ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

「苦しいです。サンタマリア」を思い出すー北村嘉蔵『神の痛みの神学』

2010年02月27日 | 宗教・スピリチュアル
一体、どんな人たちが読んできたのだろう。・・・北森嘉蔵『神の痛みの神学』


近所の市立図書館の「書庫」から、日本のキリスト教神学者の著作、北森嘉蔵『神の痛みの神学』(1981年、初版1946年)という本を借り出した。

走り読みにすぎなかったが、一応目を通した。

この本は、1981年出版の本で、最後のページに、今のシステムではもうない「図書館カード」の記録が残っていた。

図書館カードの「本の返却期日」にハンコが押してある。

昭和57年12月23日
昭和58年1月27日
昭和59年3月22日
昭和61年1月12日
昭和61年3月9日
昭和61年5月10日
昭和61年5月24日
昭和61年6月7日
昭和61年9月27日
昭和63年11月17日

この時期に、こんなキリスト教神学の「辛気臭い」本を借り出していたのは、一体どういう人たちなのだろうか。

1986年(昭和61年)に「6回」借り出されているのだが、翌年には「0回」、翌々年には「1回」となって、それ以来借り出しが少なくなったので、「書庫」にしまわれることになったのだろうか。

なんとなくこの本のそういう「歴史」を想像してしまう。


「神の痛み」。ー日本人の人間関係の「つらさ」。ー「オツベルと象」。


私が北森嘉蔵という名前を知ったのは、マクグラスの『キリスト教神学入門』で、『神の痛みの神学』は、欧米のキリスト教会にもかなり影響を与えた本らしい。

20世紀後半の神学では、伝統的な神の「不可受苦性」への懐疑が生まれ、「苦しむ神」という概念への注目が集まった。「神の痛みの神学」も、その流れの一つであったらしい。

マクグラスは、

>「苦しむ神」の神学的意義についての議論に貢献したものの中で、次の二つが特に重要である。

として、

1.ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』(1974年)
2.北村嘉蔵『神の痛みの神学』(1946年)

を挙げている。

今回、私の目に留まったのは、「神の痛み」と日本人の「人間関係」における「つらさ」との関連が述べられている箇所だった。

北森は、日本の文芸上、悲劇の特徴は「人間関係の悲劇」だった、と言う。それが日本人の心にある「つらさ」であり、それは「神の痛み」と言うときの「痛み」と対応している、と言う。

「苦しみ」でも「哀しみ」でもなく、「つらさ」なのだ。

>日本の悲劇は他の国の悲劇と著しく相違せる性格をもっている。他の国の悲劇が多くの場合事件の悲劇や性格の悲劇であるに対して、日本の悲劇はいわば人間関係の悲劇とも称すべきものである。

>この人間関係はつらさという日本特有の言葉によって表現される如きものである。(辛さは苦しさでもなく悲しさでもない)。日本的人間の深さはこの「つらさ」において極まる。日本的にいって深さのある人間、「もののわかる」人間は、このつらさのわかる人間である。つらさのわからぬ人間は、浅い人間であり、「味気ない」人間であり、要するに日本人らしくない人間である。そして市井の民の方が上層の人間よりかえってこの点において感覚が鋭敏である。

>日本のこころは日本の庶民の心に代表され、庶民の心は日本の悲劇文学の中に芸術表現を見、日本悲劇の根本性格は「つらさ」において極まる。さてこの「つらさ」を今少しく一般的な言葉にいい直すならば、痛みという言葉が選ばれるであろう。そしてここに確言し得ることは、日本悲劇の唯一の関心事たる痛みこそ、我々の主題たる神の痛みに最も深く呼応するということである。(北村嘉蔵『神の痛みの神学』より)

これを読んだ私には、なぜだか宮沢賢治の「オツベルと象」が思い出された。

中学校の頃だったか、国語の教科書に載っていた文章である。

それ以来、私の中で「つらい」という言葉は、「苦しいです、サンタマリア」という「オツベルと象」に出てくるあの言葉と結びついてしまうのだ。
それが「助けて、サンタマリヤ」という言葉に変形されていることもある。

ある晩、象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰ぎ見て、
「苦しいです。サンタマリア。」と云ったということだ。
こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。
ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、
「もう、さようなら、サンタマリア。」と斯う言った。
「おや、何だって? さよならだ?」月が俄かに象に訊く。
「ええ、さよならです。サンタマリア。」
・・・・・・・・・・・・・

関連記事:カラマーゾフの叫びは「唯一の真剣な無神論」―マクグラス『キリスト教神学入門』より 2010年01月28日
(→20世紀後半の「神の不可受苦性」から「苦しむ神」への転換について。)

東浩紀氏・司会『朝までニコニコ生激論』ーベーシック・インカムについて⑥(終わり)

2010年02月24日 | 労働・福祉
2010年2月20日(土)24時30分~(約3時間)
【番組名】「朝までニコニコ生激論」
テーマ『ベーシック・インカム(キリッ』
司会・進行:東浩紀、講師:山森亮、パネラー:堀江貴文、雨宮処凛、白田秀彰、城繁幸、鈴木健、濱野智史、小飼弾

を見ながら走り書きしたメモを見て、自分の推測をまじえたままの、まとめの意味のメモ書き。

番組は、鈴木健氏の「官僚ゴールデンパラシュート論」など、BIと関係のない提言のほうが刺激的だったところもある。

しかし、この番組は何も「BI」だけがテーマではなく、司会の東浩紀氏が最後のほうに述べていた、「この国のかたち」について議論することこそが「政治」なのだ、という言葉の上にも成り立っており、「もしかしたら、このように変えられるかもしれない」という世界への意思、つまり「可能世界」への想像力が刺激される番組となっている。

出演者のほとんどがBI支持派で、その中ではただ一人、城繁幸氏だけが「私は労働の価値を信じる」と明言していた。
拙ブログでは、過去に城繁幸氏への悪口を書いたこともあったが、これを見て私はかなり見直したぜジョー。

鈴木健氏

ベーシック・インカムに基本賛成。

その理由は、

1.この200年での生産性の向上は人類を養うのに十分である。
2.コミュニケーション産業(情報産業と情動産業)が今後主要産業となる。
3.労働とゲーム(遊び)が今後100年間で次第に融合していくため基本所得の上での自由な労働(あるいはゲーム)が可能になるから。

「潜在限界税率」というものを調べると、働いてある所得を超えると、手取りの所得が下がるポイントがある。
そのグラフを見るとどのような所得補償をすればいいのかがわかる。
アメリカにはそのデータがあるのに、日本にはまだない。

BI導入のために、「官僚制の壁」と「国民世論の壁」という二つの壁がある。

「官僚制の壁」に対しては、次のような解決策がある。

民主党の公務員改革が成功すればそれでいいのだが、もしそれが失敗したら、奥の手として「官僚から国家を買い取る」という「官僚のゴールデンパラシュート」をやればよい。

「官僚のゴールデンパラシュート」とは、官僚の退職金を釣り上げることによって天下りを防ぎ、「官僚から国家を買い戻す」というアイディアである。

例えば、次のような計算になる。

・国家一種官僚退職時に本人の選択で、2億円給付し、その代わりに公職も民間も含む一切の職につかせないようにする。国家一種600人×2億円(毎年1,200億円×30年=3,6兆円)。
・効果は毎年10兆円×100年=1,000兆円。

「国民世論の壁」に対しては、「可能世界」への想像力を活性化させていくしかない。

例えば、複数の個人を利益集団ごとに分断するのではなく、個人を複数の利益集団に分断させる作戦として、次のようなものがある。

・多重職業(同時に2つ以上の職業につくこと)にインセンティブを与える。
・税率に乱数(さいころ)を入れて、他の所得の人の気分を想像できるようにする「さいころ税」の導入。
・divicracy によるビジュアルグラフ投票で限界税率のグラフを直接投票させる。
・個々人の過去、現在、未来の税金と見返りをリアルタイムで把握できる高度なシミュレーションツールを用意

これらにより、国民の他者への想像力と可能世界への想像力を活性化させる。

BIは「ナショナル・ミニマム」を達成するための一つの手段である。

また、ミーンズ・テスト(資力調査)が差別的になることがある。

たとえば夜中に突然生活保護受給者の家に入っていって、「同棲している男」がいないかどうか調べたりする。

「ガバメント2.0」を議論しようという動きがアメリカにはある。
政府は「stupid」でよい。データをいっぱい出して、それらを使って国民がテクノロジーを使って判断を下すことができるようなシステムを作ることが出来る、というものだ。

ハンガリー、スウェーデンなどは、そのような「民主主義2.0」のような直接民主主義のスタイルを実現するために、実際に候補者を擁立する動きがある。

地方政府に立候補者を出して、支持者たちの議論で「政策」ごとに反対や賛成が決まっていく仕組み。(小飼弾氏が言う。「おもしろい。党是を持たない政党、ということか。「メタ党是」しかない政党だね。」)

