サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

インタビュー特集(41)ハローとさようなら

2017-04-17 16:00:33 | 日記


ポニョ:今日のインタビューで西洋人ってすぐに男女がくっ付いたり、別れたりする事をサイババさんが皮肉って言われたのが面白かったぜよ。サイババさんは「(人がアシュラムにやって来た)次の週にはもうすでにガールフレンドが出来ました。そしてその翌週には「彼女は私の妻です」と言って私に紹介します。」って言われたんや。

ヨシオ:西洋人ってそう言うところがあるよな。すぐにくっ付いてすぐに別れるんや。俺がインタビュールームにいる時もメルボルンからのカップルにサイババさんが、君の奥さんはどこですか?って聞かれたんや。それでここに座っているのが家内ですがと答えると、サイババさんは違うやないか。この女性はただのガールフレンドで、奥さんはメルボルンにいるやないかと言われたんや。それでご主人は霊的に見たらそうなんでしょうね。とか何とか言ってたな。

ポニョ:霊的な法則では、一度結婚してその結婚を最後まで全うせずに離婚すると、また次の生でその別れた人と結婚しなければいけないんやって聞いた事があるぜよ。

ヨシオ:こちらでは何度も結婚して、何度も別れる人が多いけれど、その場合はどうなるんやろな?また何度も生まれ変わって下さいねの世界に突入やろな。と言うわけで今日は結婚の話をサイババさんがされました。どうぞお楽しみ下さいね。


あなたがたは(自らはアートマだという)確信を培わねばなりませんし、表面的な見方を避けねばなりません。あなたがたは遠くからやって来ました。スワミは、あなたがたが大きな信愛(神への愛、バクティ)を持っていることを知っています。

あなたがたはとても遠くからやって来ましたね。そこにはスワミへの大きな愛があります。でも、あなたがたはその愛を誤用しています。自分と神との間の直接的な愛を持つようにしなさい。その愛を他の方向に逸らしてはいけません。ただ一つの愛があるだけですから。とてもたくさんの姿があるのです。とてもたくさんの道があるのです。

夫と妻の愛はモーハ(愛執、執着)、母親と子の間の愛はヴァートサルヤと呼ばれています。それは母性愛とも呼ばれていますよね。交遊関係における親しい間柄や友人との愛は友愛と呼ばれています。

神との関係はバクティです。名前の違いがあるだけです。姿形が違っても愛は一つなのです。愛の中に生きなさい。

愛は神だ。(胸に手を当て、しばしバクタたちを見つめる。通訳が「これは最も重要です」と補足する)

そのような愛を変化させ続けてはならない。ここに来る多くの人たちは一人でやって来ましたね。君は何人でやって来たの?と近くにいた帰依者にスワミが尋ねると「一人で来ました」と答えました。

(人がアシュラムにやって来た)次の週にはもうすでにガールフレンドが出来ました。

そしてその翌週には「彼女は私の妻です」と言って私に紹介します。

(一同爆笑)

これはとても悪いことですよ。あなたがたはなぜここに来ているのか? あなたがたはここ以外の場所で、その種の交際や妻を得ることができるのに。

あなたがたはどうして、こんな遠い所まで大金を使ってやって来たのか?

いったいどうしてたくさんのお金を無駄にするのか? ここに来てから一体何を手に入れたのかですか? 何も手に入れてなどいないではないですか。世俗の生活と全く同じ事をしているだけじゃないですか。

瞑想の時間、考える時間、というふうに時間を分けなさい。この人生は一度きりであり二度目はないですから。

夫と妻は同じ寝床で寝ますよね。でも、見る夢は別でしょう 。夫婦で同じ夢は見ないでしょう。二人で同じ夢を見ることはない。それでは二人の結び付きはどこにあるのですか?

