桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

田原本の街並み-1、「陣屋跡」 奈良、田原本町

2017-09-27 13:03:01 | 地域
田原本の街並み-1

田原本は藩主平野家の陣屋がり、当初教行寺の寺内町として整備され、その後平野家陣屋町、浄照寺 本誓寺の門前町として発展した。
今、その陣屋跡には役場がある。

面影を求めるなら近くを流れる寺川、町役場の南土手が かろうじて陣屋地形を想像できる。

寺川自体が外堀の役目をになっていたであろう川である。

古い町並みの中に、縦横にはしる街路が城下町の雰囲気を感じさせ、堀の残骸として水路が所々に残る。

陣屋の遺構は見るべき物もないが、平野家菩提寺本誓寺に、平野家霊廟がある。

浄照寺の門は伏見桃山城の移築門。

高麗門のせいか、豪快な感じがない。町の中を歩いていると、小さな城下町にしては、栄えた昔を偲ばせてくれる建屋が多い。平野家は賤ケ岳七本槍の一人で、維新時に交代寄合旗本5千石から1万1石に修正申告し、諸侯に列す。
 

田原本本陣跡(現地説明板より)

平野藩五千石の陣屋跡である。文禄四年(西暦1595年)平野権平長泰が豊臣秀吉より賤ヶ岳七本槍の軍功として田原本村を含めた大和十市郡内七ヶ村を拝領し、大名並みに遇せられ、以来十代二百八十年間政治をしいた。寛永五年(西暦1628年)二代長勝が入封後、それまで寺内町を支配した教行寺を退去させて、新たに本願寺派の円城寺(現浄照寺)を建立し、町の東、寺川沿いに陣屋を構築して城下町を形成した。早くから大和川、寺川を利用した水運がひらけ、船による大阪との交流物資の集散地として問屋が発達し、「大和の大阪」とも云われた。

文禄4年(1595) 賤ケ岳の七本槍(加藤清正,福島正則,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,糟屋武則,片桐且元)で名を馳せた平野権平長泰が十市郡の田原本村をはじめ11課村を拝領(田原本村、薬王寺村、保津村、十六面村、竹田村、竹田南方村(現・西竹田)、佐味村、満田村、秦楽寺村、九品寺村、飯高村(郡山藩と分割))。

平野長泰は、慶長7年(1602)佐味田に在った大寺、教行寺を田原本に移転、寺内町の建設を許可、教行寺を中心とした三町四方の諸役を免除、廻りには土塁や堀を巡らせ、入り口には黒門を構えて寺内町を形成。

ところが、平野長泰から家督を継いだ長勝が、寛永12年(1635)から田原本陣屋を構築し、領主権をめぐり教行寺と対立、正保4年(1647)に教行寺は田原本を去って広陵町に移転。

教行寺の跡地に建設されたのが、本誓寺と浄照寺だ。

この時、移転に際し教法聴聞の集会道場を黒田村に設けたのが「黒田教行寺」として残っている。


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