こんにちは 岡本しょういです

京都の南部、和束町で日本共産党の町会議員をしています。町や議会などの情報をお知らせしています。

オープンスクール

2012-10-29 23:57:47 | 希望を育む教育を

一昨日のことになりますが、土曜日は、「オープンスクール」の日でした。

1年に1回の、いわゆる学校開放の日で、子どもの保護者関係だけでなく、地域の人でも参観できる日です。

でも実際は、参観日の延長みたいな感じなので、保護者の関係以外で来られている人がどれだけいるかな。

どれだけの範囲に案内されているかもわからないし、誰でも参観できるのであれば、もう少し周知すべきなのかもしれませんね。

それはさておき、とりあえず1時間目の「詩の暗唱大会」を見に行きました。

以前は、オープンスクールの日ではなかったので、あまり見に来る人も多くなかったのですが、今回はけっこう来ておられましたね。

じゅんの学年の5年生は、「平家物語」の一節で、おなじみ「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり・・」にはじまる部分でした。

元気よく暗唱できていたし良かったとは思いましたが、何となく「呼びかけ」風で、そんなに元気よく暗唱することがふさわしいのか、私的にはちょっとなあって思いました。

詩というのはじっくり味わうというか、詩の持つ意味を考えながら、口にするのが本来だと思うので、あまり暗唱にはふさわしくないなとは正直思います。せっかくそれなりに良い詩に出会っているのに、憶えるのに必死で、中身をよく味わわないまま終わってしまう感じがして、ちょっともったいないなと。

でも6年生の「柿山伏」という狂言は、なかなか良かったですね。

↓ 6年生の発表の様子

言葉の語りにあわせて演技する様子は、なかなか面白く、中身が伝わる感じがしました。

語りも、暗唱といった雰囲気がなく、かえってよかったですね。さすが6年生だなと。

多くの方が見守る中で、どの学年もよく頑張ってました。パチパチ。

2時間目のはじめまでいたのですが、この日は、10時から「おもちゃ図書館」のボランティアなので、お昼まで保育園に。

オープンスクールの影響もあって、来られる方は少なかったですが、来館した子どもらと楽しく遊びました。

午後から再度学校に行き、5時間目の家庭科の授業を参観しました。

エプロンを電動ミシンで縫うというものでしたが、縫う前の断ち切りばさみでの裁断にすごく時間がかかってましたね。

はさみの扱いがなかなか難しいみたいで、先生は5分くらいでと思っておられたみたいですが、とてもとても。

ミシンまで進めたのはほとんどいなかったですね。

私は以前、共同作業所で指導員をしていたころ、縫製を担当していた時があり、足踏みの電動ミシンの扱い方をとりあえず憶えて、一時期はいろいろと製品づくりをしていたことがあったので、何となく懐かしい感じもしましたね。ほとんど忘れてしまったのですが・・・。

オープンスクールは、学校のことを知る上でも、子どもたちの様子をじっくり見る上でも良い機会になるものですし、今後もそういう機会として発展させてほしいと思います。

ただ、内容的には、もう少し普段の授業というものをありのまま見れたらと思いましたね。5時間中、3時間はいわゆる行事でしたが、もうちょっと授業というのをじっくり見たい気もします。

オープンスクールは大事な機会ではあるけれど、もっと日常的に学校にも来れて、様子を知る機会があれば良いなとも思います。

いずれにしても、子どもたちには、本当にご苦労様でした。


犬打峠のトンネル化

2012-10-24 00:02:51 | 議会報告&議員活動

笠置町の議員選挙が21日に終わり、6期務めた福本さんから、31歳の向出健さんへのバトンタッチができホッとしました。

向出さんは、7月に宇治から移住したばかり。バタバタしているうちに選挙になり、ようやく落ち着いたところだと思います。

私も27歳の時に京田辺市から和束に移住して立候補しましたが、これからがまさに本番です。

大きな人生の選択をし、新しい地で1歩踏み出した彼を、同じような経験を持ち、同じ相楽東部の共産党議員として、少しでも支えられたらいいですね。

 

さて、いま和束町行政、そして議会では、「トンネル化」が大きな議論の的になっています。

府道宇治木屋線の別所区から宇治田原町に抜けるトンネルの建設の事ですが、その件で、先日は常任委員会も開かれました。

トンネル化については、ずいぶん以前から話はあったわけですが、ずっと「凍結」状態でした。

というか、今も凍結には違いないし、氷が溶けるメドも何もありません。

それで何故そんなに話になっているかと言うと、

この間、政府は「コンクリートから人へ」との方針を投げ捨てて、この間凍結や中止をしてきた大型事業を復活・再開させる動きを強めてます。その流れの中で、この間凍結していた新名神高速道路の建設も凍結解除され、宇治田原にインターチェンジが整備される見込みになったそうです。それをうけて、新名神とをつなぐアクセス道路として宇治木屋線のトンネル化を強く求めようというわけです。

