詩客 ことばことばことば

詩客、相沢正一郎エッセーです。

ことば、ことば、ことば。第44回 視点2 相沢 正一郎 

2016-10-17 21:33:26 | 日記
 シェイクスピアの『リチャ-ド三世』は、『ハムレット』と並ぶ人気の芝居。「極悪非道」の巨大な主人公の悪の魅力は、ハムレット以上に役者が一度は演じてみたいヒーロー。歌舞伎の役柄でいうと色悪。ただ、民谷伊右衛門のような二枚目じゃなくて醜男。
 芝居の冒頭、いきなり《このおれは、生まれながら五体の美しい均衡を奪われ、ペテン師の自然にだまされて寸詰まりのからだにされ、醜くゆがみ、できそこないのまま、未熟児として、生き生きと活動するこの世に送り出されたのだ。このおれが、不格好にびっこを引き引きそばを通るのを見かければ、犬も吠えかかる》と自己紹介。ノートルダムのせむし男、フランケンシュタインの怪物のような強烈な存在。
 それが、さまざまな登場人物に対面するたびにカメレオンのように変化する名優なのだ。たとえばクラレンス公ジョージの目にはリチャードが兄を愛している、と映っていた――弟がさしむけた暗殺者に殺されるまでは。リチャードに義父ヘンリー六世と夫エドワードを殺された未亡人アンにいたっては、彼に《手をくださせた真犯人はあなたの美しさなのだ》とくどかれ、なんと妃になる。
 ほかにも登場人物のほぼ全員がリチャード三世の演じた別々の顔を見ることになる。ヘースティングズ卿にとっては理解してくれる心強い味方。未亡人となった王妃エリザベスにとっては悲運を慰めてくれる義理の弟。リチャード自身が名優、だから役者にとって演じてみたい役なのかもしれません。
 出番こそ少ないものの、とりわけ印象に残っている登場人物が二人。リチャードが唯一たじたじになったのが、幼い王子ヨーク公。せむしという言葉はリチャードにとってはタブー。それなのに子どもは無邪気に叔父にむかって《ぼくが小さくて、猿まわしの猿みたいだから、叔父様の背中に背負ってもらえって言うのです》。
もうひとりは息子のリチャードを「ヒキガエル」と呼ぶ母親、公爵夫人。《この呪われた胎のなかにいるあいだに締め殺しておけば》といい、《ではがまんして私のがまんならぬ怒りをお聞き》と息子を非難すると、すかさずリチャードが《母上、私はあなたの気性を受け継いでいる》と返す。怒りは母から子へと。もしかしたら、リチャードの役は、この母親によって決定づけられてしまったのかも。

 もし、この劇にリチャード三世を登場させず、ほかの登場人物に語らせるとしたら、この強烈な存在が薄れていき透明人間になってしまうかも……そんなふうに考えたのは、最近読んだジェイムズ&エリザベス・ノウルソン『サミュエル・ベケット証言録』。たまたま本屋でみつけ、以前図書館から借りた『ベケット伝』上・下巻の付録かな、と思い、六千円の値段で迷ったけれど思い切って買ってしまった。
 これが面白い。ベケットに敬意や愛情をもつ意見はたくさんあるが、いわゆる偉人伝で終わってはいません。たとえば、ベケットがいやいやながら教師・大学講師の授業をしていた時期のある学生は《とても退屈な講師でしたし、とても退屈な人物でした》と証言しているし、レジスタンスの活動をしていてゲシュタポに追われたときに恋人シュザンヌといっしょに作家ナタリー・サロートの家にかくまわれた。ナタリー・サロートは、《ベケットの語彙には「感謝」という言葉がないようでした》と非難しています。
 サンクウェンティン刑務所に長年収容されていたリック・クルーチーは仲間の受刑者たちと実験的ワークショップでベケット劇を上演。《世界中のどの場所よりも、ここには真のベケット的人物が住んでいる。見捨てられた者たち、狂人、路上の詩人、システム全体に「ミンチにされた肉」たちのすべて》。掃除婦ピーツ夫人の話は好きだった。《彼に尋ねました。『どうしてあんな怖い劇を書くんですの? 人間の気狂いじみたことを?』。『ええ、それが僕の最も邪悪な遊びですね』。でも結局のところ、彼はとても素敵な人でした。私の母がまだ生きていた頃、もう高齢で八十歳前後で体調も良くありませんでした。彼は毎週土曜日に私が母にあげるための、ワインなどのプレゼントを買ってきてくれました》。
 以前、『ベケット伝』を読んだときに驚いたことがありました。作品を通して見たベケットといえば、狂気、老い、身体の障害、不能を描いた作家だが、若いときにはボクシング、水泳、クリケット、ゴルフ、ローラースケートなどに秀でたスポーツマン。廃墟、孤独、生きることへの絶望、コミュニケーションの不可能性などを追求した作品とは異なり、レジスタンス運動に参加したり、アパルトヘイトなど抑圧に苦しむ人たちを支援した、という意外性。
 この本でも、『ゴドーを待ちながら』のゴドーのようにページをめくりながらベケットを探す楽しみを味わいました。

