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朝永振一郎著作集6 開かれた研究所と指導者たち

2008年05月24日 | 読書日記など
『朝永振一郎著作集6 開かれた研究所と指導者たち』
   朝永振一郎・著/玉木英彦・解説/みすず書房1982年

今、西東京市であるが、田無には原子核研究所というのがあった。非核宣言都市なのに、このような施設があると指摘する人たちもいた……。今はそれもなくなっているが、非核とはどこまでの範囲をいうのだろうか?

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月報では、湯川博士のことが書かれていた。下「」引用。

「原子力委員としての湯川先生は、京大原子炉の敷地問題という厄介な問題に捲き込まれる破目にもなり、したたか政治の泥にまみられ、一年余りで健康上の理由で原子力委員を辞められた。」

読売新聞の正力松太郎に恩義があったとかで、湯川はしぶしぶ承諾して、ひどいものとなった……。

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それに比べて朝永振一郎はやくざな論理を展開せず、市民と膝と膝をつきあわせて語ったという。

原子力 闘いの歴史と哲学


宇宙線の研究は、仁科研究室でもしていたという。下「」引用。

「話をまた宇宙線にもどしますが、宇宙線の研究をやりますのに、まずガイガー計数管が必要だ。それを手づくりする。宇宙線粒子を数える研究を仁科研究室でまっさきにやり始めたわけですが、その記録する。」

昭和6年に仁科研究室が誕生した。
--予算は昭和7年に決まったという。

サイクロトンは、アメリカのローレンスが使っていた磁石と同じパウルゼンアークのマグネットだったという。

--原子核研究所。
大阪で原子核特別委員会をやったとき、田無の人たちが傍聴に来ていたという。
藤本陽一「朝永先生のやり方はよかったと、今でも思っているんですがね」
--原子核と、原子力をわけていたという。

朝永振一郎は語っている。下「」引用。

「原子炉を用いないにしても原子核研究に放射線がつきものであることは率直に認めないわけにはいかない。-略-加速装置から出る放射線は原子炉から出るものにくらべれば、ほとんどゼロに等しいものである。それは化学の実験室から出る有毒ガスと、化学工場の煙突から出るそれとの差と同じである。」

研究所は昭和30年の7月15日に正式に設立。


また、後に医師会会長になる武見太郎が理研で研究していたころのことを語っている。下「」引用。

「武見 仁科先生が、君ね、これからは医者が医学だけやってたってだめなんだよというお話なんですよ。君と話しているとぼくのところにきたほうがいいから遊びにきたまえとかいうことで、それからだんだん本気になっちゃって、ぼくはそのころ放射線による白血球減少症というのに興味を持っていた。サイクロトンをオペレートするのは皆、あのころ白血球減少症になったんだ。ぼくが片っぱしから検査して二○○○になると作業ストップ、ドクター・ストップしたんだよ。だるくなっちゃって仕事ができないほどひどいんですよ。」

アメリカの軍医と武見。下「」引用。

「そしてペントースヌクレオチド使ったんです。そうしたら中泉さんが、そんなもの効くはずがないとか、仁科先生にいってたんです。ところがあの豚の肝臓がとれなくなって酵母でやったんです。酵母もなくなって結局仕事にならないからやめてたんですよ。そうしたらアメリカ軍が長崎に原爆症の患者のところにみえて、君がつくってたやつがアメリカでもつくってたよ、同じことやってたじゃないかと話してくださった。ところがぼくは今度は憲兵隊に調べられて、どうしてわかったのかしらないけれど、MPがきて、おまえペントースヌクレオチドをやってたろうと。やってたっていった。何のためにやってたというから放射線の白血球減少症の研究をやっているというと、根掘り葉掘り聞きましたね。いろんなデータみんなやったんですよ。彼、了解しまして、いい仕事してたというわけで。あと、その憲兵が連れてきた軍医さんが巣鴨刑務所の軍医さんだったんですが、その人はちゃんとしたやつで、おまえいい仕事をしたので日本じゃ評価されたかというから、あまりされなかったと話したら、おれのほうじゃたくさんあるからやろうかというんで、もらいましたよ。」








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