれた愛の賛歌たる大傑作・・・
つねづねシ私がョパンの3本の指にはいる作品と評価している“舟歌”です。

実は先月浜離宮のコンサートホールで多佳子さんの演奏で聴いています。
ただ・・・
浜離宮のピアノはスタインウェイで、ここのはベーゼンドルファーとピアニストにとって大きく勝手が違うように思われます。
音色そのもののクラルテで勝負するのがベーゼンドルファー、響を潤沢に活用するスタインウェイ・・・
低音のバスのサスティーンが効かない・・・
そんななかでも、ピアノの良さを最大級に発揮できるよう弾きこなすということで、ピアニストって大変だなと思いました。

例えば・・・
マニュアル車では、車ごとにクラッチあわせの左足の感覚が微妙に違うことがわかると思います。
ピアノも同様で一台一台音色が違うし、ペダルの効き方も違うのに一定水準以上の演奏をしなければならない・・・

多佳子さんご本人もことある度ごとに演奏前の心境は例外なく「怖い」と述懐されているとおり、ピアニストという商売はとっても精神衛生上好ましくない職業なのかもしれません。


多佳子さんは非常な練習の虫。
だから、コンサート会場でも事前に練習をみっちりしてピアノとホールの特性をインプットされています。
今回2日続きのリサイタルですが、初日が終わった後もホールのピアノでひとり深夜まで練習を重ねていたそうです。
だからこそ我々は感動できるわけであり感謝の念とともに、その努力にはただただ頭が下がるというもの。(^^;)

そして・・・
最後の絶筆マズルカ。。。
晩年はもう何もする気がなくなってしまったかのような生活が続き、力ない字で書かれた楽譜・・・なんだそうです。

この曲は最初の1音でやられました。
ピアノの1音ですべての雰囲気を語ってしまえるというのも、一流ピアニストなればこそ。
あの1音が聴けただけでも、コンサートに足を運んだ甲斐があったというものです。


そういえば・・・
後半の楽曲は英雄ポロネーズはともかく、他は“あっちの世界”にまつわる曲・・・
もしかしたら多佳子さんにはそんなコンセプトもあったのかもしれません。


ところで・・・
ショパンは3つの遺言をしていたそうです。
まず、遺体はパリに埋め心臓はワルシャワの聖十字架協会に安置して欲しいということ、次に、葬儀にはモーツァルトのレクイエムを使って欲しいこと・・・ここまでは守られました。
最後は、出版されていない楽譜は破棄して欲しいということ・・・
でしたが、これは楽譜を預かった友人のフォンタナが骨を折って出版してしまったため守られませんでした。
が・・・
だからこそ「幻想即興曲」などショパンを代表する曲が抹殺の憂き目から逃れえたんですよね。
全人類のためには間違いなくよかったのかなと思います。
これも因縁というものでしょうか・・・。

アンコールで弾かれたこのっ曲も多佳子さんからよく聴く曲・・・
フィギュアスケートのエキシビジョン演技を思わせるリラックスした弾きぶりで、愛奏曲であることが伺われました。。。

フィギュアスケートといえば、4回転に挑戦してバランスを崩したり、回転不足になったりとか・・・
演奏会ではすべからく演奏家の方の思惑と外れた箇所があるはずで、お郷の知れないおたやまじゃくしがいたり、神隠しにあったおたまじゃくしがいたりするのが私でもわかるような箇所も確かにあります。

でも・・・
私はプルシェンコの論の味方。
最善を尽くした準備をしたうえで限界にチャレンジしてくれている姿勢こそが尊いと思います。
その期待に必ず応えてくれるピアニスト、それを応援する体制を備えたコンサートホール・・・
トレビアン!(^0^)/

というわkで、次の機会も事情が許す限り安曇野に行きたいと願っています。^^


みなさん・・・
多佳子先生の講義のノートを駆け足でたどりましたが、ショパンの39年の生涯をイメージいただけましたでしょうか?
音がないとやっぱりムリかな!?(^^;)


演奏会2日目の模様は、次の記事でご紹介します。(^^;)

《ショパンwithフレンズ》 “ピアノは歌う メンデルスゾーンとともに”

2010年03月07日 14時44分44秒 | 高橋多佳子さん
★《ショパン with フレンズ》~奇跡の年 コンサートシリーズ
デビュー20周年記念&ショパン生誕200年記念  高橋 多佳子 ピアノリサイタル    

“ピアノは歌う メンデルスゾーンとともに”(1809年)
《前半》
1.F.ショパン     :ノクターン 変ホ長調 作品9-2
2.F.メンデルスゾーン:「無言歌」より“詩人の竪琴” ホ長調 作品38-3
3.F.メンデルスゾーン:「無言歌」より“春の歌” イ長調 作品62-6
4.F.ショパン     :ノクターン 変ロ短調 作品9-1
5.F.ショパン     :ノクターン 変二長調 作品27-2
6.F.メンデルスゾーン:「無言歌」より“ヴェネツィアのゴンドラ” イ短調 作品62-5
7.F.ショパン     :舟歌 嬰ヘ長調 作品60

《後半》
8.F.メンデルスゾーン:ロンド・カプリチオーソ ホ長調 作品14
9.F.ショパン     :マズルカ風ロンド ヘ長調 作品5
10.F.ショパン     :華麗なる変奏曲 変ロ長調 作品12
11.F.メンデルスゾーン:厳格なる変奏曲 ニ短調 作品54

《アンコール》
1.F.ショパン     :幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66
2.J.S.バッハ/ヘス編:コラール前奏曲「主よ、人の望みの喜びよ」
                  (2010年3月6日 浜離宮朝日ホールにて)

ショパン・シューマン生誕200年記念の今年・・・
高橋多佳子さんによりことピアノ音楽において大きな足跡を遺したロマン派の大作曲家、前年1809年生まれのメンデルスゾーンと1811年生まれのリストと合わせて4回シリーズで特集するというリサイタルがスタートしました。

200年前に生を受けたとなれば・・・
4人とも江戸時代は化成年間生まれの作曲家であり、町人文化が繁栄し錦絵だの川柳が流行った時代の真っ只中。
とはいえ、我が国の音楽文化に関して今に残っているものがはたしてどれほどあるのか・・・?
その辺りの専門家ではない私にはよくわかりません。

にもかかわらず・・・
海の向こうの異文化に育まれた音楽については、まったく身近な先人の業績に思われるとともに、実際永年の知己としての付き合いをしている。。。

ヘンですよね。(^^;)

日本でその時代に電気があったとは思う人はだれもいないだろうけど、ショパンやシューマンだけでなくクラシック音楽といわれるものを聴いていると、今の時代の環境となんらかわらない何か通底したものを感じてしまいます。
当時の宮殿やサロンにシャンデリアがあって・・・といわれると、無意識のうちにロウソクではなく電灯を思い浮かべてしまったり、エアコンがあるとは思わなくともそれと変わらないほどに快適そのものだったのではないかと思ってしまう。

これは私だけでしょうか。。。
少し考えてみれば、そうでないことはまったく明らかなのですが・・・。(^^;)

                  

さて、高橋多佳子さんの上記のリサイタル・・・
その一回目、「ショパン with メンデルスゾーン編」を堪能してきました。

今回のプログラムにはご本人がブログで明言していたとおり、はっきりしたテーマがあったので大きな聴く楽しみを持ってリサイタル会場に赴きました。

つまり・・・
1の超有名曲による“ツカミ”はともかくとして・・
2・3と4・5は旋律を歌わせることが命の『無言歌』vs.『ノクターン』の対比、
6と7は『ヴェネツィア』の舟歌の対比になっています。
後半も・・・
8と9が『ロンド』の10と11は『変奏曲』の対比となっているのです。

理屈っぽい男の子である私は、こういう“こだわり”には、がぜん知的好奇心をそそられてしまいます。(^^;)


リサイタル全般について結論めいたことを言ってしまえば・・・
殊に印象に残った3曲は「春の歌」「舟歌」「厳格なる変奏曲」で、印象に残った演出は「つなぎの妙味」とでもいうべきことであることを最初に申しあげたうえで、いつものとおりレポートを記します。
その場にいたものじゃないと判らない感覚は多々あると思いますし、あくまでも個人的印象だとあらかじめお断りしておきます。(^^;)

ノクターン作品9-2でスタート・・・
開演前の緊張はデビュー20周年でも変わらないし、それを何度も経験できて幸せという多佳子さん。
本番はどの演奏も大事にされているのでしょうが、やはり本格ホールでの勝負の演奏会なんでしょうから多少緊張の質も違っていたのかもしれませんね。

