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「赤ちゃんは殺してもよい」とするシンガーの中絶擁護論。功利主義者内部での批判的検討。

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
シンガーの中絶擁護論。功利主義者「内部」での批判的検討。


たとえば、ピーター・シンガーは、ある条件の下で「胎児殺し」を認容する。
つまり「人命の神聖性」というカトリック的な基準を放棄することを薦めている。
この結論に反発する人は多かったらしい。しかし功利主義者内部でも、「胎児の将来の利益」をどのように考えるのか、社会的影響などの「二次的影響」についてどう考えるかで、シンガーとは別の結論が導き出される可能性がある。

功利主義は単なる損得勘定で人の生き死にを決めている、というイメージが持たれるわけだが、このような議論を知るとそんな大ざっぱなものではないことがわかる。

伊勢田哲治・樫則章『生命倫理学と功利主義』(2006年)より引用する。
まず単純化すると、胎児にはまだ「人格」がないから、それを殺すことは罪深いことにはならないとシンガーは言っている。

>中絶に関してシンガーは次のように述べている。

>>そこで私の提案は、〈理性、自己意識、感知能力、感覚能力などの点で同じレベルにあるならば、胎児の生命に人間以外の生命と同じだけの価値しか認めないようにしよう〉ということである。どんな胎児も人格ではないのだから、胎児には人格と同じだけの生きる資格がないのである。胎児がいつから痛みを感じるようになるかについてはこれから検討しなければならないが、ここでは次のように言うだけで十分であろう。すなわち、感覚能力が存在するようになるまでは、中絶は内在的価値を全く持たない存在の生存を終わらせることである、と。胎児が自己意識ではないにしても、意識を持つようになれば、中絶は軽々しく行われるべきではない(中絶を軽々しく考える女性がいるとしての話だが)。しかし、たとえ胎児が意識を持っているとしても、通常は女性の重大な利益の方が、胎児の未発達な(rudimentary)利益にまさるだろう。実際のところ、肉を味わうために胎児よりも格段に発達した生き物が殺されている以上、そのような行為をも同時に非難するのでなければ、最も取るにたらない理由による妊娠後期の中絶でさえ非難することは難しい。(77p-77p)

シンガーの意見は「直観に反する結論」かもしれない。
このような「おぞましい」結論が導き出されてしまうのだから、倫理学を考えるとき「功利主義」を使うことは間違いだ、と考える人もいる。

樫則章氏は、シンガーに対し「功利主義」に照らして批判的検討を行う。功利主義者がすべてシンガーのような中絶擁護論に達さなければならないわけではない。たとえば、シンガーのように「胎児の将来の利益」を除外するということは、功利主義者として必然のものとは考えられない。

>シンガーの以上のような中絶擁護論にはそれなりの説得力があるように思われるかもしれない。いわゆる「人格論」あるいは「パーソン論」を受け入れる人にとっては特にそうであろう。しかし問題は、シンガーが功利主義者だということである。すなわちシンガーが「通常は女性の重大な利益の方が、胎児の未発達な利益にまさるだろう」と言うとき、彼は、中絶が行われる時点での胎児の不利益(=苦痛)だけを考慮しているのであって、中絶される胎児の将来の利益(胎児が殺されず、生存し続けたときに経験するであろう選好充足)を考慮に入れていないのである。たしかに、胎児は現時点において自分の将来に対して関心(利益)を持ってはいない。すなわち、胎児は自分の将来に対して何ら選好を持ちえない。しかし、だからといって胎児の将来の利益を考慮しなくてもよいということにはならない。或る行為や決定が、或る存在によい影響であれ悪い影響であれ、影響を与えるなら、功利主義はその存在が将来において持つ利益と不利益とを考慮に入れなければならないはずである。(80p-81p)


社会的影響など、「二次的影響」の大きさをどれくらいに見積もるか。


『生命倫理学と功利主義』の別の論文で、伊勢田哲治氏が「二次的影響」の重要さを指摘している。

出生前診断やクローニングなどの生殖技術に関する功利主義者の議論を検討する中で、伊勢田哲治氏は、たとえば「障害」についての判断と「障害者」についての判断が混同されてしまいがちであるという心理的な事実があるならば、功利主義者はそのような心理的な混同がもたらすマイナス面をも十分考慮しなければならないのではないか、と言う。

>まず、ハリスやシンガー等の議論は功利主義的に見ても問題を単純化しすぎではないか、という批判がありうるだろう。生殖技術が関心の的となるのは、それだけ多くの人の利害関係がからんでいるからである。

>選択的中絶については、「障害」への否定的評価や、生まれる前の障害胎児への選別が、すでに生まれている「障害者」への否定的評価や選別へとつながる可能性(つまり、「障害はない方がいい」「子どもは障害を持って生まれてこない方がよい」という判断が「すでにいる障害者もいなくなった方がいい」という判断へと変化する可能性)が繰り返し指摘されている。実際、選択的中絶が優生思想であるという批判の説得力の一部はこの点にかかっている。もちろんハリスらは、障害に対する判断とそれを持つ人に対する判断は全く別物であり、障害を持つ人はそれ以外の人と全く同様に生きる権利や生殖する権利を持つと答える。しかし批判者らは、二つの判断の内在的関係というよりは、「障害」についての判断と「障害者」についての判断が混同されてしまいがちであるという心理的な事実を指摘しているのではないか。

>もしも実際にそうした混同が心理的におきやすく、しかも混同の結果が障害者にとって大きなマイナスとなるならば、「障害はない方がよい」という判断を共有することについて慎重になるべきだという結論が出てくる可能性はある。ここで、他人が勝手に混同するのだから私には関係ない、という答えは、義務論者であれば可能かもしれないが、帰結主義者がそういう答え方をするのは不誠実であろう。

>同じことはクローニングについても言える。理屈の上ではクローンを一卵性双生児と区別する理由はなくとも、もし人びとがクローンを人権を持つ存在として見ることができないという強い心理的傾向を持つならば、帰結の評価は理屈ではなく心理的傾向をベースとしてなされねばなるまい。そしてそうした見積もりの結果がクローンたちにとって「生まれてこない方がまだまし」な状態である可能性は存在する。

>その他にも、功利計算において結論をくつがえしかねない二次的影響はいろいろと存在する。たとえば古典的な家族関係がゆらぐことで(家族が疎遠になったり相互に無関心となったり、といった)見えにくい負の影響が発生することは十分考えられる。代理懐胎やクローンに反対する外的選好もある。そうした影響の一つ一つは小さくとも、社会全体としては大きな影響となるかもしれない。ハリスらの議論はこうした二次的影響にあまり注意をはらわず、もっぱら直接の当事者の利害だけを考慮しているように見える。二次的影響を考慮して規則を決めるのは規則功利主義や二層理論が得意とするところのはずであるが、こと生殖技術についてはヘアもまたシンガーやグラバーらの議論を支持しているようである。

>もちろん、二次的影響を考慮に入れても結論が覆らない可能性は十分にある。特に生まれてくることによる子どもの利益と比べるなら、二次的影響は些細なものだと考えることもできるだろう。非常に見積もりの難しい社会的影響をどう計算に入れるかの方針次第で結論はかなり違いうるし、容認派と禁止派のどちらに立証責任があると考えるかでも違ってくるであろう。(『生命倫理学と功利主義』112p-114p)