 最近観た映画では、李相日監督『怒り』。吉田修一原作、李相日の映画監督では以前、傑作『悪人』がありました。このときには本を読んでから映画を観たけれど、今回は映画のあとで原作を読んだ。夫婦惨殺事件が起こり、整形をした犯人の人相写真がテレビで放映。犯人と似た身元不詳人がそれぞれ世田谷、外房、沖縄にあらわれる。
 映画を観ながら(本を読みながら)三人のなかから本当の犯人の顔を捜すミステリー。三人をめぐる物語が複数の登場人物の視点によって語られている。《凶行の場となった廊下に血文字が残されていた。被害者の血を使い、男が指で書いたのは「怒」という一文字だった》と、はじめのほうに生々しい「怒」が観客(読者)に刻み付けられる。
 この「怒」という禍々しい文字をもう一度、物語の終わりごろ廃墟の壁に今度は赤いペンキで描かれているのを目撃。ネットで匿名でよく目にする書き込みの悪意を思いだしました。そんな現代性も潜んでいる作品。三つの話に複数の視点があるのに、なぜかバラバラな感じがしないのは、水面下の深いところに一つの「怒り」が流れているからかもしれません。

ことば、ことば、ことば。第43回 視点 相沢 正一郎

2016-09-18 10:40:13 | 日記
 たとえば、福田恒存監修『シェイクスピアハンドブック』のなかの中村保男氏の書いた『ハムレット』のあらすじを読むと、オフィーリアの父親ポローニアスが《だいぶおつむの足りないお節介やきの廷臣》のひとことで片づけられています。息子のレアティーズをフランス遊学に船出するとき、第一幕第三場でポローニアは《金は借りてもいかんが貸してもいかん。貸せば金はもとより友人まで失うことになり、借りれば倹約する心がにぶるというものだ》などと、「お節介」というよりも愛情をもって忠告しています。また「おつむの足りない」というよりは、人生の知恵者ともいえます。第二幕第一場でも、召使レナルドーにパリでの倅の行状を探らせたりもする。この芝居には、ハムレットの父の亡霊と義父でデンマークの国王クローディアス、そしてオフィーリアの父ポローニアス、と三人の父親が登場しますが、いちばん身近な体温を感じる人物がこのポローニアス。
 翻訳・研究者の松岡和子氏は、『ハムレット』を訳していてオフィーリアの台詞《品位を尊ぶ者にとっては、どんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます》に違和感をもった。はたしてオフィーリアが自分を高慢にも「品位を尊ぶ者」と言うだろうか。まして王子様にむかって……。
 ある日、オフィーリア役の俳優松たか子、ハムレット役の真田広之と話をする機会があったとき、疑問をぶつけてみると、《松さんが言った、「私、それ、親に言わされてると思ってやってます」。すると、間髪を容れず真田さんが言った、「僕はそれ聞いて、裏に親父がいるなって感じるんで、ふっと気持ちが冷めて『お前は貞淑か?』って出てくるんです」》。さて、ハムレットのこの《お前は貞淑か?》は第三幕第一場での台詞で、偶然と見せかけてオフィーリアと出会ったハムレットが、タピストリーの裏に隠れたポローニアスとクローディアスに気づいていたかどうか、気づくとすればいつかなのかがこの演劇ではいつでも問題になる、という。しかし、「品位を尊ぶ者」というオフィーリアの台詞に、父親の存在が埋め込まれていて、オフィーリアのことばがすべて父の意見だとしたら。《あーーーー、そうだったのか》と松岡氏は言う。
 『シェイクスピア「もの」語り』より引用しましたが、よほど印象に残った出来事だったんでしょう、河合隼雄氏との対談集『快読シェイクスピア』でも触れていて、研究者なら当然自分の手柄にしてしまいがちな指摘なのに、俳優の意見(第三者の視点)に耳を傾け、自分のうかつさについて反省するという姿勢に感動。いい俳優はほかの役者の台詞にも耳をすましてから自分の台詞をいう、という話を思い出しました。
