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詩客、相沢正一郎エッセーです。

ことば、ことば、ことば。第41回 下敷き 相沢 正一郎

2016-06-18 13:23:05 | 日記
 これまで、フランケンシュタインの怪物、シャーロック・ホームズ、ロビンソン・クルーソー、『枕草子』、中原中也などたくさん、よく知られた作者の有名な作品を下敷きに詩を書いてきました。文学作品のほかにも、エリック・サティやゴッホ、ゴヤなども。なかでも最もおおく取り上げたのがシェイクスピア。詩集『パルナッソスへの旅』には、五篇・五作の登場人物も。
 「なぜ、そんなに下敷きにこだわるのか。無から有のオリジナルな作品こそが創作なのでは」という意見が当然あって、批判もされます。そういえば、シェイクスピアも全作品(いままで三七作と思っていましたが、最近では河合祥一郎氏によると四〇作というのが一般的だという)のうち特定できる種本のない戯曲は『夏の夜の夢』など三作品だけ。
 以前、やはりギリシャ悲劇を下敷きにしたことがありました。ギリシャ悲劇の場合、劇作家たちは、みなギリシャ神話を材料にして腕を振るい料理する。観客は、野外劇場でのひとりひとりの深層にある世界をも共有する。
 そうそう、テレビで観たのですが、アテネ公演の蜷川幸雄演出『オイディプス王』は古代劇場で演じられ、観客は全員ギリシャ人。台詞は、なんと日本語。もっとも観客は、すでにこの物語がからだに沁み込んでいるから、日本語がわからなくても感動できる。二〇世紀、フロイトが提示した心理学の概念「オイディプスコンプレックス」はあまりにも有名。二〇〇〇年以上も前の演劇が、いまも色褪せないのは、観客の深い層にもこの劇が生き続けているからでしょう。
 大雑把に、観客を「読者」としてみましょう。劇作家(作者)のいちばん最初の観客(読者)は、作家自身。作者(書く)と読者(読む)は銅貨の裏表――創造・想像の共同作業で作品を創っていく。《けれど皆様、お許しを、鈍くて平凡な私どもが、とるに足らないこの舞台で、かくも見事な光景を、あえてお目にかけますことを。この平土間の小舞台が、広いフランスの戦場を、うまく収め切れますか?(……)腰の曲がった俳優は百万の軍勢に較べれば、ゼロに等しい身なれども、皆様の想像の力をもって、どうぞお許し願います》とは、シェイクスピアの『ヘンリー五世』のプロローグ。(観客のいない舞台は、芝居とはいえないでしょう)。
 いまから四百年以上も前にもグローブ(地球)座で、シェイクスピアの時間・空間を超えた物語が演じられてきた。いま私たちは日本語に訳された本をひらく。でも、《想像の力》をもたない読者にとっては目の前にあるのは《ことば、ことば、ことば》(『ハムレット』)にすぎません。
 シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、イタリアの民話をバンデッロがまとめた物語が仏訳、それをアーサー・ブルックが英詩で綴った『ロミウスとジュリエットの悲劇の物語』が種本。九カ月の出来事をたった六日にまとめあげた。『ロミオとジュリエット』の確かな土台の上に『ウエストサイド物語』などの新しい作品が生まれてくる。
 シェイクスピアが創作の絶頂期の六年間のあいだに四大悲劇(『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、『マクベス』)のほかにも六作の傑作戯曲を次々に書きあげることができたのも、種本の構造と観客の深層の根源的な土台をもとに、徹底してディテールに専念でき、新しい作品に命を吹き込めたから。
 『ドン・キホーテ』にしろ『白鯨』にしろ『源氏物語』にしろ人びとの深層の原型に届いているから時間を超えて生き延びてこられた。人類に共通な強固なこの土台に作品を建てたほうがずっと効果的。(auの大人気のCMに三太郎――桃太郎、浦島太郎、金太郎がありましたね)。
 オリジナルが、なぜいいんでしょう。たったひとりの天才が独自の世界をつくったから……。でも、この天才だって時代とか環境などによって作られる。平安時代、作者と読者の関係は現代とはだいぶ違っていて、『源氏物語』は宮廷で読者が紫式部の原稿を書き写していく段階で、書き加えたり削ったりして推敲を加えていった、という説を読んだことがあります。シェイクスピアの作品だって、才能のある役者によって舞台で演じられていく過程でずいぶん変わっていった、と思います。そもそも劇場(本)がなければ、シェイクスピアはいなかった。
 さて、現代詩のなかで「読者」がだいぶ忘れられているような気がします(ここでいう「読者」とは、遠い未来の「読者」も含まれます)。いや、その前にそもそも完全なオリジナルな作品なんて、あるものなのでしょうか。ダーダーと喋る赤ん坊はまず母親から乳を飲むように、それからまわりの身近な人びとからことばを吸収していくのでは……。

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