どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設19年目を疾走中。

思い出の連載小説『吉村くんの出来事』(20) 次が最終回

2024-01-29 00:03:30 | 連載小説


     密息

 その日仕事から戻ると、課長から局長室へ出頭するよう申し渡された。
「すぐにですか」と問い返すと、事務処理を済ませてからでいいと歯切れの悪い言葉が付け加えられた。
 何事だろう。頭が高速回転をしている。集金カードの集計が覚束なくなるほど気になった。
(こんなときこそ密息だ・・・・)
 いつか雑誌で読んだ気功の記事が頭に浮かんだ。
 もともとは高僧が修行のなかで会得した呼吸法らしいのだが、武術や芸術の世界でも、奥義を極めたような人はこの息遣いの秘密に気付いていたようなのだ。
 吉村などにできるワザではないが、たまたま試みた手かざしで熱とも圧力とも解らない<気>を掌が感知したことがあるので、密息なるものも習得できそうな気持ちになっていたのだった。
 金銭授受が終了すると、待ち構えていたように課長が近付いてきた。
「あとは、後でいい」
 先に立って歩く課長の背中が前屈みになっていた。
 最上階の局長室へ向かうエレベーターの中で、課長がしわぶきを一つした。ホールの縁で躓きそうになりながら出て行く初老の男の背中に、気負いと妖気が漂っていた。
 まず、総務課長のもとへ立ち寄った。すでに話は通っているらしく、吉村の姿を見ると即座に立ち上がって局長室に導いた。
 ドアは開いたままだった。
 黒光りするドアの横に立って、総務課長がトントンと拳を打ちつけた。
「はい」
 くぐもった声が、L字型の空間を走ってきた。
 局長の事務的な返答が、外で待つ三人の耳に届いた。それぞれの思いにそれぞれの思惑を付与させる間合いだった。
「入ります」
「失礼します」
 課長二人に続いて吉村も局長室に足を踏み入れた。百合と絨毯の匂いが淀んだ空気に混ざり合っていた。
「吉村君です」
 総務課長が局長席の前に立って、用向きを示唆した。吉村という人間を連れてきたというニュアンスではなく、吉村にかかわる案件を処理する時刻になったと知らせる感じが強かった。
「まあ、そちらに掛けなさい」
 見ていた書類から目を放して、ソファを手で示した。
 心得た総務課長が、局長の坐るであろう位置の真向かいに吉村を案内した。
 まもなく決済箱の蓋を閉める音がして、局長がソファに腰を下ろした。
 それを待って、二人の課長がそれぞれの側へ浅く腰掛けた。格の違いを意識しているのか、心なしかおどおどして見えた。
 吉村も緊張のただなかに在った。
 眼鏡の似合うこの局長は前身が郵政局の部長で、経理や人事などの要職を歴任してきたと聞いていた。
 吉村は自分もそうした経歴にひれ伏しそうになるのを、膝にのせた拳を握り締めることで堪えていた。
「それで?」
 局長の方から口火を切った。
「はい、先日ご説明致しましたとおり、吉村君に対する苦情と謝罪の要求が連日続いておりまして、このままでは簡易保険の信用が失墜してしまうのではないかと心配しているところなのです」
 保険課長が、用意してきた言葉を一気に並べ立てた。
「ほう、それは由々しき事態だ。それで、具体的には何をしたというのかね?」
 局長がちらりと吉村を見て、課長に視線を戻した。
「使用禁止のパンフレットをつかって、客の誤解を招くような勧誘をしたわけなのです。過去にも面接不履行で始末書を書いているぐらいですから、彼の手口は常習としか言いようがないんです。客が詫び状を書けという要求にも応じないので、上部のご判断を仰ぎたいと思いまして」