堀江貴文氏

コンビニなんて自動化したらよい。

ドアマンと自動ドアとどちらが必要か、現代の社会は、働く人を維持するために、無理矢理仕事を作っているようなところがある。

現在のテクノロジーを使えば今あるかなりの仕事がなくなるはずだ。

だからBIが必要なのだ。

前田氏の言うような直接民主主義的な仕組みは、日本だと「地方首長」の選挙でやったら面白いかもしれない。

城繁幸氏 

BIについては、留保つき賛成である。

給付付き税額控除など、働いていることを前提とした給付ならよいが、私は「労働の価値」を信じる者として、すべての人が生活を保証されれば働かなくなることを懸念する。

BIは「労働の価値」を否定しているように見える。

年収300万円くらいの人たちが、一生懸命働いてきたからこそ、現在の先進国の繁栄がある。

BIを渡したらその人たちが働くことをやめてしまう。みんなの頑張りがなくなってしまう。

BI導入に反対するのは、家族もいて家のローンもあって、働いているサラリーマンだろう。
 
そういう人たちの負担が多くなる。

最低時給を撤廃し、時給300円の仕事も可能にするが、働いている人たちには金銭補助する、という形がよい。

そうすれば、中国よりも日本のほうが安全だから工場を作ろう、という動きも出てくるはず。

BIは、与えられたお金だけで満足してね、ということだろうが、それだけでは満足できないからこそ、旧ソ連も崩壊したのではないか。

不景気な時、貧しい時に共産主義への憧れが生じたように、今はBIへの憧れが生じている。

BIは「競争」を排除するのではないか。
そうだとしたら、旧ソ連、社会主義諸国がやったことと同じことをやることであり、結果は目に見えている。

いろいろな産業があって、IT企業のように一人の天才が生まれることで産業が成り立つような所ばかりではない。

年収300万円くらいの人たちが、仕事を辞めずに一生懸命働いたことが、今の社会の発展をもたらした。

山森亮氏の解説

ミルトン・フリードマンは、BI導入したほうが、現在の福祉国家よりも労働意欲を高め、賃金労働に従事する人も現在より増えるだろう、と論じている。BI導入は、われわれの直観に反し、「働かない人が増える」政策ではない。

BIのことを聞くと「フリーライダー」をどうするのかという話になるが、そもそも社会は現在でも無数の「アンペイド・ワーク」で回っているのではないか。フリーライダーとは誰のことなのか?

もしかすると「忙しいビジネスマン」が、障害者の補助、介護や家族のことを他の人たちに任せきりにしているのだとしたら、その人たちこそが「フリーライダー」なのだと言えるかもしれない。

現在の社会保障制度は機能不全に陥っている。

完全雇用(探せば仕事はある、仕事があれば食べられる)はもはや神話、ないし「都市伝説」と言ってもよい。

技術革新によって生活可能な賃金を取得可能な労働が減少している。

社会保険という命綱の機能不全が起こっている。

失業保険給付を受給できている失業者はたった23%だ。(2009年に公表されたILOの調査による。ドイツは87%)

生活保護というセーフティネットは穴だらけ。生活保護基準以下で生活している人のうち、実際に生活保護を受給できている人の割合(捕捉率)は2割以下である。

白田秀彰氏 

BIは社会保障制度を運用していくために現在発生している膨大な「取引費用」を大幅に削減できる有効な方法だ。

現在は生活保護の資力テストにしろ、「各人がどのような生を送るか」という生の価値を評価するために多大なコストをかけている。

生の価値という「計算不可能」なものを無理矢理「計算」しようと努力しているので無駄が多い。

学生達の就職活動を見ていると、ほとんど「精神的な奴隷状態」で、雇ってもらうためにあれほど多大なコストをかけているのはクレイジーだと思う。

憲法に「就労の義務」があるからといって、国は仕事を作るために公共事業などを行い、多大な自然環境の破壊や資源の浪費を行っている。

直接、お金を配る方がよいのではないか。

また経済学については素人だが、BI給付がインフレ傾向をもたらすとしたら、今のデフレ対策にもよいことにはならないか。

企業にとってのメリットは、膨大な「企業年金」のコストがなくなることで、BIは企業側にもトクになる。

保守の立場からBIを支持することができる。たとえば地域の祭りや寺社の維持・管理を行う人たちは、BI導入により存続が可能になる。近代においては、曲がりなりにも地域に貢献してきた博徒のような人たちが、お金が入らないために暴力団化していった、という歴史がある。

家族のほころび、たとえばドメスティック・バイオレンスの問題も、経済的な理由で家族から「逃げられない」という構図があり、BIによりその経済的条件をクリアすれば、ふたたび「愛情によって結合する家族」を再構築することができる。

国際労働力の移動や、搾取の問題は、もっとも複雑な問題なので、これはもうちょっと考えなければいけない。

とりあえず、「国籍要件」とBIの話は切り離しておこう。

濱野智史氏

「クリエイティブ・ニート」を増やすことを提唱する。

ニコニコ動画でちょっと面白いものを見れた、というささやかな幸福のためだけにも、ヒマなニート諸君の生活を保障することが有効だと思う。

私もたしかに、日本人だけBI導入という形でよいのか? と思うことはある。

小飼弾氏

労働は尊い、という価値について。

人間は、「ブドウ糖」を作るといった、「負のエントロピー」を増やすという本来の労働を行うことはできない。「本当の労働」というのは、人間以外のものが行っている。人ができるのは労働ではなく、「再分配」のみである。

BIの財源は、死んだ人から配ればよい。たとえば相続税100%にすれば十分まかなえる。

毎年、日本で遺産承継されている額は84兆円。それを配ればよい。

BIは、「他人の足を引っ張るインセンティブ」を完全になくす制度なのだ。

BIは温情主義ではなく、「自助」は必要で、お金を渡してそれで「救ったということにする」という制度。

IT分野だけではなく、今ではたとえば農業でも「天才一人」が残りの人たちを養うような構図がある。

「アイダホポテト」を作っている人は600人くらいしかいない。それで全世界の「アイダホポテト」をまかなっている。

雨宮処凛氏

BIは、「明日が見えない」現在の底辺労働者たちの悲惨な状況を救うために有効だろう。

格差が拡大すること、金持ちが好きなようにお金を使うことは、私は全然反対ではない。

したがってBI導入により、もっと過酷な競争が行われ、格差が拡大するとしても、「貧しくて死んでしまう」ような人を救えるならそれでよい。

それだけが私の目的である。

BIによって貧困による犯罪が減るなら、それはいいことだ。

私が関わっている厚生労働省の「ナショナルミニマム研究会」で論じられいてる「ナショナル・ミニマム」というのは、BIよりも広い範囲のことを扱っており、たとえば「保育所の面積をどうするか」という問題も含まれる。

東浩紀氏

BIはまったくの無条件ではなく、トレーサブルな電子マネーとして発行したらどうか。

政府はその運営のために、BIをもらう人のライフログの情報を集めることが出来る。

もらったBIをたとえばパチンコで全部すったときに、それだけで罰則を与えるわけではないが、ライフログの履歴として残す。

ライフログといった「ただ生きていることの情報」がこれから政治的にも経済的にも重要になってくるのだから、そのようなプライバシー情報と交換でBIを給付するような仕組みを作る。(小飼弾氏が言う。「「匿名のお金」と「顕名のお金」の二層化だね、素っ裸にはされるが、石は投げられない仕組み?」)

時々介入されることはある。

生活の保証はされないが、まったく自由な空間と、生活の保証はされるがプライバシーが捕捉され、介入される可能性があるという空間に、二層化される。

「国民が納得しやすい土壌」を作るためにもそういうBIの「条件性」は必要になってくる。

つまり国がBIを給付するということは、ライフログ、「生きていることのデータ」を国民から買うことに等しい。

BIは格差を解消するのではなく、最底辺を保証することで、今よりも格差が拡大する、苛酷な競争社会になる。

BIは「強い人の論理」であるという批判があるだろう。

お金を渡せばそれで終わり、というのは「判断能力」のない人、お金をもらうだけでは満足できない、という人たちを救うことにはならない、という批判がありうる。

BIは温情主義ではない。

最近小沢問題など、政治とカネの問題ばかりが「政治論議」だと思われている。

この番組のように「国のかたち」を考えることこそが政治なのである、ということが言いたくて、今回の番組を企画した。




『日本の論点』 人の労働観は時代によってどう変わったかーベーシック・インカムについて⑤

2010年02月24日 | 労働・福祉
小飼弾氏は、パウロに喧嘩を売っている。


ベーシック・インカムに関する最近の本としては、私はまだ読んでいないのだが、小飼弾氏の『働かざるもの、飢えるべからず。』があるようだ。

「働かざるもの、食うべからず」という格言は、おそらく新約聖書のパウロの言葉から来ているのだろう。「テサロニケ人への第二の手紙」でパウロは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命令している。

以下、パウロの「テサロニケ人への第二の手紙」より

>わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
>援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

小飼弾氏は、つまりパウロにケンカを売っていることになるのだが、人の労働観が時代によってどういう風に変わってきたのかには、興味がある。

ちょうど『日本の論点 2010』に良い文章があったので、それを以下に「丸パクリ」することにする。

ベンジャミン・フランクリン、鈴木正三、ドストエフスキー、フランクルらの言葉の中に人類にとっての「労働の価値」の歴史を読み取ることができる。

(『日本の論点』編集部の皆様、皆様の努力の賜物の文章を拙ブログに無断拝借してどうもすいません。
私は既に購入済みだが、『日本の論点 2010』は、定価2900円でかなりの情報量を含んでおり、おトクだと思う。
さらなる購入を検討して下さる方が増えることを望みます。)


[基礎知識] 人の労働観は時代によってどう変わったか?