さすがに当初は多少焦らすような右手の表現や、曲中のムードの転換、音色の振幅が大きく感じられもしたけれど、コーダ前の装飾音がキラリンと閃いたとたん、あっという間にいつもどおりの魔法の世界にもっていってくれました。
あとはいつもどおりの自然に聴ける世界が演奏会の最後まで・・・。(^^;)

コーダのクライマックス後、最高音がキラキラ輝く美しさはいつもながらですが、実はその音の下支え(何か仕事ちっくな言い方ですが)として、バスの音が星空の景色を映す湖の漫々とした水面のようにおおらかに鳴っている・・・なんてところに気づいてしまうと、とっても幸せな気分になります。
その下支え(?)がふ・・・と消えると、きらめきから愁いを帯びたまろやかな、少しだけ感傷的な音色になって降りてくるように聞こえたりもして結構ミクロな世界で快哉を叫んでいたりして・・・。

そして、ごあいさつで「長調なのにどこか哀しげ」なんて印象を多佳子さんが口にすると、オレが感じたあの表現がその表れに違いない・・・
などと勝手にまた喜んでいるジコチューな自分がとっても奥ゆかしく思えるのです。


ところで・・・
続く「無言歌」・「ノクターン」という旋律を際立たせ、ピアノを歌わせるべき楽曲の演奏において、その息遣いで多佳子さん以上に私のフィーリングに合うピアニストはいません。
なんといっても私の側から、実演・ディスクをとおして何度も自分の感覚をなじませ刷り込んじゃっているわけですから、記憶喪失にでもならない限り感覚が合わないはずは無いのです。

ハッとさせられたとすればそれはフィーリングの相違ではなく、新しい解釈の発見でありそれすら喜びにつながる・・・
勝手ですが、多佳子さんの演奏の場合はそんなもんでしょう。(^^;)
そう思える演奏(家)と、そうでない演奏(家)の違いはあるのかもしれませんが。。。

「詩人の竪琴」は曲が始まるや晴朗な空、あるいは海の凪といったセンチメンタルな蒼いイメージが感じられ、「春の歌」には人口に膾炙したこの曲にこんな歌を感じて弾ききることができるのは多佳子さんしかいないという思いを強くしました。
「春の歌」は大好きな曲・・・多くの人が私を感動させてくれることができる曲だと思うのですが、今回のピアノを歌わせる・・・泣けそうなぐらい美しい歌をしっとり・さっぱりを両立した絶妙なバランスで聞かせてくれて本当にステキでした。
自分でも弾いたことがあるのですが、バックの装飾をハープを模したようにとかいろいろ思いながら音を置いていたけれど、結局は(多少音楽を生かすための仕掛けはあっても)こんなふうに歌えたらいいんだな・・・と、そんなふうに感じる演奏でした。

メンデルスゾーンについてはとっても幸せな作曲家だったのではないかとずっと思ってきました。
名演と呼ばれるディスクは大半が曲のムードに(主体的になんでしょうが)付き従ったものに感じられますが、シューマン風にいえば高橋多佳子の署名がしてあるメンデルスゾーンは感じきっていながらもいつもながらピアニストの意見がはっきり聞こえて、これでこそ多佳子さん・・・と喜んで聴けました。

このように親しみやすく、人の輪・人の心のなかにすんなり沁みてくるメンデルスゾーンに対して、ショパンのノクターン作品9-1は最初の一音からして違いますよね。
ほっこり幸せだった空気が、あっというまに自分に注目をむけさせようという意図を感じる、でもとても美しい旋律に取って代わられました。
2曲の旋律美を誇るノクターンを聴いて・・・
ショパンは、やや殻にこもった人で自己中心的だったに違いないと思います。
きっと心の中のどうにもならない葛藤、言い換えるとグチが、彼のフィルターを通るとなんとも昇華された音楽美になっちゃうという資質をもった人だったのでしょう。
彼にとってそれが幸せだったかどうかはわかりませんが、後世の音楽を楽しむものからみれば、いくらお礼を言っても足りないほどの貢献をしてくれたことは確かです。
本人もきっと後世の人間にこれほどまでに影響を与えているとは思ってもいますまい。

ヴェネツィアの舟歌の対比・・・
ここでもプログラミングも曲の解釈も、つなぎの妙味を感得させてもらいました。
3曲あるいわゆる「ベニスの舟歌」のうち、この曲を選ばれたのはまさに卓見。
新鮮な気持ちで聴けたと同時に、プログラム上前半最後のショパンの舟歌に繋げるためにも、最良の選択だったのではないでしょうか?

その「舟歌」ですが、多佳子さんによるこの曲の実演を聴いたのははじめてだったでしょうか?
ここでも伸びやかなバスの音が生きています。
存在感があって小回りもきくといったそれこそ大船に乗った美しい重音の旋律がこれだけ歌っているのを聴くと、やはり実演はいいなと晴れ晴れします。
そしてクライマックスに差し掛かるや、ここちよくアチェレランド気味(ツィメルマンのそれほど極端ではなく)に気分を上げて、「ピアノを歌わせるぞ」とばかりコーダの終結部でも普通の演奏では右手の装飾音の波が美しく鍵盤を駆け巡らせるところでも、敢えて左手のテノール音域の伴奏の旋律を波のようにゆったりと歌わせて天国的な世界をかいまみさせてもらったりと感動しっぱなしでした。

                  

後半はメンデルスゾーンが若い頃と晩年の代表的な曲が並んだのに対して、ショパンは対比の関係上で若書きの無名の曲が並びました。
ショパンの2曲は技巧誇示に走った曲作りになっているうえ、後年の作曲上のバランス感覚がまだないころの作品・・・と私には思えるために、ピアニストにとっては聴き映えするように弾き切るのは困難です。
要するに普通に聴いたら冗長に聞こえてしまう作品ですが、そこはそれ多佳子さんのことですからいろんな工夫をされていることが聴き取れて・・・そんな意味で最後まで楽しませてもらえました。
やはり、さすがだな・・・って感じ。

古典派の作曲家がえてして再現部も提示部と同じように弾かせるのに対して、ショパンは別れの曲にせよ再現部はショートカットして、あらたにコーダを長大にするなどして聴き飽きさせないバランスを工夫しているように思います。
ロンドだし変奏曲なのでこの言い方はあたらないかもしれませんが、敢えて言えば、弾く人の満足を聴く人の満足に優先させたような曲作りになっていやしないか・・・と思う曲。

今のショパンのオーディエンスが彼に求めているのは、きっとそこじゃない・・・
というところに一生懸命になっているころの曲なんだと感じました。
24の前奏曲なんて、フラグメントとしか思えないものだって、どれひとつ欠けていいと思っている人はいませんからね。
いずれにせよ・・・
これらの作品をも含めてショパンができていった・・・ということなんでしょうけどね。
後の作品の礎としては重要な曲なのでしょう。(^^;)
これらしか遺す時間が無く夭逝してしまったとしたら、今ほどにショパンはもてはやされていないのは確かだと思えますが。。。


そして、後半の白眉はなんといってもメンデルスゾーンの「厳格なる変奏曲」。
(自分の記憶では)ブレンデルの演奏をディスクで聴いたことしかなかった曲ですが、印象としてはまったく異なった曲にさえ感じられました。

じっくりしたテンポでテーマを奏でた後、変奏の性格を控えめながらはっきりそれとわかるように弾き分けていく手際・・・
これほどまでに曲中一貫したスジが常に感じられたのは、楽曲構成が縦横揃うまで練られている証左でしょう。

曲の最終部の尋常でない迫力の盛り上がりを聴いたときには鳥肌が立ち、心の中で何かが込み上げてくるような感覚に襲われました。

ここはブレンデルでは静かにそれこそそれとなく終わっていくように弾かれていた場面だと思いましたが、どうしてこれほどまでにほとばしるまでの感動が掘り起こされてくるのか・・・

多佳子さんのお父様と終演後にお話させていただく機会があり、実は、この曲が高校時代に何かのコンテストで「奨励賞」を得て、彼女がその後頭角をあらわす契機になった曲であると聞いて胎に落ちました。
これまでの半生といえる長い間、思い入れをもって暖められたうえでの奏楽だったと知れば納得できるというものです。
弾いていた多佳子さん自身も、きっと感極まるものがあってそれが伝わったのでしょうね。
いいものを聞かせていただいた・・・
そんな気になれます。(^^;)

厳格なる変奏曲・・・
こういった曲の魅力をもっと明らかに聴き取れるように、こちらも耳を肥やさねばなりません。
多佳子さんの今後のレパートリーにおいて、バッハやベートーヴェンへの期待も高まろうというものです。
リサイタルのシリーズを考えれば、まずはシューマンやリストなんでしょうが。。。
シューマンもクライスレリアーナの第1曲など、バッハの影響が感じられるので、そんなところにも期待したいと思います。