 保険課長は自信ありげに頷いてみせた。
(なんと卑怯な・・・・)吉村は呻いた。
「常習だなんて酷いことをいいますね。そんなパンフレット、ぼくは一度だって使ってないっスよ」
「しかし、課長代理の話では、院長夫人がキミの販売ツールを確かに見せられたと証言したそうだ」
 資料を入れたクリアホールダーはいつでも携行しているものだから、説明のために見せるのは当たり前だ。しかし、課長がいうような配当説明など一切やっていないということを、吉村は繰り返し申し立てた。
「・・・・そもそもツールを見せたからって、どこがいけないんスか」
 吉村の反撃に、課長の表情が強張った。
「古いパンフレットがあったということは、意図的に誤解させたと取られても仕方がないことじゃないか」
 疑いの根拠を挙げて念押しを図った。
「いいえ、捨て忘れたのは迂闊でしたが単に新しいものの下になっていただけで、利回りなどというごまかしはやっておりません」
「しかしキミ、配当金らしき数字を書いたメモをお客のところに残してきてるんだぞ」
 課長はめずらしく気色ばんでいた。
「それじゃあ、ぼくが十年後の満期時にいくら支払いますとでも言ったというんスか」
 吉村も言い返した。
 局長の前で醜い言い争いをするのは耐えがたかったが、このまま引き下がると事実として認めたことになりそうだった。
「よろしい、あくまでも歯向かっていなさい。・・・・先方からキミを辞めさせて欲しいと要求されていたことを、もう隠す必要もなくなったよ」
 これまで抑えに抑えていたものを、ついに暴露するという調子で局長に訴えてみせた。
「それはいかんな。早いところ解決しなければいかんよ」
 相手は社会的にバリューの在る名士だし、万が一マスコミにでも流されたら公務員タタキの格好の標的にされると判断したようだった。
「だから先方の要求どおり詫び状を書くように、吉村君に勧めていたのですが」
 保険課長が勝ち誇ったように顔を上げた。
「おかしいっスね」
 吉村は静かに反論した。「・・・・ぼくが奥様に伺ったところでは、課長代理と名乗るものがやって来て、こんなことを言ったろうとか、こうした説明をしなかったとか、覚えのないことまで認めさせようとして大変な迷惑だったと嘆いていましたが」
「それは調査だから止むを得ないだろう」
 高飛車に制しながらも、いつの間にか吉村が院長夫人と接触したらしい事実を知って警戒の表情をみせた。
「課長はたしか、奥様がぼくを出入り禁止にしたといいましたよね」
 ああ、と気のない返事が漏れた。
「ところが、奥様はそんなこと一言も口にしたことがないと否定されました。逆に契約したまま顔を見せないので、ぼくのことをいい加減な男なのかと疑いはじめたところだったらしいっスよ」
 横に坐る保険課長をまじまじと見て、ゆっくりと言葉を継いだ。「・・・・出入り禁止だなんて足止めをしておいて、その間にぼくを悪者に仕立て上げようとしたんじゃないんスか?」
「いや、そんなことはない。課長代理から、たしかにそう聞いた」
 動揺が激しかった。
「それなら一度、課長自身が足を運んで院長夫人に確かめたらどうですか」と追い討ちをかけた。
 急にしらけた空気が流れた。
「保険課長、どうする気かね? 話がまったく違うじゃないか」
 呆れたように一瞥して、局長が腰を浮かせた。「・・・・総務課長、もう吉村君を帰しなさい。揃いも揃ってこんなことじゃ民営化の流れに対抗していけないよ」
 局長の表情に怒りがにじんでいた。

