磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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いま、ここで-アウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的考察-

2009年02月08日 | 読書日記など
『叢書・ウニベルシタス いま、ここで-アウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的考察- Hier und Jetzt』
    ゲオルク・ピヒト(著)/斎藤義一(監修)/浅野遼二、他(訳)/法政大学出版局1986年

『叢書・ウニベルシタス347 いま、ここで-アウシュヴィッツとヒロシマ以後の哲学的考察-続 Hier und Jetzt 2』
    ゲオルク・ピヒト(著)/斎藤義一(監修)/大野篤一郎、他(訳)/法政大学出版局1986年


「ヒロシマ」などで、悪という概念を持つべき……。下「」引用。

「つまり科学と責任の二律背反が、はじめてその口を開いたのである。それ故、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」という名は、私がそのただなかで哲学しようとしている歴史的時期の相貌を表わしている。それらが何ヲ意味するものであるかは、ここ数十年の年月が教えてくれている。「アウシュヴィッツ」とは、断わるまでもなく、スターリンの「粛清」と共に始まり、以来全世界を震撼させてきた恐怖の波の象徴である。われわれは、大量殺戮の、拷問の、自由の抑圧の時代、そして、宗教や人間の尊厳を愚弄する時代に生きているのだ。しかし、地球的規模に及ぶ心胸のこの食化現象は、「アウシュヴィッツ」の名がドイツ人につきつける問いを、ますます鋭利なものにしてゆくばかりとなっている。」

「理性は自分の全ての企てにおいて批判に服さなければならない」
--日本ではごまかしの論理が大手をふり、憲法さえ重んじない……。

悪を追究すべきことなのに、それを忘れている学問……。下「」引用。

「「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」という名前は、悪の二つの異なった現われである。悪はここでは非常に露骨に、同時に非常に底しれぬしかたで露わになっているので、われわれは、どのように向きを変えても、悪の明白さから逃れることはできない。それゆえ、これらの名前は、これほど不快な働きをするのである。というわけは、科学的技術的文明の意識は、悪が最も強力な歴史的勢力の一つであるということを認めようとしないからである。」

ヒロシマの後も、悪が……。下「」引用。

「アウシュヴッツとヒロシマの後でもなお、悪が政治学・経済学・社会学の名かにも、歴史学の中にも現われないということや、心理学や行動研究が、僅かの例外を除いて、悪抜きで説明しようという関心によって支配されているのはほとんど不可能であるように思われる。ひょっとしたらまさにこの無関心は、--それは紛うかたなき、抑圧の痕跡を示しているのだが、--悪の最も強力な現象形態の一つである。」

今も拝金主義者の迷信主義者が世の中を異常にしている……。下「」引用。

「アドルフ・ヒトラーは、アインシュタインと同様に、予め計算(予測)されえなかった。しかし、われわれが生きている世界は、科学者も政治家も従っている一つの迷信に支配されている。すなちわ、量化されるものだけが現実的であるという迷信である。メドウズ研究のシステム分析上の弱点はすべてこの迷信にその根がある。-略-」

その悪(拝金主義者)が、システムを崩壊させるという……。下「」引用。

「価格メカニズムがこれらの費用の増大を規制せず、社会が国家による産業成長のコントロールを我慢しないので、成長のために、生活の質が絶えず悪化するということは避けられない。もしも、この展開がコントロールされないならば、われわれは、システム全体が崩壊する点に急速に近づく。-略-」

悪を正義とする時代が加速していったとボクは思う……。下「」引用。

「これに対して、平和とその前提や戦略に関する科学が存在しないということはなんと馬鹿気たことかということをはっきり理解し始めたのである。それどころか、広島と長崎以来、軍事的思考と科学的思考との融合が行なわれ、そこでわれわれの文明における科学の現実の機能が、ぞっとするような明白さで、読み取られるのである。」

ユートピアというのはドイツでは「どこにも存在しない土地」
--カトリック教会の殉教者となったトマス・モアによる新造語。
アメリカの発見によるという……。

「第十三章 核社会の未来--安全性とは何か」というタイトルもあった。












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