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シリーズ・戦争の証言20 一九四五年‐慟哭の満州-日本人孤児からの手紙-

2009年05月08日 | 読書日記など
『シリーズ・戦争の証言20 一九四五年‐慟哭の満州-日本人孤児からの手紙-』
   橋本カツ子訳・編/太平出版社1978年

「まっ先に逃げた関東軍と為政者たち」
--この本にも書かれてありました……。



最後と……。下「」引用。

「母はわたくしにパンも買ってくれて、「おあがり、これがおまえにしてやれる最後のことだからね」といいました。当時、わたくしは母の気持ちがわからず、いろいろいなことをたずねましたが、母は黙ったまま歩き、ただ「早く、おあがり」といっただけでした。「おんぶしなくてもいい、じぶんで歩くから」というと、母は、「おんぶするのも、これっきりなのだから」といっては、そのまま歩き続けて、大きな庭のあるところへやってきました。-略-」

母について。下「」引用。

「わたくしは日本で生れました。母は、顔にできものができたのが原因で三三年まえに日本で死亡しました。もし親族が日本におりましたら、このことだけで、わかるであろうと思われる唯一のてがかりです。
 母が死んだあと、わたくしはしょっちゅう泣きくらし、祖父がよくなだめてくれ、中国に来るまえにわたくしを抱いて記念撮影をしてくれたことをおぼえています。このことも、祖父が生きていれば思い出してもらえることと思います。」

6歳で自分の名前もおぼえていないという……。下「」引用。

「敗戦のとき六歳でしたが、名まえもおぼえておりません。家のまわりは山岳地帯で、近くに川が流れていました。-略-」

それだけ混乱していたのだろう……。

「聞き書き5 せめて元気で育っていますように……」
--日本に帰国した親もさがしていた……。下「」引用。

「富田さんは、おちついた初老の夫人だった。敗戦後、夫もぶじに帰国した。郷里の岡山には田畑も山林も、広い家屋敷もある。-略-飢餓と極寒のなかで、生とはいえないような生を生きた母子四人の難民生活をむしろ淡たんと話していた。-略-」

「シリーズ・戦争の証言 編集部」も文章を書いている。下「」引用。

「-略-街には、ソ連兵たちが、さっそうと肩で風をきっていた。二頭立ての馬車も、舗道にひづめを高鳴らしていた。そんな街を、異形の群れは、元小学校だった難民収容所にむかうのだった。ほとんどの人たちが、満蒙開拓団員とその家族たちだった。「匪賊」に襲われ、ソ連兵に奪われ、あるときは山野に寝て、ようやく北満(中国東北地区・北部)の大都会・ハルピンにたどりついた日本人難民である。-略-」

死者の大半は……。下「」引用。

「このなかには、年寄りもいた。少女もいた。赤子もいた。小学校の教室や、講堂を利用したムシロじきの収容所で、医師に診とられるはずもない。幼児や少年が、腹だけ極度にあくらませて栄養失調で死んでいった。すっかり共同生活者となったシラミは、発疹チフスをあっというまに広げていった。「三歳以下の幼児は、とても生きては帰れまい」--収容所の人たちは、そういいあった。生き残れることのほうが、奇跡といっていい状況だった。日本への在満日本人の引き揚げが開始されたのは、四六年五月。満州での死者二十数万の大半は、敗戦から本土引揚げまでの間に死んだ人びとである。」

「4 まっ先に逃げた関東軍と為政者たち」 下「」引用。

「-略-一方で、開拓団員たちは、「軍や、軍の家族が引揚げているというのは、敵のデマに決まっている」と、「死守」の決意を固め、あるいは、「皇軍のいるところまで出れば」と、戦いながらの避難行をつづけたため、さらに犠牲者をふやしたのだった。」

こんな軍の家族たちに関わる子孫に頼ろうなんて、あまりにも愚かではないか?

冷血な人たちが、国民を守ろうなんてしないのでは?

戦争では、守っている余裕などないという戦争体験者の言葉も事実のようにも思える……。










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