小飼弾氏は、パウロに喧嘩を売っている。
ベーシック・インカムに関する最近の本としては、私はまだ読んでいないのだが、小飼弾氏の『働かざるもの、飢えるべからず。』があるようだ。
「働かざるもの、食うべからず」という格言は、おそらく新約聖書のパウロの言葉から来ているのだろう。「テサロニケ人への第二の手紙」でパウロは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命令している。
以下、パウロの「テサロニケ人への第二の手紙」より
>わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
>援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
小飼弾氏は、つまりパウロにケンカを売っていることになるのだが、人の労働観が時代によってどういう風に変わってきたのかには、興味がある。
ちょうど『日本の論点 2010』に良い文章があったので、それを以下に「丸パクリ」することにする。
ベンジャミン・フランクリン、鈴木正三、ドストエフスキー、フランクルらの言葉の中に人類にとっての「労働の価値」の歴史を読み取ることができる。
(『日本の論点』編集部の皆様、皆様の努力の賜物の文章を拙ブログに無断拝借してどうもすいません。
私は既に購入済みだが、『日本の論点 2010』は、定価2900円でかなりの情報量を含んでおり、おトクだと思う。
さらなる購入を検討して下さる方が増えることを望みます。)
[基礎知識] 人の労働観は時代によってどう変わったか?
『日本の論点 2010』データファイル2(52p-53p)より
■麻生首相の「労働は罰だ」発言
2008年12月、麻生太郎首相(当時)は、熊本県天草市内のホテルで講演を行い、
「世界中、労働は罰だと思っている国のほうが多い。旧約聖書では神がアダムに与えた罰は労働。旧約聖書、キリスト教、イスラム教、足したら世界の何割だ。七割くらいの宗教の哲学は、労働は罰だ。日本では神々が働いていたから労働は善だ」
などと述べて、キリスト教関係者の反発を買った。
たしかに、旧約聖書の創世記には、人類の始祖であるアダムは主なる神が禁じていた「善悪を知る知恵の木」の実を食べてしまい、背信の罰として労働が与えられたと記されている。だが、創世記は、労働を否定的に捉えているわけではない。第二章には、天地創造時の荒廃した土地を耕してその実を神に返すなど労働の喜びや目的が明記されている。
さらに新約聖書では、信徒が怠惰な生活をしないように戒めている。キリストの弟子パウロは、使徒に宛てた「テサロニケ人への第二の手紙」で、「働きたくないものは、食べてはならない」という有名な警句を書いた。信仰という霊的な精神活動を重視するあまりに、食物を獲得したりする労働という世俗的な活動を軽視してはならない、と戒めたのだ。
労働を喜ばしいものだとする教えは、キリスト教の倫理に大きな影響を与え、やがて欧米の労働倫理の礎になっていく。ことにプロテスタントでは、勤勉を旨とした労働観が形成された。米国の独立宣言や憲法の起草に加わったベンジャミン・フランクリンは、『フランクリン自伝』や『貧しいリチャードの暦』で、英国から米国に移住した清教徒たちの勤勉で禁欲的な暮らし方を綴った。彼らは平日、脇目もふらずに荒野を耕して農園と町をつくり、休日になると神に祈りを捧げていた。フランクリンは、その厳しい生活に耐えて成功するための処世訓を数多く残し、「時間をむだにしないこと。有益な仕事につねに従事すること。必要のない行為はすべて切り捨てること」などと記した。
■「良い仕事」と「悪い仕事」
18 世紀半ばから始まった産業革命が、それまでの仕事観を大きく変えた。機械の進出が職人の「天職」を奪ったからだ。産業革命以前は、すべての職業が神の召命で、勤勉な労働が魂の救済につながると考えられていた。だが、機械に合わせて働く工場労働が広まると、人間が労働から疎外されるという問題が発生し、従来の「天職思想」に疑問が投げかけられるようになったのだ。19世紀半ばからは、「すべての仕事が天職である」という考え方は間違っているのではないか、という議論が盛んに交わされる。
