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詩客、相沢正一郎エッセーです。

ことば、ことば、ことば。第44回 視点2 相沢 正一郎 

2016-10-17 21:33:26 | 日記
 シェイクスピアの『リチャ-ド三世』は、『ハムレット』と並ぶ人気の芝居。「極悪非道」の巨大な主人公の悪の魅力は、ハムレット以上に役者が一度は演じてみたいヒーロー。歌舞伎の役柄でいうと色悪。ただ、民谷伊右衛門のような二枚目じゃなくて醜男。
 芝居の冒頭、いきなり《このおれは、生まれながら五体の美しい均衡を奪われ、ペテン師の自然にだまされて寸詰まりのからだにされ、醜くゆがみ、できそこないのまま、未熟児として、生き生きと活動するこの世に送り出されたのだ。このおれが、不格好にびっこを引き引きそばを通るのを見かければ、犬も吠えかかる》と自己紹介。ノートルダムのせむし男、フランケンシュタインの怪物のような強烈な存在。
 それが、さまざまな登場人物に対面するたびにカメレオンのように変化する名優なのだ。たとえばクラレンス公ジョージの目にはリチャードが兄を愛している、と映っていた――弟がさしむけた暗殺者に殺されるまでは。リチャードに義父ヘンリー六世と夫エドワードを殺された未亡人アンにいたっては、彼に《手をくださせた真犯人はあなたの美しさなのだ》とくどかれ、なんと妃になる。
 ほかにも登場人物のほぼ全員がリチャード三世の演じた別々の顔を見ることになる。ヘースティングズ卿にとっては理解してくれる心強い味方。未亡人となった王妃エリザベスにとっては悲運を慰めてくれる義理の弟。リチャード自身が名優、だから役者にとって演じてみたい役なのかもしれません。
 出番こそ少ないものの、とりわけ印象に残っている登場人物が二人。リチャードが唯一たじたじになったのが、幼い王子ヨーク公。せむしという言葉はリチャードにとってはタブー。それなのに子どもは無邪気に叔父にむかって《ぼくが小さくて、猿まわしの猿みたいだから、叔父様の背中に背負ってもらえって言うのです》。
もうひとりは息子のリチャードを「ヒキガエル」と呼ぶ母親、公爵夫人。《この呪われた胎のなかにいるあいだに締め殺しておけば》といい、《ではがまんして私のがまんならぬ怒りをお聞き》と息子を非難すると、すかさずリチャードが《母上、私はあなたの気性を受け継いでいる》と返す。怒りは母から子へと。もしかしたら、リチャードの役は、この母親によって決定づけられてしまったのかも。

 もし、この劇にリチャード三世を登場させず、ほかの登場人物に語らせるとしたら、この強烈な存在が薄れていき透明人間になってしまうかも……そんなふうに考えたのは、最近読んだジェイムズ&エリザベス・ノウルソン『サミュエル・ベケット証言録』。たまたま本屋でみつけ、以前図書館から借りた『ベケット伝』上・下巻の付録かな、と思い、六千円の値段で迷ったけれど思い切って買ってしまった。
 これが面白い。ベケットに敬意や愛情をもつ意見はたくさんあるが、いわゆる偉人伝で終わってはいません。たとえば、ベケットがいやいやながら教師・大学講師の授業をしていた時期のある学生は《とても退屈な講師でしたし、とても退屈な人物でした》と証言しているし、レジスタンスの活動をしていてゲシュタポに追われたときに恋人シュザンヌといっしょに作家ナタリー・サロートの家にかくまわれた。ナタリー・サロートは、《ベケットの語彙には「感謝」という言葉がないようでした》と非難しています。
 サンクウェンティン刑務所に長年収容されていたリック・クルーチーは仲間の受刑者たちと実験的ワークショップでベケット劇を上演。《世界中のどの場所よりも、ここには真のベケット的人物が住んでいる。見捨てられた者たち、狂人、路上の詩人、システム全体に「ミンチにされた肉」たちのすべて》。掃除婦ピーツ夫人の話は好きだった。《彼に尋ねました。『どうしてあんな怖い劇を書くんですの? 人間の気狂いじみたことを?』。『ええ、それが僕の最も邪悪な遊びですね』。でも結局のところ、彼はとても素敵な人でした。私の母がまだ生きていた頃、もう高齢で八十歳前後で体調も良くありませんでした。彼は毎週土曜日に私が母にあげるための、ワインなどのプレゼントを買ってきてくれました》。
 以前、『ベケット伝』を読んだときに驚いたことがありました。作品を通して見たベケットといえば、狂気、老い、身体の障害、不能を描いた作家だが、若いときにはボクシング、水泳、クリケット、ゴルフ、ローラースケートなどに秀でたスポーツマン。廃墟、孤独、生きることへの絶望、コミュニケーションの不可能性などを追求した作品とは異なり、レジスタンス運動に参加したり、アパルトヘイトなど抑圧に苦しむ人たちを支援した、という意外性。
 この本でも、『ゴドーを待ちながら』のゴドーのようにページをめくりながらベケットを探す楽しみを味わいました。

 最近観た映画では、李相日監督『怒り』。吉田修一原作、李相日の映画監督では以前、傑作『悪人』がありました。このときには本を読んでから映画を観たけれど、今回は映画のあとで原作を読んだ。夫婦惨殺事件が起こり、整形をした犯人の人相写真がテレビで放映。犯人と似た身元不詳人がそれぞれ世田谷、外房、沖縄にあらわれる。
 映画を観ながら(本を読みながら)三人のなかから本当の犯人の顔を捜すミステリー。三人をめぐる物語が複数の登場人物の視点によって語られている。《凶行の場となった廊下に血文字が残されていた。被害者の血を使い、男が指で書いたのは「怒」という一文字だった》と、はじめのほうに生々しい「怒」が観客(読者)に刻み付けられる。
 この「怒」という禍々しい文字をもう一度、物語の終わりごろ廃墟の壁に今度は赤いペンキで描かれているのを目撃。ネットで匿名でよく目にする書き込みの悪意を思いだしました。そんな現代性も潜んでいる作品。三つの話に複数の視点があるのに、なぜかバラバラな感じがしないのは、水面下の深いところに一つの「怒り」が流れているからかもしれません。
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