桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族-12-

2018-06-06 21:07:19 | 歴史
孝霊天皇一族の繁栄

卑弥呼以外中々歴史の表舞台に出てこない孝霊天皇の一族ですが、倭の大乱以来、出雲支配下の国々を全て大和王権の支配下に置くことによって此処にようやく「統一国家日本」が誕生したと言えるでしょう。

熊襲や蝦夷、アイヌ、反乱分子は残る物の実質日本の統一を成し得たのは孝霊天皇一族と言っても差し支えない万もしれません、明治維新の「坂本龍馬」か「せごどん(西郷)」並みですね。

倭迹々日百襲媛を天帝に押し上げた孝霊天皇は、ヤマト王権のウイークポイントともいえる瀬戸内の完全支配に乗り出す。
温羅たちの製鉄技術による大量の鉄器と吉備、讃岐、伊予に親族を送り込んでの瀬戸内支配によって一族の支配権を絶大な物にして行ったと思われます。

特に吉備は当時「第二の都」並だってでしょう。
百襲媛=天帝の安定を見て孝霊天皇は皇位を孝元天皇に譲り吉備に移ったようです。
*詳細は不明です。

一方 唐古.鍵では日本の中枢としての機能を強化。
更に天帝モモソヒメの権威を高めるため中国の「魏」と親交を深め、それまで大物主神のシンボルであった銅鐸を廃止、銅鐸の破壊処分を指示した為大和の中心部には銅鐸がほとんど残らないようになった。

魏から送られた鏡を機に自らのシンボルとして石凝姥命に命じて八尾鏡作り神社を中心に坂手、保津、宮古に伊多、摩毛の鏡の工房を作り大量生産をさせます。

暫くは安定した政情が続き、媛巫女は天照となるべく巻向の地に大きな神殿を築きます。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族-11-

2018-06-06 17:49:32 | 歴史
朝鮮半島と倭国
ヤマトに戻った孝霊天皇は、鉄器の製造のため、製鉄に精通した新羅の王子温羅と工人を人質同然に連れて来て製鉄に従事させる。

 『後漢書』馬韓伝
 韓に三種あり、一に馬韓,二に辰韓,三に弁辰(弁韓)いずれも昔の辰国である。
馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国),三韓の地の大王とする。
朝鮮半島の現韓国の領域は倭国の領域であった。
素盞嗚尊が統一した結果、倭国の一領域になっていたのである。

月支国来襲
日御碕神社(島根県出雲市)の記録
 「孝霊天皇61年(AD178年?) 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。」


倭国内の新羅国ではあったが、次第に独立色を強めてきており、新羅国は大和朝廷からの干渉を嫌い、次第にヤマト朝廷から離れていった。
その北隣りにあった月支国と新羅国は同盟関係になっていった。
 新羅建国は144年。当初は倭国領域内にできた自治領域だった。
しかし、次第に力をつけ朝廷の支配から離れる。


《 温羅伝説 》
むかし むかし
異国の鬼神が飛来して吉備の国にやってきた
百済の王子で 名を温羅(うら)といい 吉備冠者(きびかじゃ) とも呼ばれていた
目は豹のように輝き 髪は赤みを帯びた異様な姿であった
そのうえ温羅は火を吹いて山を焼き 岩をうがち
人間や猿を食い 美しい女を奪ったりする
そのような 温羅は 人々から大変恐れられていた
そこで 五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)というヤマト朝廷の将軍が
この温羅を退治することになる 五十狭芹彦命が「鬼ノ城」に向かって矢を放つと
温羅の放った矢と途中で食い合って落ち 勝負がつかない
住吉大明神のお告げに従い 一度に二本の矢をつがえて射たところ
一本の矢は途中で食い合ったが もう一本は温羅の左眼に命中した
温羅は大雷雨で洪水を起こし その流れに乗って逃げようとした
川の水は 温羅の傷から流れ出た血で赤く染まった
温羅が雉(きじ)となって山中に逃げるが 命(みこと)は 鷹 となってこれを追う
追い詰められた温羅は今度は鯉に姿を変え 川を下り始めたが
命はすばやく鵜になって鯉を追い ようやく温羅を捕まえた
絶体絶命 温羅はついに命に降伏し 自分の「吉備冠者」の名を奉(たてまつ)った
五十狭芹彦命は吉備津彦命になった
戦いに勝利した命は 温羅の首を串に刺してさらし首にした
ところが不思議なことに この首はいつまで経っても吠え続け
執念を燃やし続けてやまない
そこで命は家来の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に食わせたが
ドクロとなっても温羅の首は吠え続けるのだ 命は釜殿の地下八尺あまりも掘って
その中に埋めたが 13年間唸(うな)りやまなかった
ある夜のこと 命の夢になかに温羅が現れて言った
「阿曽郷にいる わが妻の阿曽女に命じて お釜の神饌(しんせん)を炊かしめよ
幸いあれば豊かに鳴り 禍があれば 荒々しく鳴ろう」と
命がその通りにすると 温羅の首はやっと吠えるのをやめたという
上記のような記録から推察して当時朝鮮半島南西部はヤマト政権(或いは出雲)の支配下にあったと考えられます。
対戦の最中、独立しようとする新羅から人質同然に王子を連れて来たのでしょう。