英国の詩人で工芸家のウィリアム・モリスは、小冊子『有用な仕事と無用な労苦』で仕事には「良い仕事」と「悪い仕事」の二種類があると述べた。前者には「休息という希望」「生産物という希望」「仕事自体の楽しさ」がある一方、後者にはそれらの要素がないと指摘した。産業社会における仕事は、労苦にすぎず奴隷のような辛さしかない「悪い仕事」だと主張したのである。
20世紀になると、高度に発達した産業文明への批判が高まり、「人間中心」の労働観に関心が集まる。英国で活躍したドイツの経済学者E・F・シューマッハーは、「人間中心の経済学」を説き、「良い仕事」を「意義のある仕事」と捉え直した。良い仕事には、「生活の必要性」「自己の充実」「他者とのつながり」があると述べた。
■日本人の職業倫理
日本人は、欧米人に比べて昔から勤勉だったといわれてきたが、本当にそうなのか。
明治初期に来日した外国人の滞在記には、「日本人は実直で礼儀正しい」「公衆道徳をよく守る」という記述は目立つが、かならずしも勤勉だったわけではなさそうだ。1877年(明治10年)に明治政府から東京大学教授に招聘され、大森貝塚を発掘した米国の動物学者エドワード・S・モースは、当時の日本人を〈自分たち外国人は、この国の人々が何をやるにしてもゆっくりしているので、ときどき辛抱しきれなくなるが、しかし、彼らはいかにも気立てがよく、ものやさしいから、あまり怒る気になれなくなる〉(『日本その日その日』東洋文庫)と記している。産業革命をむかえ、工場労働者が大量に発生していた米国から来日したモースの目には、日本人は勤勉とはほど遠い存在に見えたのだろう。
だが、モースが帰国した後、日本は近代産業を育成し、富国強兵政策を大々的に推進するようになった。学校教育でも勤勉が推奨され、国定教科書には働きながら勉学に勤しむ二宮尊徳(金次郎)が登場した。
日本人は、列強との戦争に勝ち抜くために、欧米流の「勤勉」を採り入れたことは否めない。とはいえ、武士には「武士道」があったように、身分制度が確立した江戸時代にも、職業ごとの確固たる倫理観はあった。江戸初期、僧侶の鈴木正三は『万民徳用』を著し、それぞれの身分に応じた職業倫理を論じた。ここでも宗教が職業観の支柱になった。鈴木は、士農工商の身分格差を職分としては平等と捉え、職分を単なる金儲けのための手段ではなく、それぞれの職に励むことこそが仏道修行になると説いたのである。
鈴木の「職分思想」は、その後、不正によって金儲けしても子孫が滅びてしまうなどと商人道を説いた石田梅岩や、前述の江戸後期に活躍した二宮尊徳にも継承されていった。独学で「論語」などを学んだ二宮は、農耕をしながら独自の農法を編み出して農村改革に当たり、私利私欲に走らず社会に貢献すれば、いずれは自らに還元されるという「報徳思想」を説いた。鈴木の「職分思想」と同様に、自己中心主義を戒める点は、キリスト教徒たちの「天職思想」と共通していた。
■「働く意味」とは
慶応義塾の創始者、福沢諭吉は『学問のすゝめ』(岩波文庫)で、古人は額に汗して働けと言ったが、ただ衣食住を満足させるだけの労働は虫でもやっていること、それで満足する人は虫けらにも劣る、と説いている。
人間の労働には「意味」が必要だ。掘った穴を再び埋めるなど、同じ作業を延々とくり返すような「達成感」のない仕事は、人間にとって拷問同然となる。ドストエフスキーの『死の家の記録』(新潮文庫)によれば、シベリアの収容所でいちばん耐えられない仕打ちは、そのような無意味な作業だったという。
ナチの強制収容所での経験を『夜と霧』(みすず書房)で描いた精神科医のV・E・フランクルも、同様のことを言っている。収容所の苛酷な労働環境に耐え、生き延びることができたのは、屈強な身体を持った者たちではなく、「生きる意味」を持ち続けていた者だった、と。
