『ボクの満州-漫画家たちの敗戦体験-』
中国引揚げ漫画家の会・編/亜紀書房1995年
爆弾テロが日常的だったという……。
--でも、報道規制で伝えてなかっただろうなあー。
マンガもありますが、文章が多い本です……。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/72/4d665cf3f07a87a3e2ec62a83297bd35.jpg)
■目 次■
祖国はなれて 上田トシコ 1
「メーファーズ」--これでいいのだ!! 赤塚不二夫 27
中国原体験の光と影 古谷三敏 47
ぼくの満州放浪記 ちばてつや 73
ぼくの満引き(満州引き揚げ)物語 森田拳次 91
記憶の糸をたぐり寄せて 北見けんいち 117
わが故郷、大連 山内ジョージ 137
豆チョロさんの戦争体験記 横山孝雄 163
上海に生きて 高井研一郎 189
座談会 ボクの満州・中国 執筆者一同 211
あとがきにかえて 石子順 236
「祖国はなれて」 下「」引用。
「GPU(ソ連の秘密警察)がハルピンにはいってくるまでの半年間は、鉄の門の中でジーッと過ごす籠城生活となる-略-」
GPUが入ってくると治安がよくなったという……。下「」引用。
「半年ほどあばれまくったソ連軍だったが、GPUがはいってきてから治安もよくなって、外出ができるようになり、北満の寒さが冬を感じさせるころから、塾の先生以外の男性は、石炭運びの労働者になって共同生活の資金を稼ぎ始めた。-略-」
白系ロシアのおばあさん……。下「」引用。
「おばあさんは日本婦人がソ連兵に強姦されそうになったのを必死で助けようとしたときに、銃の台で叩きのめされて盲目になったという。お礼をいうと、
「いいんだ。日本の女性を助けたんだから」
と、ほほえんだ美しいおばあさんの顔が忘れられない。」
赤塚不二夫「守備隊の家族だった」 下「」引用。
「ボクは昭和十年(一九三五年)九月十四日に父藤七、母リヨの長男として生まれたんだ。藤雄と命名された。-略-おやじは、そのころ抗日ゲリラ(当時は八路軍(パーローといっていた)と向きあっている古北口国境警備隊の特務警察官だった。」
一時、大連の親戚に預けられたという。
「引き揚げ、そして妹の死」 下「」引用。
「大和郡山に連れて帰ってきて、寝かせて三十分後にフゥーって死んじやったの。-略-」
『万人坑』……。ハルピン革命烈士博物館で。下「」引用。
「旧満州国の時代、日本人は中国人を安い賃金で長時間働かせ、名もない多くの中国人が犠牲になった。そのことを本多勝一氏は著書『中国の旅』の中で、「大石橋などでは、『万人坑』といって、工場で死んだ人をそのまま大量に放置、生きたまま針金で足を縛られて捨てられた人もいるとのことであった。」
死体から脂をとったという……。下「」引用。
「この博物館で私たちが見たその写真は、日本人が、ある工場の飯場で、死んだ中国人の脂肪を抜きとって、それで調理して中国人に食べさせた--と説明がある。その女性通訳は私たちにこう述べた。
「私たち、そのとき武器がなかったんです。 中国人はこのツルハシで闘ったんです。この一斗カンは、日本人が中国人からしぼりとった油を入れておいたものです」
なんということだろう。日本人がこんなことをしたなんて……。初めて聞いたこの話に、私たちは再び絶句してしまった。-略-」
日常的に爆弾テロがあった……。下「」引用。
「高井研一郎は映画館の爆弾テロのことを書いていますが、上海に敗戦まぎわまで住んでいて長崎に帰って被爆した作家の林京子は、その小説『上海』で、上海では学校から映画館に集団で映画鑑賞に行くと、映画の上映前に必ずスクリーンに「椅子、椅子の下をお改め下さい」という注意書きが写し出されたと書いています。上海ではこういう警告が映画館に出るというくら爆弾テロは日常的だった。」
