いよいよ最終日。泣いても笑っても今日一日で終わりだ。
朝6時半に起床。書き溜めておいた日誌をパソコンで打ってブログに上げる。京都シネマでの出来事は、夜ホテルに帰ると毎日雑記帳にメモしているのだが、文章にすると結構時間がかかる。主催者兼レポーターを一週間やってきたが、自分なりにまあまあよく頑張ったと思う。
9時半、京都シネマへ。ロビーでいろいろな方に会う。錦ちゃんファン会の人たち、hanaさん、月形哲之介夫人、今日のゲストの高岡正昭さんほか、顔見知りの方々に挨拶。高岡さんは、3日間も京都シネマに通って、映画を観ていただいている。京都での錦ちゃん祭りの開催を心底喜んで、全面的に協力をなさってくれた。今日は知人の方が数人応援に駆けつけてくれるようだ。月形家のみなさんも祇園会館の時以来ずっと協力していただいている。有難いかぎりだ。
10時、『浅間の暴れん坊』の上映が始まる。中ほどの列の端に座って鑑賞する。
この映画の錦之助は何度観てもカッコいい。40名ほどの入り。
11時半。映画が終わってロビーに出ると、京都シネマのチーフの横地さんに声をかけられる。中島貞夫監督が見えて、館主の神谷さんと上のオフィスでお話しているので、ぜひごいっしょにどうぞと言われる。中島監督は神谷さんのことをずっと前からよく知っていて、錦之助映画祭りを京都で催すにあたり京都シネマを私に勧めてくださったのも監督だった。この間の火曜日に監督がゲストに来られた時は、ちょうど神谷さんが大学の授業で同席できなかった。それで今日は最終日ということもあり、中島監督が気を遣ってわざわざもう一度訪ねに来てくださったわけだ。
横地さんに案内されて、6階(5階だったか?)のオフィスへ案内される。
京都シネマは、如月社(きさらぎしゃ)という株式会社が経営していて、神谷さんはこの会社を5年前に設立したという。彼女の経歴と如月社設立の経緯については、以下の記事をお読みいただきたい。
http://www.onozomi.com/kaiwa/cinema1.html
神谷さんは如月社の社長(代表取締役)で、京都シネマの一切の責任を負っているわけだが、6階のオフィスというのは如月社の社長室のようなものか。中へ入ると、二人がけの椅子に中島監督がどっかと座っていて、一人がけの椅子に座っている神谷さんから、その隣りの椅子を勧められる。今日は最終日なので、中島監督と神谷さんと私の3人で反省会と今後のことを相談しようというのだろう。
中島監督が、
「京都で興行をやるのはやっぱり難しいんだよなー」と実感を込めておっしゃる。
「京都は時代劇の土壌が涸れているんじゃないですか?」と私。
「土壌を耕していないことは確かです」と神谷さん。
「それに時代劇ファンのための情報網もないから、ちょっとした宣伝だけでは見逃されてしまうのかも…。チラシももっと効果的にまけば良かったですね。もっと私自身があちこちに働きかければ良かったと思っています」と私が言うと、神谷さんがすまなさそうにうつむく。
40分くらい話したであろうか。なんだかほとんど私が話していたような気がする。こういう時、感じたことをズバズバ言うのが私の性分で、中島監督も神谷さんも多分辟易したのではなかろうか。関西の映画館事情のこと、一部の映画評論家のことについて、ここでは書けない批判的なこともかなり言わせてもらったと思う。
神谷さんは単なる映画の興行者だけではなく、映画の上映を文化事業の一つと考えて、邦画洋画を問わずマイナーな自主映画や埋もれかかった問題作なども取り上げて上映活動をしてきた人である。が、どちらかと言えば、コンテンポラリーな映画にずっと関心を抱いてきたので、古い日本映画の名作を上映したことなどほとんどなかったようだ。溝口健二の『滝の白糸』を以前上映したことがあるとは言っていたが、まさか自分の映画館で「錦之助映画祭り」と称して昭和30年代の東映時代劇を上映するとは考えてもみなかったと思う。
「今回の上映会では勉強になることが多かったですね。またやらせていただきますので、よろしく」と神谷さん。神谷さんは、今回の映画祭りでは『殿さま弥次喜多』を観て、びっくりしたと言う。「こんなに面白いとは思わなかった!」と。
京都シネマでは、これからも時代劇の名作特集を定期的に催して、過去の映画の素晴らしさを伝承していきたいとのこと。中島監督も私も大いに賛同。協力を惜しまないことを約束する。この試み、具体的には来年からになりそうだ。3月10日(錦之助さんの命日)前後の一週間、また錦之助映画特集をお願いしておく。まだずっと先のことで、どういう形になるか分からないが、神谷さん、ちゃんと手帳にメモしていた。次回の上映会が実現できるとしたら、ぜったい大入り満員なるよう、私も頑張ろうと心に誓う。(つづく)
