桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 5

2018-04-08 09:27:09 | 歴史
倭の大乱 
 1. 孝霊天皇の足跡。

No.5
鬼林山(鬼住山)の戦い

さて、肝心の孝霊天皇率いる主力部隊に目を向けますと(以下孝霊軍)。
姫路から陸路丹波路を経て途中 賊を退治しながら日の川沿いに賊を退治しながら数年かけて北上。
この間に夫を慕って讃岐を出た細媛が行軍中の孝霊天皇のもとへ、現日野郡日野町辺り(菅福神社)で合流、そのまま孝霊天皇の傍らに付き添った。

この頃細媛は福姫を出産、50歳は過ぎていたであろうかなりの高齢出産と言う事に成ります。

孝霊軍はさらに北上、大山の麓で賊の中でも最大の敵、鬼林山(鬼住山)に本拠地を置く石蟹魁師荒仁(いしがにたけるこうじん)と対峙する事に成る。

孝霊軍は鬼住山の南にある笹苞山に布陣、戦闘は一進一退を繰り返したようだ。
この戦闘で朝妻媛との間に生まれた鶯王を戦死させてしまう。

土地勘の十分な賊軍に大いに悩まされる結果に成ってしまった孝霊軍に賊に悩まされ続けていた土地の人たちが大いに協力をした。

かなりの期間を要した皇軍だが、天啓(軍略)を得て一気に石蟹魁師荒仁軍を撃破、降伏した彼らを支配下に置く。

この間に福姫を出産した細媛は、産後の肥立ちが悪くこの地(楽々福神社)で亡くなる。
伝承では110(55)才、倭迹々日百襲媛が13-15歳、孝霊天皇が37-38歳、17-18歳年上女房の計算に成ります。
福姫もまた後を追うように亡くなったようです。

菅福神社
伯耆行幸伝説に由来する孝霊天皇奉斎神社。祭神は「大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、阿礼姫命、吉備津彦命、百襲姫命、稚屋姫命、彦狭島命、稚武彦命、福姫命」などである(『鳥取県神社誌』532)。孝霊天皇、皇后細姫ともに伯耆に行幸し、牛鬼を退治した。このとき行宮としたのが当社の地である。皇宮大明神と称していたが、1868年(明治1年)に高宮社と改称、1920年(大正9年)に「菅福神社」と改称した。(『鳥取県神社誌』532)

樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 由緒略記   
「大日本根子彦太填尊は人皇第七代孝霊天皇の御名なり。東西両宮共天皇を主神とし、皇后、皇妃、皇子及び其の御一族を禮る。
孝霊天皇は少年の御時楽楽清有彦(ささきよありひこ)命と申し、又笹福(さきふく)と萌し奉る。御即位二年細媛命(くはしひめ)を立てゝ皇后と為し給ひ、大日本根子彦國牽皇子御誕生あらせらる。細姫命は孝霊天皇の御后にて國牽皇子即ち孝元天皇の御母にあたり、磯城県主大目(おほめ)命の女なり。福媛命は孝霊天皇の妃にて彦狭島(ひこさしま)命御誕生あらせらる。彦狭島命は歯黒(はぐろ)皇子とも申し孝霊天皇第五の皇子なり。孝霊天皇巡幸して西の國々を治め給ふ時、隠岐國の黄魃鬼(こうばつき)を退治し給ひ、それより伯耆國に渡らせ給ひし時日野川上に至り給ひて、今の溝口町鬼住(きずみ)山並に日野上村の鬼林(きつん)山に邪鬼ありて人民を悩すよしを聞召して、歯黒皇子並に侍従大水口宿爾の御子新之森王子、大矢口宿禰の御子那澤仁奥等を卒ゐて彼の邪気を討伐し、其の首魁を其の地に埋葬し給ふ。現今東宮の境内近く鬼塚といふあり、これ即ち鬼林山の強虜を埋没せし地なりと博ふ又御太刀を洗はせ給ひし池を太刀洗池と称しし東宮境内にあり。
その頃、備中の國に石蟹魁師荒仁(いしがにたけるかうじん)といふものあり、天皇の近郷に居給ふ由を聞き國中の凶徒を集め兵を起して天皇を襲ひ奉らんとす。天皇夙くも此の事を聞召給ひて、歯黒皇子を軍将とし、新の森王子を副将として、数多の軍兵を勤(したが)へ之を征伐し給ふ。歯黒皇子は武勇萬夫に勝れ猛きこと雷電の如く、天皇巡幸の時は必ず此御子を伴ひ給へりとぞ。かくて出雲振根等各地の強虜をば悉く言向けやはして地方を平定し、王化を遠荒に布き給へり。

