『日本軍に棄てられた少女たち-インドネシアの慰安婦悲話-』
プラムディヤ・アナンタ・トゥール(著)/
山田道隆(訳)/コモンズ2004年
原書名『Perawan remaja dalam cengkeraman militer』
「インドネシア占領中の日本軍にだまされて「性の奴隷」にされ、失意のもとに暮らしたジャワ島出身の女性たちの生涯を描いた作品。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/bf/16eb4218a80682a27fff8bef2f181bb2.jpg)
裏表紙に書かれてあります。下「」引用。
「第一、日本軍政監部が約束した東京や昭南島への留学話は官報など公式な形では発表されず、悪行を追究されないよう、日本軍は意図的に「犯行」の跡を消していた。
第二、少女たちが故郷そして親元を離れ、危険を伴う航海を決意したのは、自分からそう望んだのでは決してなく、軍政の脅しを恐れた親がそうさせたためである。
第三、日本軍が成人前の少女を対象としたのは、兵士たちの欲望を満たすためのほか、少女であれば反抗する力もないと考えたからだった。」
「読者のみなさんへ」 下「」引用。
「グラメディア大衆文学社の編集部が、プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏から『日本軍に棄てられた少女たち--インドネシアの慰安婦悲話』と題する原稿を受け取ったのは、同氏が第一一回福岡アジア文化賞(二○○○年)の大賞を受けるため、日本に向けて出発する前日のことです。このアジア文化賞は福岡市と財団法人「よかトピア記念国際財団」が、アジアにおけるすぐれた学術研究、文化・芸術活動への貢献者を対象に設置し、プラムディヤ氏は「人間性」をテーマとする数多くの文学作品を生み出したことを高く評価され、大賞を授与されました。
『日本軍に棄てられた少女たち』は、第二次世界大戦中に日本軍が「性の奴隷」として扱ったインドネシア人の少女たちを取り上げた作品です。今回の訪日が決ったのをきっかけに、プラムディヤ氏は同作品が手元にあることを思い出したといいます。同氏によると、この作品は一九四五年に日本軍が降伏した後、ブル島にそのまま「棄てられた少女たち」の物語です。政治犯としてブル島に送られ、流刑生活をしていた同氏と仲間たちが見聞きした話、さらに、仲間がブル島の奥地にまで足を運んで行った「棄てられた少女たち」の調査をもとに書かれています。」
船が攻撃を受けたという……。下「」引用。
「私の実兄ユスフは当時一八歳で、溶接工をしていたときに日本軍政監部の留学話を受け、シンガポールへ船で連れて行かれました。兄によると、船には多くの少女たちも乗っていましたが、船名や少女たちの人数は覚えていません。シンガポールに近づいたころ、魚雷が命中し、船は大破したそうです。兄は漁船に救助されて無事でしたが、『少女たちは全員死亡しただろう』と話していました。兄は、恐怖心もあってシンガポールにそのままとどまり、帰国したのはインドネシア独立後でした」
留学と嘘をつかれたという……。下「」引用。
「ジュキ氏(一九二九年生まれ)が七八年七月、ハルン・ロシディ氏に語ったところによると、西ジャワ州インドラマユのハウルグリスで、近所に住んでいた理容師が日本軍の約束を信じ、美人だった娘の留学に同意しました。日本兵に連れて行かれた娘の消息はその後ぷっつり切れ、親が懸命に行方を捜しましたが、二度と会うことはできませんでした。」
戦後も帰郷できず……。下「」引用。
「日本軍の降伏後、少女ちは生まれ故郷や家族の元へ戻りたいと切実に願いました。でも、忌まわしい経験が道徳的な重荷となり、両親や兄弟、姉妹の元へ、また知り合いのとろこへ戻るのを躊躇(ちゅうちょ)させました。帰ろうとしても、旅費などの資金や交通手段がなかったこともありますが、実際には帰郷へ踏み切るだけの「勇気」をもてなかったのです。
考えてもみてください。喜んでいたかどうかは別にして、少女たちは外国で勉強できると思い込んでいたのですから、留学で知識を深め、立派な人間となって故郷に戻ろうと夢見ていました。ところが、実際には、日本軍により苦海に身を沈めざるを得なかったのです。家族と別れ、故郷を出たなかには、すでに日本人の愛人となっていたため、自ら日本軍について行った者もいました。日本軍の敗北後、こうした女性も消息を断ち、その選んだ道は過酷なものだったのです。」
本当に選んだものだったのだろうか?