文中でも何度か触れましたが、今回のリサイタルで感じた特徴は「つなぎの妙味」です。
冗長になりそうな曲を救うために音色やフレージングに隠し味をほどこすなど・・・フィギュアスケートでもジャンプやスピンの見せ場の間で何度を上げてつなぎの場面でも得点を稼ぐように・・・音楽性だけでなく、ニヤッとさせられるような聞かせどころを山場のほかにポイント・ポイントでこしらえるつなぎの妙味がまずはありました。

一方でもうひとつ「つなぎの妙味」を楽しませてもらった観点は、プログラミングとその曲間の間や気分の転換です。
同じ楽器でこれほどまでに違った音が出るのかというほど音色が多彩だからこそできることなのでしょうが、前の曲の余韻を断ち切るように、あるいは曲のムードや響に乗っかるように自在に自然で魅力的な流れを作り出していく・・・これには本当に酔わされました。(^^;)


本編大団円の後・・・
アンコール1曲目は幻想即興曲。
私はこの曲に勝手にバッハ、あるいはベートーヴェンの背後霊を感じています。
右手旋律が下ってくる音型が、スピードは全然違いますが月光ソナタとそっくりだと思うから・・・。

最後はメンデルスゾーンの無言歌から何か・・・だと思いきやさにあらず。。。
彼が生前、音楽界に行った最大の功績のひとつに当時忘れかけられていた大バッハのマタイ受難曲蘇演があり、それにちなんでバッハの曲を弾くといわれなるほどと思いました。
「主よ、人の望みの喜びよ」・・・私が多佳子さんの実演に新潟県ではじめて触れたときの最初に聴いた曲・・・で温かくお開きとなったのですが、私には、実は、コラールの合唱部の旋律をピアノで歌いきってやるぞという思いで選曲されたものに思えてしかたありませんでした。
でも、まったく衒いの無い演奏だったからどうだったのかな?(^^;)
曲中のテノール声部・ソプラノ声部ともに、「ピアノは歌う」というテーマに相応しく心に響いてきて幸せを感じました。
こういう気分を味わうために演奏会に来た・・・
というわけで、期待通りの大満足。(^^;)

                  

終演後、いつものようにあいさつして写真を撮らせてもらいました。
今回はヴァイオリンの礒絵里子さんや理香りんさんも聴きに来ておられお話しすることができてよかったです。

でも・・・
ご両親といちばんお話させていただいたかな。(^^;)
いっぱい取材をさせていただき、いろんな特ダネをいただきましたが、ジャーナリストとしては素人でギャラも払っていないのでここには書けません。^^

私も父親として、やはりお父様が娘を見つめる眼差しにとても共感しました。
演奏を聴いた以外の収穫です。

このシリーズの次回は9月。
ショパンがバラード第1番を誉められたためにバラード第2番を献呈し、返礼としてその最高傑作とも言われる“クライスレリアーナ”を献呈された同年生まれの大作曲家、シューマンという絡み。。。
シューマン“クライスレリアーナ”vs.ショパン“バラード”全曲というプログラムに当然なるわけで(人事異動がない限り)これも行かないわけには行きません。
今からとても楽しみですね。(^^;)

★夢の共演!高橋多佳子とヤングピアニスト

2010年01月25日 00時22分13秒 | 高橋多佳子さん
★夢の共演!高橋多佳子とヤングピアニスト

《第1部》 高橋多佳子さんとの連弾
1.シューマン:アラベスク ハ長調 作品18 (高橋多佳子さんソロ)
2.ボロディン:歌劇「イーゴリ公」より「ダッタン人の踊り」
3.ドビュッシー:小さな黒ん坊
4.モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク
5.ハチャトゥリアン:仮面舞踏会
6.フォーレ:ドリー 作品56
7.ブラームス:ハンガリー舞曲第1番 ト短調
8.ラヴェル:スペイン狂詩曲 第4曲 祭り

《第2部》 ソロ演奏
9.ショパン:幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66 (中1の男の子)
10.リスト:3つの演奏会用練習曲より「溜息」 (高1の女性)
11.ラヴェル:「鏡」より「道化師の朝の歌」 (音大1年の女性)
12.ショパン:ノクターン第8番 変二長調 作品27-2 (高橋多佳子さんソロ)
13.ショパン:スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31 (高橋多佳子さんソロ)
14.ショパン:バラード第4番 ヘ短調 作品52 (高橋多佳子さんソロ)
15.ショパン:ポロネーズ第6番 変イ長調『英雄』 作品53 (高橋多佳子さんソロ)

《アンコール》
16.ショパン:ノクターン第2番 変ホ長調 作品9-2
                  (2010年1月24日 プラザイーストホール)

会社のSNSに「音楽も人の言葉も生がいいですね」と書かれていたのを見て、思い立って埼玉県までこのコンサートを聴きに出向いたのは大正解でした。
そこにはお人柄やお話のノリは前と変わらぬ高橋多佳子さんがいて、ピアノの演奏の魅力もそのままの高橋多佳子さんがいました。
ただ、魅力は“そのまま”とはいえその奏楽にははるかに円熟味が加わって、思い切って表現すれば「仁王立ち」とでもいいたくなるほどの骨太な音楽が展開されていました。
健在どころか好調ぶりを伺うことができて、感動とともに元気をもらうことができとてもありがたかった・・・
きょうの感想だけ伝えればよいのだとしたら、これですべてです。

以前にも聴いたことのあるスケルツォ第2番からは以前にはなかった抜群の安定感を感じましたし、アンコールのノクターン第2番は以前はヴァリアントを弾かれたのですが、今日は譜面どおりながら旋律を歌いこむことでむしろより自在に楽想が拡がったとすら思えます。特に後者の装飾音の扱いには思わずハッとさせられて、まさに今ここで音楽が生まれているという実感が嬉しかったです。

                  

終演後、ロイヤルトランペットさんと一緒にサイン会を終えた高橋多佳子さんにご挨拶しましたが、お話しぶりも相変わらずで、やっぱり「音楽も人の言葉も生がいい」を実感しました。

それにしても盛りだくさんの演奏会でしたね~。
会場のスケジュールには14時から16時と書いてありましたが、連弾の相手のインタビューをされた瞬間にそれじゃ終わらないと感じ、果たして終わったのは16時半をまわっていましたからね。。。
後に予定を入れていた人はきっと大変だったろうな。(^^;)
次回からは終演時間をもうすこし後にしておいたほうがよさそう。。。


前半の連弾、ヤングピアニストがプリモを弾き、高橋多佳子さんがセコンドを弾く・・・若いピアニストには本当に得がたい経験ですよね。
安定した表現抜群のリズムの伴奏に乗って自分の好きな歌が思いっきり歌えるようなものじゃないでしょうか?
ことにテノールでの旋律がセコンドにある曲などでは、ゾクゾクする気持ちを同じ鍵盤に向かって味わえるわけですからまったく羨ましい限りです。

10人のヤングピアニストはそれぞれに一生懸命で、想像以上に楽しく聴くことができました。
それぞれに思うところはありましたが、(演奏を思い出してしたためた草稿はあるのですが)ここに記すことは控えます。

                  

この後は、高橋多佳子さんの演奏について感じたことをメモしておきます。

彼女のシューマンの演奏はディスクになっているものはないはずですから、今日聴いた“アラベスク”が初体験になると思います。
多佳子さんのことだからもっと颯爽とした弾きぶりを連想していましたが、あの逡巡した冒頭のテーマこそ想定内とはいえ、中間に挟まれたエピソードは決して重くならなかったけど想像以上に濃厚に対比されていました。
ロマン派的パッションより響きの妙に意を用いたイメージで、私にとっては新鮮なシューマンと映りました。

私にとってはシューマンは(ブラームスのいくつかの作品もそうですが)、何かを伝えたいんだけど何を伝えたらよいかわからないもどかしさを表現したような作品を書いた作曲家という感じであんまり得意ではないのですが、多佳子さんは曲の表現する内容より響に注意を向けてくれたのでずっと聴きやすかったです。


そして後半のピアニスト自身が好みの4曲を選曲したというショパン。
「高橋多佳子のショパン」は私にとっては構えたところにボールが来るとでもいうべき「どストライク」であることを実証する演奏が、今日は堪能できて幸せでありました。

なんといっても作品27-2のノクターン以外は、耳の底に教科書とでも言うべき模範奏楽が刷り込まれているので、モノホンのベーゼンドルファーから今生まれでた音楽として私の耳に届けられるその楽想が、心に響かないわけがありません。

そのノクターンにせよ、いささかも奇を衒わないでいながら装飾音の自在さなどによりさわやかな思いのたけを伝えずにはいないし、私がショパン演奏はこうあってほしいというそのとおりの演奏。

