「能楽、金春流発祥地「西竹田」―平野」
西竹田と言われますが、元は只の「竹田」でした。
現橿原市の東北端にもう一つの竹田が有り(元は田原本町、市町村合併で篇出)、混同するので、田原本の方を西竹田、橿原市の方を東竹田と称する様に成ったそうです。
この地域は、能楽金春流「竹田座、円満井座」の発祥地として能楽ファンの方には欠かせられない地でも有ります。
以下ににちょっと書きますと、
日本が世界に誇る伝統芸能、能。
能は室町時代、観阿弥、世阿弥父子によって大成された。 その能のふるさとが奈良。
古くは、「猿楽の能」といわれ、南北朝時代、円満井(磯城郡田原本町西竹田付近が本拠・金春)、結崎(磯城郡川西町結崎・観世)、外山(桜井市外山・ 宝生)、坂戸(生駒市平群町・金剛)の「大和猿楽四座」が大和の有力社寺、とくに興福寺の庇護を受けて活動していた。興福寺は当時、大和守護職として大和一国を支配。強大な勢力を誇り、その興福寺の法会に四座が参勤し芸を競った。
※「金春流」は大和猿楽四座の一つで、古くは円満井座・竹田座といいました。
鎌倉時代から興福寺春日社に奉仕しており、金春と称したのは南北朝時代の金春権守あたりからと伝えられています。
十六は能面の一つで、少年の面として使用され、能楽「敦盛」「経政」「朝長」などに用いられます。
田原本町には能に関する土地が他にもあります(各地でその都度紹介します)。
味間の補巖寺は世阿弥夫婦の関係するお寺であることは古くから知られているところです。
また法貴寺の舞庄(まいのしょう)の発掘調査では、室町時代の翁面(おきなめん)(父尉(ちちのじょう))が出土しました。この面は能面の中でも最も神聖視され、神能「翁」を演じるときに用いられるものです。
出土地である舞庄は、おそらく能に関係のある人々が住んでいた所でしょう。
今は竹田館が何処に有ったか定かでは有りませんが、大きな農家屋敷が塀を連ね迷路の様に成って居ます。
集落の東の入り口に、立派な地蔵舘がポツンと建ち、その豪華さを誇ります。
この地域に多く有る春日神社、八坂神社、菅原神社は、興福寺、藤原の荘園だった事を表しています。
盆地の集落の殆どが環濠を有し、興福寺の宗徒や国人として活躍しており、免租や労役免除などの優遇を受け、可也豊かに暮らしていたことを物語って居ます。
この西竹田の東に平野地区が有ります。
元平野村の中心地ですが、元々は、この西竹田から分かれた、竹田南方と言われた地域。
元々竹田の領分で有った所に、享保年間に大網から分住したのが始まりと伝えられます。