ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

性懲りもなくまた何かを「はじめたい」ひとのためにー石川輝吉『カント 信じるための哲学』

2010年03月11日 | 生命・環境倫理
「ツイッター 集めて早し 最上川」ーツイッターの流れが速すぎてブログが追いつかない・・・


最近、石川輝吉『カント 信じるための哲学』を読んでけっこう感動したのだが、最近ツイッターのほうが面白くなってきてしまって、ブログ更新のほうが進まなくなってきた。

なかなか十分に整理ができそうにないので、この本や、この本に刺激されて最近、走り読みしているカント、アーレントから気になる言葉をピックアップしたものをあまり整理しないまま、以下に並べておく。

石川輝吉『カント 信じるための哲学』は、現代の「人それぞれ」の世界でどうやって「世界への信頼」を取り戻していくのか、ということについて語っている。そこでカントがヒントになるというのだ。文章は、わかりやすい。

「あとがき」に、

>最初は、わたしの青春物語やサブカルチャーからの引用も交えて、文体もやわらかい方向で書いていた。しかし、わたし自身の力不足もあり、こうした書き方でカントの哲学をあきらめることになった。

とあるのだが、もしそういうサブカルっぽい書き方だったら、私がこの本を読んで感銘を受けることもなかったかもしれないので、「よかった」と思った。この本の文体は、適度にやわらかく、適度にアカデミックで、私にとって「ちょうどよい塩梅」となっている。

カントの道徳的な人間のイメージについて、石川氏はたとえば次のようなわかりやすい比喩を使う。「ドライバー」のたとえ。

>「うれしいとも、悲しいとさえ感じず、ひたすら善いことを意志する人間」
>「むこうから逆走してくる車があるのに左側通行を守りつづけるドライバーのようだ」(145p)

わかりやすいです。


「ひとそれぞれ」「それって君の趣味でしょ」が前提となっている現代でも、もしかしたら「善いこと」「美しいこと」を語り合う価値があるかもしれない。ーカントとアーレントの現代的意義。


この本でもっとも私の関心を引いたのは、カントの『判断力批判』とアーレントの政治哲学との関わりだ。


>アーレントのカント解釈の特徴は、ひとことで言えば、カントの三批判書を意味と価値の原理として読み直している点にある。これは、物自体を不可知のものとしてではなく意味として読み、善や美といった価値の本質を他者関係のなかで深められるものとして置いた画期的な解釈だ。ここには、わたしたちがカントの哲学を現代によく生かすうえでは欠かせない原理が含まれている。(石川輝吉『カント 信じるための哲学』214p)

>アーレントは、カントによる美の道徳への方向づけ、美の善への回収、という文脈を上手にはずし、美は普遍性をめざして論争できる、とするカントの議論を政治の原理にも応用できると考えた。(219p-220p)

>善の普遍性は、あたかも幾何学の問題を解くように、ひとりでじっくり考えれば正しい答えとして見つかるとカントは考えた。ここには議論の必要もない。一方で、カントは美については、その普遍性をめぐって論争が行われるものだと考えた。だが、けっきょくは、その美の普遍性を善の普遍性でもって根拠づけてしまった。

>ようするにこうだ。アーレントは、カントが美を善に回収する一歩手前のところ、この論争ということのみに注目する。美は、善という普遍的なものの象徴だから論争されるのではなく、論争されるから普遍的なのだ。そして、善もまた、論争されることで普遍的となる。

>善と美の普遍性は、それを他者と話し合うことによってのみ確かめられるようなものなのだ。こうした「意味」をめぐって言葉を交わす場面を、アーレントは「社交性」と呼び、次のように説明している。

>>人間の社交性とは、人間は誰も一人では生きられない、という事実であり、人々は単に欲求と世話においてだけではなく、人間社会以外では機能することがない最高の能力である人間精神においても、相互依存的である。-アーレント『カント政治哲学の講義』
(220p-221p)

>まず、自分で普遍的だと思うことを言葉にしてみること。そしてそれを他者と交換してみること。そうすることで、お互いの言葉を鍛え合うこと。こうすること以外、だれも真理の立場に立つことのできない社会では、意味や価値の根拠はない。