『日本の論点 2010』データファイル2(52p-53p)より

■麻生首相の「労働は罰だ」発言

2008年12月、麻生太郎首相(当時)は、熊本県天草市内のホテルで講演を行い、
「世界中、労働は罰だと思っている国のほうが多い。旧約聖書では神がアダムに与えた罰は労働。旧約聖書、キリスト教、イスラム教、足したら世界の何割だ。七割くらいの宗教の哲学は、労働は罰だ。日本では神々が働いていたから労働は善だ」

などと述べて、キリスト教関係者の反発を買った。

たしかに、旧約聖書の創世記には、人類の始祖であるアダムは主なる神が禁じていた「善悪を知る知恵の木」の実を食べてしまい、背信の罰として労働が与えられたと記されている。だが、創世記は、労働を否定的に捉えているわけではない。第二章には、天地創造時の荒廃した土地を耕してその実を神に返すなど労働の喜びや目的が明記されている。

さらに新約聖書では、信徒が怠惰な生活をしないように戒めている。キリストの弟子パウロは、使徒に宛てた「テサロニケ人への第二の手紙」で、「働きたくないものは、食べてはならない」という有名な警句を書いた。信仰という霊的な精神活動を重視するあまりに、食物を獲得したりする労働という世俗的な活動を軽視してはならない、と戒めたのだ。

労働を喜ばしいものだとする教えは、キリスト教の倫理に大きな影響を与え、やがて欧米の労働倫理の礎になっていく。ことにプロテスタントでは、勤勉を旨とした労働観が形成された。米国の独立宣言や憲法の起草に加わったベンジャミン・フランクリンは、『フランクリン自伝』や『貧しいリチャードの暦』で、英国から米国に移住した清教徒たちの勤勉で禁欲的な暮らし方を綴った。彼らは平日、脇目もふらずに荒野を耕して農園と町をつくり、休日になると神に祈りを捧げていた。フランクリンは、その厳しい生活に耐えて成功するための処世訓を数多く残し、「時間をむだにしないこと。有益な仕事につねに従事すること。必要のない行為はすべて切り捨てること」などと記した。

■「良い仕事」と「悪い仕事」

18 世紀半ばから始まった産業革命が、それまでの仕事観を大きく変えた。機械の進出が職人の「天職」を奪ったからだ。産業革命以前は、すべての職業が神の召命で、勤勉な労働が魂の救済につながると考えられていた。だが、機械に合わせて働く工場労働が広まると、人間が労働から疎外されるという問題が発生し、従来の「天職思想」に疑問が投げかけられるようになったのだ。19世紀半ばからは、「すべての仕事が天職である」という考え方は間違っているのではないか、という議論が盛んに交わされる。

英国の詩人で工芸家のウィリアム・モリスは、小冊子『有用な仕事と無用な労苦』で仕事には「良い仕事」と「悪い仕事」の二種類があると述べた。前者には「休息という希望」「生産物という希望」「仕事自体の楽しさ」がある一方、後者にはそれらの要素がないと指摘した。産業社会における仕事は、労苦にすぎず奴隷のような辛さしかない「悪い仕事」だと主張したのである。

20世紀になると、高度に発達した産業文明への批判が高まり、「人間中心」の労働観に関心が集まる。英国で活躍したドイツの経済学者E・F・シューマッハーは、「人間中心の経済学」を説き、「良い仕事」を「意義のある仕事」と捉え直した。良い仕事には、「生活の必要性」「自己の充実」「他者とのつながり」があると述べた。

■日本人の職業倫理

日本人は、欧米人に比べて昔から勤勉だったといわれてきたが、本当にそうなのか。

明治初期に来日した外国人の滞在記には、「日本人は実直で礼儀正しい」「公衆道徳をよく守る」という記述は目立つが、かならずしも勤勉だったわけではなさそうだ。1877年(明治10年)に明治政府から東京大学教授に招聘され、大森貝塚を発掘した米国の動物学者エドワード・S・モースは、当時の日本人を〈自分たち外国人は、この国の人々が何をやるにしてもゆっくりしているので、ときどき辛抱しきれなくなるが、しかし、彼らはいかにも気立てがよく、ものやさしいから、あまり怒る気になれなくなる〉(『日本その日その日』東洋文庫)と記している。産業革命をむかえ、工場労働者が大量に発生していた米国から来日したモースの目には、日本人は勤勉とはほど遠い存在に見えたのだろう。

だが、モースが帰国した後、日本は近代産業を育成し、富国強兵政策を大々的に推進するようになった。学校教育でも勤勉が推奨され、国定教科書には働きながら勉学に勤しむ二宮尊徳(金次郎)が登場した。

日本人は、列強との戦争に勝ち抜くために、欧米流の「勤勉」を採り入れたことは否めない。とはいえ、武士には「武士道」があったように、身分制度が確立した江戸時代にも、職業ごとの確固たる倫理観はあった。江戸初期、僧侶の鈴木正三は『万民徳用』を著し、それぞれの身分に応じた職業倫理を論じた。ここでも宗教が職業観の支柱になった。鈴木は、士農工商の身分格差を職分としては平等と捉え、職分を単なる金儲けのための手段ではなく、それぞれの職に励むことこそが仏道修行になると説いたのである。

鈴木の「職分思想」は、その後、不正によって金儲けしても子孫が滅びてしまうなどと商人道を説いた石田梅岩や、前述の江戸後期に活躍した二宮尊徳にも継承されていった。独学で「論語」などを学んだ二宮は、農耕をしながら独自の農法を編み出して農村改革に当たり、私利私欲に走らず社会に貢献すれば、いずれは自らに還元されるという「報徳思想」を説いた。鈴木の「職分思想」と同様に、自己中心主義を戒める点は、キリスト教徒たちの「天職思想」と共通していた。

■「働く意味」とは

慶応義塾の創始者、福沢諭吉は『学問のすゝめ』(岩波文庫)で、古人は額に汗して働けと言ったが、ただ衣食住を満足させるだけの労働は虫でもやっていること、それで満足する人は虫けらにも劣る、と説いている。

人間の労働には「意味」が必要だ。掘った穴を再び埋めるなど、同じ作業を延々とくり返すような「達成感」のない仕事は、人間にとって拷問同然となる。ドストエフスキーの『死の家の記録』(新潮文庫)によれば、シベリアの収容所でいちばん耐えられない仕打ちは、そのような無意味な作業だったという。

ナチの強制収容所での経験を『夜と霧』(みすず書房)で描いた精神科医のV・E・フランクルも、同様のことを言っている。収容所の苛酷な労働環境に耐え、生き延びることができたのは、屈強な身体を持った者たちではなく、「生きる意味」を持ち続けていた者だった、と。

(以上)

拙ブログの過去記事でBIについて触れたものーベーシック・インカムについて④

2010年02月24日 | 労働・福祉
ベーシック・インカムについては、拙ブログでも過去、時々触れたことがあるが、内容はかなり貧弱です、御容赦を。

フーコーの「負の所得税」への危惧は、BI批判にも使えそう。

年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅠ 2009年12月30日

という記事では、私がミシェル・フーコーの『生政治の誕生』という本を読んでいる時、フーコーがフリードマンらの「負の所得税」について論じているところを読んで、この議論は「ベーシック・インカム」にもあてはまりそうだな、と思った。