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中国引揚げ漫画家の会・編/亜紀書房1995年
爆弾テロが日常的だったという……。
--でも、報道規制で伝えてなかっただろうなあー。
マンガもありますが、文章が多い本です……。
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祖国はなれて 上田トシコ 1
「メーファーズ」--これでいいのだ!! 赤塚不二夫 27
中国原体験の光と影 古谷三敏 47
ぼくの満州放浪記 ちばてつや 73
ぼくの満引き(満州引き揚げ)物語 森田拳次 91
記憶の糸をたぐり寄せて 北見けんいち 117
わが故郷、大連 山内ジョージ 137
豆チョロさんの戦争体験記 横山孝雄 163
上海に生きて 高井研一郎 189
座談会 ボクの満州・中国 執筆者一同 211
あとがきにかえて 石子順 236
「祖国はなれて」 下「」引用。
「GPU(ソ連の秘密警察)がハルピンにはいってくるまでの半年間は、鉄の門の中でジーッと過ごす籠城生活となる-略-」
GPUが入ってくると治安がよくなったという……。下「」引用。
「半年ほどあばれまくったソ連軍だったが、GPUがはいってきてから治安もよくなって、外出ができるようになり、北満の寒さが冬を感じさせるころから、塾の先生以外の男性は、石炭運びの労働者になって共同生活の資金を稼ぎ始めた。-略-」
白系ロシアのおばあさん……。下「」引用。
「おばあさんは日本婦人がソ連兵に強姦されそうになったのを必死で助けようとしたときに、銃の台で叩きのめされて盲目になったという。お礼をいうと、
「いいんだ。日本の女性を助けたんだから」
と、ほほえんだ美しいおばあさんの顔が忘れられない。」
赤塚不二夫「守備隊の家族だった」 下「」引用。
「ボクは昭和十年(一九三五年)九月十四日に父藤七、母リヨの長男として生まれたんだ。藤雄と命名された。-略-おやじは、そのころ抗日ゲリラ(当時は八路軍(パーローといっていた)と向きあっている古北口国境警備隊の特務警察官だった。」
一時、大連の親戚に預けられたという。
「引き揚げ、そして妹の死」 下「」引用。
「大和郡山に連れて帰ってきて、寝かせて三十分後にフゥーって死んじやったの。-略-」
『万人坑』……。ハルピン革命烈士博物館で。下「」引用。
「旧満州国の時代、日本人は中国人を安い賃金で長時間働かせ、名もない多くの中国人が犠牲になった。そのことを本多勝一氏は著書『中国の旅』の中で、「大石橋などでは、『万人坑』といって、工場で死んだ人をそのまま大量に放置、生きたまま針金で足を縛られて捨てられた人もいるとのことであった。」
死体から脂をとったという……。下「」引用。
「この博物館で私たちが見たその写真は、日本人が、ある工場の飯場で、死んだ中国人の脂肪を抜きとって、それで調理して中国人に食べさせた--と説明がある。その女性通訳は私たちにこう述べた。
「私たち、そのとき武器がなかったんです。 中国人はこのツルハシで闘ったんです。この一斗カンは、日本人が中国人からしぼりとった油を入れておいたものです」
なんということだろう。日本人がこんなことをしたなんて……。初めて聞いたこの話に、私たちは再び絶句してしまった。-略-」
日常的に爆弾テロがあった……。下「」引用。
「高井研一郎は映画館の爆弾テロのことを書いていますが、上海に敗戦まぎわまで住んでいて長崎に帰って被爆した作家の林京子は、その小説『上海』で、上海では学校から映画館に集団で映画鑑賞に行くと、映画の上映前に必ずスクリーンに「椅子、椅子の下をお改め下さい」という注意書きが写し出されたと書いています。上海ではこういう警告が映画館に出るというくら爆弾テロは日常的だった。」
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