ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

工学的な「尊厳の分配」?-葦船往人氏のブログに疑問がいっぱい

2010年01月28日 | 思想地図vol.4
『クォンタム・ファミリーズ』をついに読み始める。しかしまだ19ページ。


以前の記事、東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』はおもしろそうだ 2010年01月14日で触れた『クォンタム・ファミリーズ』をついに最近購入し、読み始めた。

しかし現在、私は「物語外1」と題された最初の19ページまでしか読んでいない。残りの部分は自分にまだ「おあずけ」というか、このブログの記事を書き終わった後、また他の自分が読みたい本を読み終えた後に、ちびちび読んでいこうと思っている。


「尊厳の再分配」?-葦船往人のブログ『網状地下室』を読んで疑問に思う


それでももう、いろいろな思いが私の中に巻き起こっている。私はまず、作中人物の葦船往人のブログ『網状地下室』を読んで、すぐに自分の中に「え?」という反発感が出てくるのを感じた。葦船往人が2007年6月8日に書いたという文章である。内容は、現代の労働する若者の「尊厳」を巡ってのものだ。

>ではなぜ彼らは行かないのか。理由は簡単だ。労働では彼らの尊厳が満たされないからである。

>ぼくたちの社会は、一世紀前に較べれば飛躍的に高い生産性を実現している。世界はモノに溢れ、市場は開放され、ぼくたちはある意味できわめて豊かな時代に生きている。実際にこの日本でさえ、若者が餓死するのは容易ではない。それなのに、ぼくたちは恥辱に塗れ、疲弊し、生きる意志を失っている。日本では治安の悪化は失業率の上昇を振り切っている。同じ現象が世界中で起きている。ロンドンでニューヨークで上海でドバイでムンバイで、決して餓死することはないが、しかしそれ以上ではない、生きる意志を奪われた「ムーゼルマン」としての労働者=消費者が増殖している。ぼくたちの世界が荒れているのは財が足りないからではない。

>ひとはパンのみで生きるのではない。いまやもっとも重要な問題は、富の再配分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分と言ってもいい。そこで問題を縁取るもっとも過酷な条件は、世界の富の総量は「クリエイティブ・クラス」の「イノベーション」でいくらでも増やすことができるかもしれないが、世界の尊厳=希望の総量は決して変わりはしないという単純な事実だ。ある個人に尊厳=希望を与えれば、別の個人が必ず尊厳=希望を奪われ地下室に堕ちる。(葦船往人ブログ『網状地下室』2007年6月8日より 16p-17p)

このように葦船往人は語り、この後でその問題を「宗教」で解決しようとする者もいるかもしれないが、私はこの問題を「工学的」に解決したい、というようなことを言っている。一瞬納得してしまいそうな論理だが、5ページの記事によると、葦船往人はこの後、テロリスト容疑で逮捕されたようだ。何を考えていたのだろうか。「工学的」という言葉でこの人物がどんな事態を指しているのかは、わからない。私は、まだこの物語の先を読み進んでいないからだ。

しかし今の時点で私がいぶかしく思うのは、葦船氏の「世界の尊厳=希望の総量は決して変わらない」という言葉である。「尊厳の再分配」? 尊厳や承認というものが、富や財のように「配分」することなど可能だろうか?

「尊厳」という言葉は、「承認」という言葉とほぼ等しいと思う。
そこで「承認の分配」でブログ検索してみると、すぐに『承認は分配できるか(財のように)』「モジモジ君の日記。みたいな。」2007年11月19日という文章が見つかる。作中人物の葦船往人のブログの日付は「2007年6月8日」だったが、この文章の日付は「2007年11月19日」であり、これを見ると実際に2007年ごろ、「尊厳の分配」「承認の分配」という議論がネット界で行われていたことが推測できる。

私も、最近秋葉原事件と承認問題-宮本太郎『生活保障』より 2010年01月16日という記事を書き、この「承認問題」「尊厳問題」について注意を促している。しかし、「個人の尊厳」とは一体なんなのだろう。もしかするとそれは、ヨーロッパでキリスト教を背景として生まれた政治的な概念にしかすぎないのかもしれない。それは本当に必要なのだろうか? 私が問うのは、葦船氏のように「工学的」に必要かどうかではなく、それ以前に「宗教的」に必要か? ということである。

私が考えているのは、「仏教」のことである。仏教に何か可能性はないか。仏教では、「個人の尊厳」というものはどのように解釈できるのだろうか? そんなことを考えながら、私はイギリス人が書いた仏教書『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』を読み直したりしていた。

関連記事:自尊心などなしでやっていける能力-『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』より 2010年01月28日

キリスト教はどうなんだろう?