「負の所得税」も「ベーシック・インカム」も、「結果としての貧困」にのみ、手当てを行う。その結果、「貧困の原因」に対するきめ細やかな考察がおろそかになる。

>たとえば「給付金付き税額控除」では、高所得者と低所得者がはっきりと線引きされてしまう。そこでは低所得者がどんな理由で貧困に陥ってしまうのか、その背景を政府が知る必要はない。統計的に人口の何人かが、最低ラインに落ちて死んでしまわないように調整するのが政府の仕事。個人の事情なんて知らない。フーコーの言う「新自由主義的統治術」の一環としての「負の所得税」の考え方というのが、「給付金付き税額控除」にも幾分かは適用できそう。そういえば、ベーシック・インカムの考え方も、これとどこか似たところがあるしなー。

…『生政治の誕生』(252p-253p)…

…負の所得税は、貧困のしかじかの原因を変容させることを目標とするような行動たろうとしているのでは決してないということです。負の所得税は、決して貧困の原因のレヴェルにおいてではなく、ただ単にその諸効果のレヴェルにおいてのみ作用するであろうということ。・・したがって、極端な言い方をするなら、よい貧者と悪い貧者、意図的に労働しない人々と意図的ならざる理由によって労働しない人々とのあいだに、西欧の統治性がかくも長いあいだ打ち立てようとしてきたあの区別など、重要ではないということです。…

You tubeで首相から失業者対策メッセージを-湯浅誠氏の提案 2009年12月24日

での以下の私の呟きは、ベーシック・インカムが政治的合意を得るのが難しいだろう、ということに関係している。

>たとえば、湯浅誠氏が言うように、派遣村に集まる人たちの「いい加減なところ」「性格的に、うっとうしいところ」をテレビで放映してしまったとしたら、日本全国で非難ゴウゴウの嵐が吹き荒れることはほぼ間違いがない。仮想的に、将来ベーシック・インカムを受給している奴らが、サーフィンをして「チャラチャラ」遊んでいる光景がテレビの画面に映し出されたりしたら、多くの人がどのように感じるかを想像してみればよい。

しかし、ベーシック・インカムがもたらす「ライフスタイルの多様性」というイメージには、私も魅力を感じている。

>しかし長期的には私も、日本がライフスタイルの多様性が認められる方向に行ってほしいし、フランスほどではないにしても「社会的連帯」というものがもう少し強くなってほしいと願っている。

「安息日」にも「労働」と同等の価値を認めよ。

安息日のためのベーシック・インカム 2009年12月13日

では、『思想地図』上の田村哲樹氏の論文を読んだことに触発されて、「安息日のためのベーシック・インカム」という発想はないのかなー、と空想していた。「労働」に価値があるのは良いのだが、今の日本のように、(給与を伴う)「労働にだけ」価値があり、それ以外にはない、という社会は息苦しいと思うのである。

>自分の生活のためにあくせくする、という努力以外の「ゆったりとした時間」が人間には必要なのだ、という考え方で両者は一致している。「民主主義のためのベーッシック・インカム」という考え方は、経済より大事なものがある、それが「政治」だ、という考え方。極端に分類すれば、古代ギリシャの理想。他方、「安息日のためのベーッシック・インカム」という考え方は、経済より大事なものがある、それは「宗教」だ、という考え方。言ってみれば古代ヘブライの理想。

宮本太郎『生活保障』-ちょっと難しすぎるという人のために 2009年12月08日

では、岩波新書の『生活保障』を書いた宮本太郎氏も、「アクティベーション」「ワークフェア」型の社会保障を支持しており、「ベーシック・インカム」派とは距離を置いていることを紹介している。

(宮本太郎氏の発言)>であるからこそ、雇用をよりしっかりしたものにしようと言っていくことも必要ですが、他方ではセーフティーネットのあり方そのものを変えていかなければいけない。安定した雇用を前提にした代替型から、十分でない賃金を様々なかたちで補完していく補完型への転換です。ベーシックインカムとまではいかなくても、給付付き税額控除とか負の所得税とか社会手当とか、いろいろ方法はあると思います。また社会保険の再設計も必要です。

『EU労働法政策雑記帳』よりーベーシック・インカムについて③

2010年02月24日 | 労働・福祉
『EU雑記帳』より -「ネオリベとBIとの共犯関係」- 労働中心ではない連帯は可能なのか? - BIが言う普遍的って一体どこまで普遍的なのか・・・「同胞意識とBI」


濱口桂一郎氏のブログ『EU労働法政策雑記帳』から、ベーシック・インカムについて触れている記事をいくつか取り出しておこう。

前記事に書いたように、『日本の論点』所収の論文を読むことにより、どうやら濱口氏が「ネオリベとBIの共犯関係」に警戒心を抱いているらしいことがわかった。

ベーシックインカムと失業 2006年9月15日

では2006年の段階で既に、「もろ福祉原理主義的な、あるいはネオリベ的なBI論には違和感を禁じ得ない」という言葉が見られる。

『週刊金曜日』のベーシックインカム礼賛 2009年3月6日

でも、「ベーシックインカムという発想こそが、新自由主義と親和的なんじゃないのか?という反省はないのですかね。」という言葉があり、ベーシック・インカムを礼賛する『週刊金曜日』が、自分達の主張がミルトン・フリードマンらのネオリベ的な思潮と親和性があることに気づいていないというその鈍感さを批判している。

「金曜日な皆様は、法人税廃止、公的年金廃止、職業免許廃止、教育バウチャーとか主張するたぐいのとってもフリードマンな人と共闘するつもりか知らん。」

労働中心ではない連帯? 2007年11月20日

では、『日本の論点 2010』で濱口氏と共に、ベーシック・インカムに関する論文を執筆していた田村哲樹氏の別の文章が紹介され、それに対する濱口氏の立場が述べられている。

田村哲樹氏の「『労働』を連帯の旗印に掲げるのことは、むしろ、分断と排除をもたらしかねないのである。」という言葉に対し、濱口氏は、「労働による社会参加を軸とした連帯しかないだろう」と反論している。

(濱口氏)「私はここは断固として否定したい。フルタイム男性労働者をモデルとした連帯がもはや通用しがたいというのはその通りでしょう。しかし、様々な働き方の中に、働いて社会に参加しているという共通性を連帯の中核として確立することが不可能とは思えない。というか、それを捨ててはほかに連帯の核となるものはないと思います。」

ナショナリティにも労働にも立脚しない普遍的な福祉なんてあるのか 2008年3月17日

には、私には不明瞭と思われた、『日本の論点 2010』の論文にあった「血の論理」と「ベーシック・インカム」の関係について、参考になりそうな箇所があった。

(濱口氏)「ベーシックインカムを軽々しく持ち出す人々に対して、私がどうしても拭いきれない疑問は、それが究極的には「同胞」意識にしか立脚できないにもかかわらず、なんだかそれを離れた空中楼閣の如きものとしてそれを描き出している点です。日本人だけでなく、地球人類すべてに等しくベーシックインカムを保障するつもりがあるのかどうか(誰が?)、そのための負担を、そう「高負担」を背負うつもりがあるのか、そこまで言わないと、ナショナリティを排除したなんて軽々しく言わないで欲しいのです。」

なるほど、ベーシック・インカムが、現実には「同胞」意識など乗り越えていないのにもかかわらず、なんとなく「全部、乗り越えた」的な、いつものように左翼的な「上から目線」で物を語るあの感じがオカシイ、ということだろうか。

(濱口氏)「私は、福祉の根拠としてナショナリティを否定することはできないと思っていますが、しかしそれを過度に強調することは望ましくないと思っています。だから、労働を根拠に据える必要性があるのです。様々な事情に基づいて「いったん労働市場から退出することの保障」も含めたものとして、しかしながら永続的に労働市場の外部に居続けることを保障することのないものとして。」


「ツベコベ言わずに働け!」と「自由と不自由」の複雑な絡み合いについて。


最後に、『EU労働法政策雑記帳』の希望の社会保障改革 2009年3月2日より。

ここには、駒村康平+菊池馨実 編『希望の社会保障改革』という本からの、大変興味深い、ベーシック・インカム論の引用がある。

ベーシック・インカムは一見「自由」をもたらすように見えて、実は「不自由」をもたらすことになるのではないか、という危惧である。

我々の生きる社会で、「働くこと」は半ば強制的なものとなっており、そこで「なんで働かなくちゃいけないの?」という子どもっぽい問いを立てることはほぼ禁止されている。「ツベコベ言わずに働け!」と。

しかし、そのような「有無を言わさぬ力」が、決して「自由」を生み出すことがない、とまでは言えないと私は思う。人間の世界はそんな単純なものではない。何とかかんとか自分を「ごまかして」、「労働」に必死についていく、その中で「自由らしきもの」が生まれる可能性もあるのであり、「ベーシック・インカム」論には、そのような「自由と不自由の複雑な絡み合い」に対する深い観察が抜け落ちているように私は感じることがある。

