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詩客、相沢正一郎エッセーです。

ことば、ことば、ことば。第36回 水5 相沢 正一郎

2016-02-19 13:48:59 | 日記
 H氏賞の選考委員になったため、このところ時間があればノミネートされた詩集を読んでいる。詩集をひらくと、「水」という文字が浮かびあがってくるのは、この連載(第36回 水)が意識の隅にあるためか。たとえば、手紙やハガキ片手に街をあるくとポストがよく目にはいる、といったようなことなのか。
 さて、十一冊の詩集、文体からテーマからたいへん幅ひろく、この多様性は現代詩を反映しているのかもしれない。でも、共通するのは、すべての詩集に「水」という文字があり、「海」や「川」、「雨」や「雪」などといった「水」に関係する文字までひろって読むと、現代詩の広大な地平の底で「水」が通底しているのかも、なんて考えて探ってみたくなる。
 それでは、「火」や「地」、「風」や「空」は、と調べてみたが、圧倒的に「水」が多い。水がいちばん身近だからだろうか。それじゃあ、土(とか地面)、それに空気ということになるが、このことばは少ない。「風」という文字がまったくない詩集はたくさんある。井上瑞貴さんの『星々の冷却』は例外で、「風」が十五。でも、「雨」が三十七もある。あわてて断っておくが、ここでは、賞のための選評が目的ではない。「水」というテーマで私が詩を選ぶのではなく、たまたま必要にせまられて読むことになった詩集に、「水」ということばや水のイメージがどういう風に描かれているのか――そんな好奇心に動かされて十一の詩集をめくっていくと、詩集賞を選ぶという無謀な苦役を忘れ、読書の歓びがもどってきた。
 《錆びた乳母車で眠る犬のすぐそばを通り/聞こえない子守唄が流れる駅まで/たったそれだけの永遠があれば、と/ぼくは告げたかった/湾に出る/沈黙の中を退いていく汐をみつめる/それから何もみつめない》(「そして沈黙の音に触れたかった」)。パウル・クレーを思い浮かべた。井上瑞貴さんは、感受性を全開にし、透明感のある硬質の抒情をつくっている――必要最小限の好きなことばを使って。
 《七階の/わがマンションも裏手の川のむこう岸には/一本の樹が いて》ではじまる「五月の朝に」は、宇佐美孝二さんの『森が棲む男』に収録されている。先に引用した井上さんの詩が、湾を目指す歩行で、眼差しが水平だとしたら、宇佐美さんの詩は階段を降り、眼差しは垂直。おもしろいのは、《下降するほどに/樹は/水におのれを映すようになる》と、《ぼく》の階段を降りる速度や息づかいが、読者の文字を読むスピードや呼吸に重なり、次第に水鏡に映った老人や五、六羽の鳩が見えてくること。
川が樹を抱き留とめ/老人と鳩を収める/もうすこし降りていき/このたおやかな 時のさかさに/ぼくも参加する》。結末を読んで、詩の展開のあざやかさに感動するものの、けっしてあざとさを感じないのは、宇佐美さんのことばが、からだをもっていて、詩の文章が思索と血肉化し、一体となっているから。
 《初めに/水があった。》。詩集『女坂まで』の冒頭、こんなことばではじまる長谷川忍さんの「渇き」は、《睦み合う時も/交わり合う時も/対峙し合う時も/赦し合う時も/憎しみ合う時も/傍らには/流れがあった。》と、「コントラバス」、「湯気」、「暮色」など人生が川と重ねあわされている(そして、「運河」、「由来」の海、「不忍池」の池。)。
 むかしから江戸には水が豊か。長谷川さんの東京下町散歩にも「水」は欠かせない。「運河」で、《今、海は埋め立てられ/橋のたもとに泊まる釣り船が/海辺だった頃の名残を留めている。》というフレーズがあるが、詩集の地層の下にも、「水」が流れている。「暮色」では、《水が眺めたくなり/橋の欄干から/流れを見下ろした。》と隅田川が舞台になっているが、時間の地層も描かれている。《焼夷弾で燃えつくす町の灼熱は/水を火に変えた/火は川面を素早く走る》と、「火」と「水」のアクションもいい。
 長谷川さんの詩のことばには強い身体性がある――雨の匂い、湿気、体温、風、賑わい・静けさ。そして、目的をもたず、「町」を散策する呼吸。読者も、ゆっくりことばを追い、おもわずページのあいだに指をはさんで詩集から目をあげたりする。そんなゆったりした速度とは、まるで違うスピードが佐峰存さんの『対岸へと』。
 《時計の硝子が空を掻き回す/腰掛けた階段の硬直が/背骨の水面を昇っていく/月が溜め込んで飛び跳ねる波に/呼吸を忘れながらも/柔らかな冷たさ/身体は世界のごく一部に/過ぎなくなり 意識は/水面に照らされた空気に/掬い上げられる》(「水の人」)。
 長谷川さんの江戸の抒情さえ匂う「町」の散策と、アメリカの感覚で「街」を疾走する快感の差峰さん。でも、《身体は世界のごく一部に/過ぎなくなり》とはいうものの、不思議と身体性が豊かなのが二人には共通する。たとえば詩集冒頭の「連鎖」では、《丸く折られた背》、《白い腕》、《心臓》、《腹に宿した中間体が体温を奪う》、《冷えた歯》、《》、《細胞》、《》、《裸足》、《飛びかい編まれた髪》、《唇に指をひたす》、《静かな頭》、《》などのからだのパーツが。
 まるでギーガーの絵のように、巨大で無機質の都市が細胞のように息づいて呼吸している。迫力と繊細さが共存している。
黒曜石の川に/病葉がいちまい落ち/煮えたぎるように運ばれていく》(「黒曜石」)。颯木あやこさんの『七番目の鉱石』も硬質なことばが、繊細な指さきで時計の歯車のように正確に組み合わされていく。それでいて緻密で明晰な構造の文章に血が脈打ち、生命が羽ばたく不思議。そこが錬金術の課題(であると私が考えている)「物質に閉じ込められている魂の救済」とよく似ている。――そんな趣旨で、颯木さんの詩集評は「現代詩手帳」3月号で書いたので、ここでは割愛する。
 残念ながら、「水」というテーマのノミネート作品、あと六詩集も残ってしまった。次回につづけて書いてみたい。

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