彼女のディスク「ショパンの旅路」のシリーズでは名曲といわれるノクターンでも案外抜けています。
ただ、作品9の1も2も実演で聴いているし他にもいくつか耳にできているのですが、まだ味わっていない数曲もできれば早く堪能したい気持ちが強いのです。
とりわけ私がもっともエモーショナルな魅力を感じる作品27-1を(できれば27-2と併せて)聴きたいものだと思いました。


今日の白眉はなんといってもスケルツォ第2番とバラード第4番にトドメを刺します。
前者が以前実演で聴いた時よりも俄然安定した迫力を感じたことは先にも書きましたが、この2曲の演奏は終始鳥肌が立つほどの感銘を覚えました。

私にとっては、スケルツォ第2番には1970年50歳のミケランジェリによるDGへの録音が誰にも侵されることのない聖域として存在しているのですが、今日の演奏を聴いている間だけはその聖域のことを忘れてしまいました。
ミケランジェリが頭に浮かんだのは、問と答・・・といわれる曲中に何度か現れる音型の扱いもキメ細かく、音の消え際などにミケランジェリと共通の特徴を感じたからかもしれません。
なんにせよ生演奏でCDよりはるかに鮮度が高いことを考えても、私と同い年(もちろん録音時のミケランジェリより若い)でどんどん進化してミケランジェリを忘れさせるほどの感動を与えられたのには驚きです。

そして、バラード第4番。
この曲の聖域は何度も書いているように、ほかならぬ「ショパンの旅路Ⅴ」における高橋多佳子さんその人による演奏。
表情の起伏はディスクより豊かであるとはいえ、演奏は高橋多佳子さんの演奏そのものであると感じました。
当たり前のことですが、私にとって完全無比の型枠に納まった奏楽に精気があふれてしまったのですからこれほど魅力的なことはありません。
ロンド主題を終えてクライマックスに向かっていくところなど、鳥肌を飛び越えて魂を持って行かれそうになりました。


続いての英雄ポロネーズ・・・
輝かしいうえに何があっても揺るがない横綱相撲。
CDで聴いているとき以上に安定した弾きぶりで圧巻でしたが、最後の最後、弾ききったという達成感のような表情が演奏いっぱいにあふれ出して感動的な大団円となりました。


アンコールのノクターン第2番の自在さは先に書いたとおり。
会場では大向こうを唸らす本割の楽曲よりも、肩の力を抜いた(でも芸術的な緊張感は高かった)インティメートなこの演奏のウケがよかったようです。
いつもの多佳子さんならもう1曲ぐらいアンコールに応えてくれる気がしますが、結果としてこの曲で終わって後味は抜群だったのかもしれません。


ちょっとだけエラそうに書くならば、ことショパンに関しては、弾き手はもちろんのこととはいえ聴き手である私もバックグラウンドが他の作曲家とはいささか違います。
それに・・・
夥しい演奏家によるショパン演奏を耳にしながらも、常に高橋多佳子さんのディスクを座右において聴いているので今日の演奏が心地よいのは当たり前、これまで自宅で聴いてきたのはすべて今日聴くための練習だったようなものですからね。。。

ショパン生誕200年、少しでも多くの機会を見つけて多佳子さんの実演に触れたいものです。

                  

最後にちょっとだけ気になっていることを2点。
終演後、いつも演奏にまだまだなところがあるといわれることは、次回以降さらに高みを目指した演奏が聴けると思われるのでとても楽しみです。
ただ、私はキズのまったくない演奏ではなく、さらに磨きのかかった表現・構成にトライする高橋多佳子さんの演奏を期待しています。

そして、プロモーションの写真が新しくなっていることからして・・・
新しい局面に入られたのかと期待してしまいます。
浜離宮のシリーズ、来年にはショパン・リストのロ短調ソナタなんてプログラムもあるようだし。。。

ひょっとしたら新しいディスクもいよいよかな・・・。
いずれにせよますます楽しみです。(^^;)

高橋多佳子 ~ピアノ リサイタル~ at MUSE CUBE HALL

2008年09月22日 03時09分46秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 ~ピアノ リサイタル~ at MUSE CUBE HALL

《前半》
1.スカルラッティ:ソナタ ホ長調 K.380/L.23
2.モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
3.ショパン:ワルツ 第5番 変イ長調 作品42 《大円舞曲》
4.ショパン:バラード 第3番 変イ長調 作品47

《後半》
5.ラヴェル:夜のガスパール (ベルトランの詩、朗読付き)
6.リスト:巡礼の年報 第2年《イタリア》S.161より 「ダンテを読んで―ソナタ風幻想曲」

《アンコール》
7.シューベルト/リスト:ウィーンの夜会 第6番
8.ショパン:12の練習曲より第3番 作品10の3 《別れの曲》
                  (2008年9月21日 所沢市民文化センター ミューズ キューブホール)

所沢市民文化センター・ミューズで開催された高橋多佳子さんのリサイタルを聴いた。
毎度のことではあるが、私にとっては『待望の』という修飾語が付くイベントであり、これまた毎度のことであるが、その演奏にはすこぶる付きの充足感を味わって帰途に着くことが約束されている・・・そんなイベントでもある。
果たして本日もそうだった。(^^)v



早速、個々の演奏についての感想文を・・・(^^;)


冒頭のスカルラッティのソナタを多佳子さんから聴くのは初めてではない。
逆にスカルラッティの曲で聴いたことがあるのはこの曲だけ・・・ともいえる。

結論をいえば、右手のニュアンスの多彩さが生かされること、その冒頭部“♪~ ちゃんちゃちゃちゃっちゃっ・ちゃんちゃっちゃぁ~~~~”とリズミックなトゥッティ(?)との対比が楽しいことなどの点で、555曲あるソナタのうちもっとも多佳子さんに合ったレパートリーと思われる。

それだけでなく中間部のニュアンスの付け方には、多佳子さんからしか聴けないあの感覚が確かにあったし、ニュアンスといえば装飾音がめっぽう品が良かったことも耳の娯楽としてはゼイタクなことだった。
「装飾音」についての専門知識はないけれど、とてもやんごとなき女性の手になるもの・・・王女様のために作曲されたものだからそれは望ましいことだろう・・・のように感じられて、私にはとても好ましかった。



続いて、モーツァルトのK.330ハ長調のピアノ・ソナタ。
モーツァルトのピアノ・ソナタって、私はそれと聞くだけでいささか金縛りにあうような気がする。。。(^^;)

多佳子さんの演奏は、多分まったく模範的であったであろうし、足りないものは何一つ思いつかない。
音色、表情、しなやかで見通しの良い非の打ちどころのない表現・・・多分に愉悦的に弾かれたのはなかろうかとも思うには思う。

ではあるのだが、聴いてるほうにモーツァルトのソナタを愉悦的に(楽しく?)聞くための遺伝子というか抗体というか素養が不足していたのかもしれない。(-“-;)

もしかしたら本日の演奏の中で最も「演奏自体の完成度」が高い、立派な演奏だったかもしれない・・・ことを思いながらも、私はいまいち乗り切れなかった。

理由ははっきりしない・・・。
が、先にも述べたようにきっと聴く側の事情によるのだろう。
生まれてからこのかたの時間の使い方の中で、私のモーツァルト理解がこの曲を聴いたときに自分のものにできるレベルまで持ち上がっていなかった・・・・・
おおかたそんなところだろう。



前半の最後は、ショパンの変イ長調の2作品である。
これまでの多佳子さんとの会話の中で、彼女がショパンの「変イ長調」作品の素晴らしさに注目されていることは知っていた。

確か、以前同じホールでりかりんさんと“デュオ・グレース”として弾かれているはず。
そのときソロ・パートで演奏された2曲・・・“即興曲第1番 作品29”、“練習曲 作品24-1《エオリアン・ハープ》”・・・もまた、変イ長調であったことをすら忘れていなかったエラい“私”・・・。(^^;)

そのほかにも多佳子さんに“変イ長調”と言われたときチェックしていたために“英雄ポロネーズ”、“幻想ポロネーズ”、“華麗なる円舞曲(作品34-1)”、“別れのワルツ”・・・などなど、この調性のかずかずの名曲はすぐに思い浮かべることができるのだ。(^^)v


そんな中、今回多佳子さんが選んだ2曲、作品42の“大円舞曲”と“バラード第3番”は実演では初めて聴くレパートリーであった。

やはり多佳子さんのショパンは彼女にとっても、あるいは聴き手である私のいずれにとってもホームグラウンドなんだろうな・・・。
いずれの曲も100%多佳子さんと一体化しているようにさえ思えた。。。