 このようにシェイクスピアの登場人物にはどんな脇役にも血が通っていて、作者が都合よく操る人形なんかじゃない。みんな生きている。トム・ストッパードは『ハムレット』のなかの脇役ともいえない端役二人を主人公にした不条理劇『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』を書いています。いや、『ハムレット』に限りません。すべての作品についていえます。
 《この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ》とは『お気に召すまま』の第二幕第七場の台詞ですが、わたしたち役者の舞台が一つの世界だとしても、現実には主役、脇役の区別はまったくありません。
 と、ここまで書いてきて不意に思い出したのが、長野まゆみ氏のエッセイ集『あのころのデパート』。たまたま朝の連続テレビ番組『とと姉ちゃん』を観ていますが、番組に登場する『あなたの暮らし』は、家庭向けの雑誌『暮しの手帖』をモデルにしていて、このエッセイにもこのドラマの背景が出てきてたいへん興味を持ちました。《商品テストで名をはせた『暮しの手帖』は、うそ偽りのない実質主義の雑誌ではあっても、ぜいたくと無縁なわけではなかった》とか、《花森氏は女の人を、かわいげのある女とかわいげのない女に分類するにちがいない。どの文脈でも、女を男の下位に配置するその関係性はゆるがない。そのうえで正義をかかげる》とか、テレビドラマを楽しみにしている視聴者(わたしもそのひとり)に水を注す文章もありますが、やはり現実は長野まゆみ氏の意見に近い、と思う。たぶん主人公の一つだけの視点からわたしたちもテレビを観ているから、ほかの視点があることに気がつかない――いや、気がつきたくないのかもしれません。
 シェイクスピアには『夏の夜の夢』、『テンペスト』などのすばらしいファンタジーがありますが、もしかしたら作品の全部がファンタジーなのでは、とも思っていますが、ファンタジーは現実からの逃避なんかじゃなくて、現実を凝視した果てに、正確・緻密に組み立てられた作品としてあるんだな、と長野氏の作品を読むたびに思います。
 反対に、ページをめくるのももどかしいほど面白かった池井戸潤の『陸王』には、敵役には家庭のにおいさえ感じさせませんが、主人公・宮沢紘一や息子・大地との葛藤が詳しく語られています(『下町ロケット』『下町ロケット2』では主人公と離婚した妻や娘との微妙な愛情などが丁寧に描かれている)。これはエンターテイメントとして当然のテクニックなのかもしれません。わたしも、すこし前のリオデジャネイロのオリンピックで、「日本の選手の家族や交友関係のあたたかなエピソード、いかに努力しているかといった情報などをテレビから詳細に与えられるけど、とうぜん外国の選手にだっていろいろな人生や苦労があるだろうに。これじゃあ、戦争と同じじゃないか」――なんて言って、まわりを白けさせたりしました。でもまあ、そうやって物事を多角的に見ると、スポーツの勝負の楽しさが半減することは確か。
 そうそう、最近観た映画、庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』が、たくさんの政治家や自衛隊などの登場人物がみなそれぞれの視点で、ものすごい早口でしゃべっていて、主人公の人生や家庭などはすべてカット、という実験的な演出なのに娯楽性が豊か。ゴジラが都市を破壊するというシンプルなカタルシスなのに複雑で多様な情報、リアルと虚構の合体、という離れ業。メールが日常となった空気の時代だからこその作品なのかもしれませんね。