そのような視点でみると、以下のようなBI批判が貴重である。あくまで「ディーセントな労働の保障」こそを目指すべきなのだ、と。今のところ、私はこれに賛成だ。

(『希望の社会保障改革』よりの引用)「しかし、ベーシック・インカムに対するもっとも強い違和感は、ベーシック・インカムにより、人々は「真に自由」になり、「やりたい仕事」をするようになるという理想的な労働観、すなわち、自分自身の適性や「やりたい仕事」を人々ははじめから知っているという前提である。しかし、逆にベーシック・インカムにより、人は、さまざまな職業を経験する機会がなくなるのではないか。さまざまな職業との出会いと挫折、技能の蓄積・修練に伴うさまざまな試練の意義について、ベーシック・インカムを支持する論者は、楽観的な労働者像をもっているのではないか。むしろ我々は、ディーセントな労働の保障により、人々が社会と関わり、さまざまな経験をすることにより、社会連帯が強くなると考えている。」

田村哲樹 vs 濱口桂一郎 in 『日本の論点 2010』-ベーシック・インカムについて②

2010年02月23日 | 労働・福祉
『日本の論点 2010』にもついに「ベーシック・インカム」が論点として取り上げられた。

ベーシック・インカムを巡る田村哲樹氏と濱口桂一郎氏の論文を紹介しておく。

田村氏はBI賛成派で、濱口氏はBI反対派である。

両論文に対する私の感想は、田村氏の論文は最初の現状認識が正しいと思うが結論についてはよくわからない、濱口氏の論文は最初の「労働の価値」を認めるのには共感するが、最後のBI「血の論理」批判はおかしい、というものである。


若者たち・貧困者たちが置かれている現況ー「濁流」の比喩


田村哲樹氏の論文は、題名の『ベーシック・インカムは流動化社会で生きていくための「足場」となる』ーこれがほぼ内容を要約している。

田村氏によると、現代の社会は、社会学者ジグムント・バウマンが指摘する「流動化」社会である。

それを田村氏は「濁流」という比喩で説明している。

この「濁流」という比喩は、私の実感にも符合する。

(個人的には、13年ほど前から、日本の「地面は液状化している」という感じがずっとしている。)


>私たちは、流動化=濁流のなかで頑張らねばならないと思っている。しかし、頑張るためには、しっかりした「足場」が必要なのである。

>ここで流動化する時代の「足場」として注目したいのが、ベーシック・インカム(以下BI)である。(田村哲樹氏)


現代の「濁流」の中で何か「足場」が欲しい、というのは痛切にわかる。
しかしその「足場」は必ずベーシック・インカムでなければならないのだろうか。


>BIの最大の特徴は、無条件での給付という点にある。

>この無条件という特徴が、流動化する社会で頑張るための、誰にも共通する足場となる。逆に、条件付きの給付や特定の人々を対象とした給付は、安心できる足場としては不十分なのである。(田村氏)


私にとって興味深いのは、『日本の論点 2010』の他の論文で、本田由紀氏が『「就活」という名の濁流に沈む若者たち』という文章を書いており、そこでも若者たちが置かれている現況を名指すのに「濁流」という比喩が使われていることである。

「処方箋として何が正しいか」までは合意できないとしても、複数の論者に「濁流」いう現実認識が共有されていることこそが重要だと思う。


「労働」による「社会参加」を軸としない「連帯」が可能なのか?


次に、濱口桂一郎氏の論文「失業者と非労働者を区別しないベーシック・インカム論の落とし穴」について。

現在、貧困や「社会的排除」という問題に対する対策として、大きく分けて①労働を通じた社会参加によって社会に包摂していく「ワークフェア」戦略と、②万人に一律の給付を与える「ベーシック・インカム」戦略が唱えられているという。

濱口氏の論文は、①の「ワークフェア」の立場から、②「ベーシック・インカム」の立場を批判するものだ。

濱口氏は、そもそも「労働の価値」を抜きにした「社会連帯」は有り得ない、と考えているようだ。私は、それに同意する。

ベーシック・インカムは、給付を受ける者に対し、基本的に「労働への意欲」の有る無しを問わない。

しかし濱口氏にとっては明らかなことだが、「働く気のない人」と「働けない人」とは同じではない。

今、各種の社会保障が機能不全になっているということは、それだけでBI支持の根拠にはならないということ。

濱口氏は、「働く気のない人」と「働けない人」を選別せずに一定の給付を与えるベーシック・インカムは、意外と「ネオリベラリズム」と親和性が高いことにも警鐘を鳴らす。


>失業給付制度が不備であるためにそこからこぼれ落ちるものが発生しているという批判は、その制度を改善すべきという議論の根拠にはなり得ても、BI論の論拠にはなり得ない。(濱口氏)

>BI論は(…)働く意欲がありながら働く機会が得られない非自発的失業の存在を否定し、失業者はすべて自発的に失業しているのだとみなすネオリベラリズムと結果的に極めて接近する。


濱口氏の意見に私も賛成だ。(詳しく言えば、濱口氏が労働の価値を認めて「社会参加」を重視していることに賛成、制度改変に際してピース・ミール・アプローチを取っていることに賛成、ただ、私は「ネオリベラリズム」(≒市場主義)が全てダメだとは思っていない。)

人類はこれまで、「働くことはいいことだ」という価値観のもとに、「ダメな人」も「ダメじゃない人」もひっくるめて、なんとか「包摂性」を維持しながらやってきた。ベーシック・インカムは「労働に価値がある」という価値観からの解放を目指している。あるいはその価値観を前提としない制度設計を目指しているようだ。そのような労働の「脱構築」が果たして可能なのか。あるいは可能だとしても、それがほんとに人間にとって「いいこと」なのか。

私はまた、ベーシック・インカムにより、「社会的排除」が固定化されないかという懸念をもっている。例えば、ホリエモンさんが「無駄な社員は会社に来ないほうがよい」ということを理由の一つとしてベーシック・インカムに賛成していたことがあった。これまでの社会は、そういうところを何とか「ごまかして」やってきたように思うのだが、それではいけなかったのだろうか。「無能な人はすっこんでて下さい」と、そんな身も蓋もないことを言って「共同体の維持」など他の側面への負の影響はないのだろうか、と、その辺りに心配がある。

さらに濱口氏は、BI支持論者の山崎元氏や堀江貴文氏のブログから批判的に引用し、


>人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかもしれないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。


と書いている。
末尾の文章は、やや感情的な批判になっているように思う。
「障害者」の雇用に対し、ホリエモンさんが、あるいはBI支持者側が、どういう態度を取るのかはまだ明確ではないと思うからだ。


BI支持者を「ナチス」呼ばわりするのは、今のところ、適切ではない。


この論文の最後のほうで濱口氏が、『BIの根拠が「血の論理」になりかねない』と批判する箇所は、アレ? ちょっと筆が滑ったのかな? と思って困惑した。


>最後に、BI論が労働中心主義を排除することによって、無意識的に「“血”のナショナリズム」を増幅させる危険性を指摘しておきたい。


いきなり持ち出される「“血”のナショナリズム」という言葉は、ここでBIを批判するものとしてはオドロオドロしすぎるようだ。

なぜなら『BIの根拠が「血の論理」になりかねない』という批判の仕方は、まるで「BIの思想はナチスだ!」と非難しているように見えるからだ。
今のところ、BIは、それほど強い言葉で非難するべき「危険思想」にはなっていないと私は思う。

濱口氏が認めるように、日本人にだけ給付する、という論理が「血の論理」だと言うのなら、他の社会保障制度でも同じことである。
また、BI側も、たとえば「世界連邦」を作って全人類にベーシック・インカムを給付するという方向を目指すと言うのなら、「血の論理」は(理論的には)超えられてしまう。

おそらくここで問題になっているのは、「BI制度を日本だけに導入することで、外国や、日本国内の外国人労働者に悪い経済的影響を与えないだろうか?」ということなのだろう、と思う。これも気になるポイントの一つである。

まとめると、田村氏の論文も濱口氏の論文も、私は途中までは大体賛成だが、最後のところで保留する、ということになる。田村氏の「濁流」という現状認識と、濱口氏の「労働」による「社会参加」は重要、というところが一番大事だと思う。

BIに対しては、バランスの取れた、さらなる批判が必要だと思った。

拙ツイッターでのちょっとした議論ーベーシック・インカムについて①

2010年02月23日 | 労働・福祉
ニコニコ動画で「ベーシック・インカム」が論じられる日が来てしまった。(見た人,これから見るであろう人―4万人くらい?)