そればかりではない!
聴き手がいることに配慮してなのか・・・・・ややたっぷりとられたフレージングの呼吸に乗っかると、あら不思議、私も自然にチューニングが合うかのごとく、すんなりショパンの世界に誘われてしまった。
これはライヴじゃないと味わえない感覚、思わず頬が緩む。(^^)/


これは“多佳子さん自身がショパン”であり“ショパンの曲そのもの”だからこそ、そんな感覚を味わわせてくれることができる・・・そうであるに違いない。

そしていささか自慢めいて言わせてもらえるならば、私の「受信感度」、これだってまんざらじゃないからだよね・・・とも言えよう。(^^;)


“大円舞曲”、この曲の出だしとしては異例なほどファンタジックにスケール大きく始まったように思う。
いや、これから後の楽曲とその演奏にはファンタジー(幻想)というコンセプトが一貫していた。

軽妙で雄弁な右手の旋律、表情も音色も高橋多佳子節。
そして左手のバス音の小股の切れ上がったとでもいうありかた・・・これも多佳子さん演奏の得難い特徴、「これを聴くためにリサイタルに来たのよね」って感じで幸せであった。


“バラード第3番”では、これもギリギリまで表現意欲を積極的に顕した演奏だった。
特に録音されたものを聞くともっと抑えた演奏が多いように思うけれど、「ここまで行っちゃってでも音楽的にも芸術的にも踏みとどまって楽しませてくれるのが多佳子さんなんだよね~」とここでも大いに納得。


            


後半はラヴェルの“夜のガズパール”から・・・。

安曇野でも試みられた、各曲の前にベルトランの詩を朗読するという趣向。
今回は照明を工夫してとの前触れどおり、スポットライトの中で起立しての朗読、そして演奏にはいるとステージの情報の白亜の壁に幻想的なライティング・・・オンディーヌは青、絞首台は赤~橙、スカルボは緑を基調・・・が当たって視覚的にも判りやすいという凝った仕掛けがあった。

この後に弾かれるリサイタル形式を編み出し暗譜云々の呪縛を考案したリスト先生が見たら、この視覚効果について何と言うだろうか?
私には面白い試みだと思われたけれど・・・。(^^;)

それはライティングが単色ではなく、赤に緑を混ぜて橙にしてみたり、緑の効果もライティングされている基の光の色そのものではない・・・空間で交じり合ううちに微妙にテイストの変わる色になる・・・ことが興味深かったから。
そして、ラヴェルの後にリストを演奏されたときも、断りはなかったけれど実は地面のライティングの光量を強くして、ダンテの世界を密かに演出していたことに気づいていたから。


その昔・・・
多佳子さんや私が子供の頃、いわゆる歌謡曲全盛時代にはこのようなライティングの演出は斯界では当たり前のことであり、大いに成果を挙げていた。
それを大胆にリサイタルに導入したというのは、発想からすると別に自然かもしれないけれど、実はピアニスト業界にあってはたいへんなことなのかもしれないと思っている。

そうであるならば、応援しなきゃね。。。
そんな気持ちにもなろうというものである。(^^;)


そして、多佳子さんの詩の朗読はこれは安曇野よりも格段に進歩されている。
ピアノがどれほど上手になられたかは、今のブルーレイの性能がどれだけ最新のDVDのそれを凌駕しているかというぐらいハイスペックな部分での話なので、私にはとんとわからないけれど、朗読の巧拙であるならばはっきりその違いはわかろうというもの。

同じことばを繰り返すときなど、どっちのことばにアクセントを置くか、また語尾をハッキリさせるかどうするか・・・
こんなことを楽譜を解釈するときさながらに、しっかりと準備されたんだろうなと思う。


ところで終演後、ご父君にお話を伺った際に聞いたのだが多佳子さんは学生時代に銀河鉄道999のメーテルの声優をしたことがあるらしい・・・。
それ自体は、多佳子さんの「ピアノの森」はもとより「北斗の拳」にまで至るアニメへの傾倒振りを思えばなんら不思議ではない。

しかし、その際、今や押しも押されぬ俳優としての座を揺ぎ無いものにしているT.K.氏と一緒にやっていたという情報には驚いた。

今日、多佳子さんに終演後サインしていただいたシン・ドンイルの『虹色の世界』のディスクでのナレーションの妙も納得というものである。(^^;)



なんとなく照明と朗読へのコメントが、演奏の感想より長くなった気がするけど・・・・・・。
次は肝心の“夜のガスパール”の演奏から・・・・・・・だったっけ?

「悪かろうはずがない!!」
     ・・・・・のひとことで終わらせるわけにも行かないか・・・。(^^;)


冒頭の“オンディーヌ”だが、私はこの演奏を多佳子さんが演奏会にかけて真剣に弾いたのであれば、最早どのように弾かれたとしても鳥肌が立つほど感動するのを禁じ得ないと確信している。


ショパンが生涯最後の演奏会をパリで実施したとき、“舟歌”の演奏を強弱などかなり楽譜の表記と違えて表現したが、聴衆はたいへんな感銘を受けたとされている。
それはもちろん最高の作曲家であり、最高の自作の演奏家であったショパンが“そのとき”の感興に任せて最高と信じる表現をしたわけであるから、観客の感銘は当然だ・・・という理解でよいのだと思う。

翻って、多佳子さんのショパンの多くの曲の奏楽はもちろんその域にあるのだが、ラヴェルにあってもこの“オンディーヌ”に関しては間違いなくそのレベルにある・・・
それを確信したのだ!


それは、去年のヤマハ立川店に於ける何年ぶりかの披露に続き、ピアノを安曇野のベーゼン、そしてスタインウェイと替えながらもどんどん深化していくその表現を、私が実体験として目の当たりにした実績から経験的に断言できること。

繰り返して言えば、どのように弾かれたとしても高橋多佳子の演奏する“オンディーヌ”は、驚くべきことに“そのとき”その観衆の前でそのピアノを遣ったときの最高の表現を約束してくれるのだ。


具体的には、最初の雫の音型を粒ぞろいに弾いたとしても、敢えてそろえることに拘泥しないで表現したとしても・・・
その後の旋律を歌いこんでもそうでなくても、交差した手の左手旋律を強調しようとも両手のメロディーのユニゾンに意識が向けられていても・・・
それらはどのように弾かれても、それが“そのとき”における最高の解釈であり、多佳子さんの感性はそれを的確に探り当てることができる・・・・・・そこまで曲を血肉と化した境涯に至っているのだという確信なのである。


そして“スカルボ”も考えうる限りの試行錯誤は経て、当初思い切り弾けていたときの魅力とはまた別の円熟した味わいというべきものを醸し出していた。

どこをどうしたら制動が利くのか、どんな節回しで行けばどのような効果が現われるのかとことん検討しつくした思われる。
炸裂する音響の中にあってすら表現の幅、ニュアンスの豊かさが格段に違っていたから、遠からず“オンディーヌ”の演奏の域にまで達するに違いあるまい。


もしかしたら多佳子さんにとって、最もこの曲の難物は“絞首台”かもしれない。

尋常じゃない集中力を継続させラヴェルが小節1つずつを積上げて作曲していったのをトレースするがごとく、慎重に音を積み重ねておられるのはよ~く聴き取れた。

和音を伴う旋律の生々しさにおいて、今回の演奏に匹敵する演奏はディスクでは聞いたことがない・・・そりゃ生だからかもしれない・・・けれど、野ざらしの骸にしては死体が新しい気もした。(^^;)
もっと鄙びてるってもんだよね・・・って感じだろうか?


そしてこの曲の要は終始鳴らされる鐘の音・・・これが素っ気なく、でも実在感を持って演奏されねばならないと思うのだが・・・。

多佳子さんはペダルを巧みに遣って音を合成していた・・・
きっとハーフペダルのテクニックであの2つ目の引っかかるような音をこしらえているんだろうな・・・な~んて思いながら聞いていた。

私見だが、この鐘の音の連打のアゴーギグ・デュナーミクはある意味一定でありながら必ずしも一定でないと思っている。
うまく言えないが、これをメトロノーム代わりにテンポキープする、そういうあり方ではいけないのではないだろうか?


