磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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わたしたちのアジア・太平洋戦争 2 いのちが紙切れになった

2010年06月11日 | 読書日記など
『わたしたちのアジア・太平洋戦争 2 いのちが紙切れになった』
   古田足日、米田佐代子、西山利佳・編/童心社2004年

憲兵になった人が、多くの中国人を虐殺したことを遺族の人に謝罪にいったことが印象に残りました……。
中国は戦争犯罪者を一人も死刑にせず、日本に帰国させたことは忘れないでくれと書かれてありました。



戦争は地主も小作農もないという……。
村の人が金鵄勲章をもらったのでそう思ったらしい。
だが、入隊すると差別があった……。
「戦争は究極の差別」

憲兵になるといったら、上官の顔色がかわったという。下「」引用。

「憲兵は、軍隊のなかの警察だ。絶対的な権力をもっていて、将校たちでさえ、憲兵だけは頭があがらなかった。その教官の曹長も、わたしが憲兵になる希望をだしたら、顔色がかわった。そして、てのひらをかえしたように、わたしへの態度がコロッとかわった。」

残酷な拷問方法を上官に教わったという。

「帰らずの門」憲兵隊の門。下「」引用。

「中国の人たちは、憲兵隊の門を「帰らずの門」とよんだ。憲兵は、抗日分子かもしれないとうたがいをかけたら、証拠などなくても、中国の人たちを手あたりしだいにつかまえた。そして、厳重処分で殺した。憲兵や警察につかまったら最期、中国の人たちは、ほとんど生きて帰れなかった。厳重処分権は、「裁判なしの殺人」というしかないものだった。」

デッチ上げをして中国人を死刑にしたという。下「」引用。

「わたしたちは、でたらめな調書をつくりあげて裁判所におくった。その結果、新聞社社長の王〓(*亜と瓦)海(おうけんかい)はじめ記者の金巴来(きんぱらい)など、五人が死刑になった。わたしは、取り調べのとき、鞠興任(きくこうにん)を水ぜめの拷問で殺してしまった。」

共産党員の逮捕、拷問。

娘(梁氏)を拷問で殺された母は自殺。下「」引用。

「梁氏を殺したあと、わたしは、父親の閻幼文(えんようぶん)をつかまえて死刑にした。そして、女の子を育てていたおばあさんまでも、死においやってしまった。」

「中国の人たちは、日本軍のわたしたちを日本鬼子(リーベンクイズ)とよんだ。」
「中国に侵略した日本は、約千三百万人の中国人民を殺害した。」
日本人戦犯を、すべて死刑にせず日本に帰した。

--殺した人が、日本に帰国しても夢にでてきて苦しむ……。
遺族に謝罪のために中国へ。
土下座するしかなかったという。ここまで「憲兵・土屋芳雄の自分史」より。下「」引用。

「まもなく、わたしは九十歳になる。「お国のため」と、手がらを立てようと戦争にのでかけたのは七十年前だった。
 その戦争で、わたしの手は、人間の血でよごれてしまった。いくらあらっても、きれいにならない。わたしの手はいまでも、よごれたままでいる。」

「日本の陸軍少年飛行兵を志願した朝鮮人少年」朴宗根・著。

戦後の帰国のさいに爆発沈没。下「」引用。

「青森県の大湊軍港から帰国する朝鮮人の約四千人ののった海軍御用船が、八月二十四日に京都の舞鶴港に寄港したとき、突然爆発して沈没、のっていた朝鮮人五百人が死んでしまうという事件が起こった。」

「人間を殺人鬼とかえる軍隊」金子安次(体験者)。

「潞安(ろあん)陸軍病院にて」湯浅謙(体験者)。慈恵医大卒業した湯浅。生体解剖。下「」引用。

「一九四二年も秋に、謙は二回目の生体の手術演習に参加した。このときは、第三六師団の軍医を潞安陸軍病院へあつめ、病院長が教育責任者となっておこなわれた。同じ年の十二月、第一軍からの命令によりら軍医教育がおこなわれ、山西省の各部隊からの軍医が五十名ほど太原(たいげん)の防疫給水部の講堂に集合した。それが謙の経験した三度目の手術演習だった。
 一九四四年四月、謙は、潞安陸軍病院の庶務主任となり、生体解剖教育を計画、立案する立場になった。謙の立てた計画は、作戦のため部隊が移動していて軍医があつめられず、その他の事情も重なって三回しかおこなわれなかった。」

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一回もなかったほうがよかった。

監獄に入れられ、隠し通せないと思い白状したという。

殺人とキリスト教。「学徒兵とその家族の太平洋戦争」 下「」引用。

牧師の父は、日本軍がわら人形がわりに中国人を演習で殺していたのを知っており、息子に信仰を忘れるなという感じでさとしたという……。

虐殺を見る息子。そして、演習……。下「」引用。
「殺人演習が告知されてから、半日以上もたっているのにら、殺人の命令にしたがうべきか否かの決心がついていませんでした。」

家族が村八分にされることを恐れるが、殺せない……。
そして、リンチを受けた後に通信兵となったという。
しかし、良心的誠実さで行動できなかったと悔やんでおられる……。
牧師の父は治安維持法違反に問われ拘禁八カ月……。

「少年のとき、毒ガス島ではたらいた」村上初一(体験者)。
大久野島で働いたという。下「」引用。

「わたしは、工員の顔の色が、気になっていました。赤茶けています。はれぼったくて、重たいかんじがします。
「顔の色が気になるかい。こりゃあ、ガス焼けだわ」
 あわれむような目の、理由がわかりました。心臓がひっくりかえりそうに、はげしく鼓動をうっています。工員はだれでも、きちんと防毒具を身につけているはずです。それでも、ああなるのです。」

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「病院船・ヒロシマでの救護体験」守屋ミサ・著。

ヒロシマ原爆「般若心経のむこうから」桑本トキ子(体験者)。下「」引用。

「古田足日が森本幸恵(*広島市立第一高等女学校)の同期生の友田陽子とともに、一九七二(昭和四七)年十一月その母親・桑本トキ子(戦後姓がかわった)からきいた話の一部を整理したものである。」

「いまだにわすれられない被爆」米田チヨノ・著。下「」引用。

「わたしは、長崎市油木町で、十九歳で被爆しました。油木町は、爆心地から一キロのところです。当時わたしは城山町で、兵隊さんの服の修理をする仕事をしていました。-略-たまたま、その日はとっても暑かったので仕事を休んでいて、たすかりました。-略-」

永井隆博士が働いていた……。下「」引用。

「医大では永井博士がお元気でいろいろと指図をしておられました。先生はわたしの女学校の校医さんで、よく知っておりましたので、「先生」と言いましたら、「おお、君か、たいへんだったね。係の先生にたのんでやるから、がんばるんだよ」と言ってくださって、手配をしてもらいました。
 そして係のの先生がわたしの手を見るなり、「これはたいへんだ。早く手首から切らないと、ほっといたら肩から切らなくてはいけないよ」と言われました。
 父が、「女の子だから、指だけはつけといてくれまっせ」と、土下座をして、一生懸命たのんでくれたおかげで、まがった手でも指がついているので、ヒモもむすぶことができます。いまでも、針金の三本入ったままで、ときどきいたむことがあるのですが、あのときの手術のいたかったことがわすれられず、針金を取る気になりません。」

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