『教科書に書かれなかった戦争Part 29 歴史からかくされた朝鮮人満州開拓団と義勇軍』
陳野守正・著/梨の木舎1998年
これも表現の方法によってずいぶん変わると思う……。
しかし、事実を大切にしないといけないだろう……。
さすれば、この本の著者が事実により近いのではないか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/b2/a2674c642c3c679f4bb84b2313d84cd7.jpg)
「まえがき」に書かれてあります。下「」引用。
「私が満州移民に関心をもちはじめたのは、角田房子『墓標なき八万の死者』(一九六七年)を読んだころなので、もう三○年も前になります。以来、ぼつぼつと満州移民の資料収集と関係者にお話をうかがいはじめましたが、勤務のかたわらなのでそれは遅々たるものでしかありませんでした。
朝鮮人満州移民が朝鮮総督府によって実施されていたこと、大人だけでなく義勇軍の名のもとに子どもたちまで送り出されていたことを知ったのは、一九七○年代後半、日本の満州移民(開拓団)を調べている過程においてでした。」
「中国孤児」とは……。下「」引用。
「日本人満州移民が日本国内で広く知られるようになったのは、日本敗戦時、混乱をきわめて満州で家族と生き別れとなり、中国人養父母に育てられた中国残留孤児(以下「中国孤児」)四七人が、厚生省の招きで肉親捜しに来日した一九八一年三月以降です。
「中国孤児」たちは自ら満州に残ったのではなく、捨てられたり置き去りにされたり、集団自決のあと幸い生きていたり、売られたりした乳飲み子、幼児たちでした。この「中国孤児」と呼ばれた人たちの大半が開拓団出身であったことで、開拓団として満州に入植した満州移民が一躍クローズアップされたのでした。」
「食べ放題」が特権……。下「」引用。
「朝鮮人隊員は「食事などもめしも食べ放題」の優遇を受け、十九年度の渡満中隊では特別に朝鮮人中隊にラッパ鼓隊を編成して三ヵ月後に勇ましく渡満して行ったという。すべてに優遇されていたことが分ります。
とはいえ、訓練の目的である「日本精神の体得」は三ヵ月の訓練でどこまで浸透したのか大変疑問です。
資料からは応募資格は一九三九年は十五歳以上、四二年では十四歳以上と変わっています。」
賃金格差があったという……。下「」引用。
「「あらゆる職種にわたって、朝鮮での朝鮮人賃金と日本でのそれとの間には約四○~六○%」の賃金格差がありました。」
「生活を楽しんでいたロシア人」 下「」引用。
「柏根里開拓団を訪ねた後藤澤治は、五里(約二○キロ)ほど離れた地にロシア人が二箇所あると団長の案内で視察したことを述べています。-略-」
「満州の稲作を開発した朝鮮人」 下「」引用。
「-略-満州に流入した朝鮮人農民は、中国人地主から未墾地を借り、わずかな農具となけなしの費用と労力を費やした開田しました。また中国人のすてて顧みない低湿地、河川付近の草生地、沼沢地を利用して水田を作りました。しかし、開田しても朝鮮人には耕作権の保護はなく、中国人地主の意のままに扱われ、そのうえ、地主の都合でいつでも取り上げられる憂き目にあいました。こうした実状を知らない日本人は、不安定な浮き草のごとき生活を強いられた朝鮮人農民を、「毎年、水草を追って農耕地に転々と流浪する浮動性を有する者」などと評して、朝鮮人はいかにも根気のない流浪性を持つ民族のようにみなしていた。」
朝鮮人が開発したという。下「」引用。
「黒龍江省は寒冷地帯のため初期の稲作は失敗を繰り返しました。ある年のこと、申友景という農民が朝鮮から持参した稲の種子を海林(ハイリン)地方で栽培に成功し、その後各地でその土地に適した稲の種子を育成しました。それ以後、黒龍江省の水田生産は比較的はやく発展し、「九・一八」(満州事変)以後日本で育てた多くの稲の種子が黒龍江省に普及しました。」
「朝鮮人パルチザン」 下「」引用。
「たびたび引用の『満州共産匪の研究』は、冒頭で「満州にける共匪活動の出発点をなしたのは朝鮮人であった」と述べています。-略-」
「開拓団の募集は強制だったか」 下「」引用。
「庶民は召集令状、赤紙を受け取ると個人的、家庭的にいかなる事情、理由があっても期日までに入隊しなければなりませんでした。徴用もそれに近い強制力をもっていました。私の兄も徴用礼状を受け取ると、間もなく鍬を置いて横須賀の海軍工廠に入りました。
拒否できない徴用礼状を朝鮮人に発動すると無用の誤解摩擦を招くおそれがある、と「募集」という欺瞞的方法がとられ、一方、割当人数が確保できないときは強制連行する体制ができていたのです。-略-」
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もくじ
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陳野守正・著/梨の木舎1998年
これも表現の方法によってずいぶん変わると思う……。
しかし、事実を大切にしないといけないだろう……。
さすれば、この本の著者が事実により近いのではないか?