思えば多佳子さんからは、これまでにも“展覧会の絵のキエフの大門”、“ラ・カンパネラ”、そしてこの後に演奏される“ダンテ・ソナタ”などなど・・・いろんな鐘の音の表現を聴かせてもらってきたが、「幸せな鐘」、「けたたましい鐘」の表現のほうが『執拗な鐘』のそれよりもお似合いかもしれないな・・・とチラと思った。


それにしてもこの曲・・・“夜のガスパール”。
納得がいくまで弾き込まれた暁には、なんとか録音してもらえないかなぁ~。
切実なお願い。m(_ _)m



プログラム最後の曲目、リストの“ダンテを読んで”は本邦初公開だそう・・・。

安曇野でこの曲を手がけると伺っていたので楽しみにしていたが、想像通り多佳子さんに合ったレパートリーだった。

まず、最初のオクターブの和音が左手で奏されているのに驚いた。
右手が加わったところ、その中音域の雄弁なことといえばこれも多佳子さんならでは・・・。
激するところと、中間部の甘美なところの弾き分けも鮮やかに最後まで緊張感を切らさずに聴くことができて、自分を誉めてあげたい。(^^;)

もちろん全編“ブラヴォーな演奏”であったことこの上ない・・・・・。
“スカルボ”から連続しての演奏、聴くほうも結構その展開を追いきるのはけっこうハードだったなぁ~。(^^;)


          

そして、アンコール・・・

“ウィーンの夜会 第6番”は、最初アフターアワーズのリラックスした雰囲気で始まっていい感じ・・・・・と思っていたのだが、どこからともなく途中ですごく感極まって表現が真剣そのものになったように聞こえたのはなぜだろう?
なんかいきなり聖域(ゾーン)に入り込んじゃったような集中度合いに聞こえた・・・。

だからどうだということはないのだが、最後の走句にせよ白眉ともいえる音色美、旋律美が聴かれてゾクゾクだった。。。
いつ、どこから、なぜにあんなに気合が入っちゃったんだろう・・・?
中盤以降の美音はいまも耳の奥に残っているけれど、猫なで声というか神経を麻痺させられそうな必殺の響きだったと改めて感じている。


“別れの曲”もたっぷり歌いこまれて、「これぞライブだね」。(^^)/



今回もまた期待通り、いや、いつもながら期待以上に充足したリサイタルだったなぁ~。(^^;)
最後に、多佳子さんの演奏姿が心なしか大人びた・・・自然体で大家チックなオーラをかもしてた・・・ように思えたんだけど気のせいかなぁ~?
アップの髪にカチューシャをしていなかったから・・・・・という訳ではないと思うんだけど。。。

とにもかくにも、余は満足ぢゃ!(^^)v

高橋多佳子ピアノ・リサイタル in あづみ野コンサートホール (その2)

2008年05月29日 02時00分00秒 | 高橋多佳子さん
★新緑の安曇野で奏でる 高橋多佳子ピアノ・リサイタル モーツァルト・ショパンからラヴェルまで

《前半》
1.モーツァルト:ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
2.シューベルト:即興曲 作品90より 第1番・第4番

《後半》
3.ラヴェル:「夜のガスパール」“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”
4.ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22

《アンコール》
※ シューベルト:楽興の時 第3曲 ヘ短調
※ シューベルト(リスト編):ウィーンの夜会第6番
                  (2008年5月24日 あづみ野コンサートホール)

さて、前半のシューベルトで“微温的陽炎感”とでもいうべき現世と黄泉の国のあわいに存在するともしないとも・・・という、私の先入観を気持ちよく木っ端微塵にしたうえで感激の鳥肌音響を放逸してくれた多佳子さん。
そのポジティブな響きに耳が洗われる思いであったことは述べたとおり。

毎度のこと(ここでは以前1回しか見ていないがきっとそうなのだろう)ながら舞台袖ではなく、多佳子さんが客席の間を颯爽と引き上げていくのを、普段よりいくぶん手を高めの位置で拍手して見送り休憩と相成った。
会場は石造りの教会を思わせるほどにひんやりしていたが、ここまでで私は随分と上気していたような気がする。


もともと今回の目玉はラヴェルだと私は考えていたのだが、なんのなんのこのシューベルトへの独特な入れ込みようを聴いただけで大満足であった。

・・・ところがぎっちょんちょん。
やはりこれだけで終わるはずもなく、終わってしまえば白眉はラヴェルだったと思える。
それほどのカンドーものだった・・・ということだ。(^^)/


休憩時間、私はシューベルトの余韻に浸って前の記事に書いたとおりの何にどう感動したのかをいうメモを思いつくまま走り書きしていた。
あそこはこんな風だったとか、ここは・・・と置かれた音、響きのニュアンスをしっかりと反芻することができた。


ところで、同じ時間に多佳子さんは休憩の楽屋で窓の外で鳴き騒ぐ「蛙の大合唱」に聞き入っていたんだそうな・・・。
(^^;)

周知の通り「夜のガスパール」はアロイジュス・ベルトランの幻想的・怪奇的な詩集のうちから3篇を選び、ラヴェルがその詩の内容に実に忠実に曲を付したもの。
第1曲“オンディーヌ”は水の精であり終始雨音とも水の雫がしたたり落ちる音ともつかない忙しない音型が、終始曲を彩っている・・・。

この曲は野島稔さんのディスクで初めて聴いてから、その美しさに魅了され続けてきたのだがポゴレリチ、アルゲリッチなどの技術的に完璧にしてどこかへ連れ去られそうなコワさを秘めた演奏、あるいはフセイン・セルメットの超ジックリ歌いこまれた演奏などにそこはかとない魅力を覚えてきた。
一方ではサンソン・フランソワの演奏のごときファンタジックな演奏もあり、これはこれで唯一無二のチャームを持っている・・・ただし、青柳いづみこさんの指摘を待つまでもなくなんだかアヤシい演奏なのである。

魅力的なんだからそんなことはどうでもいいのかもしれないが、テクニックが・・・というよりなんだか本能的というか確信犯的にアヤシいのである。
だからこそあの気分あるいは奏楽の風合いが醸し出されるのであれば文句を付ける所以はない・・・けど。
でも、あの気持ちよく騙されていたいという演奏も良いが、フツーの演奏でファンタジーやポエジーが表現できないものか・・・との思いはどうしてもあった。

演奏前の曲解説で多佳子さんそんな私に「夜のガスパールは夜の音楽で、『幻想的』に弾きたい」などと所信を表明されたので、正統的な奏楽によるファンタジックでポエットな演奏への期待はいや増すばかり。


具体的には、「オンディーヌは夜の深い森の中で蛙や虫が鳴いているイメージ・・・だから安曇野の田圃の蛙を聞いてイメージどおりだぞ!」って・・・なんて突拍子もないくせに、思わず膝を打ってしまいそうなコメント。。。
こんな説明をすれば会場にどっと笑いがあふれ緊張感はフッと消えることになるのは必定、こんなところも多佳子さんのかけがえのない魅力だなのだが・・・私は思わず「やられた!」と感じた。

というのは、かねて謎だったこの曲に感じる(フランソワ的)ファンタジーの秘密の核心を、これほどまでに捉えた文句はないと思われたから。

これまで長い間騙されていた、いや気付くことができずにいたオンディーヌの「右手音型の意味」・・・。
即ち、雨・水の雫・飛沫の音だけではなく、恐らくは霧や驟雨に煙った夜半の湖畔で深い木々の中で蛙や虫が鳴く・・・そんな“雰囲気全体”を右手に託したときに幻想性が現われるのだ。
そしてこの仮説は恐らく正しいのだろうと信じられる。

また、多佳子さんがそう弾くと言った以上はそのように聴こえるに違いないのだ。
ラフマニノフの第2番ソナタの冒頭が「ロシアの荒野を風がわたる情景」だと解釈され、そのとおりの風景が浮かんだように・・・。


ところで多佳子さんはこの夜のガスパールの演奏の際、ひとつのチャレンジをされた。
それは、それぞれの曲の演奏に先立って、楽譜に記載されているベルトランの詩を自ら朗読する・・・というもの。
小さい頃アナウンサー志望だった(未確認情報!?)というだけあって、なかなかのものだった。

ホールでできるだけの照明の工夫でムードを盛り上げたのも楽しかったが、スポットライトとか、朗読する詩を置く台を別途オシャレに準備するなどさらに快適な演出をされたらきっと評判を取るんじゃないか・・・?
つくづくエンターティナーだなと思う。
朗読を別人に頼む・・・という企画は見たことがあるが、そこまで自分でできちゃうところがいかにも凄いこと。
いろいろなお考えを持たれる聴衆はいると思うが、私は応援したい企画である。


さて、肝心要の「幻想的に」という目論見はどうだったのかというと・・・?
果たして宣言(?)の通り・・・蛙の歌でイメージトレーニング十分のそのオンディーヌの出だしから、あたりの空気は曲の雰囲気に一瞬で支配されることになり、私にはかのフランソワの幻想性をも凌駕する演奏とあいなった。

私の耳と心は半ばのめりこみ、半ば冷静に楽句のひとつひとつを追った。
演奏中にはそれと判るミスタッチもあったけれど、この曲全体が醸し出すアトモスフィアの中では何の懸念も起きはしない。

