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従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ-ある養護教諭の原体験-

2008年07月04日 | 読書日記など
『従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ-ある養護教諭の原体験-』
   守屋ミサ・著/農山漁村文化協会1998年

激動の昭和史を文字通り生きられた看護師さんの自叙伝といっていいかと思います。



昭和13年2月、日赤受験。
日赤赤十字社新潟支部救護看護婦養成所入学。

入学後は、まず言葉遣いの指導だったそうです。下「」引用。

「上司には、「婦長殿」「院長殿」と「殿」をつけ、同級生や下級生を第三者に言う時は「さん」をつけないで呼び捨て。「です」や「すみません」は禁句で、「ございます」「申しわけございません」など独特の日赤言葉。
 上司には、三○度の停止敬礼。これもキビキビとした動作が要求されます。日赤看護婦は、卒業後軍隊に所属することが多いことと、皇族の看護は日赤出身者と定まっていましたので、礼儀作法には特に厳しかったのです。」

スローガンと教科などについても書かれてありました。

病院船橘丸の不法行為についても書かれてありました。下「」引用。

「橘丸は、昭和二十(一九四五)年八月三日、ニューギニアのカイ諸島からシンガポールへ向けて陸軍兵士二四○○名に白衣を着せて患者に偽装させ、武器とともに移送中、スパイの通報を受けた米駆逐艦二隻の臨検を受け、国際法違反で船・兵士とも掌捕された。この場合、陸軍の参謀が強引に橘丸の船長に命令をしており、それを断りきれなかったということのようである。」

昭和18年第15次航海、三度めの香港航路。
--従軍慰安婦が乗船していたという……。下「」引用。

「従軍慰安婦を便乗させたのもこの頃でした。荷物といっしょに船倉に入れられ、夕方はこっそりとハッチの陰で涼んでいました。
 派手なスフ(化繊)の着物を着た女性を、私たちははじめ不思議に思いました。当時はPさんと呼ばれた女性たちと、その存在さえも知らなかった私たち。その背景を知らず、上陸する時に、「白衣を着せて上陸させるのを目撃した」と同僚は憤慨していました。」

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--昭和18年10月、臨時東京第三陸軍病院へ転属。
天皇がお見舞いにきた唯一の病院であり、正面玄関に「天皇陛下行幸記念碑」が建っていたという。
--脊髄損傷とカリエスの患者。悪臭をはなつ。
何日も清拭されておらず、足の裏の皮はお湯につけてヘラでけずりとったという。

--昭和20年、東京大空襲、召集解除。
5月9日、再応召で、広島陸軍病院大野分院に派遣される。
移動中、神戸で空襲にあい、2日間かかって、広島へ。

原爆投下。治療法がわからなかったという。下「」引用。

「病院では、治療法がわからないままに、やけどにチンク油を塗布するほか、ガラスの破片の除去、骨折の手当などに忙殺されました。やけどに塗布したチンク油やリバノールガーゼは、熱のためにすぐパリパリに乾き、注射器に入れた生理食塩水を注いでしのぎましたが、人手も薬品も不足でした。」

土石流による大野陸軍病院の壊滅についても書かれてありました。

関連動画(大野陸軍病院)【RCC】

2 いのちが紙切れになった








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