先日、東浩紀・司会の「ニコニコ動画」番組、「朝までニコニコ生激論」ーテーマ『ベーシック・インカム(キリッ』2010年2月20日(土)24時30分~(約3時間)を見て、ベーシック・インカム(BI)批判派・懐疑派であるこの私も、かなりの刺激を受けました。

(この番組の内容の大雑把な紹介は、「ベーシックインカムについて⑥」で行っています。)


ツイッターでBI支持派の人たちとやりとりをしたことがある。


そういえば拙ツイッター上でも、過去にBI支持派の人たちにいくつか質問したことがあるので、その様子をここに再録しておきます。

@NIHhiroさん
に対して、例えば私は次のようなことを呟きます。

>BIの発想は面白いけど、アクティベーションとかメイク・ワーク・ペイみたいな「働くこと」と結びつける政策じゃないと、みんな納得しないよ。#BI(2010年1月25日)

>フィッツパトリックという学者の本にあった例だけど、たとえばベーシック・インカムもらって「サーフィンを楽しむ若者」を目の当たりにしたら、日本人の多くは怒ると思うけどね。だから政治的合意までには至らない。#BI(2010年1月25日)


これに対し、@NIHhiroさんからは次のような返答を頂きました。


@NIHhiro>日本の問題を改善するには、ベーシックインカムが一番良い。みんなそう考えるはずです。ベーシックインカムより良い案があるなら、それでも良いですが、今のとこBIが一番でしょう。

@NIHhiro>年金や生活保護、日銀などの問題を改善するのは難しいと思います。それならベーシックインカムにした方が簡単なのではと思います。

@NIHhiro>国民も、定額給付金や子供手当てを受け入れているようですし、新党日本の様に、ベーシックインカムを推進する政党もあります。これらの話をつなげて行くと、ベーシックインカムにたどり着くのでは?と思います。

@NIHhiro>BIなら最低限、飢え死にすることはありませんが。今の資本主義だと、最低ラインは死です。

@NIHhiro>どうやら、やさしいベーシック・インカム、ベーシック・インカム入門などの本を読むと、生活保護も問題点の多い制度のようです。生活保護の問題解決の為にも、ベーシックインカムが必要な流れのようです。


私はこれらの返答を頂いてもなかなか納得できず、


>私の経験だと、ベーシックインカムのことを知ったら、今ある社会保障制度のなかで、雇用保険と生活保護とのあいだにある、バカーッと開いている大きな穴に気づきやすくなりました。この穴を埋める作業が必要だと思います。(2010年1月25日)

>財政理論的にはOKだとしても、「働かざる者」への視線って、そう簡単に変えられるものではないと思います。(2010年1月26日)

>「参加」を軸にしないと、社会から排除された人がそのまま、という状況が多くなりそうです。BIの危険性はそこ。(2010年1月26日)

>わたしが問題かなと思ってるのは、BIの制度だと、「働く能力のない奴はすっこんでろ」という社会的排除が、恒久化されてしまういう危険性です。

>私はこわれかけた制度の綻びを修繕していくほうが現実的かと思いまして。たしかに、例えば相続税100%にしてバーンと資産課税して、国民全員に7万円配ったら、ほとんどのことが解決しそうです。経済成長も可能。でも、それ政治的には無理でしょ? 革命?

>私も最近会社をクビになり資本主義の恐怖は身にしみます。でも、今の制度の問題は、失業保険と生活保護との間に大きなクレヴァス(裂け目)があることだと思います。「餓死」の危険は、本来生活保護制度が防ぐべきものです。BIでなくても可能です。

>ベーシック・インカムは現在の自分、また5年後10年後の日本のことを考えるときは現実の導入の可能性はほぼゼロだろう。でも20年後、30年後だったら可能性あるかも。将来世代のための議論。(2010年1月27日)

>ベーシックインカムだと各人に「居場所と出番」を作らなくても社会が回せるようになる。その方向はおかしい気がする。(2010年1月29日)


などと呟いています。


@kirghisiaさんからはオランダのワークシェアリングの You tube 映像などを教えて頂きました。

@kirghisia>ビジネスはゲームだとするならば すべての時間をゲームに捧げる必要なんか あるはずがない (2010年1月29日)

(に対し私が)>ビジネスはゲームでもあるし人生でもある。人生は人生だが、しかしゲーム的なところもある。両方ある。BIに関心を持つ人は、社会の動機付けの単一化に苛立っているのか。

@kirghisia>時間が半分とか1/3でもいいのではってことですよw

(私)>オランダのワークシェアリングの映像紹介ありがとうございます。おもしろかったです。 (2010年1月30日)

>しかし日本ではサービス残業を減らす、職務(job)を明確化する、これさえまだできていないんですから。ワークシェアリングにはまだ遠い。大久保幸夫『日本の雇用』(講談社現代新書)参考。(2010年1月30日)


生活保護と雇用保険のスキマ、社会保障の機能不全について


@takaroさんらとのやりとり。


@toyokawah>生活保護の方がよほど働く意欲をそぎますからね #bijp(2010年2月13日)

@takaro>まったくです。あんな欠陥だらけの施策も珍しい。バグしか無い。

(に対し私が)>BI批判派です。だから雇用保険と生活保護の「あいだ」を埋める努力が必要なんですっ。ヽ(`Д´)ノ


と、批判の呟きを入れると、


@takaro>でも複雑なシステム程バグは潜むんですよね。

@rassvet>状態に応じて別個の救済システムを作ったのが、そもそもの問題なんですよ。

@hisuix
>雇用保険も欠陥だらけ。欠陥品と欠陥品の間を埋めても、やっぱり欠陥品だと思う。


懲りずに私が、


>BIに対するもう一つの疑問、社会的排除が固定化されるのでは? という懸念に対してはどのような議論をされていますか? 例:ホリエモンさんの「無駄な社員は会社に来ない方がいい」 (2010年2月13日)


と質問すると、これにもちゃんと返答があり、


@toyokawah>それは普通に正しいと思います。無駄な社員を簡単に切れないのが日本の大きな問題です。切れないから雇えないのです

@takaro>無駄な会社は社員に干されて潰れる方が良い。対等な労使関係になるのでは? と。

@yumoruta>対等な労使関係とするためには、BIで労働権や社会保障を置き換えてはならないということかと思います。 RT @takaro: でも逆も言えて、無駄な会社は社員に干されて潰れる方が良い。対等な労使関係になるのでは? と。

など。

丁寧に返答して下さった方有難うございました。
BI支持派の人たち、頭の回転が速くて、けっこう親切な人が多い模様。

最低賃金の引き上げは有効な「貧困対策」にはならない!-神永正博『未来思考』より

2010年02月23日 | 労働・福祉
最低賃金の引き上げは有効な「貧困対策」にはならない!


神永正博『未来思考』(2010年)で、「最低賃金で働いている人の多くは、貧困層ではない」というデータが紹介されている。

一橋大学の川口大司氏と森悠子氏の論文で、1982年と2002年の就業構造を詳しく調べてみると、「最低賃金で働いている人たち」は、その70%前後が世帯主ではなく、年収300万円以下の世帯の世帯主(≒救われるべき貧困者)は、15%前後しかいない(2002年時点)、ということがわかったという。

民主党のマニフェストのように最低賃金を例えば1000円に上げても、すなわち「貧困対策」としては「空振り」に終わる可能性が高いということだ。

同研究によると、「最低賃金で働いている人たち」のうち、50%前後と最も多いのは、年収500万円以上の世帯の「非世帯主」として属している人だという。

これでは貧困問題を解決するために時給の底上げを図るのは、おそらく効率が悪すぎる。

前掲神永正博氏の本にはこうある。

>意外なことに、「最低賃金で働いている人の多くは、貧困層ではない」のです。

>論文では、「最低賃金の引き上げは、貧困家庭にうまく焦点が合っておらず、むしろ中所得以上の世帯の世帯員(配偶者や子ども)が恩恵を受けるのではないか」と分析しています。(神永正博『未来思考』185p)

また、同じデータが、当の研究者の川口大司氏の文章で、『現代用語の基礎知識 2010』においても紹介されている。(シノドスの芹沢一也氏・萩上チキ氏・編集の巻頭特集「2010年代の新・常識」の論文集ー川口大司氏の文章「「最低賃金」と雇用」参照)

このようなデータを見ると、民主党のマニフェストの見直しは必須になると思う。

「仏教」がやっと駅前の本屋で買える!-平井俊榮・訳注『般若経』(ちくま学芸文庫)

2010年02月20日 | 宗教・スピリチュアル
駅前の本屋、キオスク、市立図書館等にもっと仏典を!


