磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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岩波ジュニア新書208 爆心地ヒロシマに入る カメラマンは何を見たか

2008年02月29日 | 読書日記など
『岩波ジュニア新書208
   爆心地ヒロシマに入る
     カメラマンは何を見たか』
       林重夫・著/岩波書店1992年

この著者の写真を見たことがある人は、大変に多いだろうとボクは思います。広島の平和公園に行かれた人なら見たことがあるはずですね。広島に向かうことは勇気がいることだったようです。



原爆災害調査団として広島・長崎へ。下「」引用。

「一九四五(昭和二○)年九月二七日、午後二時三○分の汽車で東京を発った私たち原子爆弾災害調査団の一行は、一路西へと向かった。一夜明けた翌日の午前、尾道(おのみち)に着いたが、九月中旬、九州枕崎(まくらざき)に上陸した台風は広島を直撃し、東海道線を寸断していたため、ここから先は海路、広島に向かう。-略-」

著者にとってヒロシマを見たとき、一生忘れられない衝撃。
戦争中、工兵として爆弾の知識もあったが、これが一発の爆弾……。

パノラマ写真をとられたのが、この著者。下「」引用。

「パノラマ写真は数枚の写真をつなでつくるので、どうしても横に長いものとなります。広島商工会議所屋上の望楼からの三六○度のパノラマ写真を、ここでは六ページにわたって掲載します。この六ページ分の写真をすべてつなぎ、はちまき状にして、自分がそのなかに入って見るのが理想的なのです。」

パノラマ写真とは、そういうものなんですね。

相生橋のことも書かれてありました。下「」引用。

「相生橋の欄干(らんかん)は、一部を残してすべて吹きとんでいました。相生橋の歩道のずれも目につきましたが、撮影の時点では橋が舞い上がったことなど知るよしもありません。」

志願してヒロシマへ。下「」引用。

「わからないままに、とにかくたいへんな爆弾らしい、あそこへ行くと頭髪が脱けるそうだ、子供ができなくなる、白血病になる、いや七五年間は生物が生存できないそうだ、などの憶測や噂がとびかっていました。」

広島城の天守閣の燃えていない木材の山が写真に残っている。
厚いしっくいの壁が原爆の熱線を防いだのか?

また、長崎医科大学付属病院の手前に写っている校内の全壊した木造建築物がまったく燃えていなかったことが写真で残されている。


↑クリックで拡大


目 次


真珠湾攻撃で使用された魚雷の製作工場。下「」引用。

「魚雷のクランクケースらしきもの、空気ボンベなどが散らばった一隅に、私の目が止まりました。」



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そして、消極的な平和な日々が日本では続く。
福祉関係に針路をきめた孫と、広島へ。孫が言ったこと。下「」引用。

「うん、まだ広島を見ていないし、それにじいじのした仕事を見たいしね」

ヒロシマの碑」の前で記念撮影をする著者。
(裏側、陶板に焼きこまれたパノラマ写真がはめこまれている)




林 重男が見たヒロシマ

↓ 同僚の菊池俊吉さんの作品。
被爆から2年 菊池俊吉さん撮影


「え?くれ!?あ!!」えくれあパノラマワールド










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