どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設19年目を疾走中。

耳の穴のカナブン(1)

2006-11-06 01:42:09 | 連載小説

 トシオの耳の穴に虫が飛び込んだと大騒ぎになったのは、六歳の夏のことだった。板の間で昼寝をしているとき、何の虫かはわからないが、かなりの大きさを持った虫が一匹耳の中に飛び込み、奥の方でごそごそと這い回っていると泣きだしたのだ。
 大声でわめくトシオのようすに、添い寝していた乳母のモトコはびっくりして飛び起きた。心臓をドキドキさせながらも、預かった坊ちゃまの身に何が起こったのかと、事の顛末をはっきり見極めようとした。
「どうしました?」
「耳が、耳が・・・・」
 トシオが右の耳を押さえて、床の上でもがいていた。尋ねるまでもなく、耳になんらかの異変が生じていることは間違いなかった。
「耳が痛いのですか」
「イタイ、イタイ。耳の奥で、カナブンがごそごそ動き回っている!」
 そんな馬鹿なと思ったが、トシオが涙を流しながら訴える姿は狂乱に近いものだった。耳の穴の寸法とカナブンの大きさを想像してみると、強引にもぐりこめばあり得ないことでもない。それでモトコは大変な事態になったと青くなった。
「坊ちゃま、少しお待ちください」
 モトコは大急ぎで玄関に走り、下駄箱の上の小物入れから懐中電灯を取ってきた。トシオの頭を膝にのせ、痛いという耳を上向きにして、懐中電灯の光を当てた。
 しかし、耳の中は防空壕のようにまっすぐではなく、奥までは光が届かない。耳穴の狭い暗闇で何が起こっているのか、確かめることはできなかった。
「坊ちゃま、ここにうつぶせになって動かないでください。耳に懐中電灯を当てておきますから、虫が這い出してくるかもしれません。自分で指を突っ込んだりしないでくださいね」
 そう言い置いて、モトコは電話室に向かった。
 磨き上げられた栗色の電話台に、カード式の電話帳が置いてある。モトコは、このお屋敷によく来る掛かり付けの医師を呼び出し、ことの成り行きを説明した。
「それは、まず耳鼻科に連れていかにゃぁいかん。わしが電話しておくから、すぐにハイヤーを呼んで、高輪の美鈴医院にいきなさい」
 言われたとおりに、旦那様お気に入りの自動車会社に連絡して、「ハイヤー、ハイヤー」と連呼した。
 配車係は、何事が起こったのかと慌てたものの、すぐに事態を飲み込んで適切な対応をした。
「それなら、近くを走っているタクシーを向かわせますから、準備をしておいてください」
 とりあえず段取りがついてほっとしたものの、今度はトシオのようすが心配だ。板の間にとってかえすと、わめき声は小さくなったがまだ泣きじゃくっていた。
 懐中電灯は一メートルも弾き飛ばされていた。もがいた拍子に腕でも当たったのだろうか。それでも消えもせず、黒光りする板の間を照らしていた。
 五分もしないうちに、大木戸の柱に取り付けられたインターホーンがなった。タクシーが到着したのに決まっていた。
「はーい。いま行きます」
 返事をしておいて、トシオをおんぶした。
 おんぶ紐を使わなくなって半年ほど経っていたが、トシオが執着するものだから箪笥に仕舞っておいた。それが、また役に立った。
 こんな時に限って女中が居ないのが癪に障る。二三時間買い物に行くのでよろしくと頼まれた、その、間の悪さが腹立たしい。
 火の始末から戸締りまですべて済ませた上に、勝手口から大木戸まで三十メートルもトシオを背負っていくのだから、この時ばかりはお屋敷の広さが恨めしく思われた。
 運転手に手伝ってもらって、トシオを後部座席に横たえた。頭部を太ももの上に寄りかからせ、なだめながら美鈴医院に向かった。
 白金台から高輪まではあっという間の距離だった。しかもモトコが案ずるまでもなく、会社から運転手に連絡が入って美鈴耳鼻咽喉科の場所が細かく指示されたから、迷うことなく医院に到着した。
 玄関口には、すでに看護婦が二人立っていた。ストレッチャーも用意されている。トシオを受け取ると、前後を持ち上げるようにして振動を抑え、それでいてすばやく診察室に運び込んだ。
 モトコは、あまりの手際のよさに複雑な思いを抱いていた。自分も含め、トシオをこんなに甘やかして好いのだろうかと疑う気持ちもあった。
 すべては旦那様に対する尊敬の現れであって、トシオは単に坊ちゃまという付け足しの扱いを受けているに過ぎない。せん病質でわがままな子供のことなど、モトコですら持て余すことがあるのだから、他人がちやほやするのは旦那様の威光に向けてのものと、どこかで思い知らさなくてはならないと考えていた。
 だが、いまはトシオの容態が心配で仕方がなかった。
 乳母になったきっかけは、病名のわからない難病で入院したトシオの母親に代わって、母乳を与えたことに因っている。
 モトコ自身は、そのころ生後三ヶ月の長男を脳膜炎で死なしており、目の前が真っ暗になったところへ持ちこまれた話に、気が紛れる思いがして応じたものだった。
 気が紛れるもう一つのわけは、吸い手を失ってパンパンに張った乳房が楽になるという、即物的な理由によっていた。白金台の大きなお屋敷に住み込み、四六時中乳飲み子の面倒をみる替わりに、高額の給金が支払われるという条件に魅力を感じたのも事実だった。
 モトコ自身もそうだが、なまけものの亭主もまた二つ返事で承諾したものだから、話はとんとんと運んだ。以来、六年間の長きに亘ってトシオの乳母の役を務めてきた。亭主は、カネさえ入ってくれば満足で、自分たちの家庭が成り立たなくなっていることにも、あまり関心を払っていないように見えた。

   (続く)
  


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1 コメント

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出だし快調 (知恵熱おやじ)
2006-11-06 04:35:16
『耳の穴のカナブン』、、、魅力的なタイトルですね。


どんな展開になるのか分かりませんが、思わず引き込まれる導入部で、この先楽しみに読ませていただきます。


窪庭節炸裂といきましょう!

知恵熱おやじ

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