このようなコンパクトな「般若経典」が出るのを待っていた。

私には、仏典に「訓読文」が付いていることが重要なのだが、

その点、平井俊榮訳注『般若経(般若心経・金剛般若経・大品般若経)』 (ちくま学芸文庫 2009年) は申し分ない。

そもそも、ちくま学芸文庫は、『空海コレクション』 のシリーズを出したときから「すげえ」と思っていた。

私は日頃、過去の仏教の遺産がまだいっぱい残っているはずのこの日本で、たとえば「ブラリと立ち寄る駅前の本屋で買える本」として、仏典類があまりにも少ないことに不満や憂愁の念を抱いていた。

中途半端な仏教の「解説書」は多いんだけれど、そもそもそれらの基になるエッセンス類、「仏典」が少なすぎるのだ。

たとえばギリシャ神話とか聖書、西洋の哲学書の古典などは、駅前の本屋で文庫本で手に入れることは今の日本、そう困難なことではない。それらと比べると、仏教に関して古典へのアクセス可能性が薄すぎるのだ。仏典見たかったら大きな図書館へ行くか、何万円か払って購入しないといけない。
こんな状況で、日本が「とりあえず大乗仏教がさかんな国」だと言えるのか。

そういう状況が、少しづつマシになってきているようなので、よかった。

慶賀すべきことである。


西暦2世紀頃ー「さあ、俺たちの大乗仏教を広めよう!」ーやる気満々、開始早々、いきなりこんなこと言われたら・・・「菩薩」と言っても「名前」だけ。「衆生」と言っても「名前」だけ。「救い」と言っても「名前」だけ。汝らはこのことを知るように。・・・(´・ω・`)信者ショボーン


2世紀頃に、大乗仏教運動が起こって、そこで「般若経」の思想が生まれた。

「衆生」の救済を目指す「菩薩」たちの活動がさかんになった。
それらの活動と思想は、1000年以上の期間をかけて、日本にも多大な影響を及ぼした。
そのさなか、恐ろしいことに般若経典は、「菩薩というのは名前にすぎない。実際には存在しない。衆生というのも名前にすぎない。実際には存在しない。」などという「救済活動」に冷や水をぶっかけるような言葉で始まっている。

こんな宗教が、かつてあっただろうか。自分達の言葉遣い、スローガンを否定するところから「救済運動」が始まっているような宗教が。

たとえば、キリスト教の聖書や神学書に、「イエス・キリストは名のみの存在であり、イエス・キリストという男は存在しない。同じく聖霊や神も存在しない。三位一体とは、縁起のことにすぎない。」なんていう言葉が書かれていたら、どうだろうか。こんな文章を読んだらイエズス会の宣教師などは、何か「やる気」がなくなって、「宣教の意欲」が削がれてしまうのではないか。

しかし、それこそが「空」を掲げ、布教された各地でメタモルフォーゼを続けながら、ダイナミックな「転法輪」(ローリング・ストーン)を展開した、仏教の最初の姿なのである。
私は改めて、このことに驚く。


『大品般若経』ー「般若波羅蜜を行じて、我を見ず、衆生を見ず」


『大品般若経』習応品より

仏、舍利弗に告げたもう、「菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く思惟すべし。

菩薩は但だ名字のみ有り、仏も亦た但だ字のみ有り、般若波羅蜜も亦た但だ字のみ有り、色も但だ字のみ有り、受・想・行・識も亦た但だ字のみ有り。

舍利弗よ、我の如きは但だ字のみ有り、一切の我は常に不可得なり。
衆生・壽者・命者・生者・養育・衆数・人者・作者・使作者・起者・使起者・受者・使受者・知者・見者、是の一切は皆な不可得なり。

不可得空なるが故に、但だ名字を以て説くのみ。

菩薩摩訶薩も亦た是の如し。般若波羅蜜を行じて、我を見ず、衆生を見ず、乃至、知者・見者を見ず、所説の名字も亦た見るべからず。

菩薩摩訶薩は、是の如く般若波羅蜜を行ずることを作す。

仏の智慧を除けば、一切声聞・辟支仏の上に過ぐるものなり。

不可得空を用っての故に。
所以(ゆえん)は何(いか)んとならば、是の菩薩摩訶薩は、諸の名字、法の名字、所著の処も亦た不可得なるが故なり。

舍利弗よ、菩薩摩訶薩は、能く是の如く行ずるを、般若波羅蜜を行ずと為す。」

(『般若経』 (ちくま学芸文庫)138p-139pより)


常啼菩薩ー「空閑林の中に於いて、空中の声の言うを聞く」


『般若経』のうち、「物語」風味のものとしては、常啼菩薩(じょうたいぼさつ)の話が印象深かった。彼はあるとき「空中の声」を聞いて般若波羅蜜の教えを求める旅に出る。「なぜ私はあの時、空中の声に聞かなかったのだろうか」いきなり後悔して憂愁に沈む、常啼菩薩。

『大品般若経』常啼品より

薩陀波崙菩薩(さつだはろんぼさつ)=常啼菩薩(じょうたいぼさつ)

空閑林(くうげんりん)の中に於いて、空中の声の言うを聞く、『汝善男子、是より東して行け。疲極(ひごく)を念ずること莫かれ、睡眠を念ずること莫かれ、飲食(おんじき)を念ずること莫かれ、昼夜を念ずること莫かれ、寒熱を念ずること莫かれ、内外(ないげ)を念ずること莫かれ。

善男子よ、行く時に左右を観ずること莫かれ、汝行く時に身相を壊(え)すること莫かれ、色相を壊すること莫かれ、受・想・行・識の相を壊すること莫かれ。

何を以ての故にとならば、若し是の諸(もろもろ)の相を壊するときは、仏法中に於いて則ち礙(さわり)有りと為せばなり。若し仏法中に於いて礙有るときは、便ち五道生死の中に往来し、亦た般若波羅蜜を得ること能わざるなり。』

(『般若経』 (ちくま学芸文庫)339pより)


常啼菩薩ー「我れ云何(いかん)が空中の声に問わざりし。」ー薩陀波崙菩薩、啼哭憂愁して是の念を作せり。


爾(そ)の時、薩陀波崙菩薩(さつだはろんぼさつ)は、是の空中の教えを受け已(おわ)りて、是れより東して行く。

久しからずして復た是の念を作せり。

我れ云何(いかん)が空中の声に問わざりし。我れ当に何処にか去るべきや、去ること当に遠なるや近なるべきや、当に誰に従って般若波羅蜜を聞くべきや、と。

是の時、即ち住して、啼哭(たいこく)憂愁して是の念を作せり。

我れ是の中に住して、一日一夜を過さん。若しくは二、三、四、五、六、七日七夜なりとも、此の中に於いて住せん。疲極(ひごく)を念ぜず、乃至、飢渇寒熱を念ぜず、般若波羅蜜を聴受する因縁を聞かずんば、終(つい)に起(た)たず、と。

(『般若経』 (ちくま学芸文庫)349pより)

臓器移植法改正ー「脳死は人の死」は欺瞞。

2010年02月19日 | 生命・環境倫理
実際には、「生命の質」と「多数の者の福利の増進」が問題になっているのに、「脳死は人の死」という定義でごまかすのは欺瞞だ。


臓器移植法が改正され、2010年7月から施行されることとなっている。

気になるのは、「脳死は人の死」という定義と「臓器移植の可否」との関係である。

ここで問われているのは、「まだ身体全部が死んでいない人」から臓器を取り出すのが、どのような条件で許されるか、ということだ。

私が一つ指摘しておきたいことは、ここでは実際には「生命の質」と「多数の者の福利の増進」が問題になっており、どのような条件で医者の意図的な「生命の停止」が許されるのか、という判断がなされているはずなのに、そのあたりを「脳死は人の死」という定義でごまかすのは欺瞞だ、ということだ。

私は、脳死は人の死ではない、と思っている。

しかし、だからといって、これだけではまだ、「臓器移植には反対」にはつながらない。

たとえば、植物人間になってしまった人間のその後の「quality of life(生命の質)」や「幸福」と、その人から臓器提供を受ければ救われる人間たちの「quality of life」や「幸福」とを比較して、条件次第では前者の「生命の停止」が肯定されることがあるかもしれない、と思っているからだ。

というか、現に今の社会は、そのような「功利主義的判断」を行っているのではないか。

脳死と判定された人から、いくつかの条件の下に臓器を移植することが可能、とされているのが現代の社会なのだから、

脳死と判定された人は、臓器移植によって助かる子どもたちの「quality of life」の増進のために、速やかな生命の停止を求められる場合がある、そのほうが社会全体の幸福にとっては望ましい、

という価値判断が、すでになされていることになるのではないか。

生命倫理学の言葉で言えば「生命の神聖性」よりも「生命の質」を優先させる考え方に移行しているということであり、これはたとえば、安楽死はある条件の下で認められる、という考え方と整合性がある。

しかし、臓器移植法に賛成する人たちも、このあたりの価値観の表明がはっきりとしないのだ。

たとえば臓器移植法は、現行法でも、2010年7月から施行される改正法でも、「脳死した者の身体」を「死体」と呼んでいる。
これは「死体」から臓器を取り出すのだから許されるはずだ、という考え方が前提になっているのだろう。