結婚前、妻はどこにいて夫はどこにいたのだろう? 生まれる前、誰が息子で誰が父母だったのでしょうか? 全ての関係は流れゆく雲のようなものなのです。全ての関係は流れゆく雲のように来ては去って行くんです。

でも、神性は生じれば育ちます。生じれば育つのです。

全ての関係が重要なのではありません。付き合い、付き合い、付き合いばかり…。

神との付き合い、それが真のバクティ(神への愛、帰依)なのです。他の人とは付き合わないようにしなさい。あちこち出かけて行くのをやめなさい。神はあなたがたの内にいるのです。神はいつもあなたがたの中に、あなたがたと共に、あなたがたの上に、あなたがたの下に、あなたがたの周りにいるんですよ。

これが真の愛なのです。真の愛は変化しない。真の愛は惑わされることなどないのです。

あなたがたは時々、何らかの思いに囚われるかもしれません。悪い思いは抑えなければいけません。あなたは主人です。奴隷ではないのです。五感をコントロールするなら、あなたは五感の主人となれます。五感が自由に歩き回るのを許しておけば、あなたは五感の奴隷となるのです。常に主人でありなさい。奴隷になるのではなく。マスター、マスター…(主人、主人…)常にマスタープランを持っていなさい。

(一同笑い)

これは重要な話です。あなたがたの多くは、真の帰依者になりつつあります。真の帰依者でなければ、こんな遠くにまで来たりはしないでしょう。

スワミはあなたがたを愛しています。でもあなたがたのマインドは時々あちこちにさまよい始めます。瞑想のときですら、マインドはあちこちさまよっているでしょう。

(一同笑い)

マインドが飛んだり跳ねたりしていますね。まるでエアポケットのようだ。それって良くないです。

神を想いなさい。神の御名を憶念しなさい。これは特に重要なのです。

唯一なる神だけが存在します。多くの神がいるのではないのです。神を想いなさい。

イエス、ラーマ、アッラー、ブッダ、どんな姿、どんな名前でも良いのです。それが多様性の中の一体性(unity)というものなのです。多様性の中の一体性です。

宝飾品は多いが 黄金は一つ。

星は多いが空は一つ。

生き物は多いが、呼吸は一つ。

国は多いが、大地は一つ。

名前は多いが、神は一つ。

あなたがたは、このような唯一性(oneness)を育て、手に入れなければなりません。これが真のバクティなのです。

マインドを次々と変えるべきではありません。マインドが気まぐれであるなら人生は無駄になります。

神の愛の化身たちよ!

あなたがたは大きな誠実さと神への愛を携えてここまでやって来ました。正しい道を歩みなさい。

あなたがたはインドにやって来ました。大金を使って。たくさんの時間とお金を費やしました。ここに来たからにはダイヤモンドを手にして立ち去りなさい。ダイヤモンドとは何でしょうか?

ダイ・マインドです! (心が死ぬことだ!)

(一同爆笑)

マナス、つまりマインド(思考的心)は消されなければならないのです。それがダイ・マインド(心の死)なのです。

ダイヤモンドはとても高価です。心があると、この高価な宝石は手に入りません。あなたがたは神への道を見つけました。これは価値あることです。既にその価値あるものを持っているなら、あなたがたには良いマインドがあるはずです。

せっかくこんなに遠くまで来たのだから、そのような気持ちを育てなさい。過度の執着を持ってはなりません。執着が増えれば不安も増すのです。不安のせいで集中することができなくなるのです。これが集中力が得られない理由なのです。

もし結婚したいのならしなさい。(男女が)友人になってマインドを台無しにしないようにしなさい。男女が友人同士の関係より、結婚したほうが良いのです。この種の男女関係の友情はとても悪いのです。本当に良くない。

神との友情だけを持つようにしなさい。真の友人は神のみなのです。

この世の友は心変わりします。懐に金があったり、権力のある地位に就いているときには、皆が「ハロー、ハロー」と近寄ってくるでしょう。

(一同笑い)

金や権力が無くなると、人は「さよなら」さえ言ってはくれません。

(一同苦笑い)

神には、そのようなことはないのです。神はいつもずっとあなたと共にいます。

池に水がいっぱいあるとき、そこには何匹ものカエルがいますね。池が干上がってしまえば、カエルは一匹もいなくなります。この世の友情とはそういうものなのです。それは真の結び付きではないのです。真の友情などではないのです。生涯の友は神のみなのです。それ以外は旅の道連れ(companions)に過ぎません。ただそれだけの関係なのです。