ことば、ことば、ことば。第42回 劇場 相沢 正一郎

2016-08-15 23:53:12 | 日記
 今回もシェイクスピアを採りあげ、劇場の重要性についてもっと詳しく書いてみましょう。一五九九年テムズ川の南、古い木材で建てられた芝居小屋グローブ(地球)座には〈人は皆、役者〉という銘が掲げられていました。棺桶をおもわせる箱でなく、このOの字の母胎に包まれてお客は時空を超えて夢を見ました――『ハムレット』、『リア王』、そして『テンペスト』なども。
 木の小屋の外には、ライバル劇団、ペストや清教徒や火災など、ひとときの幻を脅かす敵がたくさん。実際、一五九三年にロンドンでペストが猛威を振るい劇場の閉鎖を命じられます。この時期、シェイクスピアは『ヴィーナスとアドニス』『ルークリースの凌辱』などの詩集を作成、その技術を演劇に持ち込みます。
 シェイクスピアの生きた時代――エリザベス女王、ジェイムズ一世ともに演劇を庇護し、シェイクスピアは座付作者として国王一座として活躍できた。先に述べた「グローブ座」(「地球座」)の名前のとおり国、時間を超えて「悲劇」、「喜劇」、「歴史劇」、「問題劇」、「ロマンス劇」と演じられてきました。
 ここで注意しなくてはなりませんが、前回にも述べましたようにシェイクスピアの時代、現在わたしたちが観賞する劇とはずいぶん違うということ。まず劇場の構造――わたしたちの観る舞台は幕のある額縁。しかしルネサンス時代の演劇は三方を客席に囲まれた張出舞台。舞台と客席は今のようにきっちりと区切られていませんでした(こうした点から演劇は、映画より本に近いような気もします)。
 また、たとえば蜷川幸雄の舞台に見られるような大掛かりな装置や美術の大スペクタルではなくて、裸舞台が普通。ですので、近代演劇の装置や照明による視覚的なアクションを目指す、というよりも、人物、時、場所はすべて台詞に頼る。それでことばは饒舌なほどの豊饒さ、作詞で磨かれたことばの音楽性が生まれたのですね。
 こうした時代(時間)と舞台(空間)が作者を作っていったわけですが、もうひとつ観客(読者)の重要性についても考えてみましょう。詩作とは違って、シェイクスピアが座付き作者として活躍していた劇団には幅広い層の観客がいました――職人、貴族、法律家など……これはそのままシェイクスピアの重層な台詞を喋る芝居の登場人物に重なります。
 また、ソフィスケイトされた観賞眼をもつ宮廷のひとびとをも含んだ多様な観客、それからリチャード・バーベッジからオリヴィエ、ギールグッドなどの名優、ピーター・ブルック、オーソン・ウェルズから黒澤明などの演出などもシェイクスピア劇を作者といっしょに創造していったことは忘れてはいけません。