(以上)
ベーシック・インカムに関する最近の本としては、私はまだ読んでいないのだが、小飼弾氏の『働かざるもの、飢えるべからず。』があるようだ。
「働かざるもの、食うべからず」という格言は、おそらく新約聖書のパウロの言葉から来ているのだろう。「テサロニケ人への第二の手紙」でパウロは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命令している。
以下、パウロの「テサロニケ人への第二の手紙」より
>わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
>援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
小飼弾氏は、つまりパウロにケンカを売っていることになるのだが、人の労働観が時代によってどういう風に変わってきたのかには、興味がある。
ちょうど『日本の論点 2010』に良い文章があったので、それを以下に「丸パクリ」することにする。
ベンジャミン・フランクリン、鈴木正三、ドストエフスキー、フランクルらの言葉の中に人類にとっての「労働の価値」の歴史を読み取ることができる。
(『日本の論点』編集部の皆様、皆様の努力の賜物の文章を拙ブログに無断拝借してどうもすいません。
私は既に購入済みだが、『日本の論点 2010』は、定価2900円でかなりの情報量を含んでおり、おトクだと思う。
さらなる購入を検討して下さる方が増えることを望みます。)
[基礎知識] 人の労働観は時代によってどう変わったか?
『日本の論点 2010』データファイル2(52p-53p)より
■麻生首相の「労働は罰だ」発言
2008年12月、麻生太郎首相(当時)は、熊本県天草市内のホテルで講演を行い、
「世界中、労働は罰だと思っている国のほうが多い。旧約聖書では神がアダムに与えた罰は労働。旧約聖書、キリスト教、イスラム教、足したら世界の何割だ。七割くらいの宗教の哲学は、労働は罰だ。日本では神々が働いていたから労働は善だ」
などと述べて、キリスト教関係者の反発を買った。
たしかに、旧約聖書の創世記には、人類の始祖であるアダムは主なる神が禁じていた「善悪を知る知恵の木」の実を食べてしまい、背信の罰として労働が与えられたと記されている。だが、創世記は、労働を否定的に捉えているわけではない。第二章には、天地創造時の荒廃した土地を耕してその実を神に返すなど労働の喜びや目的が明記されている。
さらに新約聖書では、信徒が怠惰な生活をしないように戒めている。キリストの弟子パウロは、使徒に宛てた「テサロニケ人への第二の手紙」で、「働きたくないものは、食べてはならない」という有名な警句を書いた。信仰という霊的な精神活動を重視するあまりに、食物を獲得したりする労働という世俗的な活動を軽視してはならない、と戒めたのだ。
労働を喜ばしいものだとする教えは、キリスト教の倫理に大きな影響を与え、やがて欧米の労働倫理の礎になっていく。ことにプロテスタントでは、勤勉を旨とした労働観が形成された。米国の独立宣言や憲法の起草に加わったベンジャミン・フランクリンは、『フランクリン自伝』や『貧しいリチャードの暦』で、英国から米国に移住した清教徒たちの勤勉で禁欲的な暮らし方を綴った。彼らは平日、脇目もふらずに荒野を耕して農園と町をつくり、休日になると神に祈りを捧げていた。フランクリンは、その厳しい生活に耐えて成功するための処世訓を数多く残し、「時間をむだにしないこと。有益な仕事につねに従事すること。必要のない行為はすべて切り捨てること」などと記した。
■「良い仕事」と「悪い仕事」
18 世紀半ばから始まった産業革命が、それまでの仕事観を大きく変えた。機械の進出が職人の「天職」を奪ったからだ。産業革命以前は、すべての職業が神の召命で、勤勉な労働が魂の救済につながると考えられていた。だが、機械に合わせて働く工場労働が広まると、人間が労働から疎外されるという問題が発生し、従来の「天職思想」に疑問が投げかけられるようになったのだ。19世紀半ばからは、「すべての仕事が天職である」という考え方は間違っているのではないか、という議論が盛んに交わされる。
