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教科書に書かれなかった戦争Part 24 ジャワ・オランダ人少年抑留所

2009年02月04日 | 読書日記など
『教科書に書かれなかった戦争Part 24 ジャワ・オランダ人少年抑留所』
   内海愛子、他・著/川戸れい子・訳/梨の木舎1997年

少年たちだけの抑留所があったという……。下「」引用。

「一九四二年三月、日本蘭領東印度(現在のインドネシア)を占領し、軍政をしいた。そこに暮らしていた七万人におよぶオランダ人は、敵国人として収容された。少年たちもまた、家族と引き離され、少年だけの抑留所に入れられた。少年たちが体験した飢餓と強制労働の日々は、戦後五○年余を経たいまも彼らの心を苛(さいな)んでいる。
 本書は、前半で少年抑留所の時代背景を解説し、後半でバンコク少年抑留所での少年たちの日々の暮らしを日誌で追う。」

その他についても書かれてあった……。



日本軍の方がよいと言われても……。下「」引用。

「だが、同宿のオランダ人の話によれば、オランダ人に向かっては「日本軍の方がひどかった」と語っていた。インドネシア人にとっては「どちらも悪い」というのが本音だろう。」

キムラ……。下「」引用。

「オランダの少年たちは、日本人、日本軍を軽蔑して“ヤップ”と呼んでいたし“がに股野郎”と背後から嘲笑を浴びせていた。後掲のバンコン少年抑留所の日誌には、キムラが「オラン・プクール(殴り屋)」として登場する。嘲笑する少年、かっとなってなぐるキムラ。--バンコンに収容されていたレオ・ゲレインセの自伝にも、キムラのことが書かれていた。

 五二歳の男性が食べ物を「密輸」したという理由で一九四五年五月、キムラ・セイコンという朝鮮人軍属から太い棒で全身を五○回ほど殴られ、肋骨が何本か折れ、八日独房に入れられた。しかもはじめの三日間は食物をあたえられなかった。このキムラは「殴り屋ヤン」とあだ名されるほど抑留者に残虐行為を働いた。    (レオ・ゲレインセ著『日本軍強制収容所 心の旅』)」

レイプもあったという……。下「」引用。

「原告の一人、スマトラのパレンバン抑留所に抑留されていた女性は、マラリア、脚気、赤痢にかかった。戦後は、栄養失調と重労働が原因で子宮下垂になり、一時は性交渉が不可能なほどだった。妊娠にしても流産してしまい子どもは産めなかった。彼女は、抑留所でレイプが数多くあったと証言している。抑留所での体験が深い精神的なダメッジとなり、それから回復できない彼女は、今でも日本人に出会うだけでパニック状態におちいる。」

スマラン慰安所事件」。下「」引用。

「オランダ人の若い女性を強制的に慰安所に連行した「スマラン慰安所事件」がおこるのは、収容所の管理が軍政監部から第一六軍へと移る一九四三年の末から一九四四年の初めの時期である。」

「桜倶楽部」……。下「」引用。

「バタビア(一九四二・一二・九 ジャカルタと改称)とバンドンには、オランダ人女性を「慰安婦」とした慰安所が開設されていてた。「桜倶楽部」の経営者青地鷲雄は、一九四六年九月二八日に、バタビア臨時軍法会議に起訴されることが決まった。バタビア法廷の五人目の起訴であり、民間人として異例の早さである。「桜倶楽部」が、オランダ人の間でとくに「悪名高い」ものだったからだろう。」

「テレシア倶楽部」は「日本人将校用」だったという……。下「」引用。

「バタビアには、ほかにもテレシア倶楽部という名の慰安所もあり、ここは、「日本人将校用」だった。「軍指定市営簡易食堂サロンあけぼの」もあったが、「あけぼの」が慰安所だったかどうかは不明である。」

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豊錦の国籍の問題についても書かれてありました。

国籍を変更しなかったモルガン・ユキ。下「」引用。

「-略-夫の死後、相当の財産を得ていたが、戦争で送金はとまっていた(「小坂井澄『モルガンお雪』、『朝日新聞』一九九七年五月一七日付)」

少年像の写真が掲載されていた。下「」引用。

「スマラン・カリバンテン墓地に建てられた少年像。鍬をかついだ像は抑留所の少年たちの生活を象徴している。」



少年像はミニチュア像が作られ、配布されているという。

被害を受けた人たちは、ヒロシマのように忘れることはないだろうし、それを願う!

平和のために!

本当の友好のために!









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