『女がヒロシマを語る』
江刺昭子・加納実紀代・
関千枝子・堀場清子(編)/
インパクト出版会1996年
江刺昭子の名があるので、
手にした本です。
『大田洋子再読』江刺昭子が書いています。
作品も年齢を経ていけば価値がかわるものでしょうね。
『草饐』は20代終わりに書いた作品だという。
江刺は下「」のように書いています。
「私は『草饐』で、女であり、作家である大田洋子という人を書いた。その人のいちずな、それだけで転変きわまりない生涯をたどるおもしろさにつき動かされて、若い力で一気に書いた。入れこんだという思いがあるが、評伝というものに必然的につきまとう、対象人物に対するむごさも、あれにはある。
そのむごさも含めて、今も人間大田洋子に対する見方は変わっていないが、彼女の仕事、とりわけ原爆被爆後について、評価の不足を最近感じるようになった。」
あまりむごいとは思わない。
大田洋子の人生がむごかったとは思う。
ただ過小評価しすぎだと今も思う。
評価の不足している点に江刺は描いています。下「」引用。
「さらに私は『草饐』で女性作家の一生をたどったことで、女の仕事に対する評価というものが、男よりよほど割引きされていることに気づいた。文学史でそれなり評価をされている男性作家の誰れかれとそれほど遜色のない仕事を残した女性作家のある者が、ほとんど抹殺状態であったりする。女の人間回復に闘った女の活動家も、男の人権のために働いた男よりも一ランクも二ランクも下に位置づけされている。」
大田洋子は流行作家であり、
江刺のいうところの「国策作家」でも
あっただろう。
そのことは誰も否定できないだろう。
しかし、「国策文学」という批判を
大田洋子にするならば、他にも、
その批判をすべきでもあるだろう。
江刺によれば、ノンフィクション手法がなかったという。
そこで大田洋子は自ら生み出していったという。同。
「ノンフィクションを成りたたせる基本は、事実のルポである。事実をルポするためには、書き手は第三者的な傍観者の立場にあるのではなく、ルポされる事柄なり、事件の中にみずから入っていくことが望ましい。今日のノンフィクションライターは、そのことをよく承諾していて誰もがそれを実践している。
大田の 時代には、その手法はあまり知られていなかった。その方法を大田は手さぐりで編みだしたのだといえる。そうしてできあがったものの力強さゆえに、従来型の小説しか文学と認めようとしない人々にも、文学の一形式として放っておけない気持ちにさせたのではないだろうか。“核”という巨大な怪物を追求するには、小説という一形式ではどうにもならず、従来からの短詩形文学の力も借り、ノンフィクションの応援も得てはじめて可能であるこということを、大田の仕事は示したのである。」
私はこの点は考えたこともなかった。
そして批判の間違いを江刺は書いている。同。
「その理由は、原爆がすぐれて政治的な事がらであることに気付かず、みずからを政治的にきたえることをしなかったからだという批判は(黒古一夫『原爆とことば』)、的はずれということになる。」
「国策文学」を書いて流行作家である者が、
どうして政治的に鍛えていなかったのだろうか?
もちろん原爆を描くことによって、
「国策文学」とは対極に走った大田洋子である。
江刺のいうことの方が信用できます。
『原爆歌人正田篠枝とわたし』古浦千穂子
では正田篠枝が尼僧であることが書かれていた。同。
「篠枝は一九五四年に浄土真宗広島別院で得度した在家の有髪の尼だった。法名は涙珠と言った。」
『栗原貞子の軌跡』石川逸子では、
心に染み入る詩が取り上げられています。
娘への鎮魂詩を貞子は書いている。同。
「-略-
鉄製の認識票でやっとわかったあなた
あなたの顔に
誰がかけたのか白いハンカチが
かけてあった
そのハンカチは焼け爛れた顔に
ぴたりくっついて離れはしない」
谷本清平和賞記念講演での栗原貞子の言葉が
印象的であった。
【鱧男の感想】
これでも、まだ大田洋子に対する評価は低過ぎる。
日本というのは、「怒り」の芸術の評価が低過ぎる。
たとえば、ラップなどは、「怒り」の芸術なのに、
日本に輸入されれば、ムードだけの
軽薄なラブ・ソングとなってしまう。
上辺だけを真似しただけのつまらないものである。
「怒り」は悪いことじゃない。
恋愛がよいものとは限らないのと似ている。
日本では恋愛といえば良いものと勘違いされ、
「不倫は文化」という非常識な人もいるくらいだ。
【大田洋子集】
第一巻 屍の町第二巻 人間襤褸
第三巻 夕凪の街と人第四巻 流離の岸
[関連本]
草饐(くさずえ) 評伝大田洋子--
