錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

脇坂淡路守

2018-11-27 23:54:13 | 赤穂浪士・忠臣蔵


 錦之助の脇坂淡路守を久しぶりに見たくなって、オールスター映画『赤穂浪士』を見た。この『赤穂浪士』、大佛次郎原作のものとして二度目の映画化であるが、前の『赤穂浪士』に比べると、出来が悪い。
まあ、錦之助の登場シーンだけ見れば良いと思って、あとの部分は適当に見た。
 錦之助の出番は前半に2場面、後半の初めに1場面ある。脇坂にしては、普通よりずっと多い。錦之助が当時東映のトップスターだった証しであろう。

 最初は、脇坂が浅野内匠頭の江戸屋敷を訪ねて、内匠頭を励ます場面。錦之助が橋蔵と同じ場面で台詞(せりふ)を交わして共演するのは、確か数年ぶりだったと思う。『七つの誓い』以来であろう。
 錦之助と橋蔵が対座するところから始まるが、ここは錦之助が一方的に話し、橋蔵は聞き役にすぎない。むしろ、北の方(内匠頭の妻)の大川恵子と錦之助のやり取りが楽しい。病気で床にいた北の方が着飾って出て来て、淡路守様の声が大きくて、寝てもいられないと言うと、錦之助は、「とんでもない言いがかりをつけられてしまった」と言って、高笑いする。この豪快な笑い方がいい。錦之助の持論、笑いも台詞である。



 そのあと、錦之助は食事に魚を出された殿様の話をするのだが、これは落語のネタ。三遊亭金馬(出っ歯の三代目)がこの話を「目黒のサンマ」のまくらに使っているが、昔からある有名な小噺らしい。
 殿様がおかしら付きの魚に箸を付け、一口食べたあと、代わりを持てと言う。あいにく同じ魚がなく、困った家臣が、庭に咲いた桜の方に殿様の視線を向けさせている間に、お膳の魚をひっくり返す。また一口食べた殿様が、さらに代わりを持てと言う。困り果てた家臣を見て、殿様が「もう一度、庭の桜を見ようか?」
 錦之助は、大の落語好きで、座興で持ちネタを一席演じることも度々あったと聞く。淡路守が殿様と魚の話をする部分は、脚本にあったのだろうか。この場面の演出は、私の推測では、松田定次ではなく、共同監督のマキノ雅弘だったと思う。クレジット・タイトルにマキノの名前はないが、この映画の半分近くはマキノが撮ったそうだ。してみると、この場面はマキノと錦之助の二人で即興的に作り変えた可能性が高い。
 それはともかく、そのあと赤穂から鯛の浜焼きが届いたという知らせがあり、立ち上がった内匠頭が襖の向こうに並んだ鯛の前で、釣った家来の名札を見ながら感動することになるのだが、この時の橋蔵の一人芝居が下手で、ここを見るといつもげんなりしてしまう。
 最後に大川恵子がどの鯛が食べたいかと錦之助に訊かれて、お殿様が桜を見ている間に出された鯛と言って、また錦之助が高笑い。「すっかり当てられてしまった」と言う。
 帰り際、玄関の前で駕籠に乗った脇坂は、見送りに控えていた片岡源五右衛門(山形勲)に吉良上野介に送った品を問いただし、家来の本分を説く。
 
 そして、いよいよ殿中松の廊下の場面。
 やはり、脇坂淡路守と言えば、見せ場は、内匠頭が刃傷に及んだ直後、避難する吉良の前に現れて、すれ違いざま、紋付を血で汚したと怒って、吉良の頭を扇子(中啓)で打ちつけるところだ。ここは、松の廊下の刃傷の場面の締めとして欠かせぬ箇所で、観客は、憎き吉良に対するこの脇坂の行為を見て、留飲を下げるわけだ。したがって、脇坂の役は小物俳優では務まらない。威厳と風格がなければならない。錦之助の脇坂は、戦後の「忠臣蔵」映画ではおそらく一番若かったと思うが、28歳にしてこの威厳と風格、さすがである。
「おのれ~、この脇坂の定紋を不浄の血でけがすとは!! 慮外者めッ」
 と言うやいなや、吉良上野介の頭と胸を打ち付けた時の迫力がすごい。月形龍之介の上野介も「平に~」と許しを請うて、たじたじだった。

 後半は、赤穂城の明け渡しの場面で、錦之助の脇坂が白馬に乗って、颯爽と現れるが、馬上の姿が実に様になっている。
 そして、城内の内匠頭の居室で、千恵蔵の大石と対面する場面。千恵蔵が受けの芝居に徹し、錦之助の演技を引き立てる。それに応え、錦之助が思う存分、芝居をしていた。

*下にアップした役者絵、錦之助の特徴をよくつかんでいる。ただし、萬屋錦之介とあるのはいただけない。





長門裕之は語る。

2018-11-19 23:23:04 | 錦之助ノート
 部屋の片づけをしていたら、段ボール箱の中から、映画館のチラシやパンフがごっそり出てきた。その中に、以前無料で配布していた「東映キネマ旬報」が数種類あって、高倉健が表紙の2010年夏号が目に留まった。特集「日本侠客伝」とあって、長門裕之のインタビューが載っている。
 あれっ、読んだ記憶がない。そういえば長門裕之は叔父のマキノ雅弘監督の「日本侠客伝」シリーズにはいつも出演していたなあと思い当たる。