スタインウェイやヤマハと違う、ベーゼンドルファーの特質がよく生きた響きがオンディーヌの物語を綴っていく・・・途中の盛り上がりの迫力は「よくぞベーゼンで・・・」と思わせる迫力もの。
その際の下りが先日のヤマハのときのような響きとならないのは良くも悪くもピアノの性格の違い・・・どっちがいいとかではなく、純粋にその違いを受け容れて楽しむことができるように弾かれているように聴こえるのは、きっとピアノをよく聴きながらその表現を合わせているのに違いない。
だから、同じ曲でも何度も、それも違ったシチュエーションで経験しているとその分楽しみが増える・・・というのをまたも感じることとなった。


そして私がふと耳を留めたのは、最後のオンディーヌのモノローグになる単音のところ・・・それまでのピアノの響きがペダルで混濁しないよう精妙に残されながらオンディーヌがつぶやくのがとても新鮮な気がした。

多くの演奏で、ここはいったんすべての音を断ち切って、無音の中でオンディーヌに拗ねて憎んだ言葉を吐かせるものだという先入観ができていた・・・と思っている間に、オンディーヌはとてつもない水飛沫となって幻想感いっぱいにたゆたうように消えていった。。。


私はやはりこの曲目当てで、この曲の演奏に最も打たれた。
もちろん“絞首台”でも、執拗に打ち鳴らされる鐘の音・・・これをここまでリアルに意志的に続けられる集中力に感服したし、“スカルボ”ではご本人が初めてにしては発散して弾けたので良かったと述懐されたように、その運動性能とツッコミの激しさを満喫した。

確かにピアニスト自身が語ってくれたように、もっと曲中で制御できないといけないと思っているといわれる所以も判る演奏だったかもしれない。
そして、これも言われるようにさらに弾き込んで曲を手の内に入れれば、毎度のショパンあるいはこの日のモーツァルトやシューベルトの楽曲で、細心のコントロールで絶妙なコントラストを鮮やかに決めたごとく完成度はあがるのだろう・・・。


でも、私はこの演奏を聴いてさえ、なんともいえない満足感をいだくものである。
それはタイガー・ウッズが350ヤード飛ばすのは、力いっぱい振り切ってかっ飛ばすからであって、多少フェアウエイの端の方に飛んだとてそのショットに触れたら身震いするのと同じ感覚といえばいいのだろうか?

つまり、初演の曲であるといいながら、その演奏は力いっぱい疾走し“スカルボ”が独楽のように回転して、駆け巡っているさまが疑いなくすごいスケールで展開されていたから・・・である。
こういった態度で提供された曲を「高橋多佳子節」と言わずしてなんと表現してよいだろう・・・。(^^;)

そして、曲は最後、蒼白く燃え尽きるかのように、この上なく玄妙に消えうせた・・・。
ここのコントラストとニュアンスは、この曲史上初めて聴いたと言ってよいほどまでに鮮やかに決まっていた。


私の演奏会行脚の歴史上、これまで「ブラヴォー」と声を上げたことはなかったが、後ろですかさず声が上がったことに背中を押されて、私も(3番目に)とうとう声が出た。(^^;)
これはおぞましくも凄いことである。言おうかなと思っても、理性で抑えちゃう人だから・・・。
ちなみに、私の後にももうおひとりブラヴォーを投げた人がいたので「最後じゃなくて良かった」なんて内心思っていたりもする。^^


さて、最後のショパンだが、さすがにスカルボの後なので、一旦袖に引っ込んで出てこられたものの、まだ息も荒い様子。
それでもラヴェル初演で「細かいことはともかく発散できたのがよかった」と手応えを感じた旨のコメントと、ショパンの作品の説明のうちにはペースを取り戻されたようだった。


アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ、この曲の説明として「若きショパンの野望・憧れなどが詰まった曲である」に異論はないが、その通りに弾けちゃっている演奏はそうそうお目にかかれないのではないか?

流れるようなアンダンテスピアナート・・・アルペジオの表情と装飾音の輝き、煌きを何に喩えたらよいものか・・・そしてよくぞあの体躯で力強く弾き続けられると会場全体が驚いていた大ポロネーズ。
期待通りの素晴らしい演奏で私としてはまったく安心して聴けちゃった。
弾いてるほうは大変なんだろうが・・・。

これにもブラヴォーが飛んでいたが当然だろう。私は安心しきっちゃってたので口にでなかったが。(^^;)


アンコールだがシューベルトに因んだものが2曲。
ラ・フォルネ・ジュルネのために準備したという有名な「楽興の時第3曲」、そしてリスト編のヴァルス・カプリース「ウィーンの夜会第6番」。
ポロネーズから続いて舞曲つながりかなという気もしたけれど、それはきっと重要なことではない。

多佳子さんの魅力は伴奏(左手)の小股の切れ上がったシャープなリズムにもあるとかねがね思っているが、朴訥としたリズムの運びがとっても味わい深かった。
メロディーもロシア風といわれるけれど、とてもチャーミングに印象深く弾きあらわされていて、簡素な曲だけれど聴き応えはあった。
もっともそれまでに聞いた曲が曲なだけに、相対的に軽いといってしまえばそれまでだが。

ウィーンの夜会でもいくつものワルツが展開していくところもさることながら、最後の装飾音の表情たるや・・・期待して聴いたけれどその期待のはるか上を行くチャーミングさでウットリ。
しかしアンコールににしては・・・大曲を弾いてくれることが多いよな。(^^;)

ここでの演奏はホロヴィッツ・ヴァージョンだったんだそうな・・・実は、どこがどうだからホロヴィッツ・ヴァージョンなんだかわからないのだが、なにはともあれ大団円である。



あとはいつものようにサイン会で丁寧に日付入りサインをいただき、今年はなんと写真にも収まってしまって光栄な限り。

多佳子さんとのお話の中ではラヴェルは是非録音したいとのこと・・・心強い限りである。
実現するようにあらゆる応援(と言って祈るぐらいしかできないが)をしちゃいたい気分!


その他、シューマンのクライスレリアーナもレパートリーに加えようかという意向をお持ちだそうで、これで私のシューマンへの苦手意識もなくなるかと思うと慶賀すべき事柄である。
思えば、かのペライアが第1曲を「まるでバッハだ、バッハしてるなぁ~」とノタマわっていたことを思えば、バッハ→ショパン→ラフマニノフが一連の流れの中にあると仰る多佳子さんにとっては、やはりシューマンを弾く場合のファーストチョイスになるのだろうか?

私的感覚では幻想曲ハ長調作品17のカオスを内包して滑るように疾走して行くさまも多佳子さんにはぴったんこだと思うのだが・・・そしてその被献呈者リストが謝礼としてシューマンに贈り返したロ短調ソナタも・・・と勝手に夢は広がっていく。(^^;)

そのリストだが、巡礼の年第2年の“ダンテを読んで”にはチャレンジすると仰っていた・・・冒頭の強打のほどよい緊張感から聴きものである。
これは文句なく多佳子さんに合うだろう。
女流だとその前のペトラルカのソネットをまとめて・・・という選曲が多い中、大いに頷けるところではある。


ファンだから、何を弾いてもらっても嬉しいんだが・・・。(^^;)

多佳子さん。
声援はずっと送りつづけるから、これからもステキな音楽を紡ぎ出してくださいね。
できれば録音もなんとか。(^^;)
よろしく。

高橋多佳子ピアノ・リサイタル in あづみ野コンサートホール (その1)

2008年05月26日 01時14分37秒 | 高橋多佳子さん
★新緑の安曇野で奏でる 高橋多佳子ピアノ・リサイタル モーツァルト・ショパンからラヴェルまで

《前半》
1.モーツァルト:ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
2.シューベルト:即興曲 作品90より 第1番・第4番

《後半》
3.ラヴェル:「夜のガスパール」“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”
4.ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22

《アンコール》
※ シューベルト:楽興の時 第3曲 ヘ短調
※ シューベルト(リスト編):ウィーンの夜会第6番
                  (2008年5月24日 あづみ野コンサートホール)

今年も安曇野に行けてよかった。
心からそう思えるコンサートだった・・・。

安曇野に高橋多佳子さんを聴きに足を運ぶのはもう3度目になる。
前回・前々回のときもそうだったが、あづみ野コンサートホールに集われる「高橋多佳子のピアノを聴く会」のみなさまにはお世話になりっぱなしだった。

コンサートの始まる前にも後にも、ホントにあつかましくもありがたい経験をさせていただいてしまった。
冒頭にまず、衷心からの御礼を申し上げたい。

ありがとうございました。m(_ _)m



今回のコンサートでは、ピアニスト高橋多佳子さんが初めて人前で披露するレパートリーが多かった。
シューベルトの即興曲第1番、ラヴェルの夜のガスパール“絞首台”“スカルボ”がそうなんだそうだが、後述のように高橋多佳子というピアニストを聴きに集った聴衆はとても幸せで満足な気持ちで会場を後にできたのではなかろうか?