 吉村は職場の雰囲気ががらりと変わったことを感じ取っていた。
 課長も課長代理も身の置き所がないようにうろうろしていた。
 いままでなら多少咎められても、その後は厚顔無恥に自分のやり方を押し通したであろうが、局長の評価を損なった痛手はかなり尾を引いていて、ふたりとも鳴りを潜めているといった印象だった。
 局長はあのとき明らかに軽蔑の目で保険課長を見た。
 返す刀で総務課長をも切り捨てた気配があった。
 吉村にとっては、虐げられた末の勝利だった。本来なら快哉を叫ぶべき結果といってもよかった。
 だが、なぜか手放しでは喜べなかった。
 課長や課長代理に対して精神的な優位を獲得しても、職掌上の関係はこれまでと何ら変わりない。
 それだけでなく、転勤したてのころにはあった保険という仕事への情熱が、このところ色あせたように感じられて仕方がなかったのだ。
「なあに、三年も経てば嫌になることもあるさ」
 張り切っていた吉村をくさすような先輩のことばに反発を覚えたこともあったが、どうやら本音に近い述懐であったらしい。
 別の言い方をすれば、それがスランプというものなのだろうか。
 だが吉村には、簡易保険という獣が悲鳴を上げながら倒れていくさまに見えて、そのイメージを抜きに現在の心境を考えるわけにはいかなかった。
 たしかに意気が上がらない。
 どう努力しても弾むような気分が戻らないのだ。
 規制緩和による外資系保険の攻勢だけならまだしも、郵便局そのものの変質を目の前にして職場内のいざこざなどにエネルギーを割かざるを得なかったことに、空しさと遣り切れなさを覚えていたのだった。
(やれやれ、ひとまず終わった・・・・)
 勤務が終了すると、職場からも住まいからも離れた有楽町のガード下に無性に行ってみたくなった。
 そこで焼酎をお代わりし、空虚になった頭に通過する電車の地響きと酔っ払いの繰言を降り積もらせた。
 吉村は久美とのデートの帰りに、この屋台に立ち寄ったことを懐かしんでいた。『ラ・マンチャの男』を観たあと、ここで隣り合わせになった元船乗りの老人の姿をぼんやりと捜していたのかもしれなかった。
 港、港で出会った女の自慢話を、久美の前では下品だからと店主の機転で止められた老船員の残像が、熱いおもいをともなって甦ってきたのだ。
 あの老人はまだ健在だろうか。
 確かめるほどのこだわりはないが、久美になんとなく近寄ろうとした老人の折れて傾いた痩身が目に浮かんだ。
 吉村はあの夜、困惑と自慢の入り混じった気持ちで久美の防波堤となった。
 この夜この場所に立ち寄ったことで、感慨も新たに過ぎ去った想い出を反芻していたのだった。
 男のロマンなどという陳腐なフレーズが頭に浮かんでいた。
 しかし、たとえ陳腐でも、エキゾチックな外国の港町で見知らぬ女たちと騒ぎ立てる人生に、どうしようもなく憧れるのが男というものだろう。
 強い酒、得体の知れない食い物、不思議な音楽。
 想像するだけで痺れるような恍惚を感じる。
 たった一度の人生じゃないか。しり込みしているだけでは、真の姿は見えないよ。・・・・老船員が吉村の耳元で呟いているようだ。
 木目のみえるカウンターに突っ伏して、手は欲望の徳利に伸び、顔は板子一枚下の海原を覗いている。
 半ば眠りかけているのに、そのまま死なれては適わんとばかりに店主が揺り動かす。
「船長、船長・・・・。ケープタウンが見えてきたよ」
 辛らつなジョークを飛ばして客とともに笑いながら、よだれを垂らした老人の口元をおしぼりでひと拭きする。
 その店主は元気で今夜も四人の客を相手にしている。
 手つきも目つきも言葉つきも、何ひとつ不足なく、余分でもなく、相手を包んで穏やかだった。
(生きているよなあ・・・・)
 いつの間にか回想が重なって、吉村は浮気相手の女と家族を捨てた父の生き方に思いをめぐらせていた。
(そんなこともあるだろうさ)
 心のどこかで許していた。
 家族を捨てるということは、八代の地を捨てることでもある。
 妻を捨て、連れ子の兄と実の子の洋三を捨てるほかに、自分が存在したことを記憶する<ふるさと>という拠りどころを失うことだ。
 父は争うことなくすべての財産を捨てた。代々の米屋の看板も捨てた。妻へというより、子供たちに残した財産だったのかもしれない。
 捨てることで、父はその先に見える不知火を胸の中に宿したのだったか。
 九州を離れ、大阪か尼崎あたりに潜んだのだろうか。あるいは東京にたどり着いて、何かの仕事に没頭しているのかもしれない。
 あれから二十年の歳月が流れている。髪の色も少しは変わったに違いない。白か銀色が増えて、背中の張りも衰えた気がする。
(女とはうまくいっているのか・・・・)
 考えたくなかった。想いのゆくえは、眼裏に広がる八代海の夕闇に紛れた。
「ごちそうさま。おやすみなさい」
「まいどどうも」
 地下鉄銀座駅の方向へ踏み出すと、芋焼酎のにおいが胃の底から押し上げられてきた。吉村にとっては憎くない匂いでも、同乗した車両のOLには鼻を摘まみたくなる臭いだろう。
 だが、そんなことは気にすることじゃない。人生どのように生きても、いつかは終わりが来るではないか。
 格好つけるより、思うとおりにまっすぐに進むことが大切なはずだと、胸中深くうなずいていた。