作中人物の葦船往人は、続けてドストエフスキーやロシア正教との関係について触れている。私は何だか、ドストエフスキーの小説が読みたくなってきた。だから『クォンタム・ファミリーズ』は19ページで読みさしにして、私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み始めることにした。久しぶりに面白い小説だ。胸に響くものがあった。しかし恐ろしく長い小説なので、いつになったら『クォンタム・ファミリーズ』に帰ってこれるかわからない。ここ数年、小説なんてほとんど読まなかった私にとって、『カラマーゾフ』は久しぶりに面白い小説になりそうだ。

>ベルジャーエフは、ドストエフスキーの可能性をロシア正教的な感性に見た。「ドストエフスキーは、言葉のもっとも深い意味におけるキリスト教的作家であった」。キリストと真理が対立するのであればキリストの側につく、と『悪霊』のスタブローギンは言う。それは世界文学史においてもっとも感動的な場面のひとつだ。

>しかしぼくは、未来の地下室人は、宗教的にではなく工学的に救われるべきだと考える。それこそがぼくたちの希望だ。
(葦船往人ブログ『網状地下室』より 18p-19p)

関連記事:「遠い者は愛せるのに、近い者は愛せない」―ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より 2010年01月28日

宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』を読んでみた

2009年12月17日 | 思想地図vol.4
『思想地図vol.4』に関連して、数日前、宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』(2008年)という本を読んだ。

関連記事:『思想地図 vol.4』を読む②-クワガタ虫・テレビ・ファスト風土 2009年11月30日

自分には合わないのではないか、「たぶん今の私には関係ないだろう」と思っていて、しばらく自分の関心の範囲から遠ざけていた。

最近のサブカルチャー事情に疎い私にとって、恐怖だったのは自分の知らない固有名詞の羅列に圧倒されて最後まで読めない、ということだったのだが、そこはそれ、スピード感のある宇野氏の文章のリズムについ引き込まれ、結局最終行までほとんど巻を措くことなく、一日とかからず読了した。

久しぶりの爽快感があった。

自分がこれまで、一度くらいは熱中した覚えのある、漫画やアニメやドラマの名前が、宇野氏の文章のもとにかき集められ、裁断され、区分けされ、関連づけられていく。自分の中でバラバラだった記憶や経験の断片が、思わぬ形で結びついた。「これとこれとは関係あるでしょ」と時にはかなり強引に、靴ひものような「きつめ」の文体で、次々と断片たちがまとめあげられ、しばりつけられ、締め上げられていった。サブカルチャー体験の背後に、自分がこれまで気がついていなかった、長いスパンに渡る物語が存在していることを、思わず「そうか・・・あれは、そういうことだったのか…」という「納得」みたいなものを可能にする大きな物語が存在していることを、この本は知らせようとしていた。

ただ、この本を読んでたぶん多くの人が感じたことだと思うけど、「そこまでサブカルチャーと『われわれの生き方』を結び付けなくてもいいんじゃないか・・・」という感想も同時に抱いた。

「生き方」と結び付けてしまうと、どんな話題だって対象範囲に入ってくるんじゃないかと思った。

サブカルチャーに生き方を学んでいるように見えるけど・・・

たとえば私は、NHKの『ダーウィンが来た』などの動物番組をテレビで見るのが好きだが、カメレオンの擬態など、あれこれの方法を使ってたくましく生きる動物たちを見て、「動物たちも生きるのに大変なんだなぁ。おれも頑張らないと」という気分になることがある。

つまり、テレビの動物番組からも知らず知らず「自分が生きていくのにヒントになりそうなもの」を探している自分がいる。

さらには、お笑い芸人が出演しているバラエティ番組を見ていても、芸人たちの人間関係、各人がスベった時の仲間のフォローの仕方、空気の読み方、などなど、芸人たちの流動的なコミュニケーション状況が如実に画面にあらわれていて「きついなぁ」というか、思わず現実社会に生きているわが身にひきつけて鑑賞してしまう。

マンガやドラマやアニメなどのサブカルチャーが、(若い)人間たちの生き方がそこに映し出される「鏡」のようなものになるというのなら、動物番組だってバラエティ番組だって「鏡」になることがあるだろう。そういうふうに話を広げてみると、「ゼロ年代の想像力」で取り上げる対象が、サブカルチャーの分野に限定されている必然性がよくわからなくなってしまう。残る感想は、人間は、何に対しても「自分たちの生き方にヒントとなるようなもの」を読み取ってしまうような動物なんだな、ということである。

大人が楽しめるサブカルチャーってないんだろうか・・・

『ゼロ年代の想像力』の内容を要約する力は私にはない。
自分の興味を引いたところ、今回通読してみて、自分の記憶に「かすった」ところをいくつか断片的に拾っておく。

この本で分析されている近年の映画作品の中で、私がかろうじて「そういえば見たことあるなー」と思えたのは、『ウォーターボーイズ』や、宮藤官九郎『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』くらいだった。

