『広島県中等教育百年の回顧』
数田猛雄・著/数田先生公立学校退職記念出版刊行会1963年
「序」に書かれてあります。下「」引用。
「広島県教育界の長老として、多年指導的な役割を演じてこられた数田猛雄校長の努力によって、ここに『広島県中等教育百年の回顧』が公刊される運びとなったことは、まことに喜ばしいことである。本書は広島藩の修道館、福山藩の誠之館の創始から現代に至るまでの広島県中等教育史である。著者は謙虚な気持から「回顧」という表現を用いておられると思うが、本書は単なる回顧録または思い出の記録と見られるようなものではない。なるほど終戦後の記述は、とくに広島一中、鯉城高校、呉三津田高校、および広島皆実高校の校長として活躍されていた時代の記述は、当時のアメリカ軍政下において、校長として学校経営上苦心された体験についての回顧的なものが主となっているが、それはやがて後代に教育史家によって、貴重な資料としての意義をもつべきものと思う。-略-
昭和三十八年七月
広島大学長
文学博士 皇至道」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/c0/538cd1b7bc063c7c4f5253ea92d4684d.jpg)
もちろん、原爆だけが書いてあるわけではありません。
でも、原爆についても書かれてあります。下「」引用。
「二十年八月六日、終に人類史上未曾有の大悲惨事が来た。次の記憶は、原子爆弾によって広島市街が一瞬に倒壊、たちまち火災に包まれたとき、広島一中の校舎の中から真に九死に一生を得て脱出した僅かな生徒達が後日そのときの記憶をたどって筆者に残してくれた手記の中の一部である。
著者に書き残した「倒壊校舎脱出記」より -略-」
KMさんの記録。下「」引用。
「午後四時頃だったろうか、共済病院から杖にすがって出て行った。一先ず我が家へ帰ろうと急いだ。途中鷹野橋附近、明治橋附近で幾度か水槽の中へとびこんだ。住吉橋の上より見る我が家の方は焔の海であり、とうていだめであると思った。そこで祖母の疎開している楽々園へ行こうと思い、共済病院で貰ったにぎり飯、馬鈴薯を手拭に包み、己斐方面へ急いだ。大半の市民も己斐方面へ逃げて行った。全身火傷をした小母さんが、血みどろの赤ン坊をだきながら、又着物もつけない男の大人が杖にすがってよろめきながら歩いてゆき、みなハダシ、髪はバラバラ、全身火傷、裸体でとぼとぼ歩いてゆく姿は実に悲惨なものであった。己斐の駅でカンパンを沢山もらいねそれを手拭いに包んで楽々園へ急いだ。電車は通ぜず、みな歩いて宮島の方面へ逃れて行った。八時半頃に五日市の役場のあたりのところまでたどりついた。あてのない人々はここで夜を過ごすようにムシロの上に寝ていた。一休みしてやっと楽々園の祖母の疎開先へつく。祖母はびっくりした。家が焼けたことを話した。家の者が死んでいるじゃろとなげきかなしんだ。
亡き先生、亡き友、広島の数知れず亡くなった方々、安らかにねむって下さい。」
天皇のバースデイにも、進駐軍の目。下「」引用。
「四月二十九日の天長節祝賀の式には寄宿舎の内庭で行なった。私は定めし、しどろもどろの訓示をしたことであろう。門柱に日の丸の旗を掲げて祝意を表して居たら、門前を通って行った進駐軍の兵士が、これを見つけて荒々しく引き下し「誰が掲げたか」とどなって行ったとか後から報告して居た。天皇のバースデーに祝意を表して居ることさえとがめられる当時の国情は実に憐れなものであった。」
『星は見ている』刊行について。下「」引用。
「遺族会の事業として『追憶』が二十九年四月梓に上ったことは、関係者の非常な努力であり、それだけ後に残る意義ある仕事でもあった。この仕事の陰の力は広隆教諭であった。