 秋口になって久美の悪阻がいよいよひどくなると、代わって吉村が<ふくべ>の手伝いに駆けつけるようになった。
 最初は色よい返事をもらえなかったが、久美の愛嬌にかわる亭主の威勢のよさが案外好評で、久美の父もいつしか吉村を頼るようになっていた。
 とはいえ愛嬌も必要だから、近所の女子大生をアルバイトに雇った。
 久美とは一緒に遊んだこともある娘で、お姉さんと呼んで慕っている。気心が知れているから店の雰囲気も上々だった。
 厨房で義父の下拵えを手伝い、時にはカウンターで馴染み客の話し相手もした。
 山の話題、高山植物の話を聞きたがる老夫婦もいた。それを横で聞いていて、自分の体験を割り込ませる別の客もいた。
 冬が来て、クリスマスが過ぎ、年を越した。郵便局での勤務が終わると、まっすぐに<ふくべ>へ駆けつける毎日だった。
 久美の出産予定日は一月下旬だったから、そちらの用意も怠りなく進めた。東京逓信病院の整った施設なら安心との思いはあったが、久美の希望は当初から検診などでかかわった街の産院だったので、吉村もその意見に従った。
 テレビで荒れ模様の成人式が放映された翌日、兄の結婚が正式に決まって四月に地元のホテルで披露宴が行なわれるとの電話が母からあった。
「よかった」
 喜びが湧いた。「・・・・ぼくは出席するけど、久美はどうだろう。大変な時期と重なるはずだから行かれないかもしれないっス」
 産後の久美は家に残していくことをそれとなく伝えた。
(赤ん坊も二ヶ月やそこらで動かしたくないし・・・・)
 まだ生まれていないのに、あれこれ心配の種は尽きなかった。
 兄の結婚式についても気がかりがないわけではない。双方の親類縁者が少なく、披露宴の出席者をどうするのかと心配になった。
 吉村のときは、神前での儀式だけを行ない、披露宴は省略した。
 それを補うような新婚旅行で、さまざまな負い目を克服したが、兄の場合はどうするのかと気にかかっていた。
 もっとも、新婦の親代わりとも思えるスナックのママが、あっと驚く企画を練っているのではないかと期待するところもあった。
 地元のテレビ局、FMラジオ局に知り合いが多いと聞いていたので、彼らを動員した仕掛けを考えていそうな予感がした。
「まあ、産まれるまでは落ち着かんじゃろうが、いまは病院任せだから安心しとってよかよ」
 話題はすでに息子の第一子誕生に引き戻されている。
 東京へ行って久美さんの面倒もみてあげたいところだが、結婚式の準備もあるので不義理をするがよろしく伝えてくれと電話を切った。
 予定日よりも一日早く、久美に陣痛が訪れた。その日は吉村も二時間ほど勤務を遅らせ、タクシーで産院に送ったあと公衆電話で事後承諾を求めた。
「もっと早く連絡してくれなくちゃ」
 課長のぼやきに対して言い訳に終始した。
 あわただしく勤務を終わらせて、夕方、産院に駆けつけた。まだ生まれていないとのことで、その点はホッとした。
 だが、控え室で待機していても、不測の事態が起こるのではないかと気が気でない。出産当事者でなくても、出産は大変なエネルギーを費やす出来事であった。
 待機疲れで困憊した深夜、無事に男子が生まれたとの知らせがあって、吉村は看護婦の手に載せられた吾が子と対面した。
 翌朝、大部屋のベッドで産着に包まれた赤子と並んだ久美を見ると、顔付きが山羊や兎とあまり変わらないようにみえた。
 子供を産んで安心しきっているのだろう、主婦の構えをすっかり放棄して百パーセント動物になっている。
 吉村は、久美が女としていま絶頂期にあることを、潤んだような目つきからも感じ取っていた。
(オレには見せたことのない表情だ・・・・)
 恋とか愛とかいっても、子供をみつめるときの顔付きとは比べものにならない。女にだけ備わった天与の母性本能が、見えない磁場をつくって吉村を遠ざけている気がする。
 嬉しいのだが、疎外感もある。誕生したものへの手放しの愛情に対して、嫉妬に似た感情さえ湧いてくる。自分の心をいぶかしむほどだった。
「よく頑張ったね」
 もう一度言った。ありふれた賛辞だったが、出産を終えた女性には最も納得のいく言葉だったかもしれない。