>そもそも、社交性とは、たとえば、ジンメルがそう考えているように、自由を手に入れたと同時に孤独も手にした近代の都会に住む人びとのコミュニケーションのあり方の本質だと言える。現代のわたしたちは、〈ひとそれぞれ〉の時代に生きている。だれも真理の場所に立てないこの時代だからこそ、アーレントがカントの読みで示したように、すべてを「わたしたちにとって」、〈ひとそれぞれ〉の主観のあらわれであることを土台にして、そこからなにが普遍的かをお互いに交換しあうことの意味がある。このような言葉の営みにはまた、わたしたちの孤独を解く可能性もあるはずだ。

>そして、言葉を交わすことを通じて、この世界に自分だけでなく多くのひとの納得できる善や美がある、さまざまな価値あるよいものがある、という確信が深まることは、おそらく、この世界を信じられることに通じているはずだ。
(222p)


「社交性」と「普遍性」-アーレント『カント政治哲学の講義』より


以上、石川輝吉『カント 信じるための哲学』からの引用だが、次にアーレントの『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局)を走り読みしてみた。

拙ブログで以前取り上げた、加藤秀一『個からはじまる生命論』で触れられていた、「多数性」という概念、「開始」という概念も、このへんと関係してくるのかもしれないと思いつつ読んだ。

>「交際は思索者にとって不可欠である」。社交性というこの概念は、『判断力批判』第一部の鍵をなす。(アーレント)

…この「社交性」という概念と関連するものとして、アーレントはカントの『永遠平和のために』の「訪問権」という条項に注目したりする。

>自然の計略や人間の単なる社交性についての従来の関心は、すっかり消え去ってしまったわけではない。しかしこれらの関心はある変化を被る、あるいはむしろ新しい予期しない定式化のもとに現われる。こうして我々は『永遠平和のために』の中に、「訪問権」を定めた奇妙な条項を見出すことになる。訪問権とは、他国を訪問する権利、厚遇の権利、そして「一時的滞在の権利」を意味する。(アーレント)

…以下、他に気になったアーレントの文章をかなり適当に抜き出しておく。

>言論及び思想の自由とは、我々が理解しているように、個人が他者を説得して自分の見解を共有させることができるようにするために、自分自身と自分の意見とを表現するという権利である。(…)この事に対するカントの見解は非常に異なっている。カントは、当の思考能力がその公共的使用に依存すると考える。「自由なかつ公開の吟味という試験」なしには、いかなる思考もいかなる意見形成も不可能である。理性は「自らを孤立させるようにではなく、他者と共同するように」出来ている。

>ヤスパースの言葉の中に、真理とは私が伝達しうるもののことである、というのがある。

>哲学的真理が持たねばならないことは、これはカントが『判断力批判』の中で趣味判断について要求したことであるが、「普遍的伝達可能性」である。「なぜなら自分の考えを相互に伝達し語ることは、とりわけ人間そのものに関わるすべての事柄については、人類の本然の使命だからである」。

>我々は批判的思考の政治的含意について論じ、そして批判的思考が伝達可能性を意味するという見解について論じていた。ところで伝達可能性は明らかに、話しかけられうる人々や、傾聴しており、また傾聴されうる人々の共同体を前提している。「なぜ人間(Man)よりもむしろ複数の人々(men)が存在するのか」という問いに対しては、人々が互いに語り合うために、とカントは答えたであろう。

>カントが語っているのは、いかにして他者を考慮に入れるかということである。活動するためにいかにして他者と結合するか、ということについてはカントは語っていない。

>『人類史の臆測的起源』の中で、「人間のために設けられた究極目的は社交性である」、とカントは述べているが、このことは社交性が文明の行程を通して追求さるべき目的であるかのような印象を与える。しかし我々がここに見出すのは、反対に、社交性は人間の人間性にとって目的ではなく、まさしく起源であるということである。つまりここに見出されるのは、人間がただこの世界に属するかぎり、社交性こそがまさしく人間の本質をなすということである。