その年の八月東京の鱒書房が『星は見ている』を出版して、遺族の心情を広く世に伝えてくれたことは遺族会としても満足であったことと思う。このことについても一こと書き残しておくことがある。鱒書房から最初に末永勝介氏が広島大学の森戸学長のところにこのこの企画を以て訪ねて来たのである。学長はそれはよい仕事であると激励されたので出版社の方も初めて決心したようであるが、学長は「数田のところへ行って、この仕事をすすめるためにどうわたりをつけたらよいか相談して見よ。」と申されたので末永氏は私のところに来訪したのである。このことは秋田遺族会長の決心次第であるから早速会長を訪ねるようにしたいのであるが、折も折、会長の御老母が亡くなられて、この取りこみ中でどうしようかとコマってしまった。というのも、出版が非常に急ぐというので気はあせりつつも事情は上の次第。然るに実際にあたって見る秋田さんは左様な悲しみのさ中にも拘わらず、快くこの社員に接見して一切の約束をされたので、ここに僅か一カ月ほどの間にこの仕事が実を結び、二十九年八月三日、原爆記念日に先だつ三日、世に問われるように運んだのであった。-略-」
『映画ひろしま』のエキストラについて。下「」引用。
「名刺を拝見すると、日教組の委員長小林武氏である。とにかく座敷に通って貰うと、我小屋の来客としては、少し不自由であろうとお気の毒になったほどの大兵である。
面談の要点は「映画ひろしま」に関することで、「この製作のために、広島の高校生をエキストラとして援助を願いたい」というのである。このことを校長会長としての私に依頼に来たとの挨拶であった。筋の通ったお話しであり、其の態度も言葉遣いも流石に紳士的に、この人が全国数十万の教員の先頭に立って、歴代の文部大臣をいためつけて居るのかなと一寸信じられないほど、物腰もやさしい、落ちついた印象をうけた。
「よくわかりました。同僚校長とも早速話しあって、出来るだけのお手伝いはしましょう」と返事したのではあったが、実はこのとき已に二、三の学校では話前に生徒をかり出して居るともきいて居た。これが例の日教組のやり口かと思っても見たが、とにかくわざわざ委員長が自ら依頼の言葉を述べて行ったのは筋を通した態度であると云わねばならない。「映画ひろしま」というのは皆実有朋同窓会員でもある名女優の月丘夢路さんの熱演の原爆映画で戦争反対、世界平和の喧伝のため広く海外の上演でも評判であったときく。」
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数田猛雄・著/数田先生公立学校退職記念出版刊行会1963年
「序」に書かれてあります。下「」引用。
「広島県教育界の長老として、多年指導的な役割を演じてこられた数田猛雄校長の努力によって、ここに『広島県中等教育百年の回顧』が公刊される運びとなったことは、まことに喜ばしいことである。本書は広島藩の修道館、福山藩の誠之館の創始から現代に至るまでの広島県中等教育史である。著者は謙虚な気持から「回顧」という表現を用いておられると思うが、本書は単なる回顧録または思い出の記録と見られるようなものではない。なるほど終戦後の記述は、とくに広島一中、鯉城高校、呉三津田高校、および広島皆実高校の校長として活躍されていた時代の記述は、当時のアメリカ軍政下において、校長として学校経営上苦心された体験についての回顧的なものが主となっているが、それはやがて後代に教育史家によって、貴重な資料としての意義をもつべきものと思う。-略-
昭和三十八年七月
広島大学長
文学博士 皇至道」
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もちろん、原爆だけが書いてあるわけではありません。
でも、原爆についても書かれてあります。下「」引用。
「二十年八月六日、終に人類史上未曾有の大悲惨事が来た。次の記憶は、原子爆弾によって広島市街が一瞬に倒壊、たちまち火災に包まれたとき、広島一中の校舎の中から真に九死に一生を得て脱出した僅かな生徒達が後日そのときの記憶をたどって筆者に残してくれた手記の中の一部である。
著者に書き残した「倒壊校舎脱出記」より -略-」
KMさんの記録。下「」引用。
