桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

#桃おやじ の #歴史散歩 part2 古代史を科学してみよう。vol-3(写真、挿絵は資料を引用しています)

2018-09-22 15:06:20 | 歴史
日本の始まり

日本人はどこから来たのか?
DNAから行くと、かなり早い段階で日本へ渡ってきた可能性が指摘されています。
1. 縄文人と弥生人のDNAの差はそれほどない。
2.縄文人、弥生人共に東アジアに広く分布するアジア系で、どちらが北でどちらが南から来たかという地域差がない。
3.岐点はヨーロッパ人よりもはるかに根元のアフリカ人グループの間にあり、ミトコンドリアDNAで言えば、聖書による3大祖先 ハム、セム、ヤペテ のうちの、セム系直系に相当すると考えられる。
4.同じセム系でも、他のアジア人とは異なるDNAを持っている。

これら(他の資料も含めて)から、日本人は他のアジア人と別に、早い段階で分離したとの説が浮かび上がって来ます。
ただ、約1万年前に長江流域にいた女性がルーツであることは間違いが無いようです。

長江上流域から徐々に南下した彼女の子孫の一部が海洋進出を果たし、沖縄諸島一帯へ。
更に海流に乗って九州~東北まで広がって行ったと考えられます。
ただ、此処に不思議な現象が見えてきました。
紀元前6000年ごろ、日本に居た人口が約2万人。
その殆んどが関東東北に集中し、長い間に渡ってこの一帯で人口が増えて行ったと言う事です。
多少のさは有りますが、
縄文早期(8100年前) 2万人
縄文中期(4300年前)26万人
縄文晩期(2900年前)8万人
弥生時代(1800年前)60万人
奈良時代(725年)451万人
平安前期(900年)644万人
鎌倉時代(1280年)595万人
室町時代(1450年)1005万人
慶長5年(1600年)1227万人
享保6年(1721年)3128万人
明治6年(1873年)3330万人
大正9年(1920年)5596万人
昭和25年(1950年)8411万人
平成17年(2005年)1億2777万人
関東東北は、約7300年前(千年ほどのズレが生じますが)に大爆発した喜界島の噴火の火山灰分布限界の地域に成り、九州から関東以西の人類が絶滅した可能性は否定できません。
日本列島中抜け状態で、難を逃れ生き残った沖縄人と当時東北に居たアイヌの人たちのDNAが一致するのもこれで納得できます。

上記の表から、約7-8千年前から3千年前まで増減しながら余り増えていないことが分かります。
しかし三千年くらい前から急激に人口が増加していることも見えてきます。


新石器時代、縄文時代から弥生時代へと言っても人種が入れ替わったわけでは有りません。
新石器から縄文へは新しい文化を持った種族が周囲を席巻して行ったものと思われますが、特に縄文から弥生へは縄文人の中で新しい弥生文化を持った、あるいは他の新しい文化を取り入れた人たちが現れ、居住し始め文化を広めていったと言った方が適切ではないでしょうか。

当初弥生町で発見された土器の年代をもって弥生時代と名付けられましたが、年代は更に遡りBC5-7C位が分疑点とされるようになりました。

丁度中国大陸での変動期、殷が滅び周に成ったころからに当たります。
この頃から大陸の影響を大きく受ける事に成ったようです。

長江流域を南下した倭人たち河口付近に拠点を作って行ったようです。
呉や越の話は有名ですね。
後漢の王允が書いた「論衡」には 周王朝(紀元前1046~紀元前256年)の初期「周時天下泰平、越裳献白雉、倭人貢鬯艸」(周の時代は天下が泰平になり、越裳は白い雉を献じ、倭人は不老草を貢いだ)と有りますが、王允はAD1C後半の人、年代等にちょっと不確実な所が有ります。
ただ、史書に現れる雲南、貴州、四川一帯の滇、夜郎、且蘭、邛都、昆明、雋、徙、筰、冄、蜀、巴などの国は、いずれも「倭人」の国と考えられます。
いずれにしろ、当時すでに倭人と呼ばれる人達がいたのは間違いないでしょう。

雲南省河口付近に居た倭人たちの一部はそのまま海を渡り九州方面へ。
多くは中国大陸の沿岸に沿って北上。
途中川日本へわっ立ったもの、朝鮮半島から渡ってきたもの、遠くは樺太を経て渡って来たものと様々だったようです。
当初は東シナ海沿岸部から日本海沿岸部まで広大な海域を倭人のエリアとして散在していたと考えられます。