 片付けの手を休めて、早速読んでみると、面白いことが書いてある。撮影現場でのマキノ監督の演出法をいろいろ語っているのだが、特に中村錦之助、高倉健という二人の俳優が、マキノ演出にどう対応していたかについて、そばで観察していた長門が率直に感想を述べているのだ。
 長門は錦兄ィ(錦之助)に敬服していたらしく、こんなことを書いている。
「(マキノ監督と)錦兄ィとのやり取りは面白かったですね。錦兄ィは自分が持っている芝居の資質みたいなものを、いくらマキノさんに演出されても完全には同化させない。妥協しないで自分の芝居を出しながら、ちょっとだけマキノ節をからめて見せる。その技術が凄くて、器用な人なんです。」
 長門裕之が錦之助と共演したのは、映画では『日本侠客伝』第一作だけであるが、ズタズタに斬られた長門が錦之助の腕の中で死ぬ名場面があった。あの時の二人は息があっていたなあ。
「高倉健さんは、どちらかと言えば不器用な方ですから、マキノさんに言われた通りにやる。ただ『このセリフは違いますね』と、譲らない部分は決して譲らない人です。」
 さらに長門は、「鶴田浩二さんもマキノさんに対しては従順でしたね。そういう高倉さんや鶴田さんの、いい意味で一貫した個性を、マキノさんは上手いこと使って、いい部分を引き出した。それが演じたキャラクターの魅力にもなっていったと思うんです」と語っている。つまり、健さんも鶴田もマキノ監督がその個性を引き出し、任侠映画の主役に定着させたというのが長門の見方のようだ。
 ただし、「健さんはマキノさんが作る任侠の世界に最後まで馴染んでいなかった気もしますね」と言い、「要求されるものに応えようとやっていたけれども、どこかに抵抗感があった。だからその後は東映を離れて、まったく違ったタイプの役柄に挑戦したんでしょう」と語る。
 確かに、高倉健は、侠客やヤクザを演じ続けることに嫌気がさしていたんだろうなあと思う。「日本侠客伝」で最初の数作は、主役の健さんは堅気の役だったのだが、いつの間にか侠客(男気のあるヤクザ)にされてしまった。

 ところで、『日本侠客伝』第1作でヤクザの役をやったのは錦之助で、これが素晴らしかった。周知のように、『日本侠客伝』は当初錦之助の主演作であった。それが、運悪く田坂具隆監督の『鮫』の撮影が長引いて、『日本侠客伝』のスケジュールが立たなくなってしまった。そのため、主役を高倉健に譲り、錦之助は特別出演の形で、脇役に回ったのだった。その辺の事情は別の機会に書きたいと思う。




映画『祇園祭』ノート(6)

2018-11-01 13:31:15 | 錦之助ノート
 先日、京都で『祇園祭』のシンポジウムに出席し、研究者たちの発表を聴いて、初めて情報を得たことがいくつかある。

一、京都府から『祇園祭』の製作費の融資をしたのは、1967年ではなく、68年で、金額は5000万円。当時の京都府議会の議事録に記載されているそうだ。京都銀行が京都府へ5000万円を入れ、その金を日本映画復興協会へ回したらしい。しかし、京都府からその後の融資が行われたかどうか、また、あったとしたら金額はいくらなのか(再度5000万円だったのか)? その点については未調査で不明のようだ。

二、京都市民(府民)に売った前売り券(350円)とは別に、1000円券というのもあったという。これは、無料試写会付きで、広く市民に資金援助を求めたものだが、売った団体や売れた枚数は不明。

三、京都文博に所蔵されている伊藤大輔文庫(夫人から寄贈)に、『祇園祭』の未定稿が数冊残っていること。発表者の京樂真帆子さんが脚本家の八尋不二(伊藤大輔と連名)が書いた二冊の脚本に目を通したという(京樂さんは、一冊目を「山鉾本」、二冊目を「未定稿本」と名付けていた)。山鉾本は原作をずいぶん変えたものだが、山鉾本の方が史実に添っていて、これを映画化した方が良かったのではないかという感想を述べていた。また、加藤泰の書いた脚本も残っているらしい。

四、史実では、祇園祭を阻止したのは、足利幕府というより、むしろ延暦寺の大衆(だいしゅ、仏僧の集団)だったが、実際に作られた映画では、延暦寺の「山法師」「僧兵」という言葉(鈴木・清水脚本にも出てくる)が全部削除され、足利幕府だけが阻止勢力になっていた。
 こうした描き方は、明らかに原作者はじめ京都府議会の日本共産党の政治的意図によるものだったと思われる(京樂さんははっきりと言わなかった)。つまり、政治権力を有する支配者階級を武士(侍)による足利政権に限定し、武士階級が民衆(町衆、農民、下層民)を搾取・抑圧し、民衆は武士に対抗し、自治体制を確立するといった構図を明確にしたかったのだと言える。