『ウォーターボーイズ』という青春映画を昔DVDで見た時は、私もうるうると感動してしまったけど、見終わって少し冷静になってみると、日本のよくできた、面白い映画というのは、いつも青春映画ばかりであるように思われてきて、「日本映画で人生の楽しかったことを描こうとしたら、高校時代の思い出しかないんか! 日本の大人たちには楽しいこと、幸せがないんか!」と腹立たしい気持ちにかられたことを思い出す。「これからどんな映画を見て、どんな音楽を聴いて楽しんだらいいんだろう」と思った。

『思想地図vol.4』の座談会で、「日本のアニメは主人公が思春期の少年少女ばかり。アメリカの『スタートレック』は登場人物が大人だったり、人種的マイノリティだったりする。アメリカは『中年』を描いてサブカルチャーとして成立しているのに、日本はこれができていない」という指摘があった。

大人の居場所がない日本の文化って、いったいなんなの、と思う。
しかしこのことは十分気づかれているみたいで、この本『ゼロ年代の想像力』でも「成熟」というのが大きなテーマの一つとなっている。

私がこの本で最初に面白いと思ったのは、宮藤官九郎のドラマや映画が、「郊外型の中間共同体の再構成」をテーマをしていると指摘するくだりだ。
そ、そうだったのか、そういう風に見ることができるのか…、と、私は感心した。

やっぱり私にとっては阪神大震災とオウム事件が大きかった・・・

90年代のサブカルチャーも扱っていて、鶴見済の『完全自殺マニュアル』や、岡崎京子の「平坦な戦場」という言葉が文章に出てきて、私は懐かしかった。

90年代の後半の一時期、確かに私も『完全自殺マニュアル』をはじめとする鶴見済の諸著作を愛読していたことがあったなぁと思い出した。岡崎京子の『リバーズ・エッジ』も繰り返し読んだ記憶がある。いわゆるサブカルチャーの世界に、私がいちばん深く漬かっていたなぁ、と思える時期は、阪神大震災・オウム事件が起こった1995年以降の数年間だった。これはちょうどこの本で「95年問題」として扱われているテーマとも関係している。いわゆる95年以後の文化状況というものと私の体験が重なっている部分もあったので、なんとか興味を持続させることができた。

私のように比較的サブカルチャーに疎い者でも、この本を読むといろいろと思い当たる節があり、自分の個人的事情と思っていたものが意外と日本社会の他の大きな流れと関係しているのだなということがわかって、うれしいような寂しいような複雑な気分になった。

『ジョジョの奇妙な冒険』を例にした、「カードゲーム」型のコミュニケーションの説明

『ハルヒ』とか『らき☆すた』とかは、見たことがないのでよくわからなかった。
固有名詞で私がわからなくなるのは、おそらく『エヴァンゲリオン』以降の作品群だと思う。

私がここ数年で、ちゃんと見た、と言えるようなアニメは『電脳コイル』くらいだし。

そのような私にとって、宇野氏がよく使う「サヴァイヴ系」とか「現代社会のバトル・ロワイヤル状況」という言葉の意味を、『少年ジャンプ』の「ドラゴンボール」と「ジョジョの奇妙な冒険」という「やや古い例」で説明してくれる箇所がわかりやすかった。

氏によれば『ドラゴンボール』は、「トーナメントバトル」型のドラマツルギーをもとにしており、そこでは、戦闘力を挙げて強いものが勝つという単純な勝ち負けが中心となるストーリーが過半を占めていた。

一方、『ジョジョの奇妙な冒険』という作品では、登場人物はそれぞれ千差万別の能力を持ち、相手の長所・短所との「対応関係」によりそれぞれの能力の適合性が異なってきて、登場人物たちは、より複雑なゲームをこなさなければならなくなった。『ジョジョ』は「トーナメント」方式ではなく、「カードゲーム」型のドラマツルギーに基づいた作品であると言える。

これは私にもイメージしやすい例の取り方だった。

そしてここが宇野氏独特の「飛躍」なのだが、現代のわれわれが住む社会は、『ドラゴンボール』型ではなく、『ジョジョ』型の「カードゲーム」のようなコミュニケーションが行われている社会であるという。