#桃おやじ の #歴史散歩 part2 古代史を科学してみよう。vol-2(写真、挿絵は資料を引用しています)

2018-09-21 09:35:19 | 歴史
#桃おやじの歴史散歩 #人類創生 pt-2 広い世界へ

私達の祖先は変化や進化を遂げただけではなく、知恵と技術を身につけ、多用に順応していったようです。
ある資料では、狩猟や採取も単に採って食べる→水で晒したり焼いたりへと。

狩猟も投石や投げ矢、投げ槍、罠などを駆使して身を危険にさらさずに獲物を狩る事を覚えました。
そのことが、気候変動で大型動物が姿を消した時期でも、素早く動く小動物や鳥などを捕らえる事が出来餓死せずに済んだとしています。

広く、豊かで変化に富んだアフリカの大地は、野生に近いホモサピエンスを10万年近く育むには十分な広さと豊かさを持っていたのでしょう。

しかし、猿人から原始人へと進化した彼らの行動範囲は東方への大きな障害であった紅海とその先の荒涼たる原野、砂漠地帯へまでも進出を試みたのでしょう。

その多くはシナイ半島(現在のエジプト~イスラエル、ヨルダン)から、
また、一部はアラビア半島南西部のイエメンと東アフリカのエリトリア、ジブチ国境付近のバブ・エル・マンデブ海峡を越えてアラビア半島へ。
アラビア半島に到達した種族の旅はこの時から始まったようです。


万という単位の年月を経て、ユーラシア大陸へ、、更に数万という年月を経てアジアへ、海洋へと。

この時すでにニグロイド(黒人=アフリカ原住民、エジプト人等)、コーカソイド(白人=ヨーロッパ、ペルシャ、インド人等)、モンゴロイド(黄色人=モンゴル人、中国人、日本人などの東洋人とアラブ人などの中近東や、東南アジア、ポリネシア人アメリカインディアン等)と大きく3っつの人種に分離して行ったようです。

どうやらこの辺りからモーゼの十戒やノアの箱舟の世界に入って行きます。

#桃おやじ の #歴史散歩 part2 古代史を科学してみよう。vol-1(写真、挿絵は資料を引用しています)

2018-09-20 09:03:29 | 歴史
#人類創生 pt-1 創生  

ご存知の通り、今から15-20万年前にアフリカのグレートリフトバレーで誕生した女性「ミトコンドリアイブ」が人類(ホモサピエンス)の母とされています。
この時期に地球の割れ目と言われるグレートバリアリーフ大きく動いたとされ、地球規模のエネルギーが放出されたのでしょう。
多少今の日本と通じるのかも。

時期を同じくしてネアンデルタール人をはじめ、多くの新種がこの時期に進化、変化を遂げたと考えられます。
多くの新人類が誕生したと考えられていますが、現在まで生き残ったのはホモサピエンスだけと言う事に成ります。
では、なぜ我々の祖先が生き残れたのでしょう?
謎はそのスピードにあると考えられます。

環境に順応する速さ、進化、変化の速さ、技術や知識の習得、進歩の速さ等々。
良い例が同じ時期に生息したと思われるネアンデルタール人は、数万年の間ほとんど変化や進化が無く大きな環境の変化に対応できずに絶滅しています。

その間、人類は環境に合わせまず体形を変化させてきました。
太陽の直射日光を浴びるアフリカの大地では熱のこもる体毛を捨て、代わりに体内の細胞を守るためメラニン色素が体の表面を覆い、髪の毛は発汗をよくすると同時に頭部を守るため太く短く巻き毛に。
サバンナでは移動や遠望のため足が長く背が伸び痩身に。
ジャングルでは逆に移動しやすく見つかり難いように小人化。
中間地帯では、猛獣などの外敵との対応も有ってか、移動には足が長く強健にと言ったところでしょうか。

アフリカ大陸から出た人達も環境や生活様式に合わせてたように変化を遂げて行きます。
北方へ行くほど太陽光の減少に合わせてよく光が入る様に瞳の色素が減少、グレーやブルーに変化、より光が網膜に入る様になります。
そのため、明るい光線化ではサングラスをするなど目の保護が必要に成ってしまいます。
更に。寒気から体を保護するために、全身に薄い体毛が密生し、髪も細く縮れて密生して保温が効くようにと。
その中間である黄色人種は最も多様性に適応したのでしょう。

しかし、多くのパターンに変化した中では、絶滅した種族も沢山有ったことも事実です。