Neko★です。

★★AB型・みずがめ座★
 ★身内には内緒の家Neko★日記です★★

うれしいひなまつり~☆

2011-03-03 | 日記


♪ 一 あかりをつけましょ  ぼんぼりに

       お花をあげましょ  桃の花   

     五人ばやしの  笛太鼓
  
          今日はたのしい   ひなまつり  ~♪

『うれしいひなまつり』
作詞:山野三郎  作曲:河村光陽

前奏が美しく、この季節になるとつい口ずさんでしまう童謡~♪
メロディがマイナー調であることもあって、
「うれしい・たのしい」という言葉とは裏腹に、
えも言われぬ哀感が漂います。。。

作詞の山野三郎とは、詩人のサトウハチローの当時のペンネーム。
この詩を書いたのは、昭和十年。そのころハチローは、最初の妻と離婚して、
三人の子ども引き取っていた。
まだ母親が恋しい年頃の子供たちのために、豪華な雛人形を買い与えると、
娘たちはうれしそうに、一日中お雛さまのそばで過ごしていたという。
そんな子供たちの姿をみて、作詞したとされています。



作曲の河村光陽は福岡県出身。
上京して東京音楽学校に入学し、中田章などに音楽を学びました。
この曲は昭和十年に生まれ、翌年光陽の長女の順子の歌でレコードが発売。
瞬く間に世間に広がり、ひな祭り童謡の定番となりました。

ところが、ハチロー自身はこの歌を嫌っていた?
戦後、ラジオやテレビからこの曲が流れると
「おい、切れよ」と不機嫌になり、
晩年まで「だれか、これにとって代わるひな祭りの歌を書いてくれないかなあ」
とぼやいていたという。。。

サトウ氏の次男佐藤四郎によると、
子供の頃、「随分悲しい曲なのに、何でうれしいんだろう」と不思議に感じました。
やがて、「ひとつのレクイエムなんだなあ」と思うようになりました。


子供のころ、腰の大やけどのため満足に歩けず、
家の中で遊ぶことが多かったハチローは、
四歳年上の姉喜美子からピアノの手ほどきを受け、詩的視点などで大きな影響を受けた。嫁ぎ先も決まっていた貴美子だったが、肺結核に冒されて、
婚約も一方的に破棄され、お嫁に行かずに十八歳で亡くなってしまう。
色白のお姉さんだった。
その姉のことに触れない父を、四郎氏は、
「ものすごく涙腺の弱い人だからこの曲が悲しくてやりきれなかったのかも知れない」
と思っていました。

日本の伝統行事を言祝ぐ(ことはぐ)歌なのに・・
作詞者の哀しい思い出の一面があったことを、知りませんでした。

息子と二人のおひなさま
ひな人形もなにもないのですが・・・ささやかに今年も「生チラシ寿司」?・・・かな

                ThankYou




コメント (14)
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