詩客 ことばことばことば

詩客、相沢正一郎エッセーです。

ことば、ことば、ことば。第40回 名前 相沢 正一郎

2016-07-19 12:21:02 | 日記
 学生の名簿のページをめくりながら、あれこれ考えた――女性は、名前の最後に「子」の付く名前が少なくなってきた。男性は、視覚に訴える文字から聴覚的な響きに傾いてきた気がする。昔と比べて名字が変わってきた、いまは若い人々にふさわしいけれど、年を取ってから一体どうなるんだろう。(だけど、同時に時代も年を取るから、不自然に思われなくなるのかもしれない)。
 知っている人なり、有名人なりの名前と同じ人物に会うと、やはりふたりを比べてしまう。私と同じ姓の人を目の前にしたらドギマギしてしまう。まして同姓同名だったら。そして、同じ名前の人がもし名高い人物か、反対に大悪人だとしたら。その悪人だって、生まれたときには両親は大喜びし、親か名付け親かがある願いをもって名前をつけたんだろうに。
 名前といえば、まっ先に思い出すのが宮沢賢治の童話『よだかの星』。よだかが鷹に「たか」という名を返上して、これからは「市蔵」と改名しろと責められる(もっとも、理屈からいうと「市蔵」は名で、「よだか」は姓に当たるわけだが。姓と名は、たとえば「不易流行」の永遠性と新風にも重なり、不動と流動が両方あるような気がする)。そういえば、以前「悪魔」という命名に対しての裁判があったな(家裁が命名権の濫用と判断)。「市蔵」は、この作品が書かれた当時からみて、どんなニュアンスがあったのか。(私の「相沢」という名前(厳密にいえば姓)には「沢」という字が含まれているが、宮沢賢治の「沢」と同じで、何かうれしくなったことがある。賢治の研究者でもある入沢康夫、天沢退二郎の敬愛する両詩人ともに「沢」があるので、これもうれしい)。
 名前といえば、賢治の詩や童話には鳥の名前のほか、動物、植物、鉱物、星座、山、川の名前など実にたくさん。また、童話や詩に登場するひとや動植物の命名がいい。チュンセ童子とポウセ童子、北守将軍ソンバーユー、グスコーブドリ、ペンネンネンネンネン・ネネムなど。名前と同時に心に刻み付けられたフレーズ《クラムボンはかぷかぷわらつたよ》とか題名『タネリはたしかにいちにち嚙んでゐたやうだった』、『セロ弾きのゴーシュ』、『カイロ団長』……。
 詩の中の名前といえば、なんといっても「永訣の朝」の「とし子」。賢治の作品に刻まれた名前は星のようにいつまでも光っている。たとえば大牧場んの名前をもつ連作「小岩井牧場」にたった一フレーズに登場する盛岡高等農林時代の恩師「化学の古川さん」だって、同じ詩の中の名前――天人「緊那羅」や賢治が命名した幻想の少年「ユリア」「ペムペル」などの名前といっしょに現在も光っている。
 作者の知り合いのひとの名前は、小説やエッセーには登場するものの、ふつう詩には出てこない。よく深層心理学で①意識の下に②無意識、その下に神話などによる③集団的無意識、そのまた下に④普遍的無意識と、地層のように心理を図に描いたりするが、先ほどの「古川さん」などのような固有名詞は上の層で、あまり詩人はつかわない。三好達治の有名な詩《太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。》(「雪」)の太郎、次郎は昔話の名前で③の層。ほかに三好達治の詩で、「北の国では」で「ロシナンテ」や「ハムレット」が出てくるが、ふたつ(一匹と一名)の名前はもちろん③より下の層。
 谷川俊太郎の「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」は真夜中の台所で、武満徹や小田実、飯島耕一、チャーリー・ブラウン(!)などに話しかける形。詩人がよく知っている有名な人物は詩にした途端、固有名詞より深い層に沈んでしまう。もしかすると賢治には「詩」という意識はなく、夜空の大小の星のように有名無名さまざまな分野の名前がちりばめられているのはジャンルを超えたいろんな層をふくむ豊かさを作品に取り込んでいたのかも。
 名前をめぐって取り止めもない考えに浸っていて、こんど名前について何か書いてみようか、とおもっていたら偶然、高橋都彦先生から『世界の名前』(岩波新書)を贈っていただいた。先生は大学を定年退職したあと現在は名誉教授、非常勤講師として働いている大学で大変お世話になった。(ポルトガルの詩人ペソア『不安の書』の翻訳者でもある)。
 『世界の名前』の中から、幾つか。たとえば、アフリカのウガンダ――「人々は彼を殺した」という名前。家族の一員が殺された恨みを、生まれてきた子の名前に刻んでいる。どういう子に育つのか心配になるが、「名は体をあらわす」という考えはアフリカの人たちはなく、父母のメッセージとその子とは別らしい。中国では、「狗不理」(「犬も食わない」)という名前がある。これは幼くして死んだ子を北京の郊外に投げ捨て、野犬に食われる災いから逃れられるように、という親の願い、ということ。トルコでは、国民に姓をもつことが一九三四年に義務付けられ、クッル(毛むくじゃら)、サラクオール(うすのろの息子)、オルドゥルジュ(殺し屋)、ギョベキ(へそ)、メメ(おっぱい)などという通り名もあったらしい。
 興味のつきない話が満載。さて、「名は体をあらわす」というけれど、逆にその人物が名前に身体をあたえることだってある。現に宮沢賢治も作品で名前に強いイメージを与えた。

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