私は、今回のコンサートに最も感激したと断言する!
このことはピアニストご本人にも言明済である。(^^;)



実演に触れるのは久しぶりになってしまったが、「表現者」高橋多佳子は健在どころか、さらに進歩し飛躍を遂げていることが感じられた。

音色のパレット、アゴーギグ・デュナーミクの幅・演奏上のあらゆるコントラスト・・・どの点をとっても私にはしっくりくる。
細かいことを言ってもしょうがないが、何より常にポジティブかつアグレッシブに曲に立ち向かっていく・・・否、曲に対立的に対峙するのではなく、曲と一心同体に同化したうえで自由自在に「高橋多佳子」流にドライブすると言ったらいいのだろうか?
これが何より爽快であり、しかるに心を揺さぶられるのである。


私にとって、もはやこのピアニストのショパンを演奏する流儀が「ショパン流」なのでショパン演奏に関しては公平に判断できないかもしれないが、他の作曲家のものには明らかに「高橋多佳子がこれを演奏しました」という刻印がなされていた・・・などとちょっとシューマン風にも書いておこう。(^^;)

私の感覚に従えば、多佳子さんは・・・ショパンを除いては・・・その作曲家のありようが正しく演奏のいたるところから感じられたり、滲み出たりするところを皮膚感覚で捉えたり、ヘタをしたら探し回らなければいけないような味わい方を期待するアーティストではない。
「どこを切っても生きのいい高橋多佳子節」という演奏こそが、私を元気にしてくれるのだ。(^^;)



さて、例によってコンサートホールには早めに到着したので、ロビーでぼんやりと会場からリハーサルのピアノの音が漏れてくるのに聞き耳を立てていたのだが・・・

あれ、スカルボのパッセージだったのが知らぬ間にスカルラッティの曲に・・・
  ・・・“スカ”が一緒だからどっちでもいいってか???

あれ、モーツァルトはK.330を演奏するとプログラムにあるのにK.310が聴こえる・・・
  ・・・それもフレージングを入念にさらってる・・・???
別に「20もサバ読んでる」とは思わなかったが・・・。

コンサートの準備なんだから別に何を弾いても文句はなかろうが、プログラムが変わるのかな・・・なんて勝手に想像してたりして。
いつもながら独特なリハーサルの要領である。




果たしてコンサートは予定通りK.330から始まった・・・やっぱり。(^^;)
ハ長調の素直で明快な曲であり、以前聴いたK.333のようなコロコロ音を転がすようなモーツァルトとはちょっと違った印象。

ここで気づかされたことは、ベーゼンドルファーの澄んだ乾き気味の素の音とペダルを踏み込んだ時にジュンと潤う音の差を意識した絶妙な節回し。
キュートにアクセントをつけたり、フレージングにせよ自然な流れのうちにあらゆるコントラストつけることで愉悦感を感じさせてくれる。

モーツァルトを聴くのに長けていると自認する人の中には、グルダをやりすぎとか言うかたもいるように、多佳子さんの演奏にも作為・工夫を凝らしすぎと感じる向きもあるだろうが、モーツァルトが天衣無縫に音楽的にはやりたい放題を盛り込んだのだとしたら、果敢に表現しに行っていけないはずはない。

誰が何といっても、私にはこのうえなく楽しく聴くことができるものだったからそれでいい!
・・・と言っちゃったらおしめぇか。。。(^^;)



そして初出のシューベルト。
シューベルトを聴くに関しては、私は人後に落ちないつもりである。(^^;)
ショパンより多くのディスクを持っているし、D.960に関しては47種類、即興曲も20余種を数えるものを聴き比べているのだから、そのように言っても許されるのではないか?
ただしシロートの偏頗な耳しか持ち合わせていないことはお断りしておかねばなるまい・・・。(-"-;)

そして結論から言えば、高橋多佳子のシューベルトを余すところなく聴くことができた。
つまり、これまで誰も見たことのない「シューベルトの新しい地平」を見、誰も聴いたことがない「新しいシューベルト像」が打ち立てられたのを聴いたのである・・・って大袈裟か?(^^;)

だって「鳥肌立ちっぱなしだったんだもん」と言ったとて説明にはならないが、それぐらい感激した。

シューベルトにはD.958やD.959それぞれの第一楽章のような押し出しの強いように思える曲もあるが、ここで畳み掛けていくぞというところでいきなりショボくピアノになってしまうようなところがある。
これがD.960や殊にD.894なんかになると、「生と死のあわいに」というか、もはや体が半分透き通っちゃってこの世とあの世の境でエコーを聴いて佇むのみという感じになってしまう。

くどいようだが、あくまでも私のイメージではであるが・・・。

即興曲第1番は悲劇的であるなかに麗しい旋律も織り込まれるものの、運命に翻弄されまくって最期はそれでも安らかに悟るか、諦めるかする・・・というイメージの曲である。
だから、曲の精神というか本質を抉り出すのではなく、楽曲を美しく聞かせるという種の演奏であれば別だけれども、激しい曲調にどうも流されるまま抗えずに果てて終わりました・・・という演奏が多いように感じる。
もしくは、最初から終いまで悲劇のカタマリであるとか。。。


しかし高橋多佳子さんのそれは違う。
まず主体が確固として「存在」し、積極的にもがき前進することをやめない。
とにかくポジティブであることをやめないで、死ぬまでの時間にあって「死ぬ」ことではなく今この時間を「生きる」ことのみを考え抜いて、生き抜いた超前向きなシューベルト。
強靭な表現への志向がそんなことを感じさせる。

だれあろう私のごとく、シューベルトに対する先入観を持っているならば「これは一般的に認知されているシューベルトとは違う」ということにもなろう。
事実、多佳子さん以外がこの流儀で演奏したら「わかってないヤツ」と思ったかもしれない。
でも実際には、冒頭のオクターブのト音、そして単音で紡ぐテーマ・・・ここで最早名演奏を確信してしまっていた。

ト音が鍵盤をひっぱたかないのにあんなに強靭な音がでる訳・・・は終演後に教えてもらうことができた。
技術的な「脱力」のしかたのメソッドで、ここ1年このスキルをマスターすることが出来たと多佳子さんが自認するところであった。

コンサートホールのベーゼンドルファーはかつてなく雄弁に鳴っていた。それは容易に聞き取ることができた。
事実、楽器の鳴りもどんどんよくなっているだろう。そして調律師による調整も精緻に為されていたとは思うけれど、私にはピアニスト本人の技術的な進歩が少なからぬ要因であろうと信じられてならない。


またはじめの旋律が和音になるところ、楽譜上はスタッカートの指示があると思うのだがここが絶妙であった。
私にはツィメルマンは明快に切り過ぎだと思えるし、かといってテヌート気味に弾かれちゃってもおかしいように思われるのだが、どんな魔法を使っているかは知らないがハギレはいいけどブツ切れにならないという絶妙な重さで弾き進められていった・・・。

その後はとにかく第4番も含めて傾聴させられっぱなしであった。
先の旋律の処理のように細かいことを言い出せばキリがない。例えば第1番の甘美なメロディーを支える3連符の音の処理(いつも聴いてる版と違ったのかもしれない)が凄く素敵であったとか・・・とにかく、ベーゼンドルファーならではの響きに食い入ったというかのめり込むばかり・・・この感激は「不立文字」というほかはない。


曲間の作品解説において作品90第3番の即興曲に関して、同じく変ト長調であるショパンの即興曲第3番作品51への影響を指摘された多佳子さん。
じぇんじぇん気付かんやったぁ~・・・って、普通気づかないと思うけど。(^^;)

「弾き比べてみたい」って、それナイスアイデアじゃなくって!?
ぜひ実現させてほしいものである。。。


ともあれシューベルトはこれまで食わず嫌いだったが、安曇野のお仲間からのリクエストがあったのでチョイスした・・・とのことだった。
こうなると、私としてはリクエストしてくれたかたには感謝してもしすぎることはない。
多分あの方だと思うのだが、ご本人が何ゆえか煙にまいてらっしゃるのかまかれてらっしゃるのか定かでないのでホントの所はよくわからない。

とにかく御礼だけ言わずにはおれないでいる私。。。(^^;)


・・・などと自分の書いた文章のヨッパライ加減に煙にまかれつつ、白眉のラヴェルを含む後半へつづく。
(ちびまる子ちゃん風)

後半発表は、早くて出張明けになる。それがいつかは・・・ナイショにしておく。(^^;)