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上杉鷹山の経営学-危機を乗り切るリーダーの条件-

2010年01月07日 | 読書日記など
『上杉鷹山の経営学-危機を乗り切るリーダーの条件- PHP文庫』
   童門冬二・著/PHP研究所1990年

「経営革命の祖・上杉鷹山の研究」(1982年刊)の改題。



裏表紙に書かれてあります。下「」引用。

「江戸中期ね幕府への領地返上を考えるほどの財政危機に瀕していた米沢藩を、斬新な藩政改革と藩士の意識改革で見事に甦らせた上杉鷹山--希代の名藩主として誉れの高い鷹山とは、いったいどのような男だったのか? そして、その経営手腕とは?
故ジョン・F・ケネディをはじめ、多くの実力経営者やトップリーダーが、尊敬する人物として名を挙げる上杉鷹山の、組織と人間の管理術の要諦を探る。」

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「-略-「経営改革というのは、たんにバランスシートに生じた赤字ゼロにすることではない。改革を進めるには、人づくりが大切だ。人づくりを無視した改革は決して成功しない」といったことと、同時に、「客に対するサービス精神を何よりも経営の根幹に置くべきである」という企業精神が今日的だからだ。」

「愛の改革」 下「」引用。

「二宮金次郎や上杉鷹山は、自分の信ずるところに従って、共に「愛の改革」を行った人である。」

火だねを捜そう……。下「」引用。

「絶望的な職場は譬えてみれば冷えた灰だ。しかし、その灰の中をよく探して見れば、必ずまだ消えていない小さな火ダネ運動を起こせば必ずその職場は活性化する。そしてその組織は生き返る」

JFKは知っていたが、記者たちは知らなかった上杉鷹山。

藩収入の90%を占めていた人件費。

トラブルメーカーを登用した鷹山。下「」引用。

「「職場の問題児」
 を登用した。
「トラブルメーカーのほうが、イエスマンよりもよほどパワーを持っている」
 と判断したためであった。」

「生きた金」は逆に惜しみなく使っている鷹山。

「給与のベースダウンも実施」

吉良上野介に乗っ取られた上杉家。下「」引用。

「元禄十五年(一七○二)の十二月十五日未明に、吉良上野介は赤穂浪士によって討たれた。この時、米沢藩の中では、
「吉良上野介を恨んでいる連中が多かったので、この知らせを受けると、悲しむ人間はほとんどなく、むしろいい気味だと口に出して言う者さえいた」
 と言われるような反応を示した。。
 どうして、こんなことを言われたのか。五大藩主綱憲は吉良上野介の息子である。」

俗説では、吉良上野介の屋敷で茶をもらってから苦しみ死んだ。毒された四代目の藩主綱勝……。

食いものした吉良。下「」引用。

「吉良上野介は米沢藩を食いものにした。自分の贅沢な生活費のほとんどを息子に言い付けて、上杉家から支出させたからである。
 それでなくても江戸の藩邸は、奥方を中心として生活が贅沢になっていた。-略-
 特に吉良家から養子が入ることによって、すべてにわたって贅沢が崇じ、種々な建物が建てられたり、そういう贅沢を取りしきる役所が新しく設けられたり、またそういう役所に勤める役人が増員したりした。同時に諸行事がすべて派手におこなわれ、緒寺社への寄付までどんどん増えた。」

名前……。下「」引用。

「上杉鷹山というのは号であって、彼は幼名を松三郎、また直松といった。諱名(いみな)は治憲(はるのり)である。鷹山というのは、隠居して後、五十二歳のときに自らつけた号である。」

CPであっただろうという……。下「」引用。

「それを改革の目的のひとつに含めたのは、鷹山が、もともと弱い立場にある人々に優しい気持を持っていたからだが、実はもっと身近なところに理由があった。
 それは、鷹山が上杉家を継いでから結婚した娘の幸(よし)が、生まれてすぐの心身障害児であったからである。幸は今でいうCP(小児まひ)にかかったのかもしれない。-略-
 鷹山は、この幸と結婚することになっていた。そして、結婚は、鷹山が十七歳のときにおこなわれた。幸も十七歳である。」







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