先日の常任委員会では、実現に向けて何が必要か、特に住民をあげての運動を起こし、いわゆる行政主導でなく、住民レベルの草の根的な盛り上げをどう作るかが話し合われました。

トンネル化については、私も基本的には賛成しています。

特に防災面で地域の孤立を防ぐ意味では、重要な意味があると思います。

また、宇治方面へのアクセスが改善されれば、雇用環境や機会の拡大もあるのではとも。

ただ、この間、町長にも言っているのですが、トンネル化を新名神と「一蓮托生」にしてはダメと思います。

そもそも新名神自身は大変な無駄遣いであり、本当に必要な道路かは大きな疑問も問題もあります。

それに、宇治田原にインターチェンジと言っても、完成予定は平成35,6年頃でまだまだ先の話ですし、それまでに政治の上で何が起こるかわかりませんし、また凍結になるかも知れません。

トンネル化は、新名神の如何にかかわらず、和束町として必要な事だという姿勢が大事だし、新名神に左右されるものではないとの立場が大事だと思います。

いずれにしても、なぜトンネル化が必要なのか、実現すればどのような効果が考えられるのかなどを、もっと具体的に示す必要があると町には言っています。

そうでないと、なかなか住民的な理解や運動の広がりは作れないのではと思います。

町は「住民主導ですすめたい」としきりに言いますが、これまで住民の方からトンネル化についての要望や請願などは一度もないし、今のところ、トンネル化が住民の熱い焦点になっているとは言えません。

今は、行政がもっと具体的な情報を発信して行く事がまず大事ではと思いますね。

トンネル化について、ご意見などありましたら、ぜひお寄せください。


人権教育推進協が「地域別学習会」復活の動き?

2012-10-15 19:45:04 | 議会報告&議員活動

和束町人権教育推進協議会という団体があります。

以前は、同和教育推進協議会といってましたが、特別法の終結をうけて、3~4年前くらいだったか、団体名を「人権」に変えています。

もともとは1974(昭和49)年につくられ、同和問題の啓発や「同和教育」を町ぐるみで推進する団体です。

実際、この団体には、町内のあらゆる団体・組織が入っています。すべての区はもちろん、小中PTA、保育園保護者会、町人権啓発課、議会、町職員組合、教育委員会、社協などからJAや信用金庫までほとんどといっていいほどですし、運動団体である解放同盟東支部も入っています。

この団体の目的はこうあります。

「本会は、同和問題をはじめとするあらゆる人権問題の解決にむけて、住民の人権意識の高揚を図り、実践につながる自発的な活動を促進するため、各種団体相互の連絡協調のもとで人権教育及び啓発を進めることを目的とする」

未だに同和問題を他の人権問題と区別し、特別な位置づけを与えている団体と言えます。

このような団体に、教育委員会から毎年15万円の補助金が支出され続けています。

私は、法の終結以前から、このような実質、特定の運動団体の理論に基づく「同和教育」や啓発を行う団体を町ぐるみで半ば強制的に組織運営することは適切ではないし、補助金を出すべきではない、と議会で主張し、法が終結してからは、役割は終わったとして、解散すべきと訴えていました。

住民の多くもそういう方向を望んでいたんではないかと思いますが、結局、名前を「」から「人権」に変えて、存続してしまいました。

以前は、毎年、各区の単位で「地域別学習会」が行われていましたが参加人数も少ない中、地域別はなくなり、旧村単位や、最近は町全体での学習会になっていました。

もういいかげん会を解散すべき時に来ていると思うのです。

が、最近、ある住民の方からこんな話を聞いてんです。

「地域別学習会を復活させようとの動きがある」

この間の全体の講演会も参加が少ないことから、再度地域でやってはどうかとの話が会の中で行われているというのです。

解散どころか、またぞろ昔のようなやり方を復活させようというのは、時代錯誤としか言いようがないですね。

すでに住民の中では、疑問の声もあがっているとの話もお聞きしましたが当然だと思います。

このような団体をいつまでも続ける意味はないし、貴重な公費を支出するのももったいないことです。

誰も望んでいない学習会を復活させるのではなく、1日も早く解散をすべきと思います。

 


「ガラスのうさぎ」

2012-10-09 00:00:52 | こどもの本

「ガラスのうさぎ」は、高木敏子・作、武部本一郎・画

金の星社から1977年に出版された作品で、30年以上前のものです。

この作品は、著者の高木敏子さんの、戦争体験そのものが内容になっています。

いつだったか、このお話は映画にもなっていて、テレビでみた記憶があります。

「ガラスのうさぎ」という題名は、東京大空襲で焼けた家の敷地で、ガラスで作ったうさぎの置き物が高温で溶けて、形がゆがんでしまっていた事からきています。大空襲の被害のひどさを象徴しているのですが、この話は、大空襲だけが中身ではないんです。

