しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

上越 「光源寺」

2011-09-17 08:53:19 | 旅行

               「国府別院」を出て、流罪を解かれた親鸞の「喜びの表情」に
               出会うお寺「光源寺」に向かいました。

               4,5分歩くと、なんと前日道がわからなくなり、若い方にたずね、
               車で駅まで送っていただいた、見覚えのある交差点に出たのです。
               

 

 

           

                   光源寺はそこからすぐの所でした

 

 

                 

                      親鸞の弟子・最信によって開かれたお寺です
                      
                  木曾義仲の家臣であった堀徳兵衛光政は越後にやってきた
                  親鸞に深く帰依し、覚円坊最信という名をもらった。

                  流罪を赦免された親鸞はその後関東へ旅立つが、最信は
                  越後に残って草庵を結び「覚円坊」と称する。
                  これが光源寺の始まりである。

 

 

     

            荘厳な雰囲気の漂う本堂

 「野菊にも 配流のあとと 偲ばるる」  と詠んだ高浜虚子の俳句さながらの趣を今に伝える

 

 

                  

               本堂の内陣は本堂と御影堂を併設した珍しい配所ならではの様式
            
               御影堂の中央には「流罪勅免御満悦御真影」が安置されている。
               これは赦免の知らせを受けた親鸞が、その喜びの表情を自らの手で
               描いたと伝わるもの。

               左手を上にしていることから「左上の御影」とも呼ばれる。
               親鸞が着ている衣は、流罪中の着衣を仕立て直したものだという。

               光源寺は妻・恵信尼とのゆかりも深く、数々の宝物を今に伝えている。

 

                 

                       恵信尼座像  

              越後で暮らした20代後半から30代前半頃の恵信尼の姿といわれる

 

 

                 

                こちらにも「越後の親鸞七不思議」のひとつ「八房の梅」の碑が
                ありました。

 

 

                 

                     朝陽の木陰の鐘楼はなんだか神秘的でした

 

 

            流刑地であった越後には、親鸞にまつわる様々な伝承が残されている。
            中でも有名なのは七不思議、親鸞は県内各地を訪れて、人々に教えを
            説いたといいます。

            その際に起こしたとされる動植物の関する不思議な言い伝えは、
            親鸞の超人性、非凡性を感じさせ、人々が親鸞に何を期待してきたか
            いかに慕ってきたかをうかがうことが出来ます。

 

            上越市 居多神社に伝わる「片葉の葦」   
            阿賀野市 梅護寺に伝わる 「八房の梅」その他
            新潟市 西方寺の「逆さ竹」  親鸞が竹の杖を地面に突き刺して仏法を
                               説くと、杖から根が出て逆さの枝が生えたと
                               いう。
            阿賀野市 孝順寺「三度栗」 親鸞が焼き栗を埋めると芽が出て、年に3回
                              花が咲き、実を付けたという。
            南蒲原郡 了玄寺「繋ぎ榧」 糸で紡いだカヤの実の一粒を親鸞が埋めると
                              木が生え、小穴の開いた実がなるようになった
            阿賀野市 梅護寺「数珠掛桜」 親鸞が桜の枝に数珠を掛けて教えを説くと
                                花が数珠のようにつながって咲くように
                                なった。
            新潟市 田代家「山田の焼鮒」 あるとき食事に出された焼いた鮒を親鸞が
                                池に放した。
                                すると鮒が泳ぎだしたという。

 

           越後では初めて農民や漁民など、人間の生活の根本を支える一般の人々と
           ふれあうことが出来た。

           京都での生活が主に「消費生活」であったとしたら、越後で「生産生活」を
           知った。

           人間が生きるとは何かを、肌で感じることが出来たのではないか。
           つまり流人生活は親鸞にとって、「学び」と「深化」の時期だったと考えられる。
           
           もはや僧でもなく、だからといって俗人でもない、ただの愚かな自己(愚禿)
           と徹底して向き合った日々であった。

                 (「親鸞めぐり旅」 講談社より)

 

           流罪を赦免された親鸞は、新天地関東へと旅立つ、親鸞42才、胸には
           念仏布教への熱き思いがあった。

           関東の巡り旅もできたらと思いますが、その足跡は広い地域に点在しており、
           交通の便を考えると、難しいところもありますが、数カ所は行けそうです。
           その時はまた「親鸞めぐり旅」の続きとして見ていただけたら幸いです。

 

 

 

 


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4 コメント

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Unknown (雲母舟)
2011-09-19 19:38:45
恵信尼の端正なお顔が美しいですね。
本堂も歴史が古そうです。
随分、いろいろなところを
回られましたね~。
私も今日、しなこじさんが以前に歩かれた
浅草~龍眼寺~亀戸を歩き通しました。
萩と彼岸花が咲き始めていました。
Unknown (しなこじ)
2011-09-20 00:08:54
上越はここまでです、このあと能登から福井に行きました。
龍眼寺にいらっしゃいましたか、萩と彼岸花の季節ですね~
浅草から亀戸まで歩かれたのですね、ちょと距離がありますね、
お彼岸というのにまだ暑いですしね。
私もどこかで彼岸花を見たいと思っていますが、
今急ぎの仕事を持っていて、あと2日間で終わりそうですから、
ようやく上野に行けそうです。
Unknown (太田綾子)
2011-09-21 17:03:09
いい旅ですね・・・。ブログを通して参加させていただいて感謝です。
下記のコメント、心に響きますね。
流れ人・・・。
わたしたちもみな、流れ人ですね。

人間が生きるとは何かを、肌で感じることが出来たのではないか。
つまり流人生活は親鸞にとって、「学び」と「深化」の時期だったと考えられる。
           
もはや僧でもなく、だからといって俗人でもない、ただの愚かな自己(愚禿)と徹底して向き合った日々であった。

   (「親鸞めぐり旅」 講談社より)

Unknown (しなこじ)
2011-09-22 07:36:16
綾子さん
イタリアから帰国されましたか?
「親鸞めぐり旅」を始めたのは、やはり中、高校と親鸞聖人を
身近に感じる浄土真宗系の学校だったからと思います。
週3回、朝礼で6字の名号を唱え、
週1回仏教の授業がある生活を送っていたからでしょう。
流刑地上越の旅は一応終わりましたが、関東のゆかりの地にも
出かけてみたいと思っています。

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