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シリーズ・戦争の証言8 ひとすじに星は流れて-満州引揚げの母の手記-

2009年05月08日 | 読書日記など
『シリーズ・戦争の証言8 ひとすじに星は流れて-満州引揚げの母の手記-』
   安居儔子・著/太平出版社1979年

満州引揚げ……。
--母は強いといっても、限界がある……。
そうやって、美名をあたえて、苦しいことをさせるというのは、これも差別という人がいまね……。
……だけど、事実として母は強いといいたくなる人もいます……。



「はじめに」 下「」引用。

「昭和二○(一九四五)年八月八日、この日はわたしたち在満日本人にとって運命の日でした。
 この日の夜、ソ連軍はいっせい国境を突破して「満州国」(中国東北部)に侵入してきました。
 無敵最強を誇っていた日本軍は、ひと支えもできず、数日のうちに全満州はソ連軍の支配下にはいりました。
 八月一五日、日本の無条件降伏とともに、「満州国」は永遠に地上からその姿を消し、「国」を失った在満日本人の悲劇が始まりました。
 夫はすでに五月一七日、現地召集されたまま消息を絶っていました。
 三○歳のわたしは、長女玲子(八歳)、次女紀子(五歳)、三女祐子(一歳)の幼い四人の子らをかかえて、動乱の広野になげだされました。
 流亡一年、わたしたちはいくどか死地にさまよいましだか、そのたびに多くの人たちの暖かい同情と庇護を受けて、ようやく全員無事、なつかしい故国に帰りつくことができました。
 おもえば昭和七(一九三二)年「五族協和の王道楽土を築く」という美名のもとに「満州国」がつくられ、多くの日本人がそれぞれ夢や野心を抱いて、かの地に渡りました。すべての日本人は、程度の差や現われ方のちがいはあっても、だれもが自分たちを一段と優れた民族であるかのように思いあがり、中国人の上に君臨して横暴をきわめていたことは否定できません。-略-」

ニッケギャラリー……。 下「」引用。

「満州のオアシスといわれたニッケギャラリーは終日はなやかににぎわって、その喫茶室の一隅にはね、いつも名士や文化人がたむろして、紫煙をくゆらせているのが見られました。奥地からでてきた人びとは、かならずといってよいほど一度はここに立ちより、香り高いコーヒーを味わったものでした。有名な李香欄(山口淑子)も、その清楚な中国服姿を、よく売場にあらわしていました。」

下手にでろと……。下「」引用。

「独立の喜びに興奮した朝鮮人は、いつわれわれをおそってくるかもしれない気がして、一、五○○人の命をあずかる疎開本部の緊張は非常なものでした。本部からは、
「いついかなるときも、朝鮮人をおこらせてはならない。下手にでよ、下手にでよ」
と、繰り返し命令がだされたました。-略-」

傲慢な軍人は、すぐに逃げている……。

コックリさんをしたという。下「」引用。

「ついだれからともなくコックリさんという占が流行しだしました。終日、
「新京へ帰れる日はいつですか」
とコックリさんにたずね、むなしいものとしりつつ、それを頼りにわずかな希望をかけて一日一日をすごしていました。」

悪意ある人がいなかったから、よかったものの、今は気をつけないといけない。奇妙なカルト集団もある……。

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「ソ連兵の恐怖」 下「」引用。

「ソ連兵は夜といわず昼といわず土足ではいりこみ、めぼしいものは片っぱしから持ちさろうとしました。ある日、わたしが炊事場にひとりいるところへソ連兵がやってきて、いきなりわたしの胸にドンとピストルをつきつけ、身体検査をはじめました。-略-いっそひと思いに殺してくれればと思いましたが、時計もなくお金もないわたしは、やかで解放され、また惜しくもない命をながらえたのでした。
 いくら戸締まりをしても、大きなソ連兵は強い力で苦もなく戸をこじあけてはいってきました。-略-」

発疹チフスの友人をすくった妊婦さんがいたという。下「」引用。

「ところが、これでホッとひと息ついて安心したとき、奥地からこの人を頼ってこられた人が発疹チフスで倒れてしまいました。病人を見捨てることのできなかった彼女は、お産の迫っているなかでの虎の子のお産費用を全部投げだし、付添までつけて入院させてあげたのでした。そのおかげで、この友人はたいせつな命をとりとめ、無事に日本へ帰ることができました。
 人を押しのけて、自分の安全ばかり図っているこの混乱のなかで、だれにこれだけのことができましょう。わたしは、この人のこの美しい行為に強く心を打たれました。」

発疹チフスに対してもいろいろ……。下「」引用。

「音さんと同居のNさんは、チフスを恐れて近よろうともしません。この人たちの薄情さが恨めしくなりませんでした。音さんはわたしに子どもがあることを心配されてか、帰れ帰れといわれ、子どものないKさんに付き添ってほしいと、しきりに訴えられました。
 しかし、「日本まで帰るまでは、絶対に死んではならない」。これがわたしたちの最大の祈りであり願いであれば、NさんやKさんを、だれが責めることができましょう。これが当然の人情といわなければなりません。」

そして、帰国できたという……。下「」引用。

「九月一一日、懐かしい祖国の山、日本の山山が視界に入ってきました。-略-」








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