 少し前の時代、シェイクスピアは実在しない――という説が学会を賑わせました。マーロウ、グリーンなど「大学才人」といわれる劇作家が活躍した一五八〇年から九〇年代、古典劇の教養をたっぷり吸収したうえで民衆演劇の伝統を融合させた知的な世界を俳優上がりの作家が創造できるわけがない――ということで、たとえば「フランシス・ベーコン作者説」なども生まれました。
 以前、たしか河合祥一郎さんの文章でしたが、たいへん説得力のある話がありました――大航海時代のイギリスでは世界中の生きた情報が「酒場」を通して、いろいろな階層のひとびとの話としてシェイクスピアに伝わってきたというのです。まさにシェイクスピアの劇そのもの。シェイクスピアの登場人物はたとえどんな脇役であっても、その人物が自分の語り口で自分の考えを話します。作中人物たちはけっして作者が自分の思想を伝達するための操り人形ではありません。まして君主のような作者が、観客を啓蒙しようとはしていません。(この点、のちの一九世紀末ロシアの劇作家(短編作家)チェーホフが「人生の教師」という作家像を避け、演劇に問題を提示するものの解答を与えない姿勢にも共通します)。
 《この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、それぞれ舞台に登場してはまた退場していく》とは『お気に召すまま』第二幕第七場でジェークイズが語る台詞ですが、「グローブ座」(「地球座」)は世界でもありますが、初めに述べたようにOの字の劇場はものがたりを生む「母胎」、そして「眼球」であると同時にもっと「脳」に似ているもの。
 少し抽象的な話になりますが、幕開きの時間(いつ)、場面の空間(どこで)は、シェイクスピアの芝居では近代のリアリズム劇とはずいぶん違っていました。たとえば『ロミオとジュリエット』のバルコニーのシーンのように真夜中に恋人たちが愛を語らう内にあっという間に夜が明ける、といった具合で、時間も伸び縮みしています。
 カメラのように眼で空間を切り取り断片化する、また時間を断片化する――といったリアリズムというより、その空間を再構成し、のっぺりした時間をリズムのあるものに変える。アルバムに貼った視覚ではなく、もっと共通感覚のあるものがたり――つまりは記憶の創造とでもいうんでしょうか。
 それが二〇世紀になると、『ハムレット』の名台詞《なにを言う、このおれはたとえクルミの殻に閉じこめられようと、無限の宇宙を支配する王者と思いこめる男だ、悪い夢さえ見なければ》を思い出させるベケットの演劇が現れる。ベケットの場合の《クルミ殻》は「頭蓋」。『勝負の終わり』の終末戦争後の世界のような灰色の舞台は頭蓋――高いところに二つの窓(眼)のあるおおきな部屋。部屋はそのまま劇場へ、そして観客の頭――光線(視線)と精神の部屋へと重なります。
 なお、グローブ座は一六一三年六月二九日、『ヘンリー六世』が上演されているとき、音響効果のための空砲が萱葺き屋根に飛び火。木造の建物全体へとたちまち火がひろがり一時間ばかりですっかり焼け落ちてしまいました。

