脳腫瘍の家族の交流の場 生命のメロディ 

そよかぜと申します。脳腫瘍を患ってみえるご本人を支え介護する家族のみなさんの交流が広がればと思っております。

ご本の紹介

2007-10-29 08:48:58 | 交流
日本科学者会議から「日本の科学者」11月号が出版されました。
特集・終末期医療のあり方を考える・・・・・特に延命治療について

まえがき…………………………………黒須三恵
州祭医療の現状と問題点
――特に延命治療に関連して……………城戸良弘
終末期医療に関する報告書等の分析
――尊厳ある生とは何か…………………黒須三恵
倫理コンサルタントの視点から終末期医療を考える
――「臨床倫理コンサルテーション」の実践を通して……板井孝壱郎
法学的視点から終末期医療を考える…………古川原明子


自然が一番

2007-10-28 13:08:34 | コミュニケーション
姉とどういうコミュニケーションが必要なのか考えに考えた。担当の看護師さんに尋ねたこともあった。「普段通りのコミュニケーションですよ」「自然なコミュニケーションですよ。」姉が倒れて、脳出血だと思っていたらなんと脳腫瘍、オペの日も迫っている。「普段どおりの自然なコミュニケーション」そんな事できるわけがない。そんな心の余裕なんてない。正直そう思った。姉が旅立って今日で十ヵ月経った。今も考えている。でも最近なんか解ってきたような気がする。姉にとってみれば私は弟にすぎない。ましてやドクターでもない。もちろん脳神経外科のドクターでもない。そんな弟に「脳腫瘍は・・・・・」と説明されても、なんの説得力もない。不快な気分になるだけではないのだろうか?ましてや「絶対助かります」なんて言っても何の励ましにもならない。看護師でもないしカウンセラーでもない。姉の顔を見ながら姉が話すことに耳を傾けじっくり聴いてやるのが一番だろう。分からないことには分からないと答えればいいのではないか、特別に今までの自分と変わった話し方などできるものではないし、かえって姉にとっては気持が悪いのではないか?「応援できることはしますから、何か希望があれば言ってください」。そんなことぐらいしか言えないのではないのか。姉に私ができることを言ってあげた。「入院にかかる費用は任せてください。病気のことはドクターとじっくり相談しましょう。」「貴女を支えてあげるから治療に専念してください。」姉が安心して治療ができるという気持になってもらうことが一番大事なことなのだろうと思います。姉が旅立った後だから今は冷静に考えているし、こうやって書き込みもしている。でも当時は病床の姉を前にして、何を話したら一番いいのか必死で考えていた。姉は目の前にいる。何かを話さなければならない。無理に話しかけることもなかったのではないだろうか。姉の病床の前に座って姉を見守ってやる。姉が眠りから覚めたとき、傍にいてくれた。そういうことで結構安堵するのではないか。時には言葉を交わさなくてもいいのではないか、沈黙の時間も大切な時もある。特別なことをしようとするといつかは無理がでてくる。何か特別なコミュをしようとして右往左往していただけであったのではないか。

入院生活二日目

2007-10-27 00:17:16 | 看護・介護
姉に付き添ってCTの撮影に行った。大学病院だけあって広くて迷路のようだった。掲示板を頼りに受付をして撮影してもらった。体全体、特に脳から脊髄にかけては詳しく撮影したようだ。午前中はそれで終わった。昼食は病院食をもちろん自力で食べていた。姉を見守ることが自分の出来る唯一のことだった。必要な物の買い足しに午後からは病院を出た。姉の入院生活に必要なものは揃った。姉も安心して入院生活を送れる目途が立って穏やかな表情になった。でも私には心中穏やかならざるものがあった。これから自分の生活をどうすればいいのか、姉とどういったコミュニケーションをしていけばいいのか、姉の左手の麻痺はオペをすれば回復をするものなのか、姉は再びピアノを弾けるようになるのだろうか?この時点では脳腫瘍であることは告知されていたが、神経膠芽腫でグレード4であることは分かっていなかった。新しい年を迎えられるものかという不安もよぎった。職場からは車で40分、拙宅からは30分毎日いくら遅くなっても姉を見舞いにいくことにした
。面会時間は決まっていたが家族の者ということで午後10時くらいまでは許可された。