大田洋子文学碑
江刺昭子・加納実紀代・
関千枝子・堀場清子(編)/
インパクト出版会1996年
江刺昭子の名があるので、
手にした本です。
『大田洋子再読』江刺昭子が書いています。
作品も年齢を経ていけば価値がかわるものでしょうね。
『草饐』は20代終わりに書いた作品だという。
江刺は下「」のように書いています。
「私は『草饐』で、女であり、作家である大田洋子という人を書いた。その人のいちずな、それだけで転変きわまりない生涯をたどるおもしろさにつき動かされて、若い力で一気に書いた。入れこんだという思いがあるが、評伝というものに必然的につきまとう、対象人物に対するむごさも、あれにはある。
そのむごさも含めて、今も人間大田洋子に対する見方は変わっていないが、彼女の仕事、とりわけ原爆被爆後について、評価の不足を最近感じるようになった。」
あまりむごいとは思わない。
大田洋子の人生がむごかったとは思う。
ただ過小評価しすぎだと今も思う。
評価の不足している点に江刺は描いています。下「」引用。
「さらに私は『草饐』で女性作家の一生をたどったことで、女の仕事に対する評価というものが、男よりよほど割引きされていることに気づいた。文学史でそれなり評価をされている男性作家の誰れかれとそれほど遜色のない仕事を残した女性作家のある者が、ほとんど抹殺状態であったりする。女の人間回復に闘った女の活動家も、男の人権のために働いた男よりも一ランクも二ランクも下に位置づけされている。」
大田洋子は流行作家であり、
江刺のいうところの「国策作家」でも
あっただろう。
そのことは誰も否定できないだろう。
しかし、「国策文学」という批判を
大田洋子にするならば、他にも、
その批判をすべきでもあるだろう。
江刺によれば、ノンフィクション手法がなかったという。
そこで大田洋子は自ら生み出していったという。同。
「ノンフィクションを成りたたせる基本は、事実のルポである。事実をルポするためには、書き手は第三者的な傍観者の立場にあるのではなく、ルポされる事柄なり、事件の中にみずから入っていくことが望ましい。今日のノンフィクションライターは、そのことをよく承諾していて誰もがそれを実践している。
大田の 時代には、その手法はあまり知られていなかった。その方法を大田は手さぐりで編みだしたのだといえる。そうしてできあがったものの力強さゆえに、従来型の小説しか文学と認めようとしない人々にも、文学の一形式として放っておけない気持ちにさせたのではないだろうか。“核”という巨大な怪物を追求するには、小説という一形式ではどうにもならず、従来からの短詩形文学の力も借り、ノンフィクションの応援も得てはじめて可能であるこということを、大田の仕事は示したのである。」
私はこの点は考えたこともなかった。
そして批判の間違いを江刺は書いている。同。
「その理由は、原爆がすぐれて政治的な事がらであることに気付かず、みずからを政治的にきたえることをしなかったからだという批判は(黒古一夫『原爆とことば』)、的はずれということになる。」
「国策文学」を書いて流行作家である者が、
どうして政治的に鍛えていなかったのだろうか?
もちろん原爆を描くことによって、
「国策文学」とは対極に走った大田洋子である。
江刺のいうことの方が信用できます。
『原爆歌人正田篠枝とわたし』古浦千穂子
では正田篠枝が尼僧であることが書かれていた。同。
「篠枝は一九五四年に浄土真宗広島別院で得度した在家の有髪の尼だった。法名は涙珠と言った。」
『栗原貞子の軌跡』石川逸子では、
心に染み入る詩が取り上げられています。
娘への鎮魂詩を貞子は書いている。同。
「-略-
鉄製の認識票でやっとわかったあなた
あなたの顔に
誰がかけたのか白いハンカチが
かけてあった
そのハンカチは焼け爛れた顔に
ぴたりくっついて離れはしない」
谷本清平和賞記念講演での栗原貞子の言葉が
印象的であった。
【鱧男の感想】
これでも、まだ大田洋子に対する評価は低過ぎる。
日本というのは、「怒り」の芸術の評価が低過ぎる。
たとえば、ラップなどは、「怒り」の芸術なのに、
日本に輸入されれば、ムードだけの
軽薄なラブ・ソングとなってしまう。
上辺だけを真似しただけのつまらないものである。
「怒り」は悪いことじゃない。
恋愛がよいものとは限らないのと似ている。
日本では恋愛といえば良いものと勘違いされ、
「不倫は文化」という非常識な人もいるくらいだ。
【大田洋子集】
第一巻 屍の町第二巻 人間襤褸
第三巻 夕凪の街と人第四巻 流離の岸
[関連本]
草饐(くさずえ) 評伝大田洋子--
大田洋子文学碑