磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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大本営派遣の記者たち

2008年09月14日 | 読書日記など
『大本営派遣の記者たち』
   松本直治(元陸軍報道班員)・著/桂書房1993年、1994年3刷

報道班員であったという人が書かれた本です。下「」引用。

「私の身分である陸軍報道班員は徴員であって、軍人軍属の資格は全くない。しかし、国民徴用令に基づき戦地へ赴いた私たち報道班員の仕事は、国策「大東亜戦争」を美化し、宣伝することにあった。」



その班員のなかには、井伏鱒二さんもいたという。下「」引用。

「井伏鱒二の言葉 私と松本君の出会ひは古い。第二次大戦の始まる直前のころ、二人は同時に陸軍徴用で大阪の部隊に入れられたので知りあひになった。私たちは南方派遣軍の遠征に行くマレー半島に持って行かれることになって、大阪の築港からアフリカ丸といふ一万噸級の輸送船に乗せられた。この船倉の隅で兵隊の破棄していった将棋の駒を見つけたので、退屈しのぎに私たちは厚紙で作った将棋盤で対局したのであった。
 タイ国のシンコラ港でも一緒に上陸し、マレー領に入ってからもゴム林のなかに続く道を一緒に進んだ。シンガポールに入港してからも同じ宿舎に住んで交友を続けてゐた。私たちは謂わゆる「戦友」のなかである。
 戦後、彼は郷里の冨山に疎開したが、松本君は疎開したとやまで地方新聞社に入り、編集局長や論説委員長を勤めたが、書いたコラムは五千回にも及ぶといふ。やはり筆と思索の人である。」


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また、海音寺潮五郎も班員だったそうですが、豪傑です。

彼らは反戦集団といわれていたそうです。
海音寺などはサボタージュをしていたという。

自民党の圧力で教科書が書き換えられたという。下「」引用。

「関東学院大学の林博史助教授(現代政治史)は、一九八九年秋、防衛研修所図書館で、マレーシアのネグリセンビラン州に駐留した第五師団歩兵二連隊第七中隊の一九四二年一年分の「陣中日誌」を発見した。この記録を見ると、虐殺現場で生き残った人の証言と「陣中日誌」の記録は日付や場所がぴったり一致するとのことである。
 また同氏は一九八八年に文章検定済みだった高校英語の教科書中の、マレーシアでの華人虐殺の一例を自民党が全文削除させた事態についても指摘している。日本兵が赤ん坊を放り投げて落ちてくるのを銃剣で刺し殺したとの記述について自民党は「事実かどうか分からない内容を掲載するのは問題だ」として圧力をかけた。当時、反発はあったが、結局、自民党のごり押しが通ってしまった。同氏はマレーシアで中国系住民虐殺の事実を調査する過程でこれに該当する事例について直接証言を得ていると言う。」



--シンガポールは当時・昭南島と日本名になっていたという。
日本兵による婦女暴行などはないと思っていたという。
井伏は「良民証」や「住民証」を発行しているとき、直接訴えられたという。

上坂冬子は人間か? という文書がありました。下「」引用。

「上坂冬子というたいへんトンチンカンな理論を吐く女がいる。朝鮮人慰安婦問題のやかましくなった昨今の空気を知って、マスコミの報道のあり方へ毒舌を吐いたが、これほど呆れた評論家も稀である。
「朝鮮半島出身の女性は、日本人だったんでしょう。慰安婦は、どの戦争でも必要悪ですから、今さら四十年、五十年前のことを騒ぐなんておかしいわ」
 売春を認め、侵略戦争さえ追認する上坂冬子は人間として失格ではないかと思う。」

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青紙一枚だそうです。下「」引用。

「たしかに植民地の朝鮮人も日本人に加えられた。応徴士の美名で青紙一枚で強制連行され、日本各地の炭坑、軍事施設などで過酷な労働を強いられた。その数は実に百十三万にものぼっている。朝鮮人女性も労務動員され、不二越の例にあったごとく、女子挺身隊勤労零で五万~七万人。戦場へはこれとは別に兵士用の慰安婦十数万人ともいわれ、言語に絶する恥辱を受け、敗戦とともに戦場に捨てさられている。」

この著者は、亡き息子さんのために、二冊の本を出されています。

原発死 一人息子を奪われた父親の手記

火の墓標 原発よ一人息子をかえせ

そして、原発推進本を書き、今も推進派の上坂冬子。
あまりにも、非科学的で、過去のデータを使用している本さえ書いています。

戦後。A級戦犯の死刑執行日を皇太子明仁親王の誕生日に。
起訴日を天皇の誕生日にしていたという。










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