磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆文学論-核時代と想像力-

2008年09月12日 | 読書日記など
『原爆文学論-核時代と想像力-』
   黒古一夫・著/彩流社1993年

この本には、何度も「吉本隆明」批判がでてきます。
それほど、吉本隆明が大物とは思えませんが……。



核戦争はありえるというが……。下「」引用。

「現時点における最強・最終の兵器が「核」であるならば、限定的であれ、局地的であれ、すべての戦争は核戦争へとつながる可能性を持っている。その意味では、「核兵器」がこの地上に存在するかぎり、第二、第三の「ヒロシマ・ナガサキ」が出現しないという保証はありえない。」

今では、「核の冬」のことも考えてほしいものです。

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吉本隆明は漫画チック。下「」引用。

「六○年代から七○年代の青年・学生に圧倒的な思想的影響を与えた吉本隆明が、その反・反核論理を集成した『「反核」異論』(一九八二年)で展開している《核廃棄物などロケットに積んで宇宙空間に捨ててしまえばよく、現在の科学技術の水準で考えれば簡単なこと》などという夢のような異論が一定程度信じられる基盤持つこの社会は、目先の現在(いま)にのみ目を奪われ、一時(いっとき)の享楽に酔い痴れる生活を強いている。」

これは、小松左京も同様のこと書いていて、非科学的と笑う人たちがいました。


原爆文学などはないと、吉本隆明。
--ユダヤ人の科学、ドイツ人の科学といっていたのは非科学的なことでした。
しかし、原爆文学はあるでしよう……。
それは差別ではない。

吉本は原発はいいものと思っているらしい……。下「」引用。

「ところで「反原発」というばあいの「核」は核エネルギーの利用開発の問題を本質とする。かりに「政治」がからんでくるばあいでも、あくまでも取扱い手段をめぐる政治的な闘争で、核エネルギーそのものにたいする闘争ではない。核エネルギーの問題は、石油・石炭からは次元のすすんだ物質エネルギーを、科学に解放したことが問題の本質とする。-略-」

核の歴史もわかっていない発言であり、もちろん科学を理解しているとは思えない。

吉本さんは漫画好きだという。下「」引用。

「まるで吉本が大好きなSFアニメ「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」の世界ではないか。《放射性物質の宇宙廃棄(還元)は、原理的にはまったく自在》というのは、全く乱暴な論理であるが、それではなぜこの国の政府は原発から出たドラムかん五万本以上の放射性廃棄物を太平洋の海底に沈めようとしたのか。あるいは、巨大な宇宙ロケットを持つアメリカは、なぜネバダの砂漠に同じようなドラムかんを放置しておくのか。原発が「政治」の問題だからではないのか。」


《戦争は贅沢だ》と井伏鱒二。下「」引用。

「《戦争は贅沢だ》(『遥拝隊長』)という思想は、井伏のシンガポール在住の一年間を含めた戦時下の生活のすべてから絞り出された結果、と言ってよいかもしれない。庶民の日常的在り様に敵対する最大なもの、それが戦争であることを、井伏は骨身に染みる思いで感受したのではないか。」

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これだけでは、よくわからないが……。興味をひいた。
--しかし、贅沢や質素でみる問題だろうか?
やはり、「戦争は究極の差別」とみるべきだろうとも思うが……。

これはありえないでしょう?
「2 『ヒロシマ・ノート』--被爆者との共生」
--高橋昭博さんの意見では、きれいな面だけを書いたものが、どうして共生という命や生活のレベルにまで及ぶのか、ボクには理解できない。

『長崎の鐘』について。下「」引用。

「しかし、『長崎の鐘』と、「マニラの悲劇」を同じ一冊の本の中に収めたということは、「焼き、殺し、奪った」者が、同時に「焼かれ、殺され、奪われる」者であるという戦争の理不尽さ、つまり被害↔加害の相互性を伝えるとともに、〈原爆=核〉の存在が「マニラの悲劇」と同じように、戦争が生み出した愚かな蛮行であることも、計らずしも証し立てることでもあった。」

戦争はたしかに、国と国どうしのものであるが、戦争責任はこんな見識は異常だろう……。
罪もないヒロシマの子どもたちまで、罪をきせるのか……。
--これもまた差別だろう……。

きれいごととして書かず、共産党批評して、共産系の人たちから、ありえもしないことで批難されている永井隆……。

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