これより先皇后細媛命は天皇の御跡をしたひあすを知るベに尋ね給ふに、御産のなやみありて石の上に憩はせ給ふ、頃は五月雨のなかばにして雨多く降りければ里人菅のみの笠を奉る川の水音高く聞こゆる故「水責喧」と詔り給へは水音乃ちやむ。依って日野川のこの部分を音無川と称し今の黒坂村上菅にあり。皇后其の地を立たせ給ひし時の御歌
  むら雨の露のなさけの名残をばこゝにぬきおく菅のみのかさ。
それより川上に上り給ひて帝に會ひ給ひ、日野川上宮内の里はよき富所なりとて皇居を究め給ひて多くの年月を慈におくり給へり。是を西の内裏といふ。皇后は御年百拾歳にて孝霊天皇御即位七拾壱年辛巳四月二十一日を以て、この西の御殿におひてかくれ給ふ。現今西宮の東北方崩御山と申すは皇后の御陵なりと傳ふ。古来をの斧鐵を加へず満山老樹大幹参差として書猶ほ暗く、頂上墳域の石累高さ四丈に達し、古色頗る蒼然。西宮鳥居の近くに天狗石と称し天狗の爪の痕跡を残せる石あり、傳へ云ふ崩御山の御陵の石は備中國石蟹より天翔る天狗により運ぼれしものにて此石は天空より取落とせしものなりと。蓋し天狗取りなるものならん。後天皇は東の宮殿に移り給ふ。これを東の内裏といふ。元内裏原神社の所在地にして現に内裏原と称す。
即ち當社は地方開拓に御治績ありし祖神の偉大なる御霊徳を追慕景仰して鎮祭し奉れる所にして、且つ皇后御陵のある聖地なり」

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 4

2018-04-07 15:08:31 | 歴史
倭の大乱 
 1. 孝霊天皇の足跡。

No.4
倭の大乱勃発


 倭迹々日百襲媛を送り出してからおおよそ3年の後、百襲媛の功績を得て讃岐とその周辺の国々はヤマトに傾倒、時を得て天皇は出兵準備を進めます。

軍備を整えた孝霊天皇は大吉備諸隅命の二人の子供、稚健吉備津彦(稚健彦)と弟稚健吉備津彦(弟稚健彦)を始、勇猛な部族を伴い吉備に向けて出陣をする。(大吉備諸角の尊が同行したか否かは定かでは有りません)

一七六年、順次黒田廬戸宮近辺から船出した軍団はヤマトを離れ、生駒山で船を乗り継ぎ河内湖から瀬戸内へ。
ばらばらの状態で海上を移動した軍団は再び姫路に集結、戦勝を祈願し祭祀を行う。

孝霊天皇はここで軍団を二つに分け、稚武彦一行は瀬戸内海を、孝霊天皇の主力は出雲を目指す事に成ります。

姫路から再び船に乗った稚武彦一行は海賊退治に協力する部族、兵力を集めながら海路瀬戸内で出会う賊を退治しつつ伊予へ、さらに日向を経て再び吉備へ。
*犬養部や鳥飼部などは2説あって、地元の部族説ともう一つは皇家の武族集団(皇家の武族集団が普段平時には皇家の動物や鳥を飼育.養成する部族)。
当初は早々に片が付く予定だったのでしょう。
瀬戸内を知り尽くし、瀬戸内海各地に散らばる賊たち、想定外の抵抗に会い、翻弄された稚武彦軍は根絶に数年を要してしまいます、結果、本体である孝霊天皇軍は苦戦を強いられる結果に成ってしまいます。

