レイモンド・カーヴァーの詩集『水と水とが出会うところ』(村上春樹訳)に収録された「鍵がかかってしまって、うちの中にはいれない」は、《ちょっと外に出て、うっかりドアを/閉めてしまう。これはまずいと/はっと思ったときにはもう/手遅れ》というフレーズで始まる。ドアを閉めると、自動的に鍵のかかる仕組みなんだろう。私も以前、ホテルで部屋から閉め出されたことがある。
家の外には雨が降っている。《わたしは下の方の窓》を何度も開けようと試し、《ソファや植木やテーブルと椅子/ステレオ装置なんかをじっと》見る。それから、雨の中を二階のベランダまで登り、手すりを乗り越えて、そこのドアも試してみるが、ロックされている。そして、《それでもやっぱり/自分の机や原稿や椅子なんかをじっとのぞき込む。/これは机に向かい合っている窓で/机に座っているときにわたしがふと目をあげて/そこから外を眺める窓なのだ》。
さて、そこで「わたし」は、《こんな風にベランダから誰にも見られずにのぞき込むのは/ちょっとしたものだ/その内側にいるべきわたしは、そこにいない》気持ちは、《とても言い表せそうにない》と思う。それからガラスに顔を寄せて、中にいて、机に向かっている自分自身を想像してみる。すると雨の中で立っている「わたし」は、こんなふうに思う――《自分くらい幸福な人間はいないなと思いながら。たとえ哀しみの波が身体を通り抜けても》と。
最後は、窓ガラスを割って部屋に戻るわけだが、「わたし」がガラスを隔て「見る」というより、ここでは「見る」というより「視る」とか「観る」といったほうが……いや、今ふと大岡信の《さわることは見ることか おとこよ。》(「さわる」より)とか、《人間よ、眼でさわってごらん。》(「壜とコップのある」より)といった詩句を思い出したが、《眼でさわ》るというほうが正確なのかもしれない。眼差しで「さわる」適切な距離感は、机に向かって作者が書く「幸福」感にも通ずる、と思う。そして、作者が経験した《まるで人生そのもの》、家から閉め出されたことよりも《もっとひどいこと》をも含んだ事物にさわるカーヴァーのすべての作品(詩と小説)とも響きあう。
ここでもうひとつ「彼に尋ねてくれ」という詩をとりあげてみよう。僕が息子といっしょにモンパルナスの墓地を訪れ、ボードレールなどフランスの作家たちの墓にお参りに行く話だ。息子も墓の門番(白髪の老人)も《自分が腐って消えていくことなんて》まるで頭にない。門番に《もし自分が死んだら、ここの墓地に葬られたいか》という僕の質問に対し、手を上げて行ってしまう……《屋外カフェのテーブルを目指して》。
作中の「僕」と、息子や門番とのあいだには心の距離がある。そして詩の最後は門番の視点からカフェの室内の描写が。《笑い声や話し声が聞こえる。ナイフやフォークの触れ合うちゃりんという重い音。グラスが/触れ合う音。窓を照らす太陽。歩道を照らす太陽、木の葉の中の太陽。/太陽はまた彼のテーブルをも照らす。彼のグラス。彼の両手》。
もちろん門番は、店内をこんなふうに眼でさわるように意識することはないだろう。墓地にいる「僕」だからこそ見ることができる。カーヴァーの作品には、どこか明晰で透明なガラスがはさまっているような距離感が感じられる。でも、不思議とどんなに死が濃厚であっても、五感が全開で、同時に生のリアリティもある。そして、カーヴァーの詩と小説を読むことは、まさに読者にとっても《哀しみの波が身体を通りぬける》のを体験することもできる。
さて、私はこの原稿のためにA5の用紙で下書きを書いている――筆圧の強い、金釘流で。いつも下書きはボールペン、それからパソコンのワープロ機能で清書している。そういえば、もうだいぶ前のこと活版印刷の活字がデジタル製版に変わってしまったとき、はじめ目が本の表面でツルツル滑ってしまって、ことばがひどく薄っぺらなものに思えた。モデルハウスの明るい清潔さ、とでもいうような馴染にくい感じ。けれども、いつのまにか目が慣らされてしまって、もうそんな違和感はなくなった。
パソコンで文章を書くことだって、いまではもう当たりまえ。もちろん、便利になったけれど、その分なにか私のなかで文章のリズム、におい、肌触り、味覚といったものが希薄になってしまったような気がする。ちょうど、家屋の中心にあった竈が電子レンジに取って代われたことによって失われたものがあるように……。