独立ということで、騙したという……。下「」引用。
「「日本はインドネシアの独立を望んでいる。その準備として、インドネシアの若者たちに、独立後にすぐ役立つよう教育を受けさせる」
郡などの役人がこの話を村々に宣伝してまわりましたが、宣伝だけではすまず、役人たちは模範を示すため、自分たちの娘を日本軍に差し出すことになりました。なかでも、日本軍に賄賂を出すほどの余裕のない役人たちは、娘を犠牲にするほかなかったのです。日本軍政監部は一九四四~四五年のあいだ、「大東亜戦争」を遂行するため、インドネシア人に金や宝石などの供出も呼びかけていたといわれています。」
東南アジアの特徴……。下「」引用。
「吉見義明氏によれば、地元の有力者たちは命じて「慰安婦」を集めるケースは、東南アジアの各地で見られた。また、徴集にあたって軍が前面に出ているのも東南アジアの特徴であるという」
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もくじ
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プラムディヤ・アナンタ・トゥール(著)/
山田道隆(訳)/コモンズ2004年
原書名『Perawan remaja dalam cengkeraman militer』
「インドネシア占領中の日本軍にだまされて「性の奴隷」にされ、失意のもとに暮らしたジャワ島出身の女性たちの生涯を描いた作品。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/bf/16eb4218a80682a27fff8bef2f181bb2.jpg)
裏表紙に書かれてあります。下「」引用。
「第一、日本軍政監部が約束した東京や昭南島への留学話は官報など公式な形では発表されず、悪行を追究されないよう、日本軍は意図的に「犯行」の跡を消していた。
第二、少女たちが故郷そして親元を離れ、危険を伴う航海を決意したのは、自分からそう望んだのでは決してなく、軍政の脅しを恐れた親がそうさせたためである。
第三、日本軍が成人前の少女を対象としたのは、兵士たちの欲望を満たすためのほか、少女であれば反抗する力もないと考えたからだった。」
「読者のみなさんへ」 下「」引用。
「グラメディア大衆文学社の編集部が、プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏から『日本軍に棄てられた少女たち--インドネシアの慰安婦悲話』と題する原稿を受け取ったのは、同氏が第一一回福岡アジア文化賞(二○○○年)の大賞を受けるため、日本に向けて出発する前日のことです。このアジア文化賞は福岡市と財団法人「よかトピア記念国際財団」が、アジアにおけるすぐれた学術研究、文化・芸術活動への貢献者を対象に設置し、プラムディヤ氏は「人間性」をテーマとする数多くの文学作品を生み出したことを高く評価され、大賞を授与されました。
『日本軍に棄てられた少女たち』は、第二次世界大戦中に日本軍が「性の奴隷」として扱ったインドネシア人の少女たちを取り上げた作品です。今回の訪日が決ったのをきっかけに、プラムディヤ氏は同作品が手元にあることを思い出したといいます。同氏によると、この作品は一九四五年に日本軍が降伏した後、ブル島にそのまま「棄てられた少女たち」の物語です。政治犯としてブル島に送られ、流刑生活をしていた同氏と仲間たちが見聞きした話、さらに、仲間がブル島の奥地にまで足を運んで行った「棄てられた少女たち」の調査をもとに書かれています。」
船が攻撃を受けたという……。下「」引用。
「私の実兄ユスフは当時一八歳で、溶接工をしていたときに日本軍政監部の留学話を受け、シンガポールへ船で連れて行かれました。兄によると、船には多くの少女たちも乗っていましたが、船名や少女たちの人数は覚えていません。シンガポールに近づいたころ、魚雷が命中し、船は大破したそうです。兄は漁船に救助されて無事でしたが、『少女たちは全員死亡しただろう』と話していました。兄は、恐怖心もあってシンガポールにそのままとどまり、帰国したのはインドネシア独立後でした」
留学と嘘をつかれたという……。下「」引用。
「ジュキ氏(一九二九年生まれ)が七八年七月、ハルン・ロシディ氏に語ったところによると、西ジャワ州インドラマユのハウルグリスで、近所に住んでいた理容師が日本軍の約束を信じ、美人だった娘の留学に同意しました。日本兵に連れて行かれた娘の消息はその後ぷっつり切れ、親が懸命に行方を捜しましたが、二度と会うことはできませんでした。」
戦後も帰郷できず……。下「」引用。
「日本軍の降伏後、少女ちは生まれ故郷や家族の元へ戻りたいと切実に願いました。でも、忌まわしい経験が道徳的な重荷となり、両親や兄弟、姉妹の元へ、また知り合いのとろこへ戻るのを躊躇(ちゅうちょ)させました。帰ろうとしても、旅費などの資金や交通手段がなかったこともありますが、実際には帰郷へ踏み切るだけの「勇気」をもてなかったのです。
考えてもみてください。喜んでいたかどうかは別にして、少女たちは外国で勉強できると思い込んでいたのですから、留学で知識を深め、立派な人間となって故郷に戻ろうと夢見ていました。ところが、実際には、日本軍により苦海に身を沈めざるを得なかったのです。家族と別れ、故郷を出たなかには、すでに日本人の愛人となっていたため、自ら日本軍について行った者もいました。日本軍の敗北後、こうした女性も消息を断ち、その選んだ道は過酷なものだったのです。」
本当に選んだものだったのだろうか?
独立ということで、騙したという……。下「」引用。
「「日本はインドネシアの独立を望んでいる。その準備として、インドネシアの若者たちに、独立後にすぐ役立つよう教育を受けさせる」
郡などの役人がこの話を村々に宣伝してまわりましたが、宣伝だけではすまず、役人たちは模範を示すため、自分たちの娘を日本軍に差し出すことになりました。なかでも、日本軍に賄賂を出すほどの余裕のない役人たちは、娘を犠牲にするほかなかったのです。日本軍政監部は一九四四~四五年のあいだ、「大東亜戦争」を遂行するため、インドネシア人に金や宝石などの供出も呼びかけていたといわれています。」
東南アジアの特徴……。下「」引用。
「吉見義明氏によれば、地元の有力者たちは命じて「慰安婦」を集めるケースは、東南アジアの各地で見られた。また、徴集にあたって軍が前面に出ているのも東南アジアの特徴であるという」
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