著者が「バトル・ロワイヤル」と呼んでいる状況は、このような配置から見えてくる何かであるらしい。

なるほど―。そうだったのか。

あらためて『ゼロ年代の想像力』から引用してみると、次のようになる。

『(ドラゴンボールの天下一武道会などの)トーナメントバトルにおいて、勝敗を決するのは彼我の「努力と友情」である。つまりこれらの作品では単純な「力比べ」が作品世界を支配している。しかし「幽波紋(スタンド)」という一種の超能力設定が導入された後の『ジョジョ』ではそうはいかない。「幽波紋」の能力はその使い手によって様々だ。「時間を止める能力」「空間を削る能力」といった、山田風太郎忍者小説以来のある種「伝統的」な戦闘能力から、「健康になる料理をつくる能力」や「ギャンブルの賭け金を完全に取り立てる能力」など、イマイチどう戦闘に生かせるのかわからない能力まで千差万別だ。だが、このバラエティが、トーナメントバトルの単純な「力比べ」にはない多様さを作品にもたらしている。』

山田風太郎の名前が出てくるだけで私にはちょっとうれしかったんだけど。

たしかに『少年ジャンプ』の黄金期の作品群は、「戦闘」形式の設定が、山田風太郎の忍者小説に似ていたもんな。

『「ドラゴンボール」においては(中盤まで数値化すらされていた)「戦闘力」が低いものは絶対に高いものには勝てない。強大な敵には、ひたすら修行して戦闘力を上げるしかないのだ。しかし『ジョジョ』では違う。能力Aには長所と短所があり、短所を突けば誰でもそれに勝つことができる。一見、反則的な能力Bにも、その弱点をピンポイントに突くことができる能力Cの持ち主をぶつければ効果的に撃退することができる。グーにはパーを、火には水をぶつけるように、『ジョジョ』の登場人物たちは知恵を絞って戦っていく。「頂点の強いものから底辺の弱いものへ」ピラミッドが形成されているトーナメントバトルに対し、『ジョジョ』では同等の能力をもった戦士たちが無数に乱立しているのだ。』

なるほどー。

『そして、今、私たちが生きているこの世界は、これまで解説してきたようにトーナメント的ではなくカードゲーム的であり、「ピラミッド型」ではなく「バトルロワイヤル型」であると言える。』

ふーん。でも、まだ世間では『ドラゴンボール』型の「努力と友情」の世界がまだ強いように私には感じられる。それは私が「東京」ではなく、大阪に住んでいるからだろうか。

厩戸皇子、『どろろ』、山形浩生、その他

「厩戸皇子の呪縛」という話もおもしろかった。
山岸涼子の『日出処の天子』という、少女漫画の古典的作品をめぐる話だ。
私はその時期の少女漫画では、山岸涼子や萩尾望都よりも、大島弓子の作品のほうが好きだったが。大島弓子の「線」は、その後どういうふうに展開していったのだろう。

→関連記事「大島弓子」:『老師と少年』-なつかしい痛みとは何か 2009年11月27日

手塚治虫の『どろろ』の系譜の話。

「親に捨てられた子どもが、自分の身体を取り戻すために旅に出る」という『どろろ』のテーマが、現代のサブカルチャーにも繰り返し現れているらしい。

手塚治虫の作品の中で私が好きな『どろろ』の話だったので、これも興味深かった。
やはりテーマは「成熟の困難」、というようなものであるらしい。

→関連記事「どろろ」:栗本薫のこと-「生やす」とき、百鬼丸は苦痛のあまり叫んだりする。 2009年11月21日

山形浩生の『新教養主義宣言』にも触れられていた。

これも私には懐かしい。

山形浩生の著作も一時期、熱中して読んでいた。

宇野氏によれば、山形浩生の掲げていた「新教養主義」とは、無教養な「こどもたち」のために知的なインフラ、環境を整備してあげるという趣旨のもので、それは「成熟」という観点から見て「新しい大人の思考」と呼べるものだった。

そうだったのか! 言われてみれば。

とすると宇野氏の見方では、山形浩生氏に影響を与えていた、「橋本治」の位置付けはどうなるのだろう。山形氏から「橋本治」までさかのぼってみれば、たとえば今『思想地図』周辺からは、かなり離れたところに位置すると思われる「内田樹」も、何らかの配置のもとで関連づけて見ることができるようになるかもしれないのだが。

→関連記事「内田樹」:『思想地図 vol.4』を読む⑤-内田樹と握手できそうな所を探す 2009年11月30日

私は甲本ヒロトには何度か救われたような気持ちになったことがあるので、この本の「カウンターカルチャーとしてのブルーハーツと最近の映画での取り扱われ方の比較」もまた興味深かった。

ブルーハ―ツ関係では、しばらく前に外山恒一氏の『青いムーブメント』という1980年代を回顧した本を読んだことがあったが、これは当時の政治運動についての話ばかりで、あまり私の参考になるものではなかった。