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「まえがき」に書かれてあります。下「」引用。
「私が満州移民に関心をもちはじめたのは、角田房子『墓標なき八万の死者』(一九六七年)を読んだころなので、もう三○年も前になります。以来、ぼつぼつと満州移民の資料収集と関係者にお話をうかがいはじめましたが、勤務のかたわらなのでそれは遅々たるものでしかありませんでした。
朝鮮人満州移民が朝鮮総督府によって実施されていたこと、大人だけでなく義勇軍の名のもとに子どもたちまで送り出されていたことを知ったのは、一九七○年代後半、日本の満州移民(開拓団)を調べている過程においてでした。」
「中国孤児」とは……。下「」引用。
「日本人満州移民が日本国内で広く知られるようになったのは、日本敗戦時、混乱をきわめて満州で家族と生き別れとなり、中国人養父母に育てられた中国残留孤児(以下「中国孤児」)四七人が、厚生省の招きで肉親捜しに来日した一九八一年三月以降です。
「中国孤児」たちは自ら満州に残ったのではなく、捨てられたり置き去りにされたり、集団自決のあと幸い生きていたり、売られたりした乳飲み子、幼児たちでした。この「中国孤児」と呼ばれた人たちの大半が開拓団出身であったことで、開拓団として満州に入植した満州移民が一躍クローズアップされたのでした。」
「食べ放題」が特権……。下「」引用。
「朝鮮人隊員は「食事などもめしも食べ放題」の優遇を受け、十九年度の渡満中隊では特別に朝鮮人中隊にラッパ鼓隊を編成して三ヵ月後に勇ましく渡満して行ったという。すべてに優遇されていたことが分ります。
とはいえ、訓練の目的である「日本精神の体得」は三ヵ月の訓練でどこまで浸透したのか大変疑問です。
資料からは応募資格は一九三九年は十五歳以上、四二年では十四歳以上と変わっています。」
賃金格差があったという……。下「」引用。
「「あらゆる職種にわたって、朝鮮での朝鮮人賃金と日本でのそれとの間には約四○~六○%」の賃金格差がありました。」
「生活を楽しんでいたロシア人」 下「」引用。
「柏根里開拓団を訪ねた後藤澤治は、五里(約二○キロ)ほど離れた地にロシア人が二箇所あると団長の案内で視察したことを述べています。-略-」
「満州の稲作を開発した朝鮮人」 下「」引用。
「-略-満州に流入した朝鮮人農民は、中国人地主から未墾地を借り、わずかな農具となけなしの費用と労力を費やした開田しました。また中国人のすてて顧みない低湿地、河川付近の草生地、沼沢地を利用して水田を作りました。しかし、開田しても朝鮮人には耕作権の保護はなく、中国人地主の意のままに扱われ、そのうえ、地主の都合でいつでも取り上げられる憂き目にあいました。こうした実状を知らない日本人は、不安定な浮き草のごとき生活を強いられた朝鮮人農民を、「毎年、水草を追って農耕地に転々と流浪する浮動性を有する者」などと評して、朝鮮人はいかにも根気のない流浪性を持つ民族のようにみなしていた。」
朝鮮人が開発したという。下「」引用。
「黒龍江省は寒冷地帯のため初期の稲作は失敗を繰り返しました。ある年のこと、申友景という農民が朝鮮から持参した稲の種子を海林(ハイリン)地方で栽培に成功し、その後各地でその土地に適した稲の種子を育成しました。それ以後、黒龍江省の水田生産は比較的はやく発展し、「九・一八」(満州事変)以後日本で育てた多くの稲の種子が黒龍江省に普及しました。」
「朝鮮人パルチザン」 下「」引用。
「たびたび引用の『満州共産匪の研究』は、冒頭で「満州にける共匪活動の出発点をなしたのは朝鮮人であった」と述べています。-略-」
「開拓団の募集は強制だったか」 下「」引用。
「庶民は召集令状、赤紙を受け取ると個人的、家庭的にいかなる事情、理由があっても期日までに入隊しなければなりませんでした。徴用もそれに近い強制力をもっていました。私の兄も徴用礼状を受け取ると、間もなく鍬を置いて横須賀の海軍工廠に入りました。
拒否できない徴用礼状を朝鮮人に発動すると無用の誤解摩擦を招くおそれがある、と「募集」という欺瞞的方法がとられ、一方、割当人数が確保できないときは強制連行する体制ができていたのです。-略-」
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