「ハローハロー、お元気ですか? はい、さようなら」で終わりです。

(一同爆笑)

無執着に関しても同じことです。心配はやめなさい。心配はどんな姿形をしているのでしょうか? 心配は心が創った幻に過ぎないのです。心配には姿形はないのです。

それでは幸せはどんな形をしているのでしょうか? 幸せにも姿形はないのす。幸せは喜びであり体験に過ぎませんよね。

あなたがたは「私は心配です」と言います。では心配はどんな姿形をしているのですか? 心配に姿形などないのです。心配は体験に過ぎません。「私は平安です」というのも、体験のひとつです。平安に姿形はないのです。

楽しみなさい、楽しみなさい。そのような平安の体験を楽しみなさい。


それからのイエス

2017-04-17 04:00:18 | 日記
サイババさんが肉体を離れらてから六周年と再降臨の前夜祭を兼ねて、サイババさんの御講話の中から特に心に響いた甘露のような御言葉と、英知の教えを網羅しました「サイのメッセージ」という本を公開しました。
https://bccks.jp/bcck/149385/info
以前公開しました「Sai's Messages for the Golden Age 」の増補改訂版です。以前の倍近い七十七万文字を超えた内容は多彩にわたり、項目は八百以上もあります。元本は「Pages」を使っていますので圧縮して400ページに抑えましたが、bccksではページ数は2736ページもあります。目次のページ数は「Pages」を基にしたものです。ページ数はダウンロードされる媒体によって変わって来ます。bccksの都合により今回はepubには対応出来なくなりましたが、bccks reader のアプリでも読む事が出来ます。紙本の設定はまだしておりません。電子本はもちろん無料です。容量が大きいのでダウンロードに時間がかかるかもしれませんが、サイのメッセージを通じて読者の皆さまにサイの恩寵が行き渡りますようにお祈り致しております。本当にありがとうございました。

イエスの名はよく知られています。
キリストとして大衆から尊敬され、愛されていますが、それは彼の考えや行動、言葉の中にエゴの形跡が見当たらないからです。
彼は嫉妬も憎悪も知りません。
彼は愛と思いやりと謙遜と慈しみにあふれているのです。
イエスという名は彼にはじまるものではありません。
彼の名はイサ(Isa)です。
文字をさかさにすればサイ(Sai)なのです。
両方とも意味はイスワラ(Isvara)、すなわち神、永遠の絶対、サット・チッタナンダ(Sath-Chith-Ananda)、すなわち存在、知識、至福なのです。
イサが何年かすごした僧院にあったチベット語の経典にはイッサと書かれています。
そのイッサは、すべての生きるものの神という意味なのです。

ポニョ:あんたは昨日インドの寺院のようなところにあるイエスキリストのお墓の写真を見た事があるって言ったけれど、その写真をどこで見たんや?

ヨシオ:昨日ポニョがトーマスの福音書の話をしてくれたやろ。それを聞いていたら、昔読んだ本の内容をだんだん思い出して来たんや。その本は「イエスはインドに住んでいた」というタイトルで、ドイツ人のホーゲル・ケルステンさんが著されたんや。結構分厚い本やけれど、イエスが十字架に磔になったあと生き返ってトルコやイランを経由してパキスタン、そしてインドに行き南インドまで足を延ばした後、北インドに戻って来て昨日言ったようにリシュケシュ正確にはスリナガルという街の旧市街にあるロバナルという建物の中に、イスラム教の聖者と一緒に埋葬してあるんや。その本の中にイエスのお墓の写真があるんや。

ポニョ:ふーん、そうなんや。めちゃ興味深々やぜよ。サイババさんが御講話に中でイエスはイッサと呼ばれていて、反対から読めばサイになるなんてダジャレを言われた事があるけれど、なんかそんな話を聞いていたらおいらもその本を読んでみたくなって来たぜよ。それでそれ以外にどんな事が書いてあったんや?
http://www.goodreads.com/book/show/631227.Jesus_Lived_in_India

ヨシオ:まさしく今ポニョが言った通り、イエスはイッサと人々に呼ばれていて、インドに向かう途中多くの人々の病いを癒したり神のメッセージを伝えながら旅を続けられたんや。名字はkobayashiっていうらしい。