しかし私は、脳みそという臓器が死んだくらいで、人間の身体がまるごと死んでいるわけではないと考える。

「脳死は人の死」という定義でごまかすことは、単なる欺瞞なのだ。実際にやっているのは、多くの人たちの幸福の「比較考量」の上での「生命の停止」なのだ。
(「人格」があるのかどうかは定かではないが、とにもかくにも「生きているもの」を殺すことを、「殺人」と呼ばず「生命の停止」とここでは呼んでいる)

このような視点を思いついたのは、私が最近倫理学者のピーター・シンガーの『生と死の倫理』という本を読んだからだ。

以前の記事でシンガーの考え方を紹介して私はこう書いている。(「ガダラの豚」に同情するシンガーの凄さーピーター・シンガー『生と死の倫理』を読む 2010年02月16日 より)

>シンガーはこの本で「生命の神聖性」という考え方を攻撃する。
>「脳死」は人の死、という定義を行った医者たちは、死の定義をずらすことで「生きている人間から臓器を取り出すわけではない。つまり殺人を犯しているわけではない」という言い訳ができるようなった。
>シンガーによればそれは「偽装」である。
>実際には「生命の質」に基づいた判断がなされているのに、「生命の神聖性」を冒していないという偽装が行なわれている。

今回の私の記事は、この線に沿って考えてみた結果である。


「脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師」・・・普通では?ー『日本の論点 2010』ー河野太郎氏の論文より


『日本の論点 2010』に、臓器移植法の関する論文が二本入っている。

そのうち、父・河野洋平に肝臓を移植した経験などから、先般の臓器移植法の改正にも尽力されたという「河野太郎」氏の論文で、医者や看護士など現場にいる人たちにも「脳死=人の死」には疑いがあるということを、河野氏が憂えている箇所がある。

>(…)驚いたことに、医学部、看護学部の教育が脳死を取り上げていないためか、改正案を作成するためのヒアリング中に、脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師や看護士がいた。医療の専門家になるべき人材が、きちんとしたカリキュラムのなかで脳死についてまず教育を受ける必要性を痛感した。(『日本の論点 2010』ー河野太郎氏の論文より)

そしてこの河野氏の「脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師」という言葉に、「編集部の注」がつけられており、

>東大医学系研究科の会田薫子特任研究員らが08年10月-09年3月に実施した全国調査(日本救急医学会に所属する医師約2800人が対象・有効回答約 930人)では、半数近くが、臓器提供とは関係なく脳死診断をしていると回答したが、このうち3分の2は「脳死と診断しても呼吸器は外さない」。対して、「呼吸器外しを選択肢としている」は全体の2%、混乱する脳死現場の実情を浮き彫りにする結果となった(日本経済新聞09年10月25日付)

とある。これは「普通」の感覚ではないか。


「脳死は人の死ではない」という日本人の感覚って「アニミズム的感性」?ー『思想地図 vol.1』ー川瀬貴也氏の論文より


しかし、諸外国の人たちがいとも容易に「脳死は人の死」という医者の判断を受け入れるという事情があるらしいので、もしかするとこれは日本人だけの感覚なのかもしれない、とも思う。


『思想地図 vol.1 特集・日本』(2008年)
の川瀬貴也氏の論文『「まつろわぬもの」としての宗教』では、一部、臓器移植問題が扱われており、そこで文化人類学者のマーガレット・ロックという人が、日本人が臓器移植に抵抗感を覚える原因の一つとして「アニミズム的感性」を挙げているらしいと知る。

ーそうかもしれない。
自分の中に、日本古来の「アニミズム的感性」みたいなものが残存していることを、私もときどき感じる。
たとえば、粘菌だって森だって「生きている」という感覚。
神社の近くの古い木を見ると思わず「敬虔」な気持ちになる。

イメージとしてすぐに思いつく例を挙げれば、南方熊楠、宮沢賢治、宮崎アニメの『隣のトトロ』、水木しげるの妖怪漫画などに通低しているあの感覚ー「目玉おやじ」はたしかに「目玉」だけど、私にはやっぱり「生きている」と感じられる。

水木しげるの漫画なんて読んでいると、「肝臓」という「臓器」が死んだ時と、「脳みそ」という「臓器」が死んだ時と、どう違うのかよくわからなくなってくる。\(^o^)/

体の一部はともかく生きているじゃないか、という感覚。

>欧米ではさほどの抵抗なく受け入れられた「脳死」という概念が日本では何故このように抵抗に遭うのか。文化人類学者のマーガレット・ロックは膨大な文献・インタビュー調査を通じた比較検討の上で、控えめではあるが、「日本人は人体解剖の歴史が浅いこと」「遺体を傷つけることを忌避してきたこと」「医者という専門家に対する敬意の度合いが欧米より低いこと」「死の社会性(死を意味づける家族の存在)を重んじること」「無機物や機械にもいのちを感じるアニミズム的な感性」などが日本における脳死概念受容の進展を妨げてきたという仮説を唱えている。(『思想地図 vol.1』ー川瀬貴也論文『「まつろわぬもの」としての宗教』より)

川瀬貴也論文は、脳死忌避と日本人の「宗教性」との関連を扱っている。

>日本人の脳死忌避の答えは容易には見つからないし、短絡的に「日本の伝統的な身体観」というものを措定して解釈することも慎まねばならないだろう。脳死という、テクノロジーによって生み出された新しい「死」の形に、受容であれ拒否であれ、明確な答えを与えてくれる「伝統」を探る試みそのものを批判する視座すらあり得るだろう。ただ言えるのは、このような「脳死・臓器移植の拒否」という事態から、日本人の「宗教性」が思いがけずあぶり出された、という事実だけである。我々はこの事実の中核にある「何か」にまだいかなる輪郭も与えてはいないが、確かに「それ」はあるのである。(川瀬貴也論文)

この川瀬貴也氏の論文がすごいと思ったのは、日本の新興宗教にも取り組んでいるところで、

>この脳死・臓器移植問題について、各教団はいかなる回答を与えてきただろうか。大雑把に言って、臓器の提供を「博愛」とか「利他行」として合理化しつつも、積極的にそれを信者に勧めることはしないという中途半端に見えるスタンスをとる教団がほとんどであると言ってよいだろう。

とあって注釈で、「大本教」や「幸福の科学」といった教団の出版物にまでチェックを入れていることがわかる。

>「脳死」を死とみなさないスタンスを最も鮮明に打ち出した教団は、大本である。人類愛善会・生命倫理問題対策会議編『異議あり!脳死・臓器移植』天声社、 1999年を参照。他に幸福の科学も独自の身体観、霊魂観から反対を表明している。大川隆法『永遠の生命の世界』幸福の科学出版、2004年、第三章を参照。ただし、幸福の科学は臓器移植に絶対反対の立場はとっておらず、霊的な苦痛を覚悟の上なら認めている。

臓器移植と「功利主義」との関係は。
臓器移植問題においても、「功利主義」の正しい理解と、「宗教性」を深めること、両方ともしっかりと考えることが必要なはずなのに、それがちゃんとなされているようには見えない。だから合理的な「功利主義」の考えを深めることもできないし、合理を超えた「宗教性」を深めることもできない。

>では、教団の特殊な語彙ではなく、例えば功利主義的な考えは訴求力を持つだろうか。もちろん、一定の訴求力を持つであろうし、現に持っているであろう。脳死臓器移植は一人の脳死体から複数の臓器を提供でき、多くの人を助けられるという点から見ても、非常に功利主義的に納得のいく話であるし、合理的とすら言えよう。しかし、その合理性に納得できないという感性を否定することはできないし、またそれを否定してはならないだろう。結局、この功利主義にある意味対抗できるのは、合理性を超越するものと見なされている「宗教性」であろう。我々は具体的な「信仰」を失ったといっても、このような場面で再び「宗教性」を召喚してしまうのである。(川瀬貴也論文より)


おまけ:大本教の出口王仁三郎のエピソードー『日本の論点 2010』ー松本健一氏の論文より


ついでに臓器移植に反対しているという「大本教」について、たまたま『日本の論点 2010』の別の論文、松本健一氏の論文に「出口王仁三郎」のエピソードが紹介されていたので少し抜粋しておく。

日本の敗戦を予言していたのは、唯物論者の中江丑吉、大本教の出口王仁三郎、2.26事件の思想的指導者とされた北一輝の三人ぐらいのものだった、という話の文脈で、以下、出口王仁三郎の予言のエピソード。

>(…)出口王仁三郎は満州事変の1931年を語呂合わせで「いくさのはじめ」と読んで好戦気分をあおりたてたジャーナリズムに対して、この年は皇紀 2591年だから語呂合わせでいえば「じごくのはじめ」じゃないか、といった。そしてその4年後の1935年、大本教本部が「不敬」を理由として爆破されると、「日本もいずれは焼野原になるんだ」、と予言した。(『日本の論点 2010』松本健一氏の論文より)

出口王仁三郎ってすごいですね。