『人生のプラットホーム-歌ひと筋に生きて-』
二葉あき子・著/東京新聞出版局1988年
二葉あき子全作品年表:p215~252
--原爆投下時、トンネル内に電車はあったという……。
師範学校に通っていたという。下「」引用。
「師範科は月謝は免除だったが三年間で卒業したあと一年間教職につくという義務がある。私は卒業すると、きっと故郷に引き戻されてしまうと思い、とにかく在学中に東京生活を満喫せねばと遊ぶことで頭がいっぱいだった。」
広島県立三次高女の音楽の先生になったという。
デビューしたころ……。下「」引用。
「私がデビューした昭和十一年という年は、銀座にはチンドン屋さんがのどかにねり歩いていたが、2・26事件で首都に軍靴が響き、当時の言葉で支那事変と呼んだ日中戦争ぼっ発前夜、重苦しい暗い雲が日本全体を覆おうとしていた時代だった。」
戦争が激しくなると慰問で忙しかったという。
軍歌は好きになれなかったという……。
「原爆で死にそこなった女」というタイトルがある……。
芸備線「中山トンネル」の内にいるときに、原爆投下されたという。
三次の駅でこんな会話をしたという。下「」引用。
「駅前の広場にはバスもなければ、人影もなかった。-略-
「なんも知らんのかな? あんた方、どっからきんさったんで?」
「たったいま、広島から」
おじさんは「エッ!?」と驚きの声をあげ、「その広島がおおごとじゃげね。この町からもみんな救援に出かけたんよ」
私はまだ、その“おおごと”の意味がわかっていなかった。-略-」
京都の人も原爆で死んだという。下「」引用。
「亡くなった十二万人の中には、京都からわざわざ疎開して帰っていた親戚の娘たち、親友だった広島高い女時代の同級生、知人、友人がたくさんいた。」
薬局に「ヒロポン」を売っている時代。
中毒になったようだ……。下「」引用。
「ヒロポンのために惜しい人を失ったのも、この時代が原因である。
“天才」といわれた夫婦漫才のWさん、純情歌手で売った私の後輩のAさん。温厚な人柄で歌手仲間からも慕われたXさんは、体を悪くして、前途を悲観して自殺した。
どうしてこんなクスリが日本にあったのだろうか?
これは“戦争の落とし子”だという。敗戦間近、日本の若者たちは首に白羽二重のマフラーを巻き特攻機に乗って南の海へ散っていった。
死を覚悟して彼らが出撃していくとき、最後にもらうのがこのヒロポンだったという。」
Index
昭和25年ごろまではレコードジャケットなんてなかったという……。
今はCDですね。
--代役・越路吹雪
昭和27年の第二回紅白歌合戦。
松島詩子さんが交通事故。
急遽代役で、越路吹雪。
電話が入った時には酔っぱらっていたという。
ふらふらしていたが、歌になると、決っていたという。
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もくじ
二葉あき子・著/東京新聞出版局1988年
二葉あき子全作品年表:p215~252
--原爆投下時、トンネル内に電車はあったという……。
師範学校に通っていたという。下「」引用。
「師範科は月謝は免除だったが三年間で卒業したあと一年間教職につくという義務がある。私は卒業すると、きっと故郷に引き戻されてしまうと思い、とにかく在学中に東京生活を満喫せねばと遊ぶことで頭がいっぱいだった。」
広島県立三次高女の音楽の先生になったという。
デビューしたころ……。下「」引用。
「私がデビューした昭和十一年という年は、銀座にはチンドン屋さんがのどかにねり歩いていたが、2・26事件で首都に軍靴が響き、当時の言葉で支那事変と呼んだ日中戦争ぼっ発前夜、重苦しい暗い雲が日本全体を覆おうとしていた時代だった。」
戦争が激しくなると慰問で忙しかったという。
軍歌は好きになれなかったという……。
「原爆で死にそこなった女」というタイトルがある……。
芸備線「中山トンネル」の内にいるときに、原爆投下されたという。
三次の駅でこんな会話をしたという。下「」引用。
「駅前の広場にはバスもなければ、人影もなかった。-略-
「なんも知らんのかな? あんた方、どっからきんさったんで?」
「たったいま、広島から」
おじさんは「エッ!?」と驚きの声をあげ、「その広島がおおごとじゃげね。この町からもみんな救援に出かけたんよ」
私はまだ、その“おおごと”の意味がわかっていなかった。-略-」
京都の人も原爆で死んだという。下「」引用。
「亡くなった十二万人の中には、京都からわざわざ疎開して帰っていた親戚の娘たち、親友だった広島高い女時代の同級生、知人、友人がたくさんいた。」
薬局に「ヒロポン」を売っている時代。
中毒になったようだ……。下「」引用。
「ヒロポンのために惜しい人を失ったのも、この時代が原因である。
“天才」といわれた夫婦漫才のWさん、純情歌手で売った私の後輩のAさん。温厚な人柄で歌手仲間からも慕われたXさんは、体を悪くして、前途を悲観して自殺した。
どうしてこんなクスリが日本にあったのだろうか?
これは“戦争の落とし子”だという。敗戦間近、日本の若者たちは首に白羽二重のマフラーを巻き特攻機に乗って南の海へ散っていった。
死を覚悟して彼らが出撃していくとき、最後にもらうのがこのヒロポンだったという。」
Index
昭和25年ごろまではレコードジャケットなんてなかったという……。
今はCDですね。
--代役・越路吹雪
昭和27年の第二回紅白歌合戦。
松島詩子さんが交通事故。
急遽代役で、越路吹雪。
電話が入った時には酔っぱらっていたという。
ふらふらしていたが、歌になると、決っていたという。
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