磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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年表ヒロシマ40年の記録

2008年10月08日 | 読書日記など
『年表ヒロシマ40年の記録』
   中国新聞社・編/未来社1986年

ヒロシマに歴史ありですね。
--歴史を大切にしていただきたいと思います。



■1945年■
8.7 大本営、広島被爆を発表
トルーマン米大統領が原爆投下を声明
ローマ法王庁機関紙オセルヴァーレ・ロマーノ紙、米軍の新型爆弾使用を「破滅的手段」と批判。
8.12 アトリー英首相声明 「原子爆弾の発明が将来、平和愛好諸国の平和に貢献し、全世界にはかり知れぬ破局を巻き起こすかわりに世界繁栄の恒久的源泉となることを心から祈る」
8.16 チャーチル、原爆投下を支持、英下院で演説「原子爆弾を使用すべきでなかったという意見があるが自分はそう思わない。日本との戦いにおいてさらに百万の米国人の生命と二十三万の英国人の生命を犠牲に供するよりはむしろ原子爆弾を使用するにしくはない」
▽英上院でカンタベリー寺院フィッシャー大僧正「原子爆弾でいっきょに非常に多数の民衆が死傷したという事実によって人間の良心が烙印をつけられたと考えないものはあるまい。人間の良心がこの痛手からたやすく回復するとは思われない」

■1946年■
6.3 ジョン・ハーシー(米ジャーナリスト)広島で被爆者の取材始める。
8.17 米軍クーニー、ウェイク両軍医ら五人、広島赤十字病院で患者二十人の診療に立ち会う ビキニ原爆実験参加後来日。
11.19 米軍の原子爆弾症無料診察、日本医療団宇品病院で始まる。十二月七日まで。

■1947年■
3.7 ABCC、広島赤十字病院に事務所開設 血液学のニール博士が調査活動

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■1949年■
7.14 ABCC(原爆傷害調査委員会)広島研究所、宇品仮研究所で開所式
7.22 ABCC、広島市比治山公園に研究所新築工事着手。広島、呉、長崎の研究体制、米=医師十一人、看護婦一人、事務技術職員五十五人、日本=医師十七人、同見習四十人、看護婦二十五人、技術者十五人、事務員百六人、その他百六十一人の陣容で。
8.3 法政大学、ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」日本語版を天皇に献上

■1950年■
反感をかっていたABCC。下「」引用。

「この年1月、ABCC(原爆傷害調査委員会)が24年末までの調査状況を発表。初めてその内容を明らかにした。
 それによると、ヒロシマでは1日平均20人以上の患者を診察。30~40軒の家庭を訪問して血液、寄生虫、細菌などの各種テストを実施。同時に子供たちの発育状態も調査した。その数は84,818人に達したとしている。
 ABCCの研究には厚生省予防衛生研究所も当初から参加。だが、「診察して治療せず」とそのあり方は、被爆者の反感を買うことつながった。」

■1951年■
12.9 ABCC研究発表会(広島県医師会主催)開く。広島市中町、広島県医師会館で、ジャレット・ファーリー博士ら五人の研究者が原爆傷害につて発表
ファーリー「一九四八年から三年間九十例の白血病の調査をしたがその結果、被爆者の間に白血病の発生が増加していることが認められ、とくに二キロ以内で被爆した人に増加率が高い」

■1952年■
7.23 ABCC(原爆傷害調査委員会)、原爆生存者調査結果を広島市に通知。二十五年国勢調査と同時実施。広島原爆の生存者、全国で十五万七千五百七十五人」
8.5 ABCC、残存放射能の影響調査に着手

■1953年■
10.14 広島ABCC遺伝部医師土本巌、「新生児には原爆の影響は認められず」と発表。第五部中四国小児医学会で

■1954年■
2.5 ABCCと日本側原爆災害調査研究班が合同討論会。東大医学部で
8.17 モートン広島ABCC所長ら6人上京、日本側(第五福竜丸事件)調査に協力。
9.21 楠本厚生省環境衛生部長、広島入り。「障害者の健康管理について早急に実態をつかみ、適切な治療方法を確立したい。ABCCについては調査するだけでなく、治療を中心にした医療面のサービスにまで拡大するよう外務省に申し入れ、現在話し合いの段階だ」

■1955年■
8.5 広島ABCC、開所以来の調査・研究結果発表 ホームズ所長が声明書。「われわれは、強い放射能にさらされると一時的に不妊症を引き起こすが一定期間後は妊娠能力を回復すること、強度の放射能を受けた患者から生まれた一世代の子供には何らの遺伝的影響も現れていないことを知った。放射能障害としては、白血病と白内障が認められる」

■1973年■
8.3 日米首脳会談、ABCC(原爆傷害調査委員会)を両国が財政折半、共同運営の方針で合意
12.20 厚生省、ABCC(原爆傷害調査委員会)を五十年度を目標に国内法による財団法人とする方針を国会で表明「法人化後は公開の原則が貫かれる」と

■1974年■
11.8 ABCC、財団法人「放射線影響研究所」への改組決定日米政府間交渉で

■1975年■
4.1 「放射線影響研究所」発足。下「」引用。

「開所式で山下久雄理事長は「今後は被爆者、市民、地元機関と話し合いの場を持ち、市民の福祉につながるようにしたい」と“開かれた放影研”を強調。この年のうちに専門評議会、地元連絡協議会が設置された。」

しかし、福祉にはつながらなかったとボクは思います。

チェルノブイリから広島へ


■1975年■
「天皇の発言」が問題になった……。下「」引用。

「 日本記者クラブの求めで実現した10月31日の天皇・皇后の記者会見で、天皇は原爆投下についても答えた。「この原子爆弾が投下されたことについて遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒ですが、やむを得ないことと私は思っております」。その場で出た質問への短い言葉だった。
 だが被爆者などには「やむを得ない」の部分に割り切れない思いを抱いた人もいた。宮内庁は国会や原水禁団体への質問への回答の中で「陛下はつねに広島、長崎市民の上に心を砕いておられる」と天皇の真意を捕足した。」

宮内庁の言で満足される方は少ないかとボクは思います。

■1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見■



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天皇に原爆はどのように伝えられたのだろうか?
大手マスコミはきちんと、「原爆神話」ですら、当時は伝えていなかったのではないか?

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■1985年■
ジョン・ハーシー、39年ぶりに広島を訪問。









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