とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 235 平尾昌晃 畑中葉子 カナダからの手紙 (1978年紅白歌合戦)

2017-11-01 11:11:57 | 日記
えっ、カナダ !!! とにかく歌詞の発想に驚きました。また、畑中葉子はまだ十代。この才能を見出したこの人はたくさんの歌手を世に送り出して・・・。そして、2017年7月21日にお亡くなりになりました。決して忘れませんよ。

平尾昌晃 畑中葉子 カナダからの手紙 (1978年紅白歌合戦)



平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年12月24日 - 2017年7月21日)は、日本の作曲家、歌手。社団法人日本作曲家協会・常務理事、社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)理事。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、現在は本名の通り平尾昌晃を芸名としている。東京市の牛込(現東京都新宿区)「生まれ」であるが、終戦後、神奈川県の湘南エリアに移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る。既婚、3男あり。


来歴・人物

化粧品業を営む平尾聚泉の孫。クラシックの作曲家・国立音楽大学教授の平尾貴四男は伯父。小学3年生のとき、自宅に来ていた将校から貰ったジャズのLPを聴き衝撃を覚える。11歳のとき、のど自慢大会に出場し「奥様お手をどうぞ」を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう。

茅ヶ崎市に住み、ジャズ教室に通い、朝丘雪路、水谷良重、ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド『チャック・ワゴン・ボーイズ』に入る。しばらくして、『チャック・ワゴン・ボーイズ』はボーカルの小坂一也が脱退したため、『オールスターズ・ワゴン』となる。

1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロの渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビュー。その後、ミッキー・カーチス、山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」等で爆発的な大人気を博した。1958年には、キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」1960年4月には「ミヨチャン」を発表し、2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットとなった。

ポール・アンカが作詞・作曲した「好きなんだ! (I Love You)」は、日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局・KPOIが流したことをきっかけにリクエストランキングで1位を記録する大ヒットとなった。1959年12月、ハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」では、日本代表として歌唱した。

1965年2月20日、拳銃不法所持で逮捕[12]。平尾が独自にハワイから持ち帰り、帰国後「日頃、興行でお世話になっているから」と、名古屋と東京の暴力団組長に拳銃をプレゼントした事件が発覚した。平尾は22日間拘留され[12]、釈放後「軽率だった」との反省文が雑誌に掲載された。

ロカビリーブームが去った1965年頃、北海道からじわじわ火がつき始めた「おもいで」で再ブレイク。「おもいで」は、渡辺プロの新人歌手だった布施明が1966年に再レコーディングし、これもヒットとなった。続けて、作曲家として「霧の摩周湖」「恋」、じゅん&ネネ「愛するってこわい」、梓みちよに提供した「渚のセニョリーナ」などがヒット。「霧の摩周湖」、「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞。

その後も作曲家として非凡な才能を発揮していたが、1968年12月3日、結核を患い健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、肋骨を6本取り除く大手術を受ける。1969年11月30日に退院。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている。

1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を五木ひろしや小柳ルミ子、アグネス・チャン等に提供している。作詞家の山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。
1971年、五木ひろしに提供した「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子に提供した「わたしの城下町」がそれぞれ大ヒット。
1972年、小柳ルミ子に提供した「瀬戸の花嫁」で第3回日本歌謡大賞受賞。
1973年、五木ひろしに提供した「夜空」で第15回日本レコード大賞受賞。

1974年、「平尾昌晃音楽学校(現平尾昌晃ミュージックスクール=HMS)」を創立[19]。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューバックアップもする。同校出身者は狩人、畑中葉子、川島なお美、石野真子、松田聖子、川崎麻世、大沢逸美、森口博子、芳本美代子、笹峰愛、倖田來未、後藤真希、西田あい、など。歌手としては、生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」等のヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1980年代のNHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABC発テレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手掛ける。また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手掛けており、こちらは今日に至るまで長きに渡って関係が続いている[20]。

俳優としても、『二階の他人』などに出演。競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有[21]。またジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもある。オートレースのファンとしても有名で、川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほど。作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供した。音楽活動のみならず、『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、チャリティゴルフの企画等、幅広く活躍。

2001年、モンブラン国際文化賞受賞。
2002年、特定非営利活動法人「ラブ&ハーモニー基金」を設立。音楽を通じた福祉活動を展開している。
2003年、紫綬褒章受章。
2004年に三男の平尾勇気が歌手デビューを果たす。

2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて優秀な生徒をCDデビューさせている。
2006年の『NHK紅白歌合戦』より逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮を務めている。但し宮川や、その前任の藤山一郎、前田璣などと比較するべくもなく本格的に勉強した指揮法ではなく、いわば名誉職的な役割である事を本人も認めている。
2017年7月21日、肺炎のため東京都内の病院で死去[1]。79歳没。訃報後の7月23日、2016年に再々婚していたことが明らかとなった[22]。平尾の葬儀は親族らによる密葬の形で7月30日に執り行われたため、10月30日に東京・青山葬儀所にて渡邊美佐(渡辺プロダクショングループ代表)を葬儀委員長とし、故人と縁のあった布施明、原辰徳、青木功らを発起人とし『故 平尾昌晃 葬儀・告別式』と題して公のお別れの会が行われる予定である。(Wikiより)