現代の子どもにとって「変身」の意味が変わってきている

このような本を読むことの楽しみのひとつは、自分がこれまで見たことがなかった作品への興味を自分に起こさせてくれるかもしれない、という可能性だと思う。「なんかおもしろそうだな、見てみようかな」と読者に興味を持たせることは、このような批評文の役割のひとつだと思う。

2007年に放映されたという『仮面ライダー電王』は、この本を読むまでまったく私の興味の範囲になかった作品だが、宇野氏の「仮面ライダー電王」-変身の意味の変化、という文章を読んでいると、「何かおもしろいことが起きているようだ」と思うようになった。

どうも「変身」の意味が変わってきているらしいのである。
現代の子どもが置かれているコミュニケーション状況と、それが何か関連しているようにも見えてくる。

宇野氏の『ゼロ年代の想像力』から引用すると、

『内気な少年である良太郎は、モンスターに憑依されやすい特異体質の持ち主であり、その体質を利用して本来敵であるはずのモンスターの能力を利用して仮面ライダー電王に変身する。そして変身中、良太郎の人格は完全にモンスター側に切り替わる。良太郎には四体のモンスターが憑依しているので、つまり彼は状況に応じて四つの人格を切り替えて困難に立ち向かうことになる。つまり野上良太郎はその内面に無理矢理「他者」をインストールされ、「この私」というアイデンティティを複数化されてしまった存在であり、なんとさらにはその状況を利用して戦う主人公なのだ。』

何が起きているんだろう…、私も興味をそそられた。

関連記事「人格の解離」:サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』を試す 2009年11月14日

『思想地図 vol.4』を読む⑤-内田樹と握手できそうな所を探す

2009年11月30日 | 思想地図vol.4
今回、私が『思想地図 vol.4』を読んで得た収穫というのは、全然「水と油」、今まで関係ないと思っていた内田樹氏や中沢新一氏の言論と、東浩紀氏らの「思想地図」周辺の言論とが、自分の中で「うっすらリンク」として結びつくところがあったことだ。

すでにtwitter上で、仲正昌樹氏の論文と、内田樹の『日本辺境論』との関連を指摘している方がいた。

「内田さんの『日本辺境論』と、「思想地図」4号の仲正さんの論文は、「建国=創設」の想像力という同じ論題を扱っていて面白い。」(@saitoshokai: 2009.11.24)「思想地図ニュース」

私は、村上隆らとの座談会での東氏の発言が、内田樹氏の『日本辺境論』と関係してくるのではないか、と想像した。

「僕は最近考えているのですが、「日本」とは独自のコンテンツの発信地というより、むしろ、ものの見方の名称として捉えるべきではないかと。…
『スーパーフラット』は、特定の作品や潮流の名称ではなく、その視線の名称であるべきなんです。そもそも日本はユーラシア大陸の東端に存在し、世界中の文物が流れ込む塵溜めのような場所なのです。世界中の文物が文脈なしに等価に見えるというのは、遣唐使以来のこの国の伝統でしょう。」(東浩紀氏)

よくある見方かもしれないけど、似たような見方では、レヴィ・ストロースも「日本はまず出会いと混和の場所」だったと指摘して、

「旧大陸の東端というその地理的位置や、何度も繰り返された孤立のために、日本はまた一種のフィルターの役割も果たしたのです。別の言い方をするなら、蒸留装置ランビキのようなもので、歴史の流れに運ばれて来た様々な物質を蒸留して、少量の貴重なエッセンスだけを取り出すことができたのです。借用と総合、シンクレティズム(混合)とオリジナリティ(独創)のこの反復交替が、世界における日本文化の位置と役割を規定するのにもっともふさわしいものと私は考えます。」(レヴィ・ストロース)

と言っているみたいだし、

岡倉天心も、似たようなことを言っているようだ。

「かくて、日本はアジアの文明の博物館である。いや、たんに博物館には止まらない。というのは、日本民族の特異な天分は、古さを失うことなく、新しきものを歓び迎える、あの生ける不二一元論の精神によって、過去の理想のあらゆる局面を余さず維持しようと努める。神道は、仏教以前の祖先崇拝の儀式を今なお守り抜き、仏教徒自身も、その自然の順序に従って日本の国土を豊かにしてきた。宗教的発展のさまざまな宗派のすべてに執着を示している。」(岡倉天心)

これらの話、とくに岡倉天心の見方は、内田樹氏が『いきなり始める浄土真宗』などの著作で語っている「シンクレティスト的な、節操の無い宗教的感性」というのと関ってくるので、私には興味深い。

内田氏の感覚では、出口王仁三郎、カトリック、ユダヤ教、仏教、西行、すべての宗教的感覚がシンクレティックに混在しており、ブリコラージュ的に組み合わさっているらしい。そういうごった煮は、私も同じ日本人として共感しやすい所だ。東浩紀方面の言葉で言うと、たしかに日本はスーパーフラットな鏡のような場所なのかもしれない。