>この理論は、人間の相互依存を必要と欠乏のために仲間に依存することであると主張するような、他の一切の理論から根本的に一線を画するものである。カントは、我々の心的能力のひとつである判断力の能力が、少なくとも他者の存在を前提する、ということを強調する。

>我々は他者の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達することができる。さもなければ、他者に出会うこともなければ、他者が理解する仕方で話すこともないであろう。

>我々は自分の感情や快や、利害を離れた喜びなどを伝達することによって、自分の選択を告げ、自分の仲間を選択する。「私はピュタゴラス主義者たちと共に正しくあろうとするよりは、むしろプラトンと共に間違っていようとするだろう」。結局、我々が伝達することのできる人々の範囲が広ければ広いほど、伝達する対象の価値も大きいのである。


ライプニッツもカントも「昆虫系男子」?ーカント『実践理性批判』より


ついでに、岩波文庫のカント『実践理性批判』からも抜き出しておこう。

カントは「感情」や「経験」抜きで、つまり「理性」で「道徳」や「倫理」のことを考えようとしたらしいのだが、カントを読んでいると、たとえば道徳法則への「畏敬」といったカントの生々しい感情が伝わってくる。

私は道徳や倫理といっても、「模倣」や「感情」が大事になってくると思っている。カントも、素朴で「誠実な人」を見たときの自分の感情を述べている箇所がある。昔の教育でも「感化される」というのは大事なファクターだったと思う。


岩波文庫『実践理性批判』161p-162pより。

>私は更にこう付け加えることができる、「ここにひとりの、社会的にはまことに微々たる身分の人がいる、しかし私はこの人に、私がみずから内に省みて忸怩たるほどの誠実な性格を認めている、するとーたとえば私が欲すると否とに拘らず、また私が自分の身分の優越を彼に見誤らせまいとして、いかに昂然と頭をもたげてみても、私の精神は彼の前に屈する」と。

>いったいこれはなぜだろうか。彼が身をもって示すこの実例は、私の眼前に一個の法則(誠実という)を提示する、そしてこの法則を私の行状と比べ合わせると、私の独りよがりは無残に打ちくだかれ、この法則が実際に遵奉されていること、従ってまたこの法則は実行できるものであることを事実によって証明しているような実例をまざまざと見せつけるからである。

>私を照らしているよりもいっそう純粋な光のなかへ姿を現しているこの人は、私にとってやはり一個の亀鑑となるのである。尊敬は、我々が欲すると否とに拘らず、他人の功績に対して我々が否応なしに捧げる貢物である。我々は、事と次第によっては尊敬の感情を表に現すことを差し控えるかも知れないが、しかしこれを内心に感じることをついに禁じ得ないのである。

…こういう「模倣」や「感化」というのは、「理性」ではなくて、「経験」や「感情」に根ざしたものだと思う。でも、それさえも「なぜそういう人間を見て感動してしまうのか」ということを考え出すと、カントがいう「先験的」な判断ということになるのかもしれない。

最後に、「こぼれ話」として、『実践理性批判』を走り読みしていて、「ちょっといい話だな」と思ったライプニッツの「昆虫観察」のエピソード。

313p-314pより

>自然を観察する者は、初めは彼の感官にとって嫌らしいと思われた対象でも、そのものの有機的組織のなかにすばらしい合目的性を発見して、彼の理性がかかる考察を楽しむようになると、ついにはこの対象を愛好するようになる。

>それだからライプニッツは、一匹の昆虫を顕微鏡下で丹念に観察し、それが済むとまたこの虫をそっと元の葉の上に返したのである、彼は昆虫を観察することによって教えられたことを知り、この昆虫からいわば恩恵を蒙ったからである。

ライプニッツとかカントも「昆虫系男子」だったのかなぁ…。私見だが、「きたない」に「きれい」を発見するのって、男の子によく見られる能力だと思う。女の子って「きれい」なものを「きれい」とする感受性は強いが、「芸術」や「宗教」や「科学」など、これらは「きたない」に「きれい」を発見する能力とも関係していると思うのだが、そうしたものを自力でこしらえる力が弱かった(ような気がする)。

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ユウナ)
2010-09-22 01:34:42
タイトルセンスが良いですねぇ。