英国の詩人で工芸家のウィリアム・モリスは、小冊子『有用な仕事と無用な労苦』で仕事には「良い仕事」と「悪い仕事」の二種類があると述べた。前者には「休息という希望」「生産物という希望」「仕事自体の楽しさ」がある一方、後者にはそれらの要素がないと指摘した。産業社会における仕事は、労苦にすぎず奴隷のような辛さしかない「悪い仕事」だと主張したのである。
20世紀になると、高度に発達した産業文明への批判が高まり、「人間中心」の労働観に関心が集まる。英国で活躍したドイツの経済学者E・F・シューマッハーは、「人間中心の経済学」を説き、「良い仕事」を「意義のある仕事」と捉え直した。良い仕事には、「生活の必要性」「自己の充実」「他者とのつながり」があると述べた。
■日本人の職業倫理
日本人は、欧米人に比べて昔から勤勉だったといわれてきたが、本当にそうなのか。
明治初期に来日した外国人の滞在記には、「日本人は実直で礼儀正しい」「公衆道徳をよく守る」という記述は目立つが、かならずしも勤勉だったわけではなさそうだ。1877年(明治10年)に明治政府から東京大学教授に招聘され、大森貝塚を発掘した米国の動物学者エドワード・S・モースは、当時の日本人を〈自分たち外国人は、この国の人々が何をやるにしてもゆっくりしているので、ときどき辛抱しきれなくなるが、しかし、彼らはいかにも気立てがよく、ものやさしいから、あまり怒る気になれなくなる〉(『日本その日その日』東洋文庫)と記している。産業革命をむかえ、工場労働者が大量に発生していた米国から来日したモースの目には、日本人は勤勉とはほど遠い存在に見えたのだろう。
だが、モースが帰国した後、日本は近代産業を育成し、富国強兵政策を大々的に推進するようになった。学校教育でも勤勉が推奨され、国定教科書には働きながら勉学に勤しむ二宮尊徳(金次郎)が登場した。
日本人は、列強との戦争に勝ち抜くために、欧米流の「勤勉」を採り入れたことは否めない。とはいえ、武士には「武士道」があったように、身分制度が確立した江戸時代にも、職業ごとの確固たる倫理観はあった。江戸初期、僧侶の鈴木正三は『万民徳用』を著し、それぞれの身分に応じた職業倫理を論じた。ここでも宗教が職業観の支柱になった。鈴木は、士農工商の身分格差を職分としては平等と捉え、職分を単なる金儲けのための手段ではなく、それぞれの職に励むことこそが仏道修行になると説いたのである。
鈴木の「職分思想」は、その後、不正によって金儲けしても子孫が滅びてしまうなどと商人道を説いた石田梅岩や、前述の江戸後期に活躍した二宮尊徳にも継承されていった。独学で「論語」などを学んだ二宮は、農耕をしながら独自の農法を編み出して農村改革に当たり、私利私欲に走らず社会に貢献すれば、いずれは自らに還元されるという「報徳思想」を説いた。鈴木の「職分思想」と同様に、自己中心主義を戒める点は、キリスト教徒たちの「天職思想」と共通していた。
■「働く意味」とは
慶応義塾の創始者、福沢諭吉は『学問のすゝめ』(岩波文庫)で、古人は額に汗して働けと言ったが、ただ衣食住を満足させるだけの労働は虫でもやっていること、それで満足する人は虫けらにも劣る、と説いている。
人間の労働には「意味」が必要だ。掘った穴を再び埋めるなど、同じ作業を延々とくり返すような「達成感」のない仕事は、人間にとって拷問同然となる。ドストエフスキーの『死の家の記録』(新潮文庫)によれば、シベリアの収容所でいちばん耐えられない仕打ちは、そのような無意味な作業だったという。
ナチの強制収容所での経験を『夜と霧』(みすず書房)で描いた精神科医のV・E・フランクルも、同様のことを言っている。収容所の苛酷な労働環境に耐え、生き延びることができたのは、屈強な身体を持った者たちではなく、「生きる意味」を持ち続けていた者だった、と。
(以上)