このようにして、風が吹けば桶屋がもうかる式にだが、東浩紀の言論と内田樹の言論がわたしの中でようやく微妙にリンクを作り始めた。

宮崎哲弥氏らとの座談会で東浩紀氏が言っている「近くの他者への寛容」とか「スルー力」というのも、なんか、これと似たようなことを内田氏が何度も語っておられたような気がするな…と思ったし。

また、これはかなり強引なリンクだけど、宮台真司氏が対談で「俺は犬に好かれる、犬と同じ目線で話してしまう体質がある」と言っているのは、まるで中沢新一の「対称性の思考」ではないか。(笑)

そういえば、宮台氏の過去の著作でわたしが一番傑作だと思ったのは、『サイファ覚醒せよ』だった。桜を見て脱魂状態になってしまうという宮台氏のトランス体質には大いに共感したものだ。『日本の難点』は小説や随筆でも読むような気持ちで読んだが、いちばん印象に残ったのは娘の話とシュタイナー教育の話を語っているところで、ほかの政治的な話についてはほとんど記憶に残っていないのだ。

関連記事:『下流志向』を読む⑤-「等価交換モデル」とペラギウス主義 2009年11月23日
関連記事:『悲しき熱帯』を読む-カドゥヴェオ族と馬頭観音と子ども 2009年11月15日
関連記事:『思想地図 vol.3』の特集名と装丁について 2009年06月13日


『思想地図 vol.4』を読む④-目がチクチクする

2009年11月30日 | 思想地図vol.4
『思想地図 vol.4』は、私の知らない作品名や固有名詞・専門用語がわんさか出てくるので、目がチクチクする。

それでも何か、自分にも参考になる言葉はないかなぁと探しながら読んだ。

この人たちの議論で、私が「ひとごとではない」と思えるテーマのひとつが、「近景と遠景の短絡」というものだ。

社会であるとか、言葉であるとかいう「中景」がスッポリと抜け落ちてしまい、「近景」と「遠景」が一挙に直結してしまうという現象。「セカイ系」の感覚。

ここらあたりが私にも食いついていけそうな観点。
アニメについての座談会で、東浩紀氏が語っている「ファンタジーのように見えるものが現代人にとってリアルに感じられている」という話も、私には入り口となりそうな、共感できるところだった。

「なぜループ的な物語がこれほど流行っているのか」

「きわめてざっくばらんに答えれば、おそらくそれは、僕たちの生そのものがゲームのように構築されているからです。…今では長い人生のなか、ちょっとづつ異なる選択肢が多数用意されていて、毎回毎回選択肢を選びながら人生設計をするようになってきていて、したがってみなが常に「ほかの人生」の可能性を考えるようになっている。そういう状況全体を描くのに、ループものは適している。というわけで、僕の考えでは、ループものは決して単なるファンタジーではない。それはむしろ、リアルに体感されている。」(東浩紀氏)

読み終わって、収録されている図版・写真を眺めているのも楽しかった。

黒瀬氏の論文にある、藤田嗣治「アッツ島玉砕」を見ていると、中沢新一氏がインタビューで語っていた「ゴジラ」「日本的想像力」の話と何か関係があるような気がしてくるし、Chim↑Pom というアーティストの「ヒロシマの空をピカッとさせる」の写真を見ていると、「やっぱりこれじゃ、日本は駄目だろう」といういささか暗い気持ちに陥り、篠山紀信撮影の東浩紀父娘の素晴らしい写真を見直して、「うん、やっぱり、正しい方向があるとしたらこっちだろう」というやや朗らかな気分が回復する。


関連記事:ウィンストン・チャーチルは帰還せり 2009年06月20日


『思想地図 vol.4』を読む③-エスパーニャの神

2009年11月30日 | 思想地図vol.4
『思想地図 vol.4』の小説では、鹿島田真希氏の「エスパーニャの神」が断然面白かった。

この作品は、戦国武将とボーイズ・ラブのアマルガム、というのだろうか。
そういうのが最近あるとはウワサでは聞いていたけど、このような完成度高い作品だったら私も読んでいいなと思った。