朝6時半に起床。書き溜めておいた日誌をパソコンで打ってブログに上げる。京都シネマでの出来事は、夜ホテルに帰ると毎日雑記帳にメモしているのだが、文章にすると結構時間がかかる。主催者兼レポーターを一週間やってきたが、自分なりにまあまあよく頑張ったと思う。
9時半、京都シネマへ。ロビーでいろいろな方に会う。錦ちゃんファン会の人たち、hanaさん、月形哲之介夫人、今日のゲストの高岡正昭さんほか、顔見知りの方々に挨拶。高岡さんは、3日間も京都シネマに通って、映画を観ていただいている。京都での錦ちゃん祭りの開催を心底喜んで、全面的に協力をなさってくれた。今日は知人の方が数人応援に駆けつけてくれるようだ。月形家のみなさんも祇園会館の時以来ずっと協力していただいている。有難いかぎりだ。
10時、『浅間の暴れん坊』の上映が始まる。中ほどの列の端に座って鑑賞する。
この映画の錦之助は何度観てもカッコいい。40名ほどの入り。
11時半。映画が終わってロビーに出ると、京都シネマのチーフの横地さんに声をかけられる。中島貞夫監督が見えて、館主の神谷さんと上のオフィスでお話しているので、ぜひごいっしょにどうぞと言われる。中島監督は神谷さんのことをずっと前からよく知っていて、錦之助映画祭りを京都で催すにあたり京都シネマを私に勧めてくださったのも監督だった。この間の火曜日に監督がゲストに来られた時は、ちょうど神谷さんが大学の授業で同席できなかった。それで今日は最終日ということもあり、中島監督が気を遣ってわざわざもう一度訪ねに来てくださったわけだ。
横地さんに案内されて、6階(5階だったか?)のオフィスへ案内される。
京都シネマは、如月社(きさらぎしゃ)という株式会社が経営していて、神谷さんはこの会社を5年前に設立したという。彼女の経歴と如月社設立の経緯については、以下の記事をお読みいただきたい。
http://www.onozomi.com/kaiwa/cinema1.html
神谷さんは如月社の社長(代表取締役)で、京都シネマの一切の責任を負っているわけだが、6階のオフィスというのは如月社の社長室のようなものか。中へ入ると、二人がけの椅子に中島監督がどっかと座っていて、一人がけの椅子に座っている神谷さんから、その隣りの椅子を勧められる。今日は最終日なので、中島監督と神谷さんと私の3人で反省会と今後のことを相談しようというのだろう。
中島監督が、
「京都で興行をやるのはやっぱり難しいんだよなー」と実感を込めておっしゃる。
「京都は時代劇の土壌が涸れているんじゃないですか?」と私。
「土壌を耕していないことは確かです」と神谷さん。
「それに時代劇ファンのための情報網もないから、ちょっとした宣伝だけでは見逃されてしまうのかも…。チラシももっと効果的にまけば良かったですね。もっと私自身があちこちに働きかければ良かったと思っています」と私が言うと、神谷さんがすまなさそうにうつむく。
40分くらい話したであろうか。なんだかほとんど私が話していたような気がする。こういう時、感じたことをズバズバ言うのが私の性分で、中島監督も神谷さんも多分辟易したのではなかろうか。関西の映画館事情のこと、一部の映画評論家のことについて、ここでは書けない批判的なこともかなり言わせてもらったと思う。
神谷さんは単なる映画の興行者だけではなく、映画の上映を文化事業の一つと考えて、邦画洋画を問わずマイナーな自主映画や埋もれかかった問題作なども取り上げて上映活動をしてきた人である。が、どちらかと言えば、コンテンポラリーな映画にずっと関心を抱いてきたので、古い日本映画の名作を上映したことなどほとんどなかったようだ。溝口健二の『滝の白糸』を以前上映したことがあるとは言っていたが、まさか自分の映画館で「錦之助映画祭り」と称して昭和30年代の東映時代劇を上映するとは考えてもみなかったと思う。
「今回の上映会では勉強になることが多かったですね。またやらせていただきますので、よろしく」と神谷さん。神谷さんは、今回の映画祭りでは『殿さま弥次喜多』を観て、びっくりしたと言う。「こんなに面白いとは思わなかった!」と。
京都シネマでは、これからも時代劇の名作特集を定期的に催して、過去の映画の素晴らしさを伝承していきたいとのこと。中島監督も私も大いに賛同。協力を惜しまないことを約束する。この試み、具体的には来年からになりそうだ。3月10日(錦之助さんの命日)前後の一週間、また錦之助映画特集をお願いしておく。まだずっと先のことで、どういう形になるか分からないが、神谷さん、ちゃんと手帳にメモしていた。次回の上映会が実現できるとしたら、ぜったい大入り満員なるよう、私も頑張ろうと心に誓う。(つづく)