ことば、ことば、ことば。第40回 名前 相沢 正一郎

2016-07-19 12:21:02 | 日記
 学生の名簿のページをめくりながら、あれこれ考えた――女性は、名前の最後に「子」の付く名前が少なくなってきた。男性は、視覚に訴える文字から聴覚的な響きに傾いてきた気がする。昔と比べて名字が変わってきた、いまは若い人々にふさわしいけれど、年を取ってから一体どうなるんだろう。(だけど、同時に時代も年を取るから、不自然に思われなくなるのかもしれない)。
 知っている人なり、有名人なりの名前と同じ人物に会うと、やはりふたりを比べてしまう。私と同じ姓の人を目の前にしたらドギマギしてしまう。まして同姓同名だったら。そして、同じ名前の人がもし名高い人物か、反対に大悪人だとしたら。その悪人だって、生まれたときには両親は大喜びし、親か名付け親かがある願いをもって名前をつけたんだろうに。
 名前といえば、まっ先に思い出すのが宮沢賢治の童話『よだかの星』。よだかが鷹に「たか」という名を返上して、これからは「市蔵」と改名しろと責められる(もっとも、理屈からいうと「市蔵」は名で、「よだか」は姓に当たるわけだが。姓と名は、たとえば「不易流行」の永遠性と新風にも重なり、不動と流動が両方あるような気がする)。そういえば、以前「悪魔」という命名に対しての裁判があったな(家裁が命名権の濫用と判断)。「市蔵」は、この作品が書かれた当時からみて、どんなニュアンスがあったのか。(私の「相沢」という名前(厳密にいえば姓)には「沢」という字が含まれているが、宮沢賢治の「沢」と同じで、何かうれしくなったことがある。賢治の研究者でもある入沢康夫、天沢退二郎の敬愛する両詩人ともに「沢」があるので、これもうれしい)。
 名前といえば、賢治の詩や童話には鳥の名前のほか、動物、植物、鉱物、星座、山、川の名前など実にたくさん。また、童話や詩に登場するひとや動植物の命名がいい。チュンセ童子とポウセ童子、北守将軍ソンバーユー、グスコーブドリ、ペンネンネンネンネン・ネネムなど。名前と同時に心に刻み付けられたフレーズ《クラムボンはかぷかぷわらつたよ》とか題名『タネリはたしかにいちにち嚙んでゐたやうだった』、『セロ弾きのゴーシュ』、『カイロ団長』……。
 詩の中の名前といえば、なんといっても「永訣の朝」の「とし子」。賢治の作品に刻まれた名前は星のようにいつまでも光っている。たとえば大牧場んの名前をもつ連作「小岩井牧場」にたった一フレーズに登場する盛岡高等農林時代の恩師「化学の古川さん」だって、同じ詩の中の名前――天人「緊那羅」や賢治が命名した幻想の少年「ユリア」「ペムペル」などの名前といっしょに現在も光っている。
 作者の知り合いのひとの名前は、小説やエッセーには登場するものの、ふつう詩には出てこない。よく深層心理学で①意識の下に②無意識、その下に神話などによる③集団的無意識、そのまた下に④普遍的無意識と、地層のように心理を図に描いたりするが、先ほどの「古川さん」などのような固有名詞は上の層で、あまり詩人はつかわない。三好達治の有名な詩《太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。》(「雪」)の太郎、次郎は昔話の名前で③の層。ほかに三好達治の詩で、「北の国では」で「ロシナンテ」や「ハムレット」が出てくるが、ふたつ(一匹と一名)の名前はもちろん③より下の層。
 谷川俊太郎の「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」は真夜中の台所で、武満徹や小田実、飯島耕一、チャーリー・ブラウン(!)などに話しかける形。詩人がよく知っている有名な人物は詩にした途端、固有名詞より深い層に沈んでしまう。もしかすると賢治には「詩」という意識はなく、夜空の大小の星のように有名無名さまざまな分野の名前がちりばめられているのはジャンルを超えたいろんな層をふくむ豊かさを作品に取り込んでいたのかも。
 名前をめぐって取り止めもない考えに浸っていて、こんど名前について何か書いてみようか、とおもっていたら偶然、高橋都彦先生から『世界の名前』(岩波新書)を贈っていただいた。先生は大学を定年退職したあと現在は名誉教授、非常勤講師として働いている大学で大変お世話になった。(ポルトガルの詩人ペソア『不安の書』の翻訳者でもある)。
 『世界の名前』の中から、幾つか。たとえば、アフリカのウガンダ――「人々は彼を殺した」という名前。家族の一員が殺された恨みを、生まれてきた子の名前に刻んでいる。どういう子に育つのか心配になるが、「名は体をあらわす」という考えはアフリカの人たちはなく、父母のメッセージとその子とは別らしい。中国では、「狗不理」(「犬も食わない」)という名前がある。これは幼くして死んだ子を北京の郊外に投げ捨て、野犬に食われる災いから逃れられるように、という親の願い、ということ。トルコでは、国民に姓をもつことが一九三四年に義務付けられ、クッル(毛むくじゃら)、サラクオール(うすのろの息子)、オルドゥルジュ(殺し屋)、ギョベキ(へそ)、メメ(おっぱい)などという通り名もあったらしい。
 興味のつきない話が満載。さて、「名は体をあらわす」というけれど、逆にその人物が名前に身体をあたえることだってある。現に宮沢賢治も作品で名前に強いイメージを与えた。