*瀬戸内海に散在する戦闘遺跡(個人の調査文書より)
 遺跡に関して調べてみると,弥生時代における本格的戦闘があったと考えられる遺跡というのはほとんどないのであるが,大阪湾岸地方から瀬戸内海沿岸地方にかけて,二世紀後半の集団戦の跡と考えられる遺跡が数多く見つかっている。また,この頃のものと考えられる高地性集落が瀬戸内海沿岸地方に多数みつかり,また鉄鏃の出土数を調べてみると,他の地方の鉄鏃出土数に大きな変化はないのであるが,中国地方は後期中葉から後葉にかけて急激に増大している。しかも,実践的な小型の鉄鏃が多いのである。これらから,後期中葉から後葉にかけて(2世紀中頃から後半)の大阪湾岸から瀬戸内海沿岸地方が,軍事的緊張状態にあったことは間違いなさそうである。これらの遺跡は,吉備津彦命の進軍コースと一致している上に,年代もほぼ一致するので,この大乱に関連していると考えられる。どうやら,二世紀後半に,出雲・吉備・讃岐連合軍対大和朝廷の大戦があったようである。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 3

2018-04-07 14:46:43 | 歴史
倭の大乱 
 1. 孝霊天皇の足跡。

No.3
黒田廬戸宮

ヤマトへ戻った楽々福(ササフク)尊は早速 土地の有力者「磯城県主」の娘「細(クワシ)媛」を妻に迎え、奈良盆地中央部にあたる黒田の地に宮殿を構え(黒田廬戸宮)、王位を継承「孝霊天皇(ヤマト大国主、大国魂)」に即位、細媛との間に皇女「倭迹々日百襲媛」を設けます。
*記紀では妃の倭国香媛との間の子供に成っていますが年代的にかなり矛盾が有ります、後の事象からこの時細媛はかなりの年上女房、高齢出産であったと考えられます。

当時の黒田の地は新興の屯倉、寺川と飛鳥川に挟まれ北に大和湖の広がる沖積台地、兵、物資の集積出兵に最適地であったと思われます。

交易外交ルートをふさがれ、鉄の産出の乏しく成った大和では、国家の統一はもとより国体の維持さえ危うく事態の収拾を急がねばなりません。

勢力基盤を強固なものにした孝霊天皇は国政の傍ら、東倭(出雲勢力下の国々)の攻略準備を進めます。

瀬戸内はヤマトにとっては最も重要なウイークポイント、まずは大物主(大歳神、饒速日命)以来親交の深い讃岐の調略に乗り出しますが、瀬戸内海を根城にする賊たちはしたたか、更に祭祀のみに頼り、ヤマトと決別した出雲の様子を知った鬼(賊)たちは我が物顔に暴れ放題。

行き交う地方の使節たちに軍事力を示し、中国地方の各国に、朝廷に帰属するよう更に数年説得を続け、半ば目的を果たしますが情勢は一刻の猶予もならず、3歳半ばを過ぎたばかりの倭迹々日百襲媛を淡路島を経て讃岐へ(171年頃)、後を追うように細媛も讃岐へ旅立ちます。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 2

2018-04-07 11:56:09 | 歴史
倭の大乱 
 1. 孝霊天皇の足跡。

No.2 
孝安天皇の崩御と霊石山の伝説。


若狭から出雲へ

改めて軍勢を整えた孝安天皇はササフク尊に命じ、山陰地方の賊の討伐と再度出雲の説得を指示。
軍勢を従えた楽々福尊は再び京丹後方面へ出兵。
前回と重なりますが、

霊石山の伝説。
「天照大神が西征の途中,ここに居を移し・・・」。
西征とは東から来たことを意味し,大和からと考えられ、大和から出雲に入る出雲の手前に霊石山がある。
この場合の天照大神は孝霊天皇と思われ,この伝承は孝霊天皇のこの巡幸のことを伝えていると思われる。