ポニョ:へえ〜。なんか日本的な名字ですね。Konayashi イッサ さん....?ひょっとしたら小林一茶と言いたいの?イエスさんは痩せガエルですか?失礼な。でもそれってすごい情報やぜよ。サイババさんが言われた事が正しいって証明しているようなものやんか。善はイッサげというから、もっといろいろ教えてくんろ。他にどんな事が書いてあったんや。

ヨシオ:ちょっと今のダジャレは苦しかったな。善は急げやろ。何がイッサげや。そういやポニョが昨日紹介してくれたトーマスの話も、もっと具体的に書いてあったな。俺はこの本を読んだのはサイの帰依者になった頃やからかれこれ三十年前も経つのですっかり忘れてしまったので、思い出そうとして昨日さっと本に目を通したんや。すると最初に読んだ時には全然記憶に残っていなかったトーマスの話が出て来たので驚いたな。これは昨日ポニョが言ってたやつと一緒やと思って。

ポニョ:あのね。あんたの話を聞いていたらいつもイライラするんだってばよ。それでその本に一体どんな事が書いてあったのかという事を、さっきから28回も聞いているんでヤンス。

ヨシオ:28回も聞いていないやないか。イエスは磔にされた後、お母さんのマリアさんやトーマスと一緒に旅をしていた事があるんや。そしてイエスはトーマスにインドに行ってもっと修行して来なさいと言ってトーマスを連れてインドに行ったんや。その途中のタクシラの宮殿(現在のパキスタン)に招かれたんやけれど、その当時トーマスは約47歳で、イエスは、タクシラの宮殿で王とその兄弟に教えを説き、彼ら二人共イエスの教えを受け入れたと記録に載っているんや。

ポニョ:へえ〜。そんな詳しい事まで書いてあるんでヤンスか。47歳か。トーマスって意外と若かったんやな。おいらもあの日に戻りたい。聖書の中に出て来る十二使徒の中でもトーマスってあまり表に出て来ないやろ。影が薄いって言うか。ところでサイババさんは、神さんを信じず疑ってばかりいる人の事を「疑い深いトーマス君」と言ってからかわれるけれど、トーマスってイエスの神聖さを疑っていたんやろな。でもそんな詳しい記録が残っているんやったら昨日おいらが紹介したトーマスの福音書はホンマもんって事になるぜよ。

ヨシオ:昨日ポニョの話を聞いて、実は俺はこの話はどこかで聞いた事があるなって頭の片隅でずっと思っていたんや。それでこの本に書いてあったって思い出したんや。

ポニョ:本当に面白そうな本やぜよ。

ヨシオ:トーマスの福音書が歴史的に正しいという証拠は他にもいろいろあって、インド北部のタージ・マハール近郊のファテープル・シクリにある石碑にトーマスの言葉と同じ言葉が刻まれているんや。聖書から削除されたイエスの言葉は「アグラファ」といってその文書形式はトーマスの福音書とほぼ一緒なんや。

ポニョ:でもキリスト教の主流はトーマスの福音書などを認めていないぜよ。それどころか異端主義だと言ってレッテルを貼っているんや。

ヨシオ:それは仕方がないやろ。トーマスの福音書は輪廻転生やらカルマの事をイエスが言ってるし、それは今の教会の教義と相反してるからな。

ポニョ:でも惜しいよな。トーマスの福音書や今紹介してくれている「イエスはインドに住んでいた」という本は、イエスキリストの本当の人生と教えについての重要な手がかりを握っているんやけどな。

ヨシオ:でもキリスト教の一派であるグノーシス主義の聖書では、トーマスの福音書がイエスの言葉だと紹介されているんやで。

ポニョ:グノーシス主義とかなんとか主義とかキリスト教でもいろいろあるんやな。でもグノーシス主義って聞いた事があるぜよ。そうか。キリスト教でもトーマスの福音書を認める派があるって希望が持てるよな。でも一体どこでトーマスとイエスは知り合ったんやろな。

ヨシオ:それはトーマスがアンドラッパの王のゲストとしてパプラゴニアにあるアンラプロリス(今日のAnatoliaの最北部)に出向いたところ、そこでイエスと出会ったと歴史書に記載されてあるんや。

ポニョ:ふーん。そうなんや。ところでさっき気になったんやけれど、イエスさんのお母さんであるマリアさんも、イエスと一緒に旅をしていたって言ってなかったか?