 久美もまた嵐の中を乗り切ってきて、想像もしなかった自分の底力に驚いているはずだ。
 この真剣勝負を勝ちきったのは、医師や夫やお守りの力ではなく、大波の下から自力で這い出した驚異の復元力に因ることを、満ち足りた眠りの中で感じ取っていたに違いない。
「やれやれ、大変だったね」
 出勤簿に判を押していると、課長がもっともらしく声をかけてきた。「・・・・きょうは奥さんの傍に付いていなくていいのかい?」
 吉村の手元を覗き込むようにする仕種が嫌味だった。
「はい、ご迷惑をおかけしました」
「昨日は突然のことで担務のやり繰りに苦労したが、今日なら一人浮いているから休まれても大丈夫らしいよ」
 機会さえあればまだ吉村に絡もうとしている。粘るような糸を吐く蜘蛛を連想させることばだった。
 ムッとしたが、挑発には乗るまいと心に決めていた。
 次の展望が描けるまでは、郵政という巨船にしがみついているしかないのだ。
「課長、お子さんは何人いらっしゃいますか」
 息を沈ませた後に切り返した。自己流の<密息>だった。
 感情を腹の底に落とし込み、浄化してから水のように還流させる。微細な粒子が細胞をくすぐり、自然に笑みを呼び起こす。
 他人からみれば絵空事を並べたようにしか感じられないだろうが、密息をイメージしているときの吉村は気配を消したチェシャ猫のようなものだった。
 嫌がらせを言ったつもりが、目の前に笑みだけが残っている。・・・・この課長が『不思議の国のアリス』を知っているとは思えないが、吉村のあまりの毒気のなさに何か異様な雰囲気を感じたはずであった。
 事実、面食らった課長は「二人だが・・・・」とまともな答えを口にした。
「初めてのお子さんが生まれたとき、抱かれました?」
「いや、五三闘でそれどころじゃなかったよ」
 ああ、そうかと、吉村はうなずいた。詳しいことは分からないが、安保闘争を源流とする学生運動が、かたちを変えて郵便局にも先鋭な闘争方針を持ち込んだ。
 局内の対立する過激派セクトが、互いに殲滅という名の殺人事件を起こしたのも五十三年闘争の流れと無関係ではないから、課長の家庭生活が歪んだものになったとしても理解できる気がした。
「職場って、時に過酷ですね」
 吉村の呟きに気味の悪さを感じたのか、課長が目を逸らした。視線ではなく、顔を動かしたと言ったほうが当たっているのだが・・・・。
 四月に入って、吉村は兄の結婚式に行ってきた。
 ホテルとテレビ局、それに地元企業の協賛で『新婚さんお幸せェ~』という番組に出演する形が取られていた。
 兄たちの他にも二組の新郎新婦が参加して、司会者のインタビューに応じる番組だ。気恥ずかしい質問にも照れずに受け答えするカップルの中で、もじもじ、おずおずと立ち往生する兄の様子が却って笑いを呼んでディレクターの狙い通りになったようだ。
 会場を埋めた参加者を立会人にして、兄たちの安上がりな披露宴が終わった。
 ホテルもテレビ局も目的を果たしたし、スナックのママも名を売って今後の商売にプラスとなるのははっきりしていた。
「洋三さんも、今夜はうちへ寄って行ってね」
 ママに親しげに名を呼ばれて、満更でもない気持ちがした。
 イベントを盛り上げたスタッフが勢ぞろいして、スナックの夜は更けていった。兄嫁もホステスの顔に戻って、かいがいしく働いた。
 こうして、吉村のわずか三日間の有給休暇は兄たちとの内輪の会話もできないまま過ぎ去った。
 熊本空港から東京に戻った夜、退院して親子でマンション生活を再開していた久美が、不安そうな声で吉村に告げた。
「あなた、留守の間に課長という人から三回も電話があったわよ」
「えっ、なんだって?」
 油断したつもりはないが、すでに勝負付けが済んだとおもっていた心の隙を、予想もしない角度から衝かれたようだ。
 なぜか分からないが、今までと違った困難が用意されている気がして、なかなか呼吸が静まらなかった。

    
    (第二十話)

 

(2007/07/6より再掲)


 

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