この作品の「暗い孤独感」や、底流する「纏綿たる情緒」は、橋本治の青春小説『サイモン&ガーファンクルグレーテスト・ヒッツ+1』の世界と似ていると思った。





『思想地図 vol.4』を読む②-クワガタ虫・テレビ・ファスト風土

2009年11月30日 | 思想地図vol.4
『思想地図 vol.4』を順番に読んでいると、私の中で「うっすらリンク」がいろいろな所に伸びていく。

たとえば、宇野常寛氏の論文を読んでいると、村上春樹の小説が「ビッグ・ブラザーの壊死」からエネルギーを得ていたという話が出てくる。

「対して村上春樹が背景にしていた「政治」性とは、いわば大きな物語が解体してゆく過程そのものであり、ビッグ・ブラザーが緩慢な壊死を遂げていく過程そのものだった。村上はこうした変化のもつ運動エネルギーを取り出して小説の強度を得ていたと言える。」(宇野氏)

これを読むと私は、村上隆氏が座談会で言及していた、腐っていく朽ち木や菌糸を養分にして巨大化していくという「クワガタの話」を思い出した。日本は何でも「腐っていく」けど、その腐敗スピードを利用して文化が生まれてくるかもしれない、というような話だった。

また、宇野氏が語る「批判的市場主義」の話。

「海外-具体的には西洋-のそれを模倣するのではなく、日本的な想像力をもってして強い表現を獲得しようと考えたとき、現代において必要とされるのは、データベース消費化の進む現代日本の市場に積極的かつ批判的にアプローチする批判的市場主義によるハイブリッド化以外にあり得ない。そしてそれは文体の快楽、アニメートの快楽ではなく、むしろN次創作をも巻き込んだ、キャラクターが代表する「強い断片」と、現代性の高い物語などが体現する「各断片の混在によるコラボレーション」の快楽という形式を取らざるを得ない。」(宇野氏)


これを読んだ後に、テレビの世界で活躍している「宮崎哲弥氏」が召還・招待されている座談会を読む、というこの順番が面白い。「強い断片」じゃないとテレビの世界では生き残れないもの。だったら宮崎氏に「批判的市場主義」のヒントを伺ってみるのもよいだろう。


「まさにそこが、今日お話ししたいと思っていたところです。「お茶の間」という独特の抽象的な空間と結びついた、あのテレビという暴力的なメディアでこの10年間耐えることができた若手言論人は、じつは宮崎哲弥しかいなかった。このことの意味をうかがいたい。」(東浩紀氏)

<ファスト風土について>

ほかに興味深かったのは、この座談会で、宮崎氏がファスト風土も悪くない、という話をしていた。

「私なんか、ショッピングモールの高い吹抜けの下、ゆったりとしたベンチで本を読んだり、地元の高校生とかお婆ちゃんとかとお喋りしたりしてると、次第に「郷愁」すら感じるようになるもの。それは「ファスト風土」にすぎず、アイデンティティの寄る辺にはならないとする三浦展氏の評価は一面的と言わざるを得ないですね。」(宮崎氏)

そういえば、私の住んでいる町にある「カルフール」ショッピング街も、訪れてみるとなかなか和やかな雰囲気である。立体的なショッピングモールのはざまに、なぜか「小川」が流れていて、休日になるとそこでは親子が「ザリガニ釣り」を楽しんでいるのを見ることができる。
ショッピング・センターで「ザリガニ釣り」を見たときは、ちょっとびっくりした。。
たしかに擬似自然だけど、悪くはない風景だった。
子どもや親にとっては「かけがえのない時間」だからだ。

私は最近、桃知利男氏と江弘毅氏の『浅草・岸和田往復書簡』などを読んで感動したところなので、やっぱりファスト風土はまずいんじゃないか、とも別のところでは思っている。

しかし、必要なのは宮台氏との対談「父として考える」で東浩紀氏が言及していた「視点の複眼化」ということなのだろう。

関連記事:「阪急沿線的」ということー北摂から考える(ちょっとだけ)2009年11月16日
ほり先生のブログへのコメント: 学校より自分が生きてく「街」とか「地面」2009年11月14日
団地ノ記憶 2009年06月27日


『思想地図 vol.4』を読む①-内部リンクの多様さ

2009年11月30日 | 思想地図vol.4
『思想地図 vol.4』を読む。

頭から順に読んでみると、中川大地氏のブログで見かけた、内部リンクがどんどん張り巡らされていく感じ、というのを私も味わいました。

「頭から順番に全部読んで、各記事の並びが予想以上に緊密な連関性を醸し出していて、慄然とする。まさに全体を通じて、断片同士がかけ合わさって、全体で一遍のハイブリッドな物語になっているかのよう。こりゃすごいや。バトンの受け渡し感・視点の複線化感が、これまでの号以上に強い気がします。」(中川大地氏のブログ2009年11月27日

たとえば『思想地図 vol.4』の中川大地氏の論文で、「大正生命主義」について説明しているところで、「契約」より「生命」に引っ張られちゃうという話を読んで、

「少なくとも、この時代の日本人にとって、抽象的な「人間」としての権利と義務を規定する社会契約よりも、自然力のダイナミズムに立脚した「生命」の普遍性の方が、公共性を基礎づける原理として説得力を持ちえていたという実態を明らかにしたのが、鈴木の研究の意義だと言える。」(中川氏)