「午後四時頃だったろうか、共済病院から杖にすがって出て行った。一先ず我が家へ帰ろうと急いだ。途中鷹野橋附近、明治橋附近で幾度か水槽の中へとびこんだ。住吉橋の上より見る我が家の方は焔の海であり、とうていだめであると思った。そこで祖母の疎開している楽々園へ行こうと思い、共済病院で貰ったにぎり飯、馬鈴薯を手拭に包み、己斐方面へ急いだ。大半の市民も己斐方面へ逃げて行った。全身火傷をした小母さんが、血みどろの赤ン坊をだきながら、又着物もつけない男の大人が杖にすがってよろめきながら歩いてゆき、みなハダシ、髪はバラバラ、全身火傷、裸体でとぼとぼ歩いてゆく姿は実に悲惨なものであった。己斐の駅でカンパンを沢山もらいねそれを手拭いに包んで楽々園へ急いだ。電車は通ぜず、みな歩いて宮島の方面へ逃れて行った。八時半頃に五日市の役場のあたりのところまでたどりついた。あてのない人々はここで夜を過ごすようにムシロの上に寝ていた。一休みしてやっと楽々園の祖母の疎開先へつく。祖母はびっくりした。家が焼けたことを話した。家の者が死んでいるじゃろとなげきかなしんだ。
亡き先生、亡き友、広島の数知れず亡くなった方々、安らかにねむって下さい。」
天皇のバースデイにも、進駐軍の目。下「」引用。
「四月二十九日の天長節祝賀の式には寄宿舎の内庭で行なった。私は定めし、しどろもどろの訓示をしたことであろう。門柱に日の丸の旗を掲げて祝意を表して居たら、門前を通って行った進駐軍の兵士が、これを見つけて荒々しく引き下し「誰が掲げたか」とどなって行ったとか後から報告して居た。天皇のバースデーに祝意を表して居ることさえとがめられる当時の国情は実に憐れなものであった。」
『星は見ている』刊行について。下「」引用。
「遺族会の事業として『追憶』が二十九年四月梓に上ったことは、関係者の非常な努力であり、それだけ後に残る意義ある仕事でもあった。この仕事の陰の力は広隆教諭であった。
その年の八月東京の鱒書房が『星は見ている』を出版して、遺族の心情を広く世に伝えてくれたことは遺族会としても満足であったことと思う。このことについても一こと書き残しておくことがある。鱒書房から最初に末永勝介氏が広島大学の森戸学長のところにこのこの企画を以て訪ねて来たのである。学長はそれはよい仕事であると激励されたので出版社の方も初めて決心したようであるが、学長は「数田のところへ行って、この仕事をすすめるためにどうわたりをつけたらよいか相談して見よ。」と申されたので末永氏は私のところに来訪したのである。このことは秋田遺族会長の決心次第であるから早速会長を訪ねるようにしたいのであるが、折も折、会長の御老母が亡くなられて、この取りこみ中でどうしようかとコマってしまった。というのも、出版が非常に急ぐというので気はあせりつつも事情は上の次第。然るに実際にあたって見る秋田さんは左様な悲しみのさ中にも拘わらず、快くこの社員に接見して一切の約束をされたので、ここに僅か一カ月ほどの間にこの仕事が実を結び、二十九年八月三日、原爆記念日に先だつ三日、世に問われるように運んだのであった。-略-」
『映画ひろしま』のエキストラについて。下「」引用。
「名刺を拝見すると、日教組の委員長小林武氏である。とにかく座敷に通って貰うと、我小屋の来客としては、少し不自由であろうとお気の毒になったほどの大兵である。
面談の要点は「映画ひろしま」に関することで、「この製作のために、広島の高校生をエキストラとして援助を願いたい」というのである。このことを校長会長としての私に依頼に来たとの挨拶であった。筋の通ったお話しであり、其の態度も言葉遣いも流石に紳士的に、この人が全国数十万の教員の先頭に立って、歴代の文部大臣をいためつけて居るのかなと一寸信じられないほど、物腰もやさしい、落ちついた印象をうけた。
「よくわかりました。同僚校長とも早速話しあって、出来るだけのお手伝いはしましょう」と返事したのではあったが、実はこのとき已に二、三の学校では話前に生徒をかり出して居るともきいて居た。これが例の日教組のやり口かと思っても見たが、とにかくわざわざ委員長が自ら依頼の言葉を述べて行ったのは筋を通した態度であると云わねばならない。「映画ひろしま」というのは皆実有朋同窓会員でもある名女優の月丘夢路さんの熱演の原爆映画で戦争反対、世界平和の喧伝のため広く海外の上演でも評判であったときく。」
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