ことば、ことば、ことば。第41回 下敷き 相沢 正一郎

2016-06-18 13:23:05 | 日記
 これまで、フランケンシュタインの怪物、シャーロック・ホームズ、ロビンソン・クルーソー、『枕草子』、中原中也などたくさん、よく知られた作者の有名な作品を下敷きに詩を書いてきました。文学作品のほかにも、エリック・サティやゴッホ、ゴヤなども。なかでも最もおおく取り上げたのがシェイクスピア。詩集『パルナッソスへの旅』には、五篇・五作の登場人物も。
 「なぜ、そんなに下敷きにこだわるのか。無から有のオリジナルな作品こそが創作なのでは」という意見が当然あって、批判もされます。そういえば、シェイクスピアも全作品(いままで三七作と思っていましたが、最近では河合祥一郎氏によると四〇作というのが一般的だという)のうち特定できる種本のない戯曲は『夏の夜の夢』など三作品だけ。
 以前、やはりギリシャ悲劇を下敷きにしたことがありました。ギリシャ悲劇の場合、劇作家たちは、みなギリシャ神話を材料にして腕を振るい料理する。観客は、野外劇場でのひとりひとりの深層にある世界をも共有する。
 そうそう、テレビで観たのですが、アテネ公演の蜷川幸雄演出『オイディプス王』は古代劇場で演じられ、観客は全員ギリシャ人。台詞は、なんと日本語。もっとも観客は、すでにこの物語がからだに沁み込んでいるから、日本語がわからなくても感動できる。二〇世紀、フロイトが提示した心理学の概念「オイディプスコンプレックス」はあまりにも有名。二〇〇〇年以上も前の演劇が、いまも色褪せないのは、観客の深い層にもこの劇が生き続けているからでしょう。
 大雑把に、観客を「読者」としてみましょう。劇作家(作者)のいちばん最初の観客(読者)は、作家自身。作者(書く)と読者(読む)は銅貨の裏表――創造・想像の共同作業で作品を創っていく。《けれど皆様、お許しを、鈍くて平凡な私どもが、とるに足らないこの舞台で、かくも見事な光景を、あえてお目にかけますことを。この平土間の小舞台が、広いフランスの戦場を、うまく収め切れますか?(……)腰の曲がった俳優は百万の軍勢に較べれば、ゼロに等しい身なれども、皆様の想像の力をもって、どうぞお許し願います》とは、シェイクスピアの『ヘンリー五世』のプロローグ。(観客のいない舞台は、芝居とはいえないでしょう)。
 いまから四百年以上も前にもグローブ(地球)座で、シェイクスピアの時間・空間を超えた物語が演じられてきた。いま私たちは日本語に訳された本をひらく。でも、《想像の力》をもたない読者にとっては目の前にあるのは《ことば、ことば、ことば》(『ハムレット』)にすぎません。
 シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、イタリアの民話をバンデッロがまとめた物語が仏訳、それをアーサー・ブルックが英詩で綴った『ロミウスとジュリエットの悲劇の物語』が種本。九カ月の出来事をたった六日にまとめあげた。『ロミオとジュリエット』の確かな土台の上に『ウエストサイド物語』などの新しい作品が生まれてくる。
 シェイクスピアが創作の絶頂期の六年間のあいだに四大悲劇(『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、『マクベス』)のほかにも六作の傑作戯曲を次々に書きあげることができたのも、種本の構造と観客の深層の根源的な土台をもとに、徹底してディテールに専念でき、新しい作品に命を吹き込めたから。
 『ドン・キホーテ』にしろ『白鯨』にしろ『源氏物語』にしろ人びとの深層の原型に届いているから時間を超えて生き延びてこられた。人類に共通な強固なこの土台に作品を建てたほうがずっと効果的。(auの大人気のCMに三太郎――桃太郎、浦島太郎、金太郎がありましたね)。
 オリジナルが、なぜいいんでしょう。たったひとりの天才が独自の世界をつくったから……。でも、この天才だって時代とか環境などによって作られる。平安時代、作者と読者の関係は現代とはだいぶ違っていて、『源氏物語』は宮廷で読者が紫式部の原稿を書き写していく段階で、書き加えたり削ったりして推敲を加えていった、という説を読んだことがあります。シェイクスピアの作品だって、才能のある役者によって舞台で演じられていく過程でずいぶん変わっていった、と思います。そもそも劇場(本)がなければ、シェイクスピアはいなかった。
 さて、現代詩のなかで「読者」がだいぶ忘れられているような気がします(ここでいう「読者」とは、遠い未来の「読者」も含まれます)。いや、その前にそもそも完全なオリジナルな作品なんて、あるものなのでしょうか。ダーダーと喋る赤ん坊はまず母親から乳を飲むように、それからまわりの身近な人びとからことばを吸収していくのでは……。