どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設19年目を疾走中。

耳の穴のカナブン(2)

2006-11-10 00:13:17 | 連載小説
 待合室で心配するモトコに、トシオの診断結果がもたらされたのは、四十分ほど過ぎたころだった。
「お母さま、どうぞお入りください」
 看護婦が、白衣の前で長い指を重ねるようにして、首を傾けた。
「いえ、わたしは母親では・・・・」
 言い訳する暇もなく、診察室に招き入れられた。
 診察台に半身の態勢で固定されたトシオの横に、白髪の老医師が坐っていた。モトコの方を振り向いた拍子に、頭に着けた反射鏡がきらりと光った。
「院長先生、お母さまです」
「いえ、わたしは乳母です。母親ではありません」
「あら・・・・」
 看護婦は、これまでの丁重さが無駄だったと思ったのか、感情を隠そうともせずに唇を突き出した。
「そうですか、付き添いの方ですか。実は、このお子さんは、急性の中耳炎を発症しておりまして、そのことでちょっとご相談を致したいと思ったのですが・・・・」
「えっ? カナブンじゃないんですか」
「あんな大きな虫が入れるわけありませんよ」
 院長が、品よく笑った。
「それだったら、マメコガネだ。ぼく、庭園美術館で見つけたことがあるもの」
 とつぜん、トシオが口をはさんだ。
「しかし、診察したかぎりでは、虫が侵入した形跡はありませんね。中耳炎は痛いですから、耳の奥に何かが入り込んだような気がしたんでしょう」
 院長先生が、断定的に言った。
「セマダラコガネも捕まえたことあるよ」
 トシオは、まだ食い下がった。「・・・・自然教育園に行けば、なんだっているんだから」
 悪気のない顔で、目を輝かしている。
 治療をしてもらって少し楽になったのか、自分の主張を崩す気配はまったく見られなかった。
「ちょっと、わたしの部屋に来てください」
 院長は、トシオを一瞥して立ち上がった。モトコをうながして、診察室に隣接する院長室に入り、すりガラスの扉をピッタリと閉めた。白いカバーの掛かったソファーに、向かい合う形で腰を下ろした。
「理屈で言っても分からない年頃ですから、止むを得ませんがね。・・・・実は中耳にかなりの炎症があって、膿が溜まっている状態です。鼓膜を切開して治療しないと、痛みは取れませんよ」
「えっ、鼓膜の手術ですか・・・・」
「もちろん、一時的に穴をあけますが、すぐに閉じますから心配は要りません」
 モトコは困惑した。自分の一存で同意することはできない。旦那様に連絡して、判断を仰ぎたいと申し出た。
 院長室の電話を借りて、中央区にある繊維会社の受付にダイアルした。社長秘書に回してもらって、用件を伝えた。旦那様から、緊急の場合でもそうするように言われていたので、その通りにしたのだった。
 まもなく、旦那様から美鈴耳鼻咽喉科医院に電話があった。
 モトコが受話器を受け取ると、懐かしい声が響いてきた。
「ああ、きみか。トシオが中耳炎だって?」
「はい、申し訳ありません」
「何を言っている。きみが悪いわけじゃない。それより手術のことだが、きみが母親同然なんだから、きみの判断でやってくれていいよ。いま、院長にも聞いたんだが、膿を出してしまわないと、慢性になって大変だそうじゃないか」
「はい」
 モトコは、自分を立ててくれる旦那様の落ち着いた話し方に、思わず声が詰まりそうになった。
 受話器を置くと、すかさず院長先生が決断をうながすように言った。「幾日もカナブンに苦しめられるのがいいか、あっという間に切開して膿を出してしまうのがいいか。どちらにしましょうか」
 手術しなければ駄目だと押し切ってもいいのに、モトコに最後の判断を委ねる問いかけをしてくれる。
 旦那様といい、院長先生といい、どうして男の人はこんなに優しくなれるのだろうと、モトコはかすむ目をしっかり開けて大きくうなずいた。
 外来の患者が途切れるのを待って、すぐに手術の準備が始まった。
 メスや何種類ものピンセットが、煮沸器の中でぐらぐらと煮られている。手術台もカバーが外され、アームの辺りがアルコールで消毒された。
 異様な雰囲気を察知して、トシオが怯えた目を向けてきた。モトコは、いまこそ自分の出番だと悟って、トシオのそばに近付き肩を抱いた。
「坊ちゃま、よく聞いてくださいね」
 いままでにない意志を籠めて、トシオの瞳を見た。「・・・・さっき、坊ちゃまの耳の中に、カナブンはいなかったと言ったでしょう? でも、もし坊ちゃまの言うとおりマメコガネだったとしたら、体が小さいから隙間を通ってもっと奥まで入ったのかもしれないと先生も心配しているの。それで、わたし決心しました。坊ちゃまの脳の奥までマメコガネが行かないうちに、なんとしても院長先生に捕まえてもらわなくちゃならないの。だから、少しの間我慢できるわね?」
 トシオは、モトコの目や口から迸る光線銃のような圧力に出合って、言葉を飲み込んだ。やはり、自分の思ったとおりだとの自負も、口をつぐませるのに充分加担した。
 頭を固定され、耳穴を器具で拡張されても、歯を食いしばって堪えた。
 鼓膜切開は、一瞬のうちにすんだようだ。暴れそうな子供の場合、局所麻酔などの手間をかけると却って恐怖心を呼び起こすというので、麻酔なしで施術することを事前に知らされていたが、モトコの語りかけが功を奏してトシオは顔をゆがめただけで終了した。
 外耳に温かい膿が流れ出してから、トシオは泣き声をあげた。あるいは血の温もりと間違えたのかもしれないが、急速に退いた痛みと、金属皿に投げ出される膿を吸った脱脂綿の色に安堵して、まもなく泣き止んだ。
「マメコガネは見付かった?」
「ああ、膿に溺れて死んでいたよ」
「そこに、いるの?」
「いるけど、腹が潰れて汚いだけだから、見ないほうがいいよ」
 院長先生も、なかなかの役者だった。

   (続く)
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 耳の穴のカナブン(1) | トップ | 耳の穴のカナブン(3) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

連載小説」カテゴリの最新記事