入院生活一日目

2007-10-15 22:37:05 | 看護・介護
病室も決まり必要なものも準備して入院生活が始まった。担当の看護師さんも紹介していただき、姉と看護師さんの話が続いた。姉の気持ちを丁寧に聞き取っていただいたようである。姉が倒れて、姉を支えるのは私自身しかいなかったので、これから自分がどのように生活をしていけばいいのか考えあぐんだ。脳腫瘍というのはいったいどういう病気なのか、インターネットで検索するが専門的すぎて分かったようで分からない。姉が主治医から今後の治療方針(オペを含めて)を聞くことになるから同席して病気のことは主治医から聞いて先ず病気のことを知ろう。姉をサポートするためにどうしたらいいのか、先ずワイフに姉の病状を伝えて私としてはできるだけの支援をするから協力をして欲しいことの確約(スマイル)を得る。ただし姉とワイフはほとんど面識もなく、姉の生活をほとんど知らないからあえて見舞いなどには行かなくてもよいということ。姉も倒れて生活の支援は弟に頼ることになるのが一番歯がゆかったと思う。姉はとにかくしっかり者であり、頼りない弟の世話になることなど考えもしなかったであろうから。姉にできるだけの支援をすると心に決めたものの、具体的にどんなことをすればいいのか、やはり相談相手が欲しかった。それが本音だった。

受診

2007-10-11 22:09:37 | 発病からの経過
脳神経外科を姉と一緒に受診した。前の病院で撮ったMRIやCTの画像を診られてドクターは脳腫瘍と断定された。悪性の物か良性であるかは組織検査をしてみないと分からないということだった。手術を前提に明日から入院することになった。姉も専門の先生だから安心して聞き入っていた。以前に新聞の記事を読んで知識があったみたいで、グリオーマとか難しいことをドクターに尋ねていた。前の病院のことがあったので、ドクターから丁寧な説明があり、安心して治療が受けられる病院が決まって安堵したようだった。

発病(2)

2007-10-10 09:53:55 | 発病からの経過
姉が搬送された病院は高齢者が多く入院されていた。看護師さんよりもヘルパーさんが多く働いてみえた。ドクターの口は重かった。姉の今後の治療方針も語られず、もちろん退院の話題もなく日がどんどん過ぎていった。姉はもちろん私も不安がいっぱいになってやむなく問うことになった。脳神経外科の専門医ではなかったが、ドクター曰く「脳腫瘍の疑いがある。大学病院を紹介するから、一度受診して検査をしてもらった方がいい。脳腫瘍であっても、頭の浅いところにありオペもそんなに難しくない。」「脳腫瘍の疑いがある」このことを姉にどう伝えればいいものか?大学病院に行く前日に姉の希望で家に一度帰った。「もうあの病院には戻りたくない。別の病院がいい」と涙ながらにぽつりと言った。病院に対するいろいろな思いがあったと思う。姉の気持ちはよく分かった。大学病院で診察をしてもらうとは言ってあったが、姉にはまだ脳腫瘍の疑いがあることは告げていなかった。なんとか「説得」して病院に戻った。「ドクターから何か話があったの?」姉が私に問いただしてきた。「ドクターを呼んで、直接話がしたい。」結局ドクターから姉に話をしてもらった。2004年8月18日から2004年9月7日までこの病院でお世話になった。


ご支援有難うございました

2007-10-08 23:03:55 | 交流
先日なつきさんのご主人が無事に退院されました。オペは長時間にもわたるものでしたがクリアーされ、今は自宅療養をされリハビリに励まれています。みなさんの応援、励まし、労いのコメントやメッセージがなによりの支えになったと述べられています。詳細はなつきさんのブログをご覧下さいね。今後ともご支援を宜しくお願いいたします。ご支援有難うございました。

発病

2007-10-07 22:11:21 | 発病からの経過
2004・8・20路上を歩行中意識消失(転倒時の記憶無し)、救急車で病院に搬送された。ワイフから携帯に連絡あり、病院に駆けつけた。病室に入って、久しぶりに姉を見た。病院にいる自分が信じられないという生気のない表情だった。「左の指が動かないの」姉の発したその言葉に姉の苦痛、不安が凝縮していた。ピアノを教えて生計を立てて、私とは独立して生活をしていたからだ。「大事にしなよ!大丈夫だから。」とやっと平静を装い言葉をかけると同時に姉の痙攣が始まった。左手が震えだし、顔面が硬直しだした。私は必死の思いで姉の手を握るだけしかできなかった。ナースコールをして看護師さんを呼んだ。ドクターも駆けつけてくれて痙攣を抑える応急の処置をしていただいた。ドクターの所見ではCT,MRIを診るかぎりでは右前頭葉に脳出血が起こったためであるということだった。暫く様子を診るために入院することになった。左手の麻痺が治って欲しい、脳血管障害だけならリハビリしてピアノが弾けるようになって欲しい。入院に必要な物を購入して家路についた。脳溢血で倒れ右手の機能を失われた館野泉さんの本を勧めてみようと思った。左手だけで弾くピアニスト館野さんのCDも聴かせてあげようと思った。もちろん左手の麻痺が回復することを願っていた。