霊石山より少し西にある青谷上寺地遺跡では,この頃の戦闘の後と思われる銅鏃が突き刺さったままの人骨が4点ほど見つかっている事から、孝霊天皇が若狭から鬼を退治しながら、因幡国の霊石山に一時留まり、隠岐国経由で日吉津村に到達したと考えられる。

伝承にいう妻木は孝霊山麓の妻木晩田遺跡のことと解釈されます。
妻木晩田遺跡のすぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られています。
これらの事象は、大和での記録(古事記・日本書紀)には存在しません。
このとき、この遺跡に住んでいた人々は、四隅突出型墳丘墓を作っていること等から、スサノオ信仰が強い出雲系の人々であったと考えられます。

日野郡誌との照合で、孝霊天皇がこの地に来たのは孝霊45年(171年、先に書いた年代算定に依ります)ということになります。
妻木は先に書いた「朝妻媛、鶯王」の待つところです。
一帯の賊を掃討した楽々福尊はしばしこの地にとどまって出雲の様子を見ながら久しぶりの親子の一時を過ごしますが、此処へ大和から孝安天皇崩御の知らせが届きます。
知らせを受けた尊は急きょ大和へ引き返すことに。

#桃おやじの歴史散歩 #孝霊天皇 と その一族 1

2018-04-07 10:48:34 | 歴史
倭の大乱 
 1. 孝霊天皇の足跡。

No.1  
神宝交検事件と浅妻媛

AD160年頃、孝安天皇の命を受けた物部の大連は楽々福(ササフク)尊(後の孝霊天皇15歳頃)を旗頭に丹後路から出雲に向かいます。

出雲近くの孝霊山に借り宮を築き、素戔嗚祭祀だけで暴徒を抑えようとする出雲にスサノオ神宝の検閲を申し出ます。

ちょうど出雲の領主出雲振根が出かけて留守だったので、弟の飯入根が苦慮の末、神宝の1部(おそらく、数ある銅矛の一部)を渡しました。

帰ってきてそのことを聞いた出雲振根は激怒、飯入根を殺害してしまいます。

まだ出雲に滞在していた使節団は、出雲振根が飯入根を殺害したことを知り、出雲振根を殺害、これを期に出雲は大和に従順するどころか、逆に火に油を注ぐ形に。

交渉が長引く中、楽々福尊は土地の女性「朝妻媛」を妻に迎え「鶯王(伯耆王?)」を授かります。(*2)
交渉の決裂を見て、一旦、楽々福尊は朝妻媛、鶯王を置いたままヤマトに引き返します。

しかし、出雲支配下の地方では各地で益々鬼(賊)が暴れ始め但馬路、丹波路、瀬戸内と子主要交通網が遮断、外交、交易の出来ない状態に陥ってしまった。
特に大きな痛手は瀬戸内交通、九州方面での交流遮断は交易のみならず九州各国の離反にもなりかねません。
加えて三輪山の麓で採れた砂鉄(*1)も涸渇してしまい、製鉄の出来ない状態に。
此の侭ではせっかく作った大和王権も支配力を失い崩壊の危機に立たされてしまいます。

*1、三輪山の麓では上質の砂鉄が大量に採取された伝承が有り、今も田原本町の伊与戸はその子孫が暮らした場所だと伝えられます。
伊与戸の南、大きな社叢を持つ村屋神社自体が物部守屋の直系と考えられる所から、卑弥呼の跡を継いだ臺与(トヨ又はイヨ)或は関係者の居住地に繋がるとの説が一番ロマンが有って理にも叶う点が有ります。
歧多志田神社キタは鉄工の意味祭神の「天香語山命」は芸能の神だともされ、近くにフエフキ、タイコウジ、ヒョウシダの地名も残り、雅楽が最初に伝えられたちだともいわれて居ます。
*2、鳥取県の大山北麓、孝霊山伝承。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。