私にとってカーヴァーの作品を読むということは、からだのリズムを取りもどすことでもある。
家の外には雨が降っている。《わたしは下の方の窓》を何度も開けようと試し、《ソファや植木やテーブルと椅子/ステレオ装置なんかをじっと》見る。それから、雨の中を二階のベランダまで登り、手すりを乗り越えて、そこのドアも試してみるが、ロックされている。そして、《それでもやっぱり/自分の机や原稿や椅子なんかをじっとのぞき込む。/これは机に向かい合っている窓で/机に座っているときにわたしがふと目をあげて/そこから外を眺める窓なのだ》。
さて、そこで「わたし」は、《こんな風にベランダから誰にも見られずにのぞき込むのは/ちょっとしたものだ/その内側にいるべきわたしは、そこにいない》気持ちは、《とても言い表せそうにない》と思う。それからガラスに顔を寄せて、中にいて、机に向かっている自分自身を想像してみる。すると雨の中で立っている「わたし」は、こんなふうに思う――《自分くらい幸福な人間はいないなと思いながら。たとえ哀しみの波が身体を通り抜けても》と。
最後は、窓ガラスを割って部屋に戻るわけだが、「わたし」がガラスを隔て「見る」というより、ここでは「見る」というより「視る」とか「観る」といったほうが……いや、今ふと大岡信の《さわることは見ることか おとこよ。》(「さわる」より)とか、《人間よ、眼でさわってごらん。》(「壜とコップのある」より)といった詩句を思い出したが、《眼でさわ》るというほうが正確なのかもしれない。眼差しで「さわる」適切な距離感は、机に向かって作者が書く「幸福」感にも通ずる、と思う。そして、作者が経験した《まるで人生そのもの》、家から閉め出されたことよりも《もっとひどいこと》をも含んだ事物にさわるカーヴァーのすべての作品(詩と小説)とも響きあう。
ここでもうひとつ「彼に尋ねてくれ」という詩をとりあげてみよう。僕が息子といっしょにモンパルナスの墓地を訪れ、ボードレールなどフランスの作家たちの墓にお参りに行く話だ。息子も墓の門番(白髪の老人)も《自分が腐って消えていくことなんて》まるで頭にない。門番に《もし自分が死んだら、ここの墓地に葬られたいか》という僕の質問に対し、手を上げて行ってしまう……《屋外カフェのテーブルを目指して》。
作中の「僕」と、息子や門番とのあいだには心の距離がある。そして詩の最後は門番の視点からカフェの室内の描写が。《笑い声や話し声が聞こえる。ナイフやフォークの触れ合うちゃりんという重い音。グラスが/触れ合う音。窓を照らす太陽。歩道を照らす太陽、木の葉の中の太陽。/太陽はまた彼のテーブルをも照らす。彼のグラス。彼の両手》。
もちろん門番は、店内をこんなふうに眼でさわるように意識することはないだろう。墓地にいる「僕」だからこそ見ることができる。カーヴァーの作品には、どこか明晰で透明なガラスがはさまっているような距離感が感じられる。でも、不思議とどんなに死が濃厚であっても、五感が全開で、同時に生のリアリティもある。そして、カーヴァーの詩と小説を読むことは、まさに読者にとっても《哀しみの波が身体を通りぬける》のを体験することもできる。
さて、私はこの原稿のためにA5の用紙で下書きを書いている――筆圧の強い、金釘流で。いつも下書きはボールペン、それからパソコンのワープロ機能で清書している。そういえば、もうだいぶ前のこと活版印刷の活字がデジタル製版に変わってしまったとき、はじめ目が本の表面でツルツル滑ってしまって、ことばがひどく薄っぺらなものに思えた。モデルハウスの明るい清潔さ、とでもいうような馴染にくい感じ。けれども、いつのまにか目が慣らされてしまって、もうそんな違和感はなくなった。
パソコンで文章を書くことだって、いまではもう当たりまえ。もちろん、便利になったけれど、その分なにか私のなかで文章のリズム、におい、肌触り、味覚といったものが希薄になってしまったような気がする。ちょうど、家屋の中心にあった竈が電子レンジに取って代われたことによって失われたものがあるように……。
私にとってカーヴァーの作品を読むということは、からだのリズムを取りもどすことでもある。
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