私は仲正昌樹論文の「始まりに基づいて国家を構成することができない日本」というテーマとつながっているような気がしました。「スピリット」や「生命」にたいする感覚に鋭いものがあるようなのだが、日本ではアメリカみたいな建国神話が作りにくいんですよね。

「…自民党や民主党など既成政党の保守系政治家が、「建国=創設」の瞬間を、国民動員のために再現前化するような語り方をすることは極めて稀である。そういう瞬間を再現前化しようにも、どこにその瞬間を設定すべきかはっきりしない。日本国憲法の制定時か、敗戦(終戦)時か、明治憲法制定時か、明治維新か、十七条の憲法か、神武天皇が朝廷を開いた時か…」(仲正氏)

古事記にあった「くらげなす漂へる国」でしたっけ、日本の国家の成り立ちには「けじめのなさ」「だらしなさ」がいつまでもつきまとってきます…。

こうなると、今号で宇野常寛氏が紹介している東浩紀氏の「民主主義2.0」の構想が、日本だったら「ありなのかも」という期待を抱かせるアイディアに見えてくるから不思議です。

「民主主義2.0」というのは、この日本列島にふわふわと浮遊している断片的な意思を、ウェブ・テクノロジーによってかき集めて淘汰し、それを政治的意思決定に結びつける、というような構想だそうです。私のとりあえずの理解によると。

なんだかものすごく「だらしなーい個人」を想定している話だけど、「くらげなす漂へる国」「言霊のさきはふ国」であるこの日本では、アリなのかもしれない。

古事記も万葉集も、木簡に書いた「一言コメント」の集合体に見えてきた。
日本中に浮遊する葉っぱたち、を集めた万葉集のセカイと、ツウィッターの一言コメントをかき集めて「意思」にしてしまうという「民主主義2.0」のイメージが、ほとんどダブって見えてきてしまう。中沢新一氏がインタビューで語る「日本的想像力」というのはこういうことをいうのでしょうか。

ところで中川大地氏の論文は、中沢新一氏の発言と響きあう部分が多いように思います。東浩紀氏には「ニューエイジ」だなんて言われています。

たとえば、熱帯雨林が人間の脳にとって「本来の環境」だったのだから、未来の社会でもそれに合わせて環境を設計したほうが人間に優しいはずだ、という話など、中沢新一氏が巻頭インタビューで語っている「宮崎駿のアニメと森に住む精霊」の話を思い出させます。

「こうした普遍的なモデルに基づき、大橋は現生人類にとっての〈本来の環境〉の最有力候補を、ミトコンドリアDNA解析の結果、現在の自然人類学上の定説となっている「アフリカ単一起源説」の支持により、アフリカの熱帯雨林地帯であると仮定した。すなわち、人類の遺伝子と情報処理中枢である脳は、地球の自然生態系の中でも物質・エネルギー・情報的に最も豊穣で複雑な熱帯雨林の環境において、最もストレスフリーに活動できるよう、大型類人猿の時代から二千万年の長きにわたって最適化されている。」(中川氏)

たぶん、養老孟司氏や内田樹氏が事あるごとに言っている人間の中の自然と、現代文明とのズレとの話ともつながっている話だと思います。

自分なりにいろいろと頭の中でリンク張りながら、読ませていただいたので、とても面白かった。

関連記事:『思想地図 vol.4』を読む②-クワガタ虫・テレビ・ファスト風土
『思想地図 vol.4』を読む③-エスパーニャの神
『思想地図 vol.4』を読む④-目がチクチクする
『思想地図 vol.4』を読む⑤-内田樹と握手できそうな所を探す


『思想地図 vol.4』は買ったほうがいいのかなあ

2009年11月28日 | 思想地図vol.4
偶然、東浩紀の『思想地図 vol.4』が発売されているのを知った。

2009年の5月頃、東浩紀氏周辺の若い人たちの文章を読んだことがきっかけで、このブログを書き始めたものの、その後自分の興味は別のところにあるような気がしてきて、だんだんと興味は薄れてきていた。

むしろ今の私には、内田樹や中沢新一を読んでいた方が面白い、と思っていた。
しかし、今回はなんと『思想地図』に中沢新一のインタビューが掲載されているらしいのだ。

東浩紀氏の周辺で起こることとして、これは私には予想できないことだった。

これはちゃんと買って読んでみたほうがいいのかもしれない。

「違う」なら「違う」で、やはり刺激をもらえるのではないかと思う。

関連記事:このブログを始めたきっかけ 2009-05-26