大空襲はあくまで戦争時代の1つの場面でしかなく、敏子さんが経験した戦争や、それに至る経過や戦後の動きなどが一連のドキュメンタリーとして描かれています。

私が「ガラスのうさぎ」で一番印象に残っているのは、映画でもそうでしたが、戦争が終わる10日前のこと。

敏子さんは、大空襲でお母さんと妹さんを亡くしますが、生き残ったお父さんと一緒に新潟県に向かうため、二宮駅という駅で汽車をまっていました。

・・と、その時、米軍機の機銃掃射が駅を襲い、お父さんが亡くなってしまいます。

お兄さんが2人おられますが、その時は2人とも召集されていて、敏子さんは1人になってしまうんです。

敏子さんはこの時12歳。

まだ12歳の子どもが、お父さんを目の前で失う事だけでも大変な事ですが、お父さんを荼毘にふすために走り回るんです。

映画を見た時も思ったんですが、まだ12歳の子どもが、お父さんを荼毘にふすなんて、あまりに異常ですよね。

戦争の恐ろしさ、酷さをこの場面で強く感じましたね。

 敏子さんは、戦争を何とか生き抜きますが、戦後も東北の親戚に預けられたり、苦労が続きます。

でも、敏子さんが戦争体験をつうじてたどりついたのは、やはり平和の大切さでした。

戦後、アメリカ兵が進駐してきて、子どもたちにチョコレートとかを与えている姿をみて、敏子さんは優しそうなアメリカ兵の姿にとまどいます。

「鬼畜米英」と散々言われてきたから、無理もないことですね。

敏子さんは「一人一人みんな、良い人たちなんだ。・・それだったら、なんとか話し合いで解決できたはずだ」と思い、「世界中の人々が、みんな仲良く話し合い、譲り合いすれば、戦争にはならないはずだ」「戦争と言うのは、どんな理由をつけようとも、やってはいけないのだ」と、心に深く決意します。

そして1947年5月に施行された日本国憲法の第9条を読んだ時の衝撃をこう記します。

「この文面は、わたしにとって、まさに輝く太陽のように、まびしく見えた。これなんだ、もう私たち国民は、永久に戦争を放棄したのだ。・・・たしかにいくさに負けた事は、くやしいし、なさけない。その上。たくさんの犠牲者を出した。だけど、それによって、永久に戦争はしないということを憲法に定める事が出来たのだ。・・・私たちは生きている限り、この憲法を守り続けたい。そして、私たちの次の世代、また次の世代へと、この悲しみを伝えていきたいと思った。ニ度と戦争をくりかえさないために」

敏子さんの、憲法に対する感動と、平和への決意が伝わります。

「ガラスのうさぎ」は、東京大空襲などの戦争の悲惨さを伝えているだけでなく、その悲惨な体験から何を学ぶのか、何を大切にするのかを力強く訴えている作品です。

多くの子どもたちに読み継がれてほしいですね。


やっとのことで

2012-10-04 20:01:25 | Weblog

最近、なにかと忙しくて、落ち着いてブログが書けないのですが、すみません。

いろいろとしてる間に、もう10月になってしまいましたね。

昼間はまだ暑い日もありますが、ずいぶんと涼しくなりました。

今日は、午前中に子育てサロンがあって、9組の参加でした。

いまサロンは、1才前後の子どもが多いのですが、歩き始めや立ち始めの子どもの姿が見られます。

歩き始めた子どもと言うのは、自分の足元をぜんぜん見てませんね。

とにかく、まっすぐ前を向いてます。今日、何となく見てたら、そう思いました。

今まで地べたからしか景色が見れなかったから、うれしいのかな?とか、立ちあがるとけっこう高さがあるから怖いのかな?とか思っちゃいますが、見てると面白いです。

帰ってからは、議会広報の原稿の仕上げでてんてこまい。

それが終わると、来る笠置町議選関係のビラづくりでてんてこまい。

何とかどれもできましたが、なかなか大変ですね。

 

とかやってる間に、もう5時もすぎ、学童保育のお迎えに行かなければ、と車を走らせました。

小学校の裏門から入るんですが、ふと見ると、

おおおーーー、ここ数年電球が切れて消えたままだった電灯がついているではないか!

それにしても、やっとのことです。

電灯が切れていて、校門付近が暗いので、つけなおしてとの話をしたのは、もう2年前です。

これだけの事なのに、何でこんなにかかるのか。

昨年の今頃の話では、電灯の柱が老朽化して錆もあるので、柱を替えないとといけないからもう1年待ってみたいな話だったと思うけど、結局、「老朽化」している方の柱をそのまま使って、電球を入れ替えただけではないか。

写真でいうと、電灯の前にもう1本太いポールが立っていますが、最近、立てたもので、話では、このポールに電灯を設置するはずだったんですが、結局、新しい方には、防犯カメラと前からあった感知式のライトが老朽化した方から移設されただけみたい。

だったら、何でこんなに時間がかかったのか、よくわかりませんね。

電球を取り換えるだけで良かったんじゃないのかな。

ちょっと疑問がわく感じですが、また確認します。

とにもかくにも、ようやく電灯が点灯?したので、やっとのことではありますが、まあ良かったです。