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わたしたちのアジア・太平洋戦争 3 新しい道を選ぶ

2010年06月11日 | 読書日記など
『わたしたちのアジア・太平洋戦争 3 新しい道を選ぶ』
   古田足日、米田佐代子、西山利佳・編/童心社2004年

戦後も、赤十字の看護婦さんに赤紙がでていたとは驚きました。



「にんげんをかえせ--体と心のなかの原爆とたたかいつづける田川時彦さん」古田足日・著。下「」引用。

「田川時彦さんは一九二九(昭和四)年、広島市の近くの農村に生まれた。原爆に被爆したのは廣島氏班学校予科二年のとき、年齢は十六歳、いまの高校一年生の年である。師範学校というのは小学校の先生のための学校で、予科が二年、本科が三年だった。-略-」

受け持ちには、被爆した子たち……。下「」引用。

「田川さんはそのあと、被爆の急性症状におそわれたが、回復し、一九四九(昭和二四)年には広島師範本科を卒業、広島市の近くの町の小学校の先生になって四年生をうけもった。うけもちの子どものなかには被爆した子もおり、両親も原爆でなくした子もいた。」

東京へ。東友会にくわわった田川。

ABCCについて。下「」引用。

「「ABCCは調査だけで治療はしない」と言われたが、それは、治療をすれば、原爆投下の謝罪にもつながると考えられたからであった。
 ABCCは、多いときは千人をこえる職員をかかえ、十六万人の被爆者を選び、どこでどんな状況で被爆したかを、数年かけて調査した。一人ひとりインタビューし、亡くなった七五○○人を解剖した。現在も母集団の十二万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し、二万人を二年に一度健康診断し、八万人の被爆二世、そして二八○○人の胎内被爆者の調査も継続している(ABCCの調査は、七五年からは米国エネルギー省と日本の厚生省〔現厚生労働省〕を費用を折半する財団法人の放射能影響研究所に引きつがれている)。
 疫学調査としてこれほどの規模のものは世界に存在しない。少なくともその「目的」が被爆者のためにあるのではなく、被爆者を研究用のモルモットのようにあつかうのが、ABCCの姿勢であった。占領軍の原爆対策は、このような形でおこなわれたのである。」

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「飢え死ににした子どもたち--「食糧難」は戦後もつづいた」米田佐代子・著。

「戦犯で死刑になった台湾人軍属」木村宏一郎・著。

「朝鮮戦争に動員された日赤看護婦」牧子智恵子・著。下「」引用。

「その年の十二月八日の真夜中に、戦時中と同じ赤紙召集令状がきて、わたしたちは病院の事務長によびだされ、「明日はアメリカ軍病院でアメリカ兵の看護をするように」と言いわたれさました。真夜中だったし、あまりにも突然のことで、頭が真っ白になり、「いやです。平和憲法のある日本です。そして現在病院で患者さんの看護をしているんです」と言って、がんばったのですが、赤十字社から発令された赤紙召集令状は、そんなことがゆるされる命令書ではありません。戦時中に発令された赤紙収集令状は、個人がいかなる事情があってもの、ぜったい服従しなければならない規定がありました。しかし、終戦となり、平和憲法のある時代でも、赤十字看護婦には赤紙召集令状が発令されたのです。
 市役所の会議室では壮行会がひらかれ、市長が激励の言葉をのべるなど、まるで戦時中にもどったような雰囲気でした。-略-」

福岡県の西戸崎(さいとざき)のアメリカ軍病院に配属。英語ができるので、勤務は手術室になったという。

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