ヨシオ:そうなんや。その頃、イエスはトルコの西海岸を母親のマリアと旅をしていて、そのイエスが旅したルート上に、マリアの家と呼ばれる旅行者の為の休憩所であった古い遺跡が残っているんや。イエスはマリアと一緒にトルコだけではなくヨーロッパ中を旅してたんや。

ポニョ:そして最終的にはインドまで行かれたんやったな。

ヨシオ:歴史家ムーラ・ナディーニ(1413)は、インドのゴパダッタ王とユダ・アサフという名の聖者のエピソードや二人の関係について研究していて、その聖者はイッサという名前も使用していることを確認しているんや。イエスと母マリアがゴパダッタ王が支配していた地域で多くの時間を過ごしたことを証明する、たくさんの遺跡がこの地域の町や村に残っているんや。例えば、マリアという名の小さな町の街はずれの国境にピーディーポイントという山があって、そこには、Mai Mari da Asthanという古い墓、つまり「マリアの最後の休息地」という名が付いたお墓があるんや。そのお墓は非常に古く、地元のイスラム教徒はイエスの御母堂が眠っていると固く信じていて、イッサの母(すなわちイエスの母)の墓として崇拝しているんや。お墓自体は、ムスリムが支配する地域内にあるにも関わらず、ユダヤ人の伝統に従ってそのお墓は東西に向けられているんや。それはその地域に住んでいるヒンドゥー教徒やキリスト教徒の習慣には無いものなんや。

ポニョ:そうなんや。本の著者はコンパスも持って、とても詳しく調査されたんやろな。

ヨシオ:コンパスなんて持たなくても東と西ぐらい分かるやろ。イエスが埋葬されているスリナガルの40km南にあるカシミールへ続くキリストの道と呼ばれる道をたどって行くと、ナウガムとニルメゲの村に到着するんや。そこには、ユズ・マール(Yuz-Marg:イエスの草原)という名の牧草地があるんやで。またスリナガルの南東60km、Bij Biharaから更に12kmの所にはAish Muqamという神聖な建物があるんや。 "Aish"という地名はイッサつまりイエスの名前から取ったと言われているんや。その聖なる建物Aish Muqamの中には、「モーゼスの杖」と呼ばれる神聖な遺物が保存してあって、地元の伝説によるとこの杖は実際に「モーゼスの杖」で、イッサ(イエス)が所有していたと伝えられているんや。またスリナガルの町の岡の上には、ゴアパダッタ王がイエスがやって来た頃とほぼ同じ時期に復元した、少なくとも1000BCにまでさかのぼる「ソロモンの王座」として知られている寺院があるんや。その寺院の修復はペルシャの建築家によって行われ、その修復された寺院の両側の門柱に4つの碑文を残したんや。 その3番目と4番目の碑文には次のように書かれているんや。「ここで今日、ユダ・アサフ(イエス)は54の預言を発表しました」「イエスはイスラエルの預言者です」と。この後イエスは南インドにへ旅をしてから、イエスをグルと仰いで大事に接待したゴアパダッタ王の領地に戻り、80歳ぐらいでスリナガルで亡くなったと言われているんや。

ポニョ:なんかすごい話に圧倒されて、ずっと聞いてばっかりやったけれど、もうスペースが無くなって来たのでこの続きは明日にしよか。おいらはこういう話が大好きなんや。

イエスは人の心の中の愛、思いやり、慈しみを取り戻すというミッションを持って生まれた師なのです。
イエスは自己に執着することはありませんでした。
(自分自身の)悲しみや痛み、喜びや(欲しいものを)手に入れることなどに気を留めませんでした。
(誰かが)悲嘆に暮れたり、平和を求めて泣き叫んだり、友情を求めれば、必ず心から心配しました。
イエスはいかなるところへも行き、愛の教えを説き、わが身を人類の解放のためにささげたのです。