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詩客、相沢正一郎エッセーです。

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ことば、ことば、ことば。第42回 劇場 相沢 正一郎

2016-08-15 23:53:12 | 日記
 今回もシェイクスピアを採りあげ、劇場の重要性についてもっと詳しく書いてみましょう。一五九九年テムズ川の南、古い木材で建てられた芝居小屋グローブ(地球)座には〈人は皆、役者〉という銘が掲げられていました。棺桶をおもわせる箱でなく、このOの字の母胎に包まれてお客は時空を超えて夢を見ました――『ハムレット』、『リア王』、そして『テンペスト』なども。
 木の小屋の外には、ライバル劇団、ペストや清教徒や火災など、ひとときの幻を脅かす敵がたくさん。実際、一五九三年にロンドンでペストが猛威を振るい劇場の閉鎖を命じられます。この時期、シェイクスピアは『ヴィーナスとアドニス』『ルークリースの凌辱』などの詩集を作成、その技術を演劇に持ち込みます。
 シェイクスピアの生きた時代――エリザベス女王、ジェイムズ一世ともに演劇を庇護し、シェイクスピアは座付作者として国王一座として活躍できた。先に述べた「グローブ座」(「地球座」)の名前のとおり国、時間を超えて「悲劇」、「喜劇」、「歴史劇」、「問題劇」、「ロマンス劇」と演じられてきました。
 ここで注意しなくてはなりませんが、前回にも述べましたようにシェイクスピアの時代、現在わたしたちが観賞する劇とはずいぶん違うということ。まず劇場の構造――わたしたちの観る舞台は幕のある額縁。しかしルネサンス時代の演劇は三方を客席に囲まれた張出舞台。舞台と客席は今のようにきっちりと区切られていませんでした(こうした点から演劇は、映画より本に近いような気もします)。
 また、たとえば蜷川幸雄の舞台に見られるような大掛かりな装置や美術の大スペクタルではなくて、裸舞台が普通。ですので、近代演劇の装置や照明による視覚的なアクションを目指す、というよりも、人物、時、場所はすべて台詞に頼る。それでことばは饒舌なほどの豊饒さ、作詞で磨かれたことばの音楽性が生まれたのですね。
 こうした時代(時間)と舞台(空間)が作者を作っていったわけですが、もうひとつ観客(読者)の重要性についても考えてみましょう。詩作とは違って、シェイクスピアが座付き作者として活躍していた劇団には幅広い層の観客がいました――職人、貴族、法律家など……これはそのままシェイクスピアの重層な台詞を喋る芝居の登場人物に重なります。
 また、ソフィスケイトされた観賞眼をもつ宮廷のひとびとをも含んだ多様な観客、それからリチャード・バーベッジからオリヴィエ、ギールグッドなどの名優、ピーター・ブルック、オーソン・ウェルズから黒澤明などの演出などもシェイクスピア劇を作者といっしょに創造していったことは忘れてはいけません。
 少し前の時代、シェイクスピアは実在しない――という説が学会を賑わせました。マーロウ、グリーンなど「大学才人」といわれる劇作家が活躍した一五八〇年から九〇年代、古典劇の教養をたっぷり吸収したうえで民衆演劇の伝統を融合させた知的な世界を俳優上がりの作家が創造できるわけがない――ということで、たとえば「フランシス・ベーコン作者説」なども生まれました。
 以前、たしか河合祥一郎さんの文章でしたが、たいへん説得力のある話がありました――大航海時代のイギリスでは世界中の生きた情報が「酒場」を通して、いろいろな階層のひとびとの話としてシェイクスピアに伝わってきたというのです。まさにシェイクスピアの劇そのもの。シェイクスピアの登場人物はたとえどんな脇役であっても、その人物が自分の語り口で自分の考えを話します。作中人物たちはけっして作者が自分の思想を伝達するための操り人形ではありません。まして君主のような作者が、観客を啓蒙しようとはしていません。(この点、のちの一九世紀末ロシアの劇作家(短編作家)チェーホフが「人生の教師」という作家像を避け、演劇に問題を提示するものの解答を与えない姿勢にも共通します)。
 《この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、それぞれ舞台に登場してはまた退場していく》とは『お気に召すまま』第二幕第七場でジェークイズが語る台詞ですが、「グローブ座」(「地球座」)は世界でもありますが、初めに述べたようにOの字の劇場はものがたりを生む「母胎」、そして「眼球」であると同時にもっと「脳」に似ているもの。
 少し抽象的な話になりますが、幕開きの時間(いつ)、場面の空間(どこで)は、シェイクスピアの芝居では近代のリアリズム劇とはずいぶん違っていました。たとえば『ロミオとジュリエット』のバルコニーのシーンのように真夜中に恋人たちが愛を語らう内にあっという間に夜が明ける、といった具合で、時間も伸び縮みしています。
 カメラのように眼で空間を切り取り断片化する、また時間を断片化する――といったリアリズムというより、その空間を再構成し、のっぺりした時間をリズムのあるものに変える。アルバムに貼った視覚ではなく、もっと共通感覚のあるものがたり――つまりは記憶の創造とでもいうんでしょうか。
 それが二〇世紀になると、『ハムレット』の名台詞《なにを言う、このおれはたとえクルミの殻に閉じこめられようと、無限の宇宙を支配する王者と思いこめる男だ、悪い夢さえ見なければ》を思い出させるベケットの演劇が現れる。ベケットの場合の《クルミ殻》は「頭蓋」。『勝負の終わり』の終末戦争後の世界のような灰色の舞台は頭蓋――高いところに二つの窓(眼)のあるおおきな部屋。部屋はそのまま劇場へ、そして観客の頭――光線(視線)と精神の部屋へと重なります。
 なお、グローブ座は一六一三年六月二九日、『ヘンリー六世』が上演されているとき、音響効果のための空砲が萱葺き屋根に飛び火。木造の建物全体へとたちまち火がひろがり一